クラリスがレオナールの『婚約者宣言』から数日。
 村の空気は徐々に変わりはじめていた。
 広場の八百屋では

「こんにちは、クラリスさん」
「こ、こんにちは……」

 名前を呼ばれたので、返事を返す事を覚えた。
 通りを歩けば

「もう『呪い』なんて言ってたのが恥ずかしいね」

 そのように囁かれるようになった。
 クラリスのそんな穏やかな変化の中――『彼』は現れた。

 
    ▽


 日暮れ時の広場――帰り道、クラリスの足が止まった。

 そこに立っていたのは、上質なマントに身を包んだ金髪の男。
 かつて彼女の『婚約者』だった男。
 男爵家の嫡男――カノン・グランフォード。

「……久しぶりだね、クラリス。元気そうでなによりだ」

 変わらぬ笑顔。変わらぬ声色。
 だがその奥にある『傲慢』を、彼女はもう見逃さない。

「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
「いや、ただ『懐かしくて』さ……噂で聞いたんだ。君がまだ、生きていたって」

 その言葉に、クラリスの背中が強張る。

「『まだ』……?」
「てっきり、誰にも愛されず、ひとりで朽ちていったと思っていたよ……だが、どうやら『救ってくれた男』が現れたらしいな?」

 その声の奥には、羨望と嘲笑が入り混じっていた。
 彼の言葉を聞いた瞬間、胸の中から『何か』があふれ出そうだった。

「まあ、君は『使い道』がなかったわけじゃない。今さら戻ってきても、面倒は見てもいいと――」
「言葉を選べ」

 突然、クラリスとカノンの間に割って入ったのは、落ち着いた低い声。
 広場の角に立っていたのは、リヒトだった。
 黒の燕尾服のような上衣に、重厚なマント。
 胃薬を片手に持ち、握りしめながらも、その瞳は鋭く冷たい。
 クラリスは、そんな兄、リヒトの姿を見たのは初めてだった。
 静かな声で、リヒトは話を続ける。

「うちの弟の大事な婚約者に、無礼なことを言うな」
「……どちら様だ?」
「伯爵家リュミエール家長男、リヒト・リュミエールだ」

 カノンの顔色が変わる。
 伯爵家。
 それも本家筋。
 その名前が意味する力を、彼は知っていた。
 だが、カノンはそれでも引かない。

「……婚約者、と言うが……それはそちらの勝手な――」
「正式に結婚の話も進んでいる。記録にも残す。君に『差し戻し』などできない。それでもまだクラリス嬢に関わろうとするなら、我が家は君の家に正式な抗議を申し入れる」

 淡々と。静かに。
 それでいて、逃げ道を一切残さないように。
 カノンはわずかに歯噛みした。

「……面白くないな。たかが『傷物』一人に、随分と入れ込む」

 カノン・グランフォードが『傷物』と口にした瞬間、空気が一変した。
 静かだった広場に、ぱんっと乾いた音が響く。
 頬を押さえ、よろめくカノンの姿を、クラリスは見つめる事しか出来ない。

「……っ、な、何を――!」

 彼が振り返ったときには、すでにリヒトの拳が再び振り上げられていた。
 二発目は、容赦のない真正面からの打ち抜きだった。
 どさり、とカノンが地面に転がる。広場が凍りつく。

「えっと……リヒト、様……?」

 クラリスが震えた声で名前を呼ぶ。
 しかし、リヒトの表情は、冷たく、静かで、殺気に満ちていた。

 
「口を慎めと忠告しただろうが、聞こえなかったか?」


 静かに、ぞくりとする声で、リヒトは言う。

「『傷物』?それがお前の語彙の限界か?人を飾りとしか見られないくせに、自分が捨てた相手に『まだ使える』とか……」

 リヒトの足が、ぐっとセルヴィスの胸元を踏みつけた。

「『人間』をなんだと思ってる?」

「が……っ、ぐっ……!」

 呻くカノンに、リヒトは構わず言葉を続ける。
 そんな二人のやり取りを、クラリスは見つめる事しか出来ない。
 と言うより、あのような顔をしたリヒトの姿を見たのは初めてだったので、その場で動くことが出来ない。

「てめぇみたいなやつが、『選ぶ側の人間』気取ってんじゃねぇよ」

 怒気も叫びもない。
 ただ、言葉の端々に滲む――本物の怒り。

「クラリス嬢は、もうお前が『傷つけていい女』じゃない。うちの『家族』だ……うちの弟の、大切な婚約者だ。だから――」

 ぐっ、とリヒトは拳を握り直す。

「その口で彼女を汚すなら、その歯を全部へし折ってやる」

 ざわり、と風が吹いた。
 その場にいた誰もが、普段『胃痛で弱そうな兄』だと思っていた男の、本当の姿を知った。

「……立てよ、グランフォード家の出来損ない」
「……っ!」
「立てよ……俺はもう一発、正面から殴ってやらないと気が済まねぇんだよ」

 だが、カノンは立てなかった。
 顔を引きつらせ、這うようにしてその場を逃げ出す。
 リヒトはそれを追わなかった。
 ただ、足元の石を一つ蹴って――吐き捨てるように呟いた。

「クソが」

 リヒトは追いすがることなく、その場に静かに立ち尽くしていた。
 その横顔には怒りの名残もなく、代わりにどこか――疲労感が浮かんでいる。

「……はあ」

 彼は深くため息をつくと、懐から常備している銀の小瓶を取り出し、手慣れた動作で蓋を開け、くいっと胃薬を一口。

「……また胃が痛くなった。なんでこう、毎回こうなるんだ……」
「リヒト兄様……!」

 いつの間にかリヒトの近くに来ていた妹、アナスタシアに「服が乱れてますわ!」と袖をぴしぴし直されながら、
 リヒトは仕方なく小声で呟いた。

「……殴るのは嫌いなんだがな……言わなきゃ伝わらないバカもいるんだ」
「兄さん、ありがとう」

 アナスタシアと一緒にこちらに来たレオナールがぽつりと言った。
 静かに、真っすぐに。
 その言葉に、リヒトはほんの少しだけ、照れくさそうに視線を外した。

「……礼なんか、いらないよ」

 クラリスが何か言おうとしたが、その前にレオナールがふっと笑って呟いた。

「……相変わらず、キレると怖いな、兄さん」
「うるさい」
「うちの家族で一番怖いのは、リヒト兄様なのだから……もう、誰に似たんでしょう?」
「父さんかな?口は悪くないけど、容赦ないからなぁ、父さん」
「確かに、そうですわね……大丈夫ですか、おねえさま?」
「……ええ、大丈夫です」

 三人の兄弟の姿を見たクラリスは安心したかのように、笑みを零し、そのままレオナールの隣に立った彼女は静かに手を繋いでくる。
 一瞬、驚いた顔をしたレオナールに対し、クラリスは頬を少し赤く染めながら、笑うだけだった。

(……大丈夫、この人なら、この人達なら)

 クラリスは目を閉じ、彼らに感謝をしながら、強くレオナールの手を握りしめた。