男ふたりで水族館もないだろう、と双葉は反対したけれど、鳥羽に来てあそこに行かないのは鳥羽への冒涜だろう、と柊真に言い返された。
が、さんざんぶーぶー言っていた自分を殴りたくなるくらい、現在、双葉は興奮している。
「スナメリ! スナメリだよ! 秋信! スナメリ!」
「見ればわかる」
冷静すぎる声が憎らしい。こいつ、これまでの人生で一度も可愛いと思ったことがないんじゃないのか、と疑いたくなる。
淡い青に染まる水槽の中、まるで笑っているみたいな顔で一頭のスナメリがこちらを見つめていた。いらっしゃーい、とでも言いたげに水中で立ち泳ぎし、胸ひれをゆらゆらさせている。
「こ、これ、完全にようこそって言ってるよな」
「どうだろう。餌ちょうだい、じゃないの」
夢も面白みもない反応しか返ってこない。なんだよこいつもう、もっと楽しめよ馬鹿、と歯噛みしつつ、双葉は水槽に顔を寄せる。
「なあなあ、スナメリってイルカの仲間だっけ?」
「ハクジラ亜目らしいよ」
「は、クジラ? イルカじゃないの?」
「正式にはハクジラ亜目ネズミイルカ科だって」
淡々と説明書きが読み上げられ、双葉は苦い顔で柊真を振り向いた。
「それどっち? イルカ? クジラ?」
「どっちでもいいだろ」
「いやいや、スナメリからしたら重要じゃないか? 俺はクジラの仲間なのだろうか、イルカの仲間なのだろうかって」
「スナメリからしたら……」
繰り返してから柊真はスナメリへと目を戻す。こちらを見ていたはずのスナメリは飽きたのか、仲間と共に水槽の奥へと泳いでいこうとしていた。
「石鈴ってそういうとこあるよな」
「そういうとこって?」
ああ、行っちゃったよ、と寂しくスナメリを見送っていると、すっと人の気配が迫った。それまで斜め後ろに立っていた柊真がすぐ横にいた。
「一年の夏にさ、則正と三人で高校野球見たの、覚えてる?」
「あー、あれだ。則正が流しそうめんやりたいって言いだして、お前の家行ったとき?」
「それ」
「って、あのときも思ったけどさ、なんでお前の家、流しそうめん機あるの? 普通一人暮らしの学生の部屋にはないだろ、あんなの」
「兄貴にもらった。ってか、そこは今、よくないか」
渋い顔をされ、ごめん、と謝ると、柊真は小さく咳払いをした。
「で、うちには着いたんだけど、暑いしちょっと涼んでからそうめん茹でようって一休みのつもりでテレビ点けたんだ。そうしたら高校野球やってて」
「覚えてる。結構白熱してて、それ見たら則正が興奮しちゃって。そうめんは後でいい! 今は白球を追いかけよう! とか言い出して」
「そうそう」
頷きながら柊真はすっと双葉の腕を取る。保育園児らしき団体がわらわらと水槽へと近づいてくるのが見えた。子ども達に場所を譲り、近くのベンチへと落ち着くと、柊真はするっと手を離した。
「スコア見たら、七回まで片方のチームが六点リードしてて。相手チームは無得点で。なのに八回の表で突然巻き返して。怒涛の勢いで五点返したんだよ」
「ああ、覚えてる。最終的に逆転したんだよね」
「うん。逆転したチームも応援席も俺達もやったやったって騒いでたんだけど、そのとき、石鈴だけが黙ってた」
「え、そう、だっけ」
「そう。なんか笑わずに無表情に画面見てて。さすがに気になって石鈴の目線辿ったら、画面に逆転されちゃったチームのピッチャーが映ってた」
言われて思い出す。確かにそうだ。目の覚めるような見事な逆転劇で、画面上は勝利チームへの賛美に沸いていた。サイレンが鳴り、涙ながらに握手が交わされた。流されるのは勝利校の校歌で、アルプススタンドも全員が肩を組んで合唱していた。
そんな中で、相手チームのピッチャーの顔がすっと画面に映り込んだ。
「その子は泣いてた。号泣とかではなくて、はらはらって涙が止められなくて勝手に落ちちゃうみたいな、そんな泣き方で。石鈴はその子をじっと見てた。それ見たら、なんか無性に苦しくなって。で、ちょっと驚いた」
「なんで?」
「うん」
言葉を探すような間が空く。その隙間を埋めるように子ども達のはしゃぎ声が通り過ぎる。
「なんていうか、石鈴のこと、俺は邪魔だなとは思ってたけど、あのころはまだ知り合って半年だし、どんな人間なのか、あんまりよくわかってなかった。俺からしたら歯を剥きだしてくるリスみたいなもんにしか見えなかったし」
「誰がリスだ」
歯を剥きだしたくなったがやめておいた。代わりに軽く柊真の足を蹴ると、柊真の横顔に苦笑いが浮かんだ。
「お前は勝った側より負けた側に感情移入するタイプなんだなって。それがなんか俺は、いいな、と思った」
「なんだよ、いいなって」
「だって石鈴は思ったんじゃないの? 勝利することはすごいことだし、称えられるべきことだけど、それでも今、敵わなくて泣いてる人がいるのが悲しいなって」
思わず顔を上げる。柊真はこちらを見てはおらず、天井まである水槽をぼんやりと眺めていた。
「こいつは俺と全然違うって思い知らされて、悔しかった」
「違う……?」
「俺は思っちゃってたから。何回も甲子園出てるんだから、初出場の学校に譲ってあげたらって。でもそれっておかしいよな」
柊真の目は水槽の中のスナメリを見ている。スナメリは再びガラスすれすれまで近寄ってきていて、手を振るように胸ひれをあおがせていた。
「だって、みんな初めてなんだから。その年の甲子園は。どんな歴史があるのかなんて関係ない。ただ今、このときを勝ちたくてここにいる。それは部員十人の初出場校だろうが、補欠部員が百人レベルの強豪校だろうが関係ない。同じなんだよ。そういうことをお前の顔見ながら考えてた。そこまで真剣に考えてこなかった自分が浅く思えて……情けなかった」
「そ……」
返す言葉に悩みながら、双葉はそろそろと柊真の顔を窺う。
水槽の水がそのまま染み出して来たような淡い青の中、こちらに横顔を向ける彼は、いつも学校で反目しあっている彼とはやはり違う顔をしていて、双葉を落ち着かなくさせた。
あのピッチャーに感情移入をしていたときの双葉の表情を見た柊真も、今の自分と同じような気持ちになったのだろうか。
知っているはずなのに、違う、と。
そしてそれは……今もそう思っているのだろうか。想像したらどんな顔をしていいんだかわからなくなってきた。
「お、大げさ。浅いとかないって。第一、勝った側が喜ぶ権利だってしっかりあるんだから、俺みたいなものの見方は勝利した側からしたら嫌な気持ちになるかもしれない。どっちがどうとかないんだよ。たまたま俺はそうだったってだけ」
則正の心を手に入れた畑中はまさにその勝った初出場のチームみたいだな、とふと思った。長い長い時間を則正と過ごすことができた柊真。二年とはいえ、笑い合う時間もあった自分。今、則正と共にあるのは畑中だけれど、畑中はまだ則正と時間を重ねていない。つまり、畑中の知らない則正との歴史が自分達にはある、ということ。
それは、畑中からしたら羨ましいものなのかもしれない。畑中の気持ちは聞いたことがないが、もしかしたら幼馴染への嫉妬心のようなものもあるかもしれない。
でも……そう畑中の想いを想像してはみても、なぜ、とやはり思ってしまう。ぽっと出のやつがなんで則正の心をかっさらっていっているんだ、と不満を覚えてしまう。
高校野球とはなんら関係ない話だ。けれど、柊真によって引っ張り出された思い出は、別の角度から心をくすぐり、奥に沈んでいた想いをつつく。
則正はなんでこいつの気持ちに気付いてやらなかったのだろう。畑中より、こいつのほうがよっぽどお前のことを想っていただろうに、なんで。
「ってか、なんか、乾燥してるな。飲み物買ってくる」
潜り込むように考えているうちに切なくなってきた。重苦しい気持ちから目を背けたくてわざとらしく喉をさすりながら立ち上がると、柊真が双葉の袖を掴んだ。
「俺が行ってくる。待ってて」
言いざま、立ち上がる。遠ざかっていく背中を見送りながら、双葉はすとん、とベンチに再び腰を落とす。
思わず見惚れるくらいかっこいい背中だと思う。今だって通りすがりの女子二人組がスナメリそっちのけできゃあきゃあ言っている。もてるよなあいつ、とひがみが口から出そうになったけれどやめた。本人はそれほどうれしくないのだろうな、と簡単に想像がついたから。
あいつはそういうやつなのだ。どや顔をしていいだけのスペックを持っているのに、活かそうとしない。褒められようが称えられようが無表情。なにがあろうと感情の揺らぎを見せない。それが彼にとってのデフォルトであり、自然体。
ただ、ここのところ柊真とふたりでいるようになって思うことがある。これまで双葉が見てきた柊真の顔はあえてだったのかもしれない、と。
彼は仏頂面をすることで、則正への想いを覆い隠そうとしていたのではないだろうか。
となれば今、いつもと違う顔を柊真ができているのは、喜ばしいことなのだろう。張り詰めていた気持ちが緩んできているからこその顔なのだろうから。
勝手な想像だが、そうだったらいいな、と思う心にふと触れるものがあり、双葉は息を止めた。
――大丈夫、俺がそばにいるから。
「石鈴」
「わあああ!」
鼓膜の奥に蘇った声に気を取られていたせいか、いきなり呼ばれて腰が浮いてしまった。
どきどきしながら目を上げると、ペットボトルと缶を片手にひとつずつ持った柊真がすぐそばに佇んでいた。
「なに。もしかして寝てた?」
「寝て、はない。ごめん」
反射的に謝ると、柊真は目を見張ったまま首を傾げた。
「お前、大丈夫?」
「な、にが?」
「なんか今日、やたらごめんって言うから」
「……それのどこがおかしい?」
「おかしいだろ。いつものお前なら、俺にごめんなんてまあ言わないのに」
「悪いと思ったら謝る教育くらい受けてる。っていうか、秋信こそ」
「俺?」
心当たりがない、と言いたげに眉が寄せられる。少しだけ大学での顔に近くなったけれど、声の調子はいつもより尖っていない。
「なんか今日……優しい」
今日というか、ここのところ、と言うべきなのか。
いずれにしても、優しい、という単語を面と向かって発することもそうそうないため、自分で言って恥ずかしくなった。見ると、柊真も当惑したような顔をしている。
「なに言ってるんだか」
口の中でごちた柊真の右手が、無造作にこちらに向かって突きだされた。
握られていたのは、ホットココアの缶。
「ココア、好き、だったよな」
「……うん」
自分はこいつにココアが好きなどと言ったことがあったろうか。
戸惑いながら彼の手からココアを受け取ると、どすん、といささか乱暴な音を立てて柊真が隣に座る。
ぐいぐいと力任せにペットボトルのキャップをねじ切り、ぐびぐびと飲む。その横顔を窺いながら、双葉もココアを口に運ぶ。
甘くて、温かい。じわっと心を和ませながら、双葉は目を閉じる。
「前にココアを買ってくれたのは、則正だったんだ」
柊真がこちらを見る気配がした。それを確かめぬままにココアをこくり、と飲む。
「一昨年の冬。雪降ってて。講義終わって帰ろうと思ったんだけど、電車、止まってて。帰れないっておたおたしてたら、他の講義出てた則正がちょうど来たんだ。で、学食で電車動くまでふたりでどうでもいい話ひたすらしてた。そのときにさ、則正が『そういや、今日はクリスマスイブイブイブイブイブイブイブだ』とか言い出して」
「もはや何日なのかわからないな」
呆れ顔をする柊真に、な、と同意を示してみせてから、双葉はココアに目を落とす。
「で、クリスマスプレゼントって言ってココア、買ってくれた。それ以来、俺、ココア、好きになったんだ」
それまではココアをあえて飲むことはなかった。嫌いじゃなかったけれど、好きでもなかった。けれどあの出来事のせいで特別な飲み物になってしまった。
――双葉、メリークリスマス。
煌く笑顔と共に差し出されたココアの缶から伝わった、じん、と心に落ちていく温もり。
我ながら単純だ、と笑おうとするが、思いがけずひくっと頬が震えた。
嘘だろ、と焦る。こんなところで泣きそうになるなんて。おたおたと瞼を押さえようと手を上げたけれどできなかった。
横から伸びた手に手が掴まれていた。
「減点」
少しだけ冷えた手で双葉の手を押さえた柊真が呟く。そうしながら反対の手でココアの缶を奪い取った彼は、缶を、ことん、とベンチに置くと、自分が飲んでいたお茶のペットボトルを双葉の手に握らせてきた。
「だけど、こんなの買ってきた俺の落ち度だから、こっち代わりに飲んで」
「いや、なに言ってんの。俺ココア好きだし」
「好きでも飲んで痛いものは飲んじゃだめ」
低い声でぴしりと言う。そっち飲んで、と促され躊躇する双葉の横で、柊真は躊躇いなくココアの缶を掬い上げ、流れるように唇に当てる。
「え、あの」
驚いたけれど、柊真があまりにも当たり前みたいな顔で飲み続けているので、双葉は制止するのをやめた。やめて、柊真の喉仏を見ていた。
こくり、こくり、と音を立てて柊真の体の中へ落ちていくココア。飲み下すたびに動く彼の喉を見ていたら、あの雪の日の則正の笑顔がゆっくりと自分の中から剥がれていく気がした。
――双葉。
瞼が再び熱くなる。それをごまかすように双葉は柊真から受け取ったペットボトルを傾ける。口の中に落ちてきたのは、温かいほうじ茶だった。
ココアの甘味とは違う、香ばしくて、滑らかな香りに涙腺がゆっくり補修されるのを感じた。
「なあ、いつも言う『減点』ってなに。そもそも何点引かれたらゼロになるの」
こんなところで泣きそうになってしまったなんてやっぱり恥ずかしい。顔を隠すように俯いて問いかけると、ココアを飲み干した柊真が言った。
「なんとなく。何点でゼロになるかは人によって違うんじゃないの」
「なんだそれ」
「大事なのは、減点されるくらいだめなことをしているという事実を知ること。減って残った点数は問題じゃない」
だめなこと。
「そっか」
そうだ。自分たちはもう諦めると決めた。ふたりで決めて、ふたりで旅に出た。
だったら、ここに至る日々を覆すような、そんな振り返り方はもうすべきじゃない。
楽しむべきなのだ。でも思ってしまう。
双葉に減点を突きつけ続けているこいつこそ、大丈夫なのだろうかと。
――大丈夫、俺がそばにいるから。
あの夜、耳に落とされた声を思い出しながら、双葉はほうじ茶をそっと喉へと流し込む。
柔らかくて温かいそれは、あの夜の腕の温もりに似ていた。
が、さんざんぶーぶー言っていた自分を殴りたくなるくらい、現在、双葉は興奮している。
「スナメリ! スナメリだよ! 秋信! スナメリ!」
「見ればわかる」
冷静すぎる声が憎らしい。こいつ、これまでの人生で一度も可愛いと思ったことがないんじゃないのか、と疑いたくなる。
淡い青に染まる水槽の中、まるで笑っているみたいな顔で一頭のスナメリがこちらを見つめていた。いらっしゃーい、とでも言いたげに水中で立ち泳ぎし、胸ひれをゆらゆらさせている。
「こ、これ、完全にようこそって言ってるよな」
「どうだろう。餌ちょうだい、じゃないの」
夢も面白みもない反応しか返ってこない。なんだよこいつもう、もっと楽しめよ馬鹿、と歯噛みしつつ、双葉は水槽に顔を寄せる。
「なあなあ、スナメリってイルカの仲間だっけ?」
「ハクジラ亜目らしいよ」
「は、クジラ? イルカじゃないの?」
「正式にはハクジラ亜目ネズミイルカ科だって」
淡々と説明書きが読み上げられ、双葉は苦い顔で柊真を振り向いた。
「それどっち? イルカ? クジラ?」
「どっちでもいいだろ」
「いやいや、スナメリからしたら重要じゃないか? 俺はクジラの仲間なのだろうか、イルカの仲間なのだろうかって」
「スナメリからしたら……」
繰り返してから柊真はスナメリへと目を戻す。こちらを見ていたはずのスナメリは飽きたのか、仲間と共に水槽の奥へと泳いでいこうとしていた。
「石鈴ってそういうとこあるよな」
「そういうとこって?」
ああ、行っちゃったよ、と寂しくスナメリを見送っていると、すっと人の気配が迫った。それまで斜め後ろに立っていた柊真がすぐ横にいた。
「一年の夏にさ、則正と三人で高校野球見たの、覚えてる?」
「あー、あれだ。則正が流しそうめんやりたいって言いだして、お前の家行ったとき?」
「それ」
「って、あのときも思ったけどさ、なんでお前の家、流しそうめん機あるの? 普通一人暮らしの学生の部屋にはないだろ、あんなの」
「兄貴にもらった。ってか、そこは今、よくないか」
渋い顔をされ、ごめん、と謝ると、柊真は小さく咳払いをした。
「で、うちには着いたんだけど、暑いしちょっと涼んでからそうめん茹でようって一休みのつもりでテレビ点けたんだ。そうしたら高校野球やってて」
「覚えてる。結構白熱してて、それ見たら則正が興奮しちゃって。そうめんは後でいい! 今は白球を追いかけよう! とか言い出して」
「そうそう」
頷きながら柊真はすっと双葉の腕を取る。保育園児らしき団体がわらわらと水槽へと近づいてくるのが見えた。子ども達に場所を譲り、近くのベンチへと落ち着くと、柊真はするっと手を離した。
「スコア見たら、七回まで片方のチームが六点リードしてて。相手チームは無得点で。なのに八回の表で突然巻き返して。怒涛の勢いで五点返したんだよ」
「ああ、覚えてる。最終的に逆転したんだよね」
「うん。逆転したチームも応援席も俺達もやったやったって騒いでたんだけど、そのとき、石鈴だけが黙ってた」
「え、そう、だっけ」
「そう。なんか笑わずに無表情に画面見てて。さすがに気になって石鈴の目線辿ったら、画面に逆転されちゃったチームのピッチャーが映ってた」
言われて思い出す。確かにそうだ。目の覚めるような見事な逆転劇で、画面上は勝利チームへの賛美に沸いていた。サイレンが鳴り、涙ながらに握手が交わされた。流されるのは勝利校の校歌で、アルプススタンドも全員が肩を組んで合唱していた。
そんな中で、相手チームのピッチャーの顔がすっと画面に映り込んだ。
「その子は泣いてた。号泣とかではなくて、はらはらって涙が止められなくて勝手に落ちちゃうみたいな、そんな泣き方で。石鈴はその子をじっと見てた。それ見たら、なんか無性に苦しくなって。で、ちょっと驚いた」
「なんで?」
「うん」
言葉を探すような間が空く。その隙間を埋めるように子ども達のはしゃぎ声が通り過ぎる。
「なんていうか、石鈴のこと、俺は邪魔だなとは思ってたけど、あのころはまだ知り合って半年だし、どんな人間なのか、あんまりよくわかってなかった。俺からしたら歯を剥きだしてくるリスみたいなもんにしか見えなかったし」
「誰がリスだ」
歯を剥きだしたくなったがやめておいた。代わりに軽く柊真の足を蹴ると、柊真の横顔に苦笑いが浮かんだ。
「お前は勝った側より負けた側に感情移入するタイプなんだなって。それがなんか俺は、いいな、と思った」
「なんだよ、いいなって」
「だって石鈴は思ったんじゃないの? 勝利することはすごいことだし、称えられるべきことだけど、それでも今、敵わなくて泣いてる人がいるのが悲しいなって」
思わず顔を上げる。柊真はこちらを見てはおらず、天井まである水槽をぼんやりと眺めていた。
「こいつは俺と全然違うって思い知らされて、悔しかった」
「違う……?」
「俺は思っちゃってたから。何回も甲子園出てるんだから、初出場の学校に譲ってあげたらって。でもそれっておかしいよな」
柊真の目は水槽の中のスナメリを見ている。スナメリは再びガラスすれすれまで近寄ってきていて、手を振るように胸ひれをあおがせていた。
「だって、みんな初めてなんだから。その年の甲子園は。どんな歴史があるのかなんて関係ない。ただ今、このときを勝ちたくてここにいる。それは部員十人の初出場校だろうが、補欠部員が百人レベルの強豪校だろうが関係ない。同じなんだよ。そういうことをお前の顔見ながら考えてた。そこまで真剣に考えてこなかった自分が浅く思えて……情けなかった」
「そ……」
返す言葉に悩みながら、双葉はそろそろと柊真の顔を窺う。
水槽の水がそのまま染み出して来たような淡い青の中、こちらに横顔を向ける彼は、いつも学校で反目しあっている彼とはやはり違う顔をしていて、双葉を落ち着かなくさせた。
あのピッチャーに感情移入をしていたときの双葉の表情を見た柊真も、今の自分と同じような気持ちになったのだろうか。
知っているはずなのに、違う、と。
そしてそれは……今もそう思っているのだろうか。想像したらどんな顔をしていいんだかわからなくなってきた。
「お、大げさ。浅いとかないって。第一、勝った側が喜ぶ権利だってしっかりあるんだから、俺みたいなものの見方は勝利した側からしたら嫌な気持ちになるかもしれない。どっちがどうとかないんだよ。たまたま俺はそうだったってだけ」
則正の心を手に入れた畑中はまさにその勝った初出場のチームみたいだな、とふと思った。長い長い時間を則正と過ごすことができた柊真。二年とはいえ、笑い合う時間もあった自分。今、則正と共にあるのは畑中だけれど、畑中はまだ則正と時間を重ねていない。つまり、畑中の知らない則正との歴史が自分達にはある、ということ。
それは、畑中からしたら羨ましいものなのかもしれない。畑中の気持ちは聞いたことがないが、もしかしたら幼馴染への嫉妬心のようなものもあるかもしれない。
でも……そう畑中の想いを想像してはみても、なぜ、とやはり思ってしまう。ぽっと出のやつがなんで則正の心をかっさらっていっているんだ、と不満を覚えてしまう。
高校野球とはなんら関係ない話だ。けれど、柊真によって引っ張り出された思い出は、別の角度から心をくすぐり、奥に沈んでいた想いをつつく。
則正はなんでこいつの気持ちに気付いてやらなかったのだろう。畑中より、こいつのほうがよっぽどお前のことを想っていただろうに、なんで。
「ってか、なんか、乾燥してるな。飲み物買ってくる」
潜り込むように考えているうちに切なくなってきた。重苦しい気持ちから目を背けたくてわざとらしく喉をさすりながら立ち上がると、柊真が双葉の袖を掴んだ。
「俺が行ってくる。待ってて」
言いざま、立ち上がる。遠ざかっていく背中を見送りながら、双葉はすとん、とベンチに再び腰を落とす。
思わず見惚れるくらいかっこいい背中だと思う。今だって通りすがりの女子二人組がスナメリそっちのけできゃあきゃあ言っている。もてるよなあいつ、とひがみが口から出そうになったけれどやめた。本人はそれほどうれしくないのだろうな、と簡単に想像がついたから。
あいつはそういうやつなのだ。どや顔をしていいだけのスペックを持っているのに、活かそうとしない。褒められようが称えられようが無表情。なにがあろうと感情の揺らぎを見せない。それが彼にとってのデフォルトであり、自然体。
ただ、ここのところ柊真とふたりでいるようになって思うことがある。これまで双葉が見てきた柊真の顔はあえてだったのかもしれない、と。
彼は仏頂面をすることで、則正への想いを覆い隠そうとしていたのではないだろうか。
となれば今、いつもと違う顔を柊真ができているのは、喜ばしいことなのだろう。張り詰めていた気持ちが緩んできているからこその顔なのだろうから。
勝手な想像だが、そうだったらいいな、と思う心にふと触れるものがあり、双葉は息を止めた。
――大丈夫、俺がそばにいるから。
「石鈴」
「わあああ!」
鼓膜の奥に蘇った声に気を取られていたせいか、いきなり呼ばれて腰が浮いてしまった。
どきどきしながら目を上げると、ペットボトルと缶を片手にひとつずつ持った柊真がすぐそばに佇んでいた。
「なに。もしかして寝てた?」
「寝て、はない。ごめん」
反射的に謝ると、柊真は目を見張ったまま首を傾げた。
「お前、大丈夫?」
「な、にが?」
「なんか今日、やたらごめんって言うから」
「……それのどこがおかしい?」
「おかしいだろ。いつものお前なら、俺にごめんなんてまあ言わないのに」
「悪いと思ったら謝る教育くらい受けてる。っていうか、秋信こそ」
「俺?」
心当たりがない、と言いたげに眉が寄せられる。少しだけ大学での顔に近くなったけれど、声の調子はいつもより尖っていない。
「なんか今日……優しい」
今日というか、ここのところ、と言うべきなのか。
いずれにしても、優しい、という単語を面と向かって発することもそうそうないため、自分で言って恥ずかしくなった。見ると、柊真も当惑したような顔をしている。
「なに言ってるんだか」
口の中でごちた柊真の右手が、無造作にこちらに向かって突きだされた。
握られていたのは、ホットココアの缶。
「ココア、好き、だったよな」
「……うん」
自分はこいつにココアが好きなどと言ったことがあったろうか。
戸惑いながら彼の手からココアを受け取ると、どすん、といささか乱暴な音を立てて柊真が隣に座る。
ぐいぐいと力任せにペットボトルのキャップをねじ切り、ぐびぐびと飲む。その横顔を窺いながら、双葉もココアを口に運ぶ。
甘くて、温かい。じわっと心を和ませながら、双葉は目を閉じる。
「前にココアを買ってくれたのは、則正だったんだ」
柊真がこちらを見る気配がした。それを確かめぬままにココアをこくり、と飲む。
「一昨年の冬。雪降ってて。講義終わって帰ろうと思ったんだけど、電車、止まってて。帰れないっておたおたしてたら、他の講義出てた則正がちょうど来たんだ。で、学食で電車動くまでふたりでどうでもいい話ひたすらしてた。そのときにさ、則正が『そういや、今日はクリスマスイブイブイブイブイブイブイブだ』とか言い出して」
「もはや何日なのかわからないな」
呆れ顔をする柊真に、な、と同意を示してみせてから、双葉はココアに目を落とす。
「で、クリスマスプレゼントって言ってココア、買ってくれた。それ以来、俺、ココア、好きになったんだ」
それまではココアをあえて飲むことはなかった。嫌いじゃなかったけれど、好きでもなかった。けれどあの出来事のせいで特別な飲み物になってしまった。
――双葉、メリークリスマス。
煌く笑顔と共に差し出されたココアの缶から伝わった、じん、と心に落ちていく温もり。
我ながら単純だ、と笑おうとするが、思いがけずひくっと頬が震えた。
嘘だろ、と焦る。こんなところで泣きそうになるなんて。おたおたと瞼を押さえようと手を上げたけれどできなかった。
横から伸びた手に手が掴まれていた。
「減点」
少しだけ冷えた手で双葉の手を押さえた柊真が呟く。そうしながら反対の手でココアの缶を奪い取った彼は、缶を、ことん、とベンチに置くと、自分が飲んでいたお茶のペットボトルを双葉の手に握らせてきた。
「だけど、こんなの買ってきた俺の落ち度だから、こっち代わりに飲んで」
「いや、なに言ってんの。俺ココア好きだし」
「好きでも飲んで痛いものは飲んじゃだめ」
低い声でぴしりと言う。そっち飲んで、と促され躊躇する双葉の横で、柊真は躊躇いなくココアの缶を掬い上げ、流れるように唇に当てる。
「え、あの」
驚いたけれど、柊真があまりにも当たり前みたいな顔で飲み続けているので、双葉は制止するのをやめた。やめて、柊真の喉仏を見ていた。
こくり、こくり、と音を立てて柊真の体の中へ落ちていくココア。飲み下すたびに動く彼の喉を見ていたら、あの雪の日の則正の笑顔がゆっくりと自分の中から剥がれていく気がした。
――双葉。
瞼が再び熱くなる。それをごまかすように双葉は柊真から受け取ったペットボトルを傾ける。口の中に落ちてきたのは、温かいほうじ茶だった。
ココアの甘味とは違う、香ばしくて、滑らかな香りに涙腺がゆっくり補修されるのを感じた。
「なあ、いつも言う『減点』ってなに。そもそも何点引かれたらゼロになるの」
こんなところで泣きそうになってしまったなんてやっぱり恥ずかしい。顔を隠すように俯いて問いかけると、ココアを飲み干した柊真が言った。
「なんとなく。何点でゼロになるかは人によって違うんじゃないの」
「なんだそれ」
「大事なのは、減点されるくらいだめなことをしているという事実を知ること。減って残った点数は問題じゃない」
だめなこと。
「そっか」
そうだ。自分たちはもう諦めると決めた。ふたりで決めて、ふたりで旅に出た。
だったら、ここに至る日々を覆すような、そんな振り返り方はもうすべきじゃない。
楽しむべきなのだ。でも思ってしまう。
双葉に減点を突きつけ続けているこいつこそ、大丈夫なのだろうかと。
――大丈夫、俺がそばにいるから。
あの夜、耳に落とされた声を思い出しながら、双葉はほうじ茶をそっと喉へと流し込む。
柔らかくて温かいそれは、あの夜の腕の温もりに似ていた。



