恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 連れて来られたのは双葉の想像とは全然違う佇まいの店だった。もらったクーポン券にあった、原色、かつ大きなレタリング文字で、「激安!」「生ビール一杯頼んだら一杯無料!」「おでん10%増量!」といった文言で誘いをかけるようなタイプの店にはまったく見えない。造りは古そうだけれど、門前は塵ひとつなく掃き清められているし、入り口に掲げられた暖簾も日々手入れされているのか、街灯の光にさえ白く眩しく輝いている。料亭とまではいわないが、ちょっと小粋な小料理屋、という風情で、居酒屋といえばチェーン店にしか足を踏み入れたことがない自分には不似合いなのでは、と尻込みしてしまった。
 戦いていると柊真が、ぽん、と肩を叩いてきた。
「高級そうな店構えに見えるかもしれないけど、そこらのチェーン店よりよっぽど安いし量もあるから。賄いも普通に美味いし」
「お前、ここでバイトしてるの?」
「まあ。接客とちょっとした仕込みくらい」
 道理で料理が上手いわけだ。昼食も毎日手作り弁当だし、家に遊びに行ったときも包丁さばきが様になっていた。たこ焼きもマジックかと思うくらい、軽々と生地を返していたっけな、と思い返しつつ、柊真に続いて店に入ると、明るい声に出迎えられた。
「あれ、秋信くん。今日バイトの日じゃなかったわよねえ」
 ひとりで接客していた五十代くらいの女性が目を丸くする。柊真は、どうも、と軽く会釈してから言った。
「友達と来たんですけど。いいですか」
 友達! 俺達は友達だったのか、と密かに驚いている双葉にも温かい笑みを向けて寄越しながら、女性が店の奥を掌で示した。
「どうぞどうぞ。じゃあ……あ、奥、空いてるし、使って」
 ウナギの寝床の如き形状の店内には、右手に厨房を臨める形でカウンター席が、左手にボックス席が数個並んでいる。そして、突き当たりには座敷席が二間あった。
「座敷、いいんですか?」
「いいよいいよ。秋信くんが友達連れてくるなんて初めてだもの。どうぞ」
 ありがとうございます、と柊真がきっちりと頭を下げる。慌ててそれに倣うと、厨房で焼き鳥を焼いていた白髪の男性が目元だけをくしゃりとさせて頭を下げてきた。
 柊真はここで可愛がられているらしい。
「ちょっと意外」
「なにが」
 店の造りと同じく調度も皆年代物のようだったが、どれもぴかぴかに磨きあげられている。木目の美しいテーブルを撫でながら、双葉は柊真を見た。
「なんかもっとこう……ほら、腰に巻くタイプのエプロンして、おしゃれカフェでバイトしてるのかと思ってた」
「なんだそれ」
 柊真はだるそうな顔をしつつ、メニューを引っ張り出して双葉の前に置く。
「確かに考えたことはあるけど。時給も悪くないし。けど、ああいうところって人間関係エグい店も多いって聞いたから」
「エグい?」
「誰と誰が付き合ったとか喧嘩したとか、先輩だけど仕事できないから敬わなくていいな、挨拶もしなくていいんじゃない?って結託するとか、反対に仕事ができなさすぎる後輩にみんなで変なあだ名つけて裏でいじるとか、店長に媚び売ってシフトの都合、調整するやつがいるとか」
「こわ……」
 ぽんぽんと出てくるおどろおどろしい人間模様に、双葉は二の腕を擦る。
 ただ、震えつつもまったく未知の世界というわけでもなかった。実際、大きな店になればなるほど人間関係が複雑になることを、自分は知っている。
「まあ、でも、わかる。特に『アットホームで風通しの良い職場です』って書いてあるとこは疑ったほうがいい気がする」
「そうなの?」
「いや、あくまで俺の主観だけど」
 世間話みたいに訊いてくる。その様子に少し戸惑ったけれど、双葉は続けた。
「高校のときコーヒーチェーンでバイトしてたことあるんだけどさ、俺、そこで」
 言いかけて口が粘ついた気がした。顔をしかめてメニューに目を落とす。
 別に大した話じゃない。高校生のとき、初めてバイトをした。周りは大学生ばかりで高校生の双葉は浮きまくった。そのうち、指導と称して、大学生の面々にかわるがわる個別に叱責されるようになった。
 声が小さくてお客様に聞こえない、店の前で挨拶の練習して来い、とか、ウォッシャーへのカップの入れ方がなっていない、これじゃ使えないから全部手で洗い直して、とか、先輩より先に店に来て掃除していないのは怠慢だ、とか。
 仕事というものはきつくて当たり前と両親を見ていればなんとなく感じるところはあったし、覚悟だってしていたつもりだったけれど、度重なる「指導」に耐え切れなくなり、結局二週間と経たず双葉はその店を辞めた。
 その店のキャッチコピー、「アットホームで風通しがいいです。先輩もみんな親切ですよ」に唾を吐きかけてやりたいと思いながら。
「石鈴、これ」
 もう何年も前のことなのについ思い出してしまった。陰鬱な気持ちになりつつ、変な空気になっちゃったな、と後悔していると、唐突にメニューの一部が指し示された。
「この『今日の煮魚』は頼んだほうがいい」
 大きなテーブルに半ば身を乗り出すようにして、柊真がこちらを覗き込んでいた。え、と彼の指先から彼の顔に目線を移すと、不自然なタイミングで目を逸らされる。
 ごめん、とは言われなかったが、訊いてはいけないことを訊いてしまったのかも、という後ろめたさがじんわり見えた気がして、なんだかまた戸惑った。
 いつものこいつだったら失言なんてなんのその、平気でずけずけ言ってくるのに。
 やっぱり、則正がいないと調子が狂う。
「……じゃ、じゃあ、煮魚も頼もうかな」
「うん」
 短い返事を柊真が落とす。妙な間が空いたが、その間を埋めるように、注文は? と先ほどの女性が座敷に顔を出した。来店してくれたら一杯無料のクーポンが効いたのか、手には生ビールが満たされたジョッキがふたつと枝豆が載った皿があった。
 注文を済ませ、元通り襖が閉まったところで、柊真がジョッキを持ち上げた。
「とりあえず、乾杯」
 失恋に乾杯かよ、とついついいつもの憎まれ口が出そうになる。が、そうせずに双葉もジョッキを手に取り、差し出されたジョッキに軽く当てた。
 慣れない状況に喉が渇いて仕方なかった。
「あのさ」
 きめの細かい泡が唇を受け止めてくれる。それにほっとしていると、柊真がことり、とジョッキをテーブルに置いた。
「率直に言って、則正の話、石鈴はどう思った?」
「どう……」
 目の前が真っ暗になった、と言っていいのだろうか。迷っていると、その空気を感じたのか、俺は、と柊真が口を開いた。
「俺はショックだった。則正が男と付き合うなんて、あるって思ってなかったから」
「ああ……」
 そっちの意味でショックか。まあ、幼馴染のこいつからしたらそうかもしれない。長年共にいた友達の知らない顔を見て驚いてしまうのもわかる。でも、こいつのその驚きに同調してやることは双葉にはできない。俺が則正をどう思っているかなんてこいつには語れないな、と思ったのがもろに顔に出ていたのだろうか。柊真が激しく首を振った。
「そういう意味じゃない。俺はただ思っちゃっただけだ。こんな日が来るなら、俺が先に言えばよかったって」
「それ……」
 はっとして顔を上げると、柊真は眉間にしわを寄せながらこちらを見た。
「知ってたんじゃないの? っていうか、石鈴もそう思ったんじゃないの?」
 少し、躊躇った。見透かされているだろうと思っていたとはいえ、はっきりと言葉にするのは怖かった。
 口にしたが最後、多くを失う気がしていたから。
 でも……それは多分こいつも同じだ。
「……まあ、うん」
 ぎくしゃくと頷く。その双葉を見た柊真の広い肩が目に見えて緩んだ。姿勢よく伸ばされていた背中がずるりと力を失い、くたりと傾く。すんなりと伸びた首も支えを失ったように前に落ちる。テーブルの上、頭を片腕で抱えるようにしながら柊真はぼそぼそと言った。
「やっぱり。石鈴を初めて見たとき思ったんだ。多分、こいつは則正を俺と同じ意味で好きになるだろうって」
「だから最初からあんなに喧嘩腰?」
「それはお前もだろ」
 呆れ声で言いつつ、彼は腕を下ろす。乱れた前髪をさらっと指先で直しながら彼はこちらを睨んだ。
「則正のこと渡したくないなって思ってた。だからお前のことはすごく警戒してた。俺を見たとき、お前、どんな顔したかわかってた?」
 柊真に問われ、双葉は唇を歪める。
「それはこっちの台詞。すごいイケメン来た!って思ったら、めちゃくちゃ塩対応なんだもん。こいつには遠慮しないって即座に決めた」
「……なんて迷惑な決意」
 心底嫌そうに呟きつつ、柊真はジョッキを持ち上げる。
「まあ、俺とお前が火花散らしていようが、肝心の則正のほうが恋愛にまったく興味なさそうだったから、途中からお前に突っかかるのも馬鹿馬鹿しくなってはいたけど」
「ああ、うん。わかる」
 則正とはさんざん会話をしたが、色恋の話をした覚えは一度もない。興味がないのか、そういう話が苦手なのか、よくわからないけれど、自分の気持ちを則正に知られたら距離を置かれてしまいそうで怖くて、こちらからそれ系の話題を振ることもできなかった。
「則正って……彼女とか、その、彼氏、とか、いたことあるの?」
「それは……」
 柊真が言い淀む。なんだよ、ここまでぶっちゃけておいてそこはだんまりか、と非難を込めてねめつけるが、柊真は険しい顔を崩さずお通しにと出された枝豆を剥いた。
「本人のいないところで過去のもろもろを言うのはどうかと思う」
「ご立派なことで」
 そりゃあそうだ、とも思ったけれど、素直に認めるのもなんだかしゃくだ。唇を引き結びながら柊真に倣って枝豆に手を伸ばすと、ただ、と柊真が呟いた。
「見ていて思うのは、畑中のことは本気なんだろうなってことかな」
「ああ……」
 それは言われるまでもなかった。
 則正は困っている人を放っておけない。双葉にしてくれたように、すっと手を差し伸べる。社交的で人と人の間にある垣根を簡単に取っ払って相手の陣地に入り込んでしまう。そんな彼だから友達は多かった。基本的に双葉と柊真と一緒にいたが、三人を核にして学部内、学部外問わず、友人で集まって飲み会をしたり、花見をしたりした。人付き合いが苦手な双葉としては、則正が連れてくる知らない人間と交流することを若干億劫にも思ってはいたけれど、楽しそうな則正を見ていたら水を差そうなんて思えなかった。
 この人は全人類を等しく愛しているのだ。輪の中心で笑う彼を見ながら、ほっこりとしつつ、すんとした寂しさを噛みしめる。その感覚にこの二年で慣れてしまっていた。
 則正はみんなの則正。それが当たり前で、これからも変わらない。はずだった。
 でも、違った。
「まさかひとりをあんなに大事にするタイプだったなんて、思わなかった」
 そう零すと、そうだな、と柊真が頷きを返してきた。そのまま顔を伏せる。もしかして泣いているのか、と心配になり、覗き見ようとしたとき、ふっと顔が上がった。
「でもこうなったらもう仕方ない。俺は諦めようと思ってる。石鈴はどうする?」
「どう……? え、なにが」
「だから、まだ想い続けるかってこと」
「いや、無理だよ。則正は畑中と付き合い始めたんだし」
「付き合い始めたから? なに?」
「なにって……いや、もうだめだろ。大体、好き合ってるふたりの間に割って入るなんて、俺には無理だよ。確実に悪役令嬢案件じゃん。ってか、それ聞いてどうすんの? 応援でもしてくれるの」
 それはないだろうな、と思った。こいつだったら則正の幸せを一番に願いそうだ。双葉がここで諦めずに彼らの間に横入りすると言ったら、則正の盾に俺はなる、とさえ言い出す気がする。
「まあお前に限ってそれはなー」
「いいよ」
 予想外の返しにぎょっとした。は? と問い返すが、柊真は冗談なんてひとかけらもない真剣な顔をこちらに向けてくる。
「お前が則正をそこまで想うなら応援する。全力で」
「お前、どうしちゃったんだよ。俺のこと、目障りだったんじゃないの」
 そうだ。こいつはいつだって嫌悪感丸出しでこっちを見てきた。なぜお前がここにいる、とはっきりと顔に書いて接してきた。則正と一緒に柊真の家に行ったとき、柊真が焼きそばを作ってくれたけれど、則正のものには目玉焼きが載っていたのに双葉のものにはなかった……まあ、目玉焼きはそれほど好物でもないから別にいいのだけれど。
 柊真はまた眉を寄せる。この顔も則正にはしない。双葉にだけする。迷惑そうな、しちゃいけない場所で犬に排泄させる人を見かけたときのような顔だ。そのいつもの顔で柊真は言い放った。
「目障りだったけど、嫌いじゃない」
「そ、だったの?」
「そう。則正のことさえなければ、俺はお前のこと、結構好きだよ」
 好き。
 えええ、とのけぞりそうになる。口をぱくぱくしている間に、するりと襖が開いた。
「はーい、煮魚と、厚焼き玉子と、ししゃも。で、焼き鳥盛り合わせね〜。あ、あとこれ、サービスのヒレカツ! たくさん食べなさいね」
「ありがとうございます、おかみさん」
 好き云々なんてまるでなかったみたいな涼しい顔で柊真はおかみさんに礼を言う。ど、どうも、と慌てて頭を下げると、いいのよいいのよ、と軽快な笑い声を残し、襖は閉められた。
 目の前には空腹を誘う料理の数々。温かな湯気に頬を撫でられて心がふっと緩んだ。
 この感触、いつ以来だろう。
「……俺、人と食事するの、本当は、苦手なんだ」
 勝手に言葉が落ちて自分自身慌てる。けれどなんとなくこのまま続けたくてちらっとテーブルの向こうを窺うと、柊真がこちらを見つめ返してきた。
 眉間にしわは寄っていなかった。
「ぼっちはきついけど、別に誰かと食べるのが好きとかそういうわけじゃない。食べるだけならひとりのほうが楽でいいって思う」
 双葉は口を動かしつつ、煮魚の皿を覗き込む。カレイのようだ。久しぶりに目にした魚の照りはちゃんと手をかけられたもの特有の柔らかい飴色をしていた。
「でも、なんだろ。こう、胸がざわざわして、どうしようもないときはさ、誰かがいて、間に食べ物があるこの感じ、気が紛れてよかったんだな」
「そう」
 愛想も素っ気もない声だ。でもなぜだろう。少し、落ち着いた気がした。
「応援は、いらない。則正のおかげで俺、大学、楽しかったし。幸せでいてほしいから」
 気持ちの整理なんてまだ全然できていない。それでもそう言ったのは……自分よりこいつのほうがしんどいんじゃないかとふと思ったからだ。
 双葉は則正と出会ってまだ二年弱。でも、柊真は違う。幼稚園児だった則正さえ知っている柊真は、もう十五年も彼の傍らにいるのだ。
 そんなやつに応援してもらうわけになんて、いかない。
「無理、してないか?」
 問われて首を振る。でも、と言いかけた柊真を押し止め、双葉はぱっと顔を上げた。中身が半分ほどに減ったジョッキを持ち上げ、柊真の前に置かれたジョッキに、かつん、と当てる。
「そっちこそ。諦めるなんて簡単にできる? 俺より先輩だろ」
「先輩ってなに」
「片想いの」
「少女漫画みたいなこと言うな」
 嫌そうな顔をする柊真に、ふふ、と笑ってから、双葉は煮魚に箸を伸ばす。そうっと触れたはずだけれど、ほどよく煮られた魚はすぐにほろりと崩れた。
 なんだか涙が出そうになった。
 それを押し込めるように双葉は煮魚を頬張る。めちゃくちゃ、沁みた。
「美味い。お前も食べろよ」
 声まで震えそうだ。それを押さえて皿を押しやると、うん、と軽い声と共に箸が伸ばされた。
 双葉とは違う、お手本にしたいくらいの綺麗な箸使いで魚がほぐされる。
 こいつはこんなふうに則正のことを見てきたのだろうか。丁寧に優しく、包むように。壊さないように。
 きゅっと胸が痛くなる。痛みから目を逸らすべく双葉はビールをぐびりとあおった。
「しんどかったら聞いてやるから。言えよ」
「それはこっちの台詞」
 少し揺れが混じりながらも笑みをたゆたわせて柊真は言い、ぱくりと煮魚を口に運ぶ。
 美味いな、と心から染み出したみたいな声が落ちた。