先に立って歩く柊真の後ろに付き従いながら、周囲を見回す。
駅へと向かう道の先、遠くに空の色よりも濃い青が見えた。海のようだ。そういえばほんのりと磯の香りもする。
「港、近いんだな」
「ああ。魚も美味いらしいよ」
どうでもいいことみたいに投げやりな声が返る。文字で見れば、旅先のグルメに心躍らせた台詞にもなるだろうに、こいつの声に乗せられるとどうしてこうも無機質に響いてしまうのだろう。
「なあ、お前、少しはさ……」
非難しようとして双葉は口を噤む。
自分だって明るい気持ちになんて絶対なれないくせに、酷すぎることを言い出してしまうところだった。
「あった」
くそ、と口の中で呟いたが、柊真には届かなかったらしい。感情の乗らない声と共に柊真がこちらを振り向いた。彼の指は駅と併設している商業施設の二階を指さしていた。
「あそこの海鮮丼、鳥羽来たら絶対食べろってガイドブックにあった」
「……ガイドブックとか、調べてきたの」
「一通りは」
「なんで」
「なんでって」
柊真が渋い顔をする。階段を上りつつ投げられた声には、溜め息がふんだんに混ぜ込まれていた。
「傷心旅行で食べ物もまずかったら、お前、ますます落ち込むと思ったから」
……自分だって落ち込んでるくせに。
言い返そうとして双葉は口を噤む。そうだ。柊真だってそうなのだ。でも彼はそれを顔に出さない。それどころか、同じ境遇の双葉を気遣う素振りさえ見せる。
この旅行もそうだ。自分が気晴らししたいからと言って誘ってきたけれど、双葉に気を遣って計画したような気がずっとしている。
いや、こいつに限ってそれはないのだろうか。則正が間にいたとき、柊真は露骨すぎる態度で双葉を排除しようとしていたのだから。
邪魔、とか、むかつく、の顔のように、その他の感情もはっきり表面に出してくれれば、こちらもいろいろ考えずに済むのに、こいつの表情はいつだって凪いだ海だ。
こんなわけのわからないやつとこれから三日間も共に過ごすというのは、逆にストレスなのでは、と思わないでもなかったが、双葉は軽く首を振ってその考えを退けた。
わけがわからない状況であろうと、もう来てしまったのだ。だったらちゃんと楽しまないと損だ。
「楽しみだな」
慣れないながらも笑顔を作って彼を見ると、目を見張られた。笑い返してくれるかもと若干期待したが、柊真は素っ気なく前方へと向き直り、ああ、と背中で答えただけだった。
……やっぱりな。
またいらっとしたものの、その双葉の機嫌は数分後には直った。
「なにこれ。めっちゃ、美味そう……」
柊真に連れて来られた定食屋は、平日の開店直後だったからか、客は双葉たちと、これまた旅行客らしい老夫婦だけしかいなくて空いていた。そんな人の少ないだだっ広い店内で大声を上げることを自粛したため歓声は控えめになったけれど、感動は押さえきれず、ちょっとだけ声が裏返ってしまった。
それくらい……見事な海鮮丼だった。
マグロ、サーモン、ホタテ、いくら。今朝水揚げされたという白身魚(名前は聞いたけれど覚えられなかった)。つやつやと輝くそれらが白米の見える隙間もないくらいびっしりと敷き詰められている。しっかりとした厚みを持つ刺身の上にはこんもりと盛られた刻みのりと大葉があり、大葉の上には柔らかい若草色のわさびが山となっていた。
「わさび、もりもりついてる!」
「石鈴、わさび、大丈夫だっけ?」
問われ、双葉は大きく頷く。
「うん! めっちゃ好き」
「激辛ラーメンだめなのに?……ってか、ちょっと待て」
淡々としていた声が急に鋭くなる。え、なに、とぎょっとしていると、テーブル越しに手を押さえられた。握りしめていた醤油瓶がするりと抜き取られる。
「いきなり上から醤油かけるやつがあるか」
「え、だって醤油つけないと美味くないだろ」
「じゃなくて。それじゃわさびがしっかり刺身にもしゃりにも行き渡らないだろ」
言いつつ、柊真は双葉の丼上にあるわさびをひょいと箸でつまむ。丼と共についてきた醤油皿にわさびを載せ、そこに醤油をさらさらと流し入れた。
「こうやっておいて、好きな分だけわさびを溶いて上から回しかけて」
「おお〜」
「わさび好きならこれくらい心得ておけよ。わさびが可哀想だから」
心底呆れた口調でたしなめられ、むっとする。が、唇を尖らせながらテーブルの向こうを見てふっと息を呑んだ。
柊真が笑っていた。大笑い、というわけではないけれど、嫌になるほど綺麗に切れた切れ長の目も細められている。
その顔を見て、わかった。
こいつが今、なにを考えているのかが。だって、こいつがこんな顔を見せるのは、あいつの前だけだから。
あいつ、則正の。
則正も双葉同様、世間知らずで常識と言われるようなことに疎いところがあって、柊真に小言をしょっちゅう言われていた。たとえば、定食屋で出てきた味噌汁の蓋が開かなかったとき、無理やり引っ張って開けようとして、零れるから蓋は回しながら開けろ! とか。
ほかにもきっとたくさんある。それを今、こいつは。
「減点」
不意に硬い声が響く。え、と目を瞬かせると、机の向こうにいた柊真は、もう笑っていなかった。
「また則正のこと、考えてた」
「それは……っ」
お前だろ、と口に出そうとしてやめる。なんだかこんなことばかりだ。
息苦しくて仕方ない。やれやれと胸の奥から息を吐きつつ、海鮮丼に箸を入れる。
マグロと白米を一緒に口に運んで……唸った。
「なんかさ」
「なに」
自分の分の海鮮丼にわさび醤油を回しかけていた柊真が気だるげに返事をする。その彼に向かって双葉は興奮気味に身を乗り出してしまった。
「生きててよかったってこういうときに言うんじゃない?」
柊真が眉を顰める。大げさなことを、と言いたげにマグロを箸で掴む。自分と同じものから食す彼を見守っていると、口を動かし終わった柊真が息を吐いた。次いで、そうかも、と素の声が飛び出した。
「めちゃくちゃじわっと来る」
「な」
美味しく食べてもらえるように、そう祈って炊かれたのがわかる、粒ひとつずつに旨みが閉じ込められた白米。その白米と寄り添うマグロの滑らかで豊かな舌触り。
別に失恋くらいで死んだりしない。胸が痛かったり、これまでそばにあった笑い声や気配をつい探してしまったりはするけれど、日常なんて放っておけば勝手に過ぎていく。バイトだって講義だってある。時間は有限で、ぼーっとしていられるほど自分達は暇じゃない。
なのに、こういう美味すぎるものを食べると気付いてしまう。
凍結させていた五感がざわざわと呼び覚まされるように。
ああ、思ったよりずっと、自分は弱っていたんだな、と。
こいつもきっとそうだったのだ。
黙々と海鮮丼を食べ進める柊真を窺ってから、双葉はそっと目を伏せる。
誘ってもらってよかったかも、と素直に思えた。
同時に思い出す。
こいつと初めてふたりだけで向かい合って食事を摂ったときのことを。
駅へと向かう道の先、遠くに空の色よりも濃い青が見えた。海のようだ。そういえばほんのりと磯の香りもする。
「港、近いんだな」
「ああ。魚も美味いらしいよ」
どうでもいいことみたいに投げやりな声が返る。文字で見れば、旅先のグルメに心躍らせた台詞にもなるだろうに、こいつの声に乗せられるとどうしてこうも無機質に響いてしまうのだろう。
「なあ、お前、少しはさ……」
非難しようとして双葉は口を噤む。
自分だって明るい気持ちになんて絶対なれないくせに、酷すぎることを言い出してしまうところだった。
「あった」
くそ、と口の中で呟いたが、柊真には届かなかったらしい。感情の乗らない声と共に柊真がこちらを振り向いた。彼の指は駅と併設している商業施設の二階を指さしていた。
「あそこの海鮮丼、鳥羽来たら絶対食べろってガイドブックにあった」
「……ガイドブックとか、調べてきたの」
「一通りは」
「なんで」
「なんでって」
柊真が渋い顔をする。階段を上りつつ投げられた声には、溜め息がふんだんに混ぜ込まれていた。
「傷心旅行で食べ物もまずかったら、お前、ますます落ち込むと思ったから」
……自分だって落ち込んでるくせに。
言い返そうとして双葉は口を噤む。そうだ。柊真だってそうなのだ。でも彼はそれを顔に出さない。それどころか、同じ境遇の双葉を気遣う素振りさえ見せる。
この旅行もそうだ。自分が気晴らししたいからと言って誘ってきたけれど、双葉に気を遣って計画したような気がずっとしている。
いや、こいつに限ってそれはないのだろうか。則正が間にいたとき、柊真は露骨すぎる態度で双葉を排除しようとしていたのだから。
邪魔、とか、むかつく、の顔のように、その他の感情もはっきり表面に出してくれれば、こちらもいろいろ考えずに済むのに、こいつの表情はいつだって凪いだ海だ。
こんなわけのわからないやつとこれから三日間も共に過ごすというのは、逆にストレスなのでは、と思わないでもなかったが、双葉は軽く首を振ってその考えを退けた。
わけがわからない状況であろうと、もう来てしまったのだ。だったらちゃんと楽しまないと損だ。
「楽しみだな」
慣れないながらも笑顔を作って彼を見ると、目を見張られた。笑い返してくれるかもと若干期待したが、柊真は素っ気なく前方へと向き直り、ああ、と背中で答えただけだった。
……やっぱりな。
またいらっとしたものの、その双葉の機嫌は数分後には直った。
「なにこれ。めっちゃ、美味そう……」
柊真に連れて来られた定食屋は、平日の開店直後だったからか、客は双葉たちと、これまた旅行客らしい老夫婦だけしかいなくて空いていた。そんな人の少ないだだっ広い店内で大声を上げることを自粛したため歓声は控えめになったけれど、感動は押さえきれず、ちょっとだけ声が裏返ってしまった。
それくらい……見事な海鮮丼だった。
マグロ、サーモン、ホタテ、いくら。今朝水揚げされたという白身魚(名前は聞いたけれど覚えられなかった)。つやつやと輝くそれらが白米の見える隙間もないくらいびっしりと敷き詰められている。しっかりとした厚みを持つ刺身の上にはこんもりと盛られた刻みのりと大葉があり、大葉の上には柔らかい若草色のわさびが山となっていた。
「わさび、もりもりついてる!」
「石鈴、わさび、大丈夫だっけ?」
問われ、双葉は大きく頷く。
「うん! めっちゃ好き」
「激辛ラーメンだめなのに?……ってか、ちょっと待て」
淡々としていた声が急に鋭くなる。え、なに、とぎょっとしていると、テーブル越しに手を押さえられた。握りしめていた醤油瓶がするりと抜き取られる。
「いきなり上から醤油かけるやつがあるか」
「え、だって醤油つけないと美味くないだろ」
「じゃなくて。それじゃわさびがしっかり刺身にもしゃりにも行き渡らないだろ」
言いつつ、柊真は双葉の丼上にあるわさびをひょいと箸でつまむ。丼と共についてきた醤油皿にわさびを載せ、そこに醤油をさらさらと流し入れた。
「こうやっておいて、好きな分だけわさびを溶いて上から回しかけて」
「おお〜」
「わさび好きならこれくらい心得ておけよ。わさびが可哀想だから」
心底呆れた口調でたしなめられ、むっとする。が、唇を尖らせながらテーブルの向こうを見てふっと息を呑んだ。
柊真が笑っていた。大笑い、というわけではないけれど、嫌になるほど綺麗に切れた切れ長の目も細められている。
その顔を見て、わかった。
こいつが今、なにを考えているのかが。だって、こいつがこんな顔を見せるのは、あいつの前だけだから。
あいつ、則正の。
則正も双葉同様、世間知らずで常識と言われるようなことに疎いところがあって、柊真に小言をしょっちゅう言われていた。たとえば、定食屋で出てきた味噌汁の蓋が開かなかったとき、無理やり引っ張って開けようとして、零れるから蓋は回しながら開けろ! とか。
ほかにもきっとたくさんある。それを今、こいつは。
「減点」
不意に硬い声が響く。え、と目を瞬かせると、机の向こうにいた柊真は、もう笑っていなかった。
「また則正のこと、考えてた」
「それは……っ」
お前だろ、と口に出そうとしてやめる。なんだかこんなことばかりだ。
息苦しくて仕方ない。やれやれと胸の奥から息を吐きつつ、海鮮丼に箸を入れる。
マグロと白米を一緒に口に運んで……唸った。
「なんかさ」
「なに」
自分の分の海鮮丼にわさび醤油を回しかけていた柊真が気だるげに返事をする。その彼に向かって双葉は興奮気味に身を乗り出してしまった。
「生きててよかったってこういうときに言うんじゃない?」
柊真が眉を顰める。大げさなことを、と言いたげにマグロを箸で掴む。自分と同じものから食す彼を見守っていると、口を動かし終わった柊真が息を吐いた。次いで、そうかも、と素の声が飛び出した。
「めちゃくちゃじわっと来る」
「な」
美味しく食べてもらえるように、そう祈って炊かれたのがわかる、粒ひとつずつに旨みが閉じ込められた白米。その白米と寄り添うマグロの滑らかで豊かな舌触り。
別に失恋くらいで死んだりしない。胸が痛かったり、これまでそばにあった笑い声や気配をつい探してしまったりはするけれど、日常なんて放っておけば勝手に過ぎていく。バイトだって講義だってある。時間は有限で、ぼーっとしていられるほど自分達は暇じゃない。
なのに、こういう美味すぎるものを食べると気付いてしまう。
凍結させていた五感がざわざわと呼び覚まされるように。
ああ、思ったよりずっと、自分は弱っていたんだな、と。
こいつもきっとそうだったのだ。
黙々と海鮮丼を食べ進める柊真を窺ってから、双葉はそっと目を伏せる。
誘ってもらってよかったかも、と素直に思えた。
同時に思い出す。
こいつと初めてふたりだけで向かい合って食事を摂ったときのことを。



