恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 三人の関係に変化が生じ始めたのは、旅に出る数か月前。大学二年の秋だった。
 このころからゼミの選択が始まる。三年からのゼミでの活動に向け、ゼミ見学、ゼミ生である先輩へのリサーチ、論文作成、申し込み。慌しくも、大学という場で専門知識をしっかりと吸収できるゼミへの期待を胸に、双葉らもせっせと情報収集に勤しんでいた。
 そしてその情報収集の中で双葉は消沈していた。自分が進みたい方向と、則正が目指す方向が違うらしいことを知ったためだった。
「俺は太田ゼミにしようと思ってて。憲法の成り立ちとか、抱えている問題とか研究したいから」
 目をきらきらさせて則正は言う。そっか、と頷きながら、双葉は唇を噛む。
 自分が法学部に進んだのは、祖母がきっかけだ。祖父が亡くなってからひとりで税金やその他諸手続きをしていた祖母が零していたのを高校時代、聞いたからだった。
「法律ってのは国民を守るためにあるのだろうに、どうしてこう小難しいのかねえ。わからないほうが悪いと言われてもねえ」
 それを聞いて初めて六法全書を本屋で立ち読みしてみた。あまりにも難解、かつ細かすぎて数行拾い読みしただけでげっそりしてしまった。
 そのとき、思ったのだ。祖母のように法律がわからなくて苦しんでいる人はもっといるのではないか、と。
 誰かを助けたいとか救いたいとか、そこまで壮大な願望を抱いたわけではない。けれど知識があればできることもあるのではと感じ、法学部を目指した。特に、今双葉が籍を置いている一ノ瀬大学には、高齢者と法律について研究を行っている石川任三郎(いしかわにんざぶろう)教授がいる。三年になったらその石川が指導をする石川ゼミで学びたい気持ちが入学当時から双葉にはあった。
 とはいえ……めちゃくちゃ悩んだ。
 だって、このころにはとっくに則正のことを、好きだな、と思ってしまっていたから。
 自覚したのは、出会って三か月ほど経ったころだ。なんか焼き物がしたいなーと言い出した則正のために、柊真が企画して行われたたこ焼きパーティーで、双葉も柊真の家を訪れていた。柊真は露骨に嫌な顔をしていたけれど、則正が喜んでいるのを感じたのか、なにも言わず、むかつくくらい手際よくたこ焼きを焼いていた。
「はあ〜、食べたあ」
 ウインナーやら、チーズやら、果てはあんこまで入れてたらふく食べ、すっかり満腹になった則正は、行儀悪く床の上で伸びてしまい、ものの数秒で寝息を立て始めた。
 柊真はそんな則正の様子には慣れっこらしく、淡々と彼の体にタオルケットをかけ、汚れた食器を片付け始めている。手伝わないとまた文句を言われるかな、と立ち上がりかけたが、そこで双葉は動きを止めた。
 正確には、止められた。
 室内に流れるのは柊真が皿を洗う音と、ボリュームを絞ったテレビから聞こえてくる笑い声。
 そのふたつをバックに、則正の手が密やかに双葉の服の裾を掴んでいた。
「今日、めっちゃ楽しかったなあ」
 寝ぼけた声で則正が言う。ああ、うん、とぎくしゃくと頷く双葉の服の裾を離さぬままに、則正がふわっと笑った。
「また、やろうな」
 睡魔に半ば連れていかれた目が眼鏡越しにこちらを見上げる。眠くて、言葉を紡ぐのも本当はちょっと億劫で。でも、今日という日が楽しすぎたから、なにかを残したくて。
 そんな気持ちが詰まった目を見たとたん、唐突に理解した。
 自分はこの目をもっともっと近くで見たかったんだ、と。
 突き動かされるように手を伸ばし、裾に絡む指先を握る。それは眠気に彩られ、心地よい温かさに満ちていた。
「うん。また、絶対」
 あれ以来、双葉にとって則正は前より一層特別になった。とはいえ、則正との距離は友人同士のものでしかないし、則正も双葉がまさか、自分を恋愛対象として見ているなんて思ってもいないはずだ。気付かれないよう、細心の注意を払って接しているのだから当然だ。
 付き合えたら、と望まなかったわけではないけれど、想いを打ち明けた先に幸せな未来を描くには、則正は恋に無頓着すぎた。だから、なにも壊さないように、この今の距離を大切にしようと思ってきた。限りある時間の中で並んで笑えたら、それで充分だった。
 だが、ゼミが違ってしまえば、必然的に共に過ごす時間は減ってしまう。
 さんざん迷ったけれど、双葉は予定通り石川ゼミを選択した。恋で将来の道を捻じ曲げることはやはりどうしてもできなかったから。
 柊真はきっと則正と同じ太田ゼミを選ぶだろうな、という苦い確信はあったが、それを邪魔する気力はさすがになかった。
 双葉の目から見て、柊真は愚かなほどまっすぐに則正を想って見えた。その彼ならば、好きな人と進路、どちらを取るかで悩みはしないだろう。大学だって則正がここに行くと言うからついてきたのに違いない。
 恋に人生を賭けられる柊真のことを、馬鹿じゃねえの、と思う一方で羨ましくて、悔しくて、腹が立った。
 これからも近い距離で則正と一緒にいられる柊真が憎らしかった。むかついて倒れそうだった。
 しかし。
「……は? 秋信も石川ゼミにしたの?」
 ゼミ生が発表になった十二月の半ば。自分と同じ石川ゼミの名簿に「秋信柊真」の名前を見つけた双葉は、普段柊真に向かって張っているシールドをかなぐり捨てて叫んでしまった。
「なんで?」
「……なんでの意味が不明。勉強したいからだけど。ってか、ゼミ見学のとき俺もいたんだし、今更驚くとかどれだけ鈍いの」
 柊真のほうは冷淡な態度を崩さない。あまりに代わり映えしなさすぎてかっとなった。
「てっきり則正追いかけて太田ゼミ選ぶと思った。ここの大学来たのだってそうなんだろ? 中学も高校も一緒って言ってたもんな」
 嫌味たらしく言う。幼馴染という間柄ゆえの濃密な思い出に嫉妬してしまう自分に、心底嫌気が差したが、皮肉は垂れ流され続ける。
「今回もついていけばよかったのに」
「……なに言ってんだ、お前」
 柊真は取り合わず、それきり会話を切り上げてしまう。もっとなにか言ってやろうと口をもぞつかせたが、それを遮るように明るい声が飛び込んできた。
「柊真と双葉、同じゼミなんだ」
 振り返ると則正だった。ああ、うん、と頷きながら笑顔の明度を上げようとして双葉は表情を止めた。
 則正の隣に男が佇んでいた。
 小柄だと自分でも思っている双葉とそれほど身長の変わらない、華奢な男だった。
「ああ、彼さ、同じゼミになった畑中保(はたなかたもつ)。聞いたら結構、講義もかぶっててさ」
「そう、なんだ」
 言われてみれば見覚えがあるような? そっと顔を窺う双葉に、畑中がにこっと笑いかけてくる。
 道端に咲く可憐な白い花みたいな、気弱そうな笑みだった。
 ちょっとだけ、嫌だな、と思った。それがなぜなのかしばらくわからなかった。
 はっきりしたのは……それからひと月後。
 今日、うち来てくれない? と則正から誘われて柊真と一緒に則正の家へ遊びにいった。
 互いの家を行き来することはそれほど珍しくない。みんな実家が遠かったから一人暮らしだったし、鍋とかカレーとか、大鍋で作って食べると食費も浮く。ボードゲームが好きな則正が一緒にゲームをしてくれる仲間を年中求めていることもあって、誘い自体に不自然さはなにも感じなかった。
 ただ……その日の則正は明らかにおかしかった。
「寒いし、シチューにしてみた」
 笑いながらそう言ってはいるけれど、常ならば放っておいても合う視線がまるで合わない。
 一体どうしたのだろう、と気をもみつつも双葉は則正の手作りシチューに舌鼓を打つばかりでいたのだが、柊真は違った。
「で、なに」
 直球で問いがテーブルの上に投げ出され、危うくシチューを噴きそうになった。
 もうちょっと訊き方とかいろいろあるだろうがこの野郎、とテーブルの下で足を蹴ったが柊真は顔色を変えない。見ると、柊真のシチュー皿はすっかり空になっていた。
 自分が食事終わったからって……とまたまた呆れたが、黙って食べ続けられるムードでもなさそうだ。スプーンを置くと、ええと、と則正が俯いた。
「いや、あの、さ。ふたりのこと、俺、親友だって思ってるんだよ」
 たどたどしく言われ、うれしいのに、つきり、と胸が痛んだ。けれど顔に出すわけにはいかない。頬を引き締めて、うん、と頷く。則正は麦茶をとぷとぷとグラスに注ぎながら、ええと、と言葉を探している。
「あの、その親友のふたりには、さ、俺、うまく隠し通せる自信、なくて」
「なに、を?」
 なんとなく嫌な予感はあった。でもその正体が見えない。じりじりするような焦燥感を覚えつつ身を乗り出すと、えと、と呟いてから則正は落ちたがる視線をテーブルから無理やり引っ張り上げるように瞼を上げた。
「お、れ、あの、保とさ、付き合うことになった」
……このとき、胸の内に吹き荒れた感情をどう表現したらいいだろう。
 なんで、とまずは思った。いつだって目の前のことに夢中で、笑顔ばかりで。好きな人への思慕で胸を悩ませている話なんて少しも聞かせてくれなかった。だから恋愛なんて興味ないのかと思っていたのに。
 しかも相手はあいつだ。あの、男。
 なんで男なんだよ、と理不尽な怒りが湧き上がってきた。自分は一言も想いを告げられなかったくせに、則正を、そしてあいつを、責めたくなった。
……相手が女ならまだ、こんな気持ちにならずに済んだのに。
 いろんな声が一気に胸の中で渦巻く。洗濯機に放り込まれたトレーナーみたいに翻弄されて心が一所に落ち着いてくれない。
 どうしよう。どう答えたらいいだろう。なにを言っても非難になってしまいそうで怖い。傷つけたくないのに激情のまま言葉が出てしまいそうで、口も開けない。と、
「そっか」
 隣から声が聞こえた。はっとしてそちらを見ると、まっすぐに則正を見つめる柊真の横顔があった。
 乱されることを知らない、瓶の中に封じ込められた砂みたいな顔だった。
「おめでとう」
 揺れも掠れもない、けれどしっかりと温もりを抱いた声で柊真はそう言った。その様子を見て我に返った。
 そうだ。別に自分は則正と付き合っているわけではない。柊真もまたそうだ。というかそもそも、柊真の普段の態度から則正のことを自分同様、友達以上に想っているのでは、と思い込んで接してきたけれど、柊真が則正への好意を明確に口に出したことは一度もない。
 もしかして俺はものすごく恥ずかしいことをこれまでしていたのでは、と顔を赤らめてから、違う、今はそんなことを気にしている場合じゃない、と双葉は自分を戒めた。
 必死に心を落ち着け、顔を作る。今すべき、則正が求めるであろう、友人の顔を。
「びっくりしたけど……そっか。あの、教えてくれて、あり、がとう」
「ううん」
 やっとこさ声を押し出した双葉に向かい、則正はふるっと首を振る。そうしてからぼそぼそと言葉を続けた。
「その、俺、隠し事、できないし。多分、態度に出ちゃうから。親友にさ、隠し事されるの、俺なら嫌だって思っちゃうし……ううん、違う」
 そこまで言って則正は肩を落とす。黒縁の眼鏡を押し上げ、瞼を乱暴に擦った。
「俺のこと、敬遠しないでほしいって思っちゃって。やっぱり怖くて。保のこと好きで一緒にいたいけど、それを親友に否定されたら嫌で。だから……説明したいって思ったんだ。俺は変わらないって。それ、ちゃんと……」
「否定なんてしない」
 必死に紡がれる言葉を柊真がすっと遮る。断ち切るというよりも、やんわりと巻き取るみたいなやり方だった。
「するわけない。大丈夫だから」
 ふっと柊真の目がこちらを向く。有無を言わせない強い力を感じさせる眼差しに、釣り込まれるようにして頷いていた。
「しないよ。なにも変わらない」
 安心して。
 全部を押し込めて微笑むと、くしゃっと則正の顔が崩れた。
 ありがとう、ありがとう、と滲む則正の声を聞きながら、双葉は唇を吊り上げ続けていた。