その言い方にますます怒りが込み上げてきた。
「悪いだろ! 自由行動しようなんて言ってきやがって!」
「じゃあなんで昨日、則正と電話したりした?」
手首にかかった手に力が込められる。ふっと息を止めると、怒りと悲しみの間の色をした顔が近づけられた。
「聞こえちゃったんだよ。風呂出ようとしたら、『じゃあ、また、則正』って」
「それ……」
瞳を瞬かせると、柊真は唇を一度噛んでから低い声で続けた。
「俺たちは付き合ってるわけでもなんでもない。俺が勝手に好きって言っただけ。だからとやかくなんて言えない。けど、俺はショックだった。しかもさ、お前、夜中に誰かとスマホでメッセージやり取りしてなかった?」
手首に絡んでいた柊真の指がすうっと解ける。
「お前がスマホ見てる気配感じながら背中向けて寝るの……俺は、きつくて。だから」
「違う……あ、いや、まあ、違わない、から、ごめんだけど」
激しく首を振ってから双葉は目を伏せる。
朝からの態度の理由がわかったとたん、申し訳なさと……どうしようもない胸の疼きを覚えて苦しくなった。
「電話の件はごめん。確かにした。っていうか、かかってきた。則正から。だから切ろうとした」
「は? 切ろうとした?」
「うん。だって、俺も思ったから。則正にだけはこの旅に関わってほしくないって」
「だったらどうして電話に出た? 出てたよな」
問い詰める口調ではなかった。穏やかに、けれど奥に無数のひび割れがある声音で柊真が言う。双葉は足元を見つめながら頷いた。
「出た。最初は切ろうとしたよ。でも、同じことをされたら俺だったら嫌だなと思い直して、出て一言だけ謝ることにした。相手が則正だからとかじゃなくて、誰が相手でもそうじゃないかなって思ったから。だから出て、正直に言った。今、大事な人と一緒にいるから話せない、ごめんって」
ふっと柊真の目が大きくなる。
その顔を見ていられない。心臓は早鐘を打ち、足元もなんだかふわふわする。それでも必死に自分を叱咤してポケットを探る。取り出したスマホを震える手で操作した。
「そしたら、後からメッセージがきた。則正から」
言いながら双葉はそれを柊真に差し出す。目だけで見るよう促すと、躊躇いがちに柊真が受け取る。手から手へ移るとき、ぶらん、と水色の貝が揺れた。
――さっきは電話してごめんな。飲み会、双葉も来れたらって思ったからさー。ってか、ちょっとさっきの電話で気になることあって。少し、訊いていい?
――大事な人って、もしかして柊真だったりする?
昨夜、こう則正に問われて、どうしようかと悩んだ。なにも言わないこともできた。でも……やっぱり、ちゃんと言いたかった。
だから、短く、返事を送った。
――うん。そう。
柊真の目がその答えも見ているだろうことがわかる。顔全体が熱を持つ。でも双葉は黙って立ち続けた。彼の顔を見つめたまま。
彼の指がすっと画面をスクロールした。
――やっぱりそうだったんだ。いきなりごめん。ただ、うん、ちょっとだけ、話、させて。
――俺ね、今日、あいつにも電話したんだ。そしたらあいつ、今、旅行中って言ってて。ひとり旅だとは言ってたけど、なんか、電話切るときの感じがおかしくて。とにかく慌ててるみたいだったから要件だけさくっと伝えたんだ。『春休み、柊真は実家帰る? あっちでみんなで遊ぼうと思うんだけど』って。そしたらあいつに言われた。
――今年は帰らない。そばにいたい人がいるからって。
「あいつ……なんでこんなこと言っちゃうかな」
柊真が呟く。その頬がいつもの彼にはない赤味を帯びているのを見ながら、双葉はそうっと促した。
「続きも、見てみて」
すうっと柊真の指が画面を滑る。それが、怖かった。この先にある文章を見て、彼はどう思うのか。聞きたくて、聞きたくなくて。
でも、逃げたくないと思った。
――びっくりした。あいつがそういうこと言うの、初めてだったから。けど、聞いてすぐ双葉の顔が頭に浮かんだ。
――気付いてないかもだけどさ、お前たち、ふたりでいるときすっごくいきいきしてるんだよ。俺なんかが間に入り込めないくらい。俺、それ、羨ましいなってずっと思ってた。
だから……保と付き合い始めたとき、変わらないでってお前らには言ったくせに、距離置いちゃったんだ。一緒にいたらますます疎外感味わいそうって思っちゃって。お前らがそんなことするわけないのにさ。嫌な思いさせたよな。ほんと、ごめん。
――もうここまで話したからぶっちゃけちゃうけど、俺、ね、双葉のこと、好きだなって思ってた時期あったんだ。でも諦めた。だってさ、お前らすっごく仲いいんだもん。なんでも言い合えて、いつも楽しそうで。俺にはそんな顔見せてくれないのになって。あ、いや、今は違うよ? 友達だってちゃんと思ってる。ただ、今、これ言ったのは……柊真のこと、双葉になら任せられるって思ったから。
――柊真って、イケメンのくせに、愛想ないし、きついこと言うし。正直、子どものころからずっとはらはらして見てた。俺いないとこいつ孤立するかもとか思っちゃって。でも、双葉なら柊真のこと、わかってくれるって思った。俺、双葉のこと見てたから、それはね、なんかわかるんだ。
――今日、ふたりそれぞれの気持ち聞けてうれしかった。あのさ、双葉。
――柊真のこと、よろしくな。
「あいつ、なにを偉そうに……。俺はそんなんじゃないってのに」
柊真がぼやく。少し、声が揺れている。その彼の手からスマホを抜き取り、ポケットに収めると、双葉は彼に気付かれぬように息を整えてから声を押し出した。
「あの……これ見たうえで訊きたくて」
「なにを」
柊真がつっけんどんに問い返してくる。照れているのかまだ顔に朱は差したままだ。その彼の前で目を伏せた。
手が、足が、震えた。
「則正のこと、今、どう、思って、る?」
「……は?」
マリアナ海溝よりなお深い谷の底から湧いてきたような声が正面から来る。怯みながらも、双葉は自分の爪先をひたすら睨む。
「則正はお前のこと、すごく大事に思ってる。すごく心配して、すごく気にかけてる。畑中と付き合っている今だってそれは変わらない。こんな則正のこと、お前は……」
全部言う前に腕に痛みを覚えた。目を上げると、柊真の右手が二の腕に絡みついていた。
「それ言うなら、俺だって訊きたい」
「なに、を?」
「なにを? お前の目は節穴か」
吐き捨てられ、かっとなった。
「なんだよ、その言い方!」
「節穴だろうが。お前、則正からのメッセ、ちゃんと読んだ? 則正はお前のこと、好きだったって言ってるんだ。それ、どう思うわけ」
「え、いや、それは、びっくりは、したけど。でも今は違うって言ってるじゃん。則正には畑中だっているし。そんなことより則正が心配しているのはお前のことだよ。過去じゃない。今、心配してる。そっちのほうが重い」
「重くて? じゃあ、なに? どうしろって? お前は俺が則正をまだ想い続けていていいって思ってるってことか?」
「そんなの!」
怒鳴ったところで続ける言葉を見失った。狼狽える双葉を柊真はぎらぎらした目で睨み下ろしてくる。
「そんなの、なに?」
「そんなの……あの、言わなくても、わかるだろ」
「わからない」
許さない、と柊真の目が言っている。その怒りがどこから来るのか想像したら、くらりとした。
たたらを踏んで川に落ちそうになる。驚いたように柊真が手に力を込め、引き戻すようにして支えてくる。腕が少し痛いな、と思ったけれど、痛みと共に熱さがじわりと服越しに沁みて、またくらくらした。
いつからとか、どのタイミングとか、はっきり言葉になんてできない。
ただ気が付いたらそうだった。気が付いたら彼の笑顔を探していた。触れる手の感触に胸を高鳴らせていた。
一時も同じ形で流れてはくれない時間を、目の前に広がる世界の美しさを、一緒に見たいと思ってしまっていた。
それは多分、全部、ひとつの想いから染み出してくる感情だ。そして自分はその想いを示す言葉を知っている。それを目の前の彼が心から聞きたいと望んでくれていることも。
「お、れ……」
ひくつく声を捻り出し、自由な片手で目元を覆う。じりり、と瞼が再び熱くなる。溢れてくる。それを押し隠しながら双葉は続けた。
「お前のこと、嫌い、だった。ずっと邪魔だって思ってた。でも則正と畑中が付き合って、ああ、ひとりだなって思ったとき、お前だけはそばにいてくれて。それにすごく、救われて」
柊真はなにも言わない。双葉は肩をそっと上下させて息を吸う。
「でも、恋、じゃなかったんだ。傷舐め合うみたいだなって思ってた。お前のこと、もう嫌いではなかったけど、好き、とかではなかった。寂しかったからそばにいたんだと思う。なのに」
ああ、自分はこんなに涙もろかったろうか。しかもこの涙の意味が自分にはわからない。悲しいわけじゃない。悔しいわけでも。なのに、涙が出てしまう。
「あのとき、則正からお前に電話、かかってきたとき、思った。お前のこと渡したくないって。則正にも、誰にも。俺、だって、俺」
しゃくりあげてしまう。どうしようもなく震えてしまう。必死に声を平板に保とうとしながら、それも叶わずひたすら声を絞り出す。
「好き、になってた、から。お前、のこと。好きで。だから……則正のこと、本当はもう……考えてほしくなく、て。だから」
いきなり顔を覆っていた手を剝がされた。
そのまま荒っぽい腕に引き込まれるように大きな胸の中に閉じ込められる。
「俺、お前の涙はやっぱり嫌だ」
双葉の後ろ頭に手を触れながら柊真が言う。そうっとそうっと大切に守るような手の動きにかえって涙腺が刺激された。きゅっと彼の上着の腰のあたりを握りしめて双葉は彼の肩に瞼を押し当てる。
「泣いて、ない」
「うそつけ」
言いながら柊真が双葉の肩を胸から離す。次いで、長い指先が頬を辿る感触が落ちてきた。そうされて初めて知った。
愛しくて、出ちゃう涙があるのだということを。
それを悟ったらますます涙が止まらなくなった。うう、と呻くとまた腕が引かれて抱きしめられた。
自分がこんなに泣き虫だったなんて知らなかった。でもそれを知っているのは目の前の彼だけだ。彼だけがこんな弱い自分を受け止めてくれる。それが……うれしい。
「安心してるとこ悪いけど」
温もりに包まれて吐息を漏らす。火照った頬を彼の肩に預けていたが、涙が引き始めたところで曇った声で突然囁かれた。
「俺は怒ってるから」
「え、あの、なに?」
ぎょっとして身を起こそうとすると、後ろ頭に柊真の手が置かれた。離れられないように掌に力を込めた彼が耳元で言う。
「俺、言ったのに。お前のこと、好きって。なのに則正のことをどう思ってるかまだ訊いてくるとか。ほんと無神経」
「そ、そんなの! お前だってそうだろ? 俺に同じこと訊いてきたじゃん。さすがにどうかと思う」
「訊くだろ。だって俺は見てきたんだから。則正だけを見てたお前を……なあ、石鈴」
そこまで強気だった声が不意に掠れた。
「俺のこと、則正見てたみたいに見られる? あんなふうに想って、くれる?」
「お前さあ……」
問われてむっとした。自分の気持ちを疑われたようで納得がいかなかった。けれど……触れ合った肩先に走る震えを感じたら怒りは簡単に引っ込んだ。
同じだと思ったからだ。自分だってそうだったから。柊真が則正を見つめていた長い時間に自分たちのこの数日は太刀打ちできるのかと。
彼の不安は、自分の中にあるものと同じ色をしていた。
彼の心の内から憂いを全部消してやるためになにを言えばいいのだろう。なにを言えばわかってもらえる? 考えて考えて……思いついた。
「あき、のぶ」
これが正解なのかなんて知らない。でも今の自分からはこれしか出てこない。
だから、言った。則正には言ったことがなく、これからも絶対に言わない台詞を。
それどころか、人生で初めて口にする言葉を彼だけに告げた。
「キ、キス、してほしい」
「え」
本気で驚いたのか、柊真の体がぴくり、と痙攣する。そうされて羞恥と憤りで声が裏返った。
「そんなに変なこと言った?」
「言ってないけど。いいのか?」
「いいって? だって、し、したいって言ってたよな。その、好きな相手には手、出したいって、あの、昨日」
「それはまあ。でも……気遣って言ってない?」
「……もういい」
恥ずかしいのをこらえて言ったのにこいつと来たら、気遣ってないか、と来た。
「お前にだから言ったのに」
もう知らない、と拗ねて双葉は柊真の腕の中から抜け出そうと密着していた胸を押し返す。が、きゅっと強い力で抱きすくめられてそれ以上暴れられなくなった。
なんだよ、と憤る双葉の耳のそばで、ごめん、と低い声が詫びる。そして。
「双葉」
謝ったって許してやらない。そう言いたかったのに、突然名前で呼ばれて言えなくなった。その双葉の耳朶に囁きが沁み込んでいく。
「キス、させて」
「だから……」
いいって言ってる、と反射的に言い返そうとした。けれど可愛げのない態度を取り続けることを躊躇わせるくらいの真剣な声音に、言いたかった文句が全部頭から吹っ飛んでしまった。
「……しよう?」
気が付くと吐息めいた声でそう返していた。
腕が緩み、そうっと体が引き剥がされる。そろそろと見上げた先で、ふうっと柊真の顔が解けた。
その笑顔にずきりと痛むくらい胸が高鳴った。俯きそうになる。それを阻もうとするように上気した頬に手が触れられた。くい、と顎を上げられ、顔が近づく。
「好き」
吐息の届く距離で囁かれた声に答える前に唇が重ねられた……触れたら散ってしまう花弁に口づけるような、優しい触れ方で。
俺はそんな脆いものじゃないのに、と唇を塞がれながら思った。でも、自身の中から響いてくる鼓動で本当に崩れちゃいそうな気も、した。
救いを求めるように彼の服の裾を掴む双葉の瞳を覗き込むのは、底が見えない深い瞳。
間近く自分を映すその瞳を見たら不安は……消えた。代わりに浮かんだのは、願望。
このままこの深い色に囚われて溶けちゃえたらいいな、という陶酔にも似た願い。
だってそうしたらずっと離れられずにいられるから。見交わしたお互いの瞳に同じ人が映っていた過去を、こうしていればふたりで越えていけると信じられるから。
だから、まだ、解けないでほしい。
もう少しだけ。
祈りながら、自分だけを映してくれる彼の目の中を、ひたすら覗き続けた。彼の瞳の色と柔らかく唇を包んでくれる温もりだけを感じていた。
でも。
……ああ、だめだ。
……解ける。嫌だ。離れたくない。
頭の芯が痺れるほどそう思ったとき、すうっと唇が遠ざかった。
本気で、その時間が、憎かった。
「もう……」
視界を確かめるように数度瞬きをすると、キスの距離とそれほど変わらぬ近さで柊真が呟いた。至近距離で今一度瞳を交わしたところで背筋を正し、咳払いする。
「旅の最終日にしてこれは非常事態だと思う」
「な、なにが?」
上ずった声で問う双葉にちらっと視線を投げた柊真は、睫毛の下で目を彷徨わせてから覚悟を決めたようにこちらをまっすぐに見つめてきた。
「帰りたくない。もっと一緒にいたい」
「それは……」
言われて頬が一気に紅潮した。まったくもう、ストレートすぎる。
けれど正直、同じ気持ちだった。だからそっと笑んで目の前の彼の手に手を伸ばした。
「俺も」
触れた手はしかし、掬い取られるように逆に握られる。強い手の力に、口づけさえ交わした後だというのにどきっと胸が甘く鼓動を刻んだ。
「逃げちゃおうか。学校もバイトも捨てて。このまま」
そんな真顔で言われると、そうだね、と頷いて逃避行したくなる。けれどそんなわけにはもちろんいかない。
「だめ」
首を振ると柊真が眉を寄せる。不満顔を隠しもしない彼に愛おしさが込み上げてきた。やっぱりもっと旅をしようと言いたくなる自分を双葉は必死に抑える。
「俺、もっといろいろ秋信と話したいから。大学でもそうだし、その、カレー鍋以外のお前の飯も食いたい。それ、に」
「それに?」
両想いってやつになったのに、いやなったからなのか、心音は速いままだ。自分のものなのに制御できない命のポンプに手を焼きながら双葉は呟く。
「また旅をしたい。傷心旅行じゃなくて、ふたりで楽しむためだけの、旅行」
「……うん」
柊真が笑った。穏やかに柔らかく。好きで仕方ないという顔でこちらを見下ろした彼が、双葉の頬にそっと手を触れた。
「行こう。絶対。約束」
「うん」
頬を染めたと同時に、くう、と小さな音が響いた。あ、と顔をますます赤くすると、柊真は目を細めて笑い、双葉の頭を撫でた。
「気になってた。朝、あんまり食べてないみたいだったから、腹、大丈夫かなって」
「しょうがないだろ。お前が全然口利いてくれないから」
「……それで食べられなかった?」
「悪いか」
言うと、柊真が双葉の頭から離した手で口許を覆う。その手の向こうから、ああもう、とくぐもった声が漏れた。
「やっと帰る気になったのに帰りたくなくなる。なんでそんな可愛いの」
「腹鳴らしてるとこのどこが可愛いんだよ」
「腹鳴らしてるとこっていうか……。いや、まあそれも可愛いけど。好きなものなんでも食べさせてやりたくなる」
「……イセエビでも?」
「もちろん。今から漁に出たっていい」
こんな冗談を言うやつだったろうか。こらえきれず笑い出すと、柊真も肩を震わせた。彼の手が双葉の手をぐいと掴む。するりと指が絡められた。
さらっと恋人繋ぎをされてまたどきっとしてしまう。照れ臭くて彼から顔を背けると、尻込みするように手から力が抜けた。
「こうやって繋いで、いい?」
訊く前に繋いでんじゃねえよ、とこれまでだったら高飛車に言っていたと思う。けれど今はもう、そんなこと言いたくない。
返事の代わりにすがりつくような強さで指に力を込めて繋ぎ止めると、安堵したみたいに同じ力が返ってきた。しばらくそうしてから、ぼそり、と柊真が言う。
「帰りたくないけど……伊勢うどん食べて、帰ろうか」
「……うん」
そうだ。帰らねば。
わかっていたから頷いた。でも彼の、帰ろうか、を聞いたら無性に寂しくなった。歩き出す彼を引き止めたくなる自分を抑えながら足だけを必死に動かしていたとき、柊真の上着のポケットから覗く水色の貝殻が目に飛び込んできた。
揺れるそれを見ていたら……じんと胸が痺れた。
「秋信」
柊真が小首を傾げてこちらを見る。その彼に双葉は微笑んだ。
精一杯柔らかく見えるように。この想いが伝わるように、そう願いながら。
「連れてきてくれて、ありがとう」
……これからもそばにいて。
柊真の目がすうっと見開かれる。声にしなかった想いも確かに受け取られたことがわかる笑顔をこちらに向けてから、柊真は囁いた。
「こちらこそ」
大きな彼の手に手を取られ、歩く。
この旅は終わるけれど、きっとまた新たな旅が始まる。何度でも。
だから、行こう。一緒に、どこまでも。
行こう。
そうっと想いを込めて今一度握りしめたとき、背後で水音が響いた。
「あ、鳥がいる」
名前も知らぬ白い鳥が川面すれすれを滑空していた。そのまま風に掬い上げられるようにして上昇する。
「あ」
鳥の向かうその先にいたのは、もう一羽の白い鳥。
二羽の鳥がお互いを気遣うように寄り添って青い空で羽ばたく。その彼らの姿を並んで見上げた。
夫婦岩でそうしたように、ふたり、手を繋いで見上げ続けていた。
―――了―――
「悪いだろ! 自由行動しようなんて言ってきやがって!」
「じゃあなんで昨日、則正と電話したりした?」
手首にかかった手に力が込められる。ふっと息を止めると、怒りと悲しみの間の色をした顔が近づけられた。
「聞こえちゃったんだよ。風呂出ようとしたら、『じゃあ、また、則正』って」
「それ……」
瞳を瞬かせると、柊真は唇を一度噛んでから低い声で続けた。
「俺たちは付き合ってるわけでもなんでもない。俺が勝手に好きって言っただけ。だからとやかくなんて言えない。けど、俺はショックだった。しかもさ、お前、夜中に誰かとスマホでメッセージやり取りしてなかった?」
手首に絡んでいた柊真の指がすうっと解ける。
「お前がスマホ見てる気配感じながら背中向けて寝るの……俺は、きつくて。だから」
「違う……あ、いや、まあ、違わない、から、ごめんだけど」
激しく首を振ってから双葉は目を伏せる。
朝からの態度の理由がわかったとたん、申し訳なさと……どうしようもない胸の疼きを覚えて苦しくなった。
「電話の件はごめん。確かにした。っていうか、かかってきた。則正から。だから切ろうとした」
「は? 切ろうとした?」
「うん。だって、俺も思ったから。則正にだけはこの旅に関わってほしくないって」
「だったらどうして電話に出た? 出てたよな」
問い詰める口調ではなかった。穏やかに、けれど奥に無数のひび割れがある声音で柊真が言う。双葉は足元を見つめながら頷いた。
「出た。最初は切ろうとしたよ。でも、同じことをされたら俺だったら嫌だなと思い直して、出て一言だけ謝ることにした。相手が則正だからとかじゃなくて、誰が相手でもそうじゃないかなって思ったから。だから出て、正直に言った。今、大事な人と一緒にいるから話せない、ごめんって」
ふっと柊真の目が大きくなる。
その顔を見ていられない。心臓は早鐘を打ち、足元もなんだかふわふわする。それでも必死に自分を叱咤してポケットを探る。取り出したスマホを震える手で操作した。
「そしたら、後からメッセージがきた。則正から」
言いながら双葉はそれを柊真に差し出す。目だけで見るよう促すと、躊躇いがちに柊真が受け取る。手から手へ移るとき、ぶらん、と水色の貝が揺れた。
――さっきは電話してごめんな。飲み会、双葉も来れたらって思ったからさー。ってか、ちょっとさっきの電話で気になることあって。少し、訊いていい?
――大事な人って、もしかして柊真だったりする?
昨夜、こう則正に問われて、どうしようかと悩んだ。なにも言わないこともできた。でも……やっぱり、ちゃんと言いたかった。
だから、短く、返事を送った。
――うん。そう。
柊真の目がその答えも見ているだろうことがわかる。顔全体が熱を持つ。でも双葉は黙って立ち続けた。彼の顔を見つめたまま。
彼の指がすっと画面をスクロールした。
――やっぱりそうだったんだ。いきなりごめん。ただ、うん、ちょっとだけ、話、させて。
――俺ね、今日、あいつにも電話したんだ。そしたらあいつ、今、旅行中って言ってて。ひとり旅だとは言ってたけど、なんか、電話切るときの感じがおかしくて。とにかく慌ててるみたいだったから要件だけさくっと伝えたんだ。『春休み、柊真は実家帰る? あっちでみんなで遊ぼうと思うんだけど』って。そしたらあいつに言われた。
――今年は帰らない。そばにいたい人がいるからって。
「あいつ……なんでこんなこと言っちゃうかな」
柊真が呟く。その頬がいつもの彼にはない赤味を帯びているのを見ながら、双葉はそうっと促した。
「続きも、見てみて」
すうっと柊真の指が画面を滑る。それが、怖かった。この先にある文章を見て、彼はどう思うのか。聞きたくて、聞きたくなくて。
でも、逃げたくないと思った。
――びっくりした。あいつがそういうこと言うの、初めてだったから。けど、聞いてすぐ双葉の顔が頭に浮かんだ。
――気付いてないかもだけどさ、お前たち、ふたりでいるときすっごくいきいきしてるんだよ。俺なんかが間に入り込めないくらい。俺、それ、羨ましいなってずっと思ってた。
だから……保と付き合い始めたとき、変わらないでってお前らには言ったくせに、距離置いちゃったんだ。一緒にいたらますます疎外感味わいそうって思っちゃって。お前らがそんなことするわけないのにさ。嫌な思いさせたよな。ほんと、ごめん。
――もうここまで話したからぶっちゃけちゃうけど、俺、ね、双葉のこと、好きだなって思ってた時期あったんだ。でも諦めた。だってさ、お前らすっごく仲いいんだもん。なんでも言い合えて、いつも楽しそうで。俺にはそんな顔見せてくれないのになって。あ、いや、今は違うよ? 友達だってちゃんと思ってる。ただ、今、これ言ったのは……柊真のこと、双葉になら任せられるって思ったから。
――柊真って、イケメンのくせに、愛想ないし、きついこと言うし。正直、子どものころからずっとはらはらして見てた。俺いないとこいつ孤立するかもとか思っちゃって。でも、双葉なら柊真のこと、わかってくれるって思った。俺、双葉のこと見てたから、それはね、なんかわかるんだ。
――今日、ふたりそれぞれの気持ち聞けてうれしかった。あのさ、双葉。
――柊真のこと、よろしくな。
「あいつ、なにを偉そうに……。俺はそんなんじゃないってのに」
柊真がぼやく。少し、声が揺れている。その彼の手からスマホを抜き取り、ポケットに収めると、双葉は彼に気付かれぬように息を整えてから声を押し出した。
「あの……これ見たうえで訊きたくて」
「なにを」
柊真がつっけんどんに問い返してくる。照れているのかまだ顔に朱は差したままだ。その彼の前で目を伏せた。
手が、足が、震えた。
「則正のこと、今、どう、思って、る?」
「……は?」
マリアナ海溝よりなお深い谷の底から湧いてきたような声が正面から来る。怯みながらも、双葉は自分の爪先をひたすら睨む。
「則正はお前のこと、すごく大事に思ってる。すごく心配して、すごく気にかけてる。畑中と付き合っている今だってそれは変わらない。こんな則正のこと、お前は……」
全部言う前に腕に痛みを覚えた。目を上げると、柊真の右手が二の腕に絡みついていた。
「それ言うなら、俺だって訊きたい」
「なに、を?」
「なにを? お前の目は節穴か」
吐き捨てられ、かっとなった。
「なんだよ、その言い方!」
「節穴だろうが。お前、則正からのメッセ、ちゃんと読んだ? 則正はお前のこと、好きだったって言ってるんだ。それ、どう思うわけ」
「え、いや、それは、びっくりは、したけど。でも今は違うって言ってるじゃん。則正には畑中だっているし。そんなことより則正が心配しているのはお前のことだよ。過去じゃない。今、心配してる。そっちのほうが重い」
「重くて? じゃあ、なに? どうしろって? お前は俺が則正をまだ想い続けていていいって思ってるってことか?」
「そんなの!」
怒鳴ったところで続ける言葉を見失った。狼狽える双葉を柊真はぎらぎらした目で睨み下ろしてくる。
「そんなの、なに?」
「そんなの……あの、言わなくても、わかるだろ」
「わからない」
許さない、と柊真の目が言っている。その怒りがどこから来るのか想像したら、くらりとした。
たたらを踏んで川に落ちそうになる。驚いたように柊真が手に力を込め、引き戻すようにして支えてくる。腕が少し痛いな、と思ったけれど、痛みと共に熱さがじわりと服越しに沁みて、またくらくらした。
いつからとか、どのタイミングとか、はっきり言葉になんてできない。
ただ気が付いたらそうだった。気が付いたら彼の笑顔を探していた。触れる手の感触に胸を高鳴らせていた。
一時も同じ形で流れてはくれない時間を、目の前に広がる世界の美しさを、一緒に見たいと思ってしまっていた。
それは多分、全部、ひとつの想いから染み出してくる感情だ。そして自分はその想いを示す言葉を知っている。それを目の前の彼が心から聞きたいと望んでくれていることも。
「お、れ……」
ひくつく声を捻り出し、自由な片手で目元を覆う。じりり、と瞼が再び熱くなる。溢れてくる。それを押し隠しながら双葉は続けた。
「お前のこと、嫌い、だった。ずっと邪魔だって思ってた。でも則正と畑中が付き合って、ああ、ひとりだなって思ったとき、お前だけはそばにいてくれて。それにすごく、救われて」
柊真はなにも言わない。双葉は肩をそっと上下させて息を吸う。
「でも、恋、じゃなかったんだ。傷舐め合うみたいだなって思ってた。お前のこと、もう嫌いではなかったけど、好き、とかではなかった。寂しかったからそばにいたんだと思う。なのに」
ああ、自分はこんなに涙もろかったろうか。しかもこの涙の意味が自分にはわからない。悲しいわけじゃない。悔しいわけでも。なのに、涙が出てしまう。
「あのとき、則正からお前に電話、かかってきたとき、思った。お前のこと渡したくないって。則正にも、誰にも。俺、だって、俺」
しゃくりあげてしまう。どうしようもなく震えてしまう。必死に声を平板に保とうとしながら、それも叶わずひたすら声を絞り出す。
「好き、になってた、から。お前、のこと。好きで。だから……則正のこと、本当はもう……考えてほしくなく、て。だから」
いきなり顔を覆っていた手を剝がされた。
そのまま荒っぽい腕に引き込まれるように大きな胸の中に閉じ込められる。
「俺、お前の涙はやっぱり嫌だ」
双葉の後ろ頭に手を触れながら柊真が言う。そうっとそうっと大切に守るような手の動きにかえって涙腺が刺激された。きゅっと彼の上着の腰のあたりを握りしめて双葉は彼の肩に瞼を押し当てる。
「泣いて、ない」
「うそつけ」
言いながら柊真が双葉の肩を胸から離す。次いで、長い指先が頬を辿る感触が落ちてきた。そうされて初めて知った。
愛しくて、出ちゃう涙があるのだということを。
それを悟ったらますます涙が止まらなくなった。うう、と呻くとまた腕が引かれて抱きしめられた。
自分がこんなに泣き虫だったなんて知らなかった。でもそれを知っているのは目の前の彼だけだ。彼だけがこんな弱い自分を受け止めてくれる。それが……うれしい。
「安心してるとこ悪いけど」
温もりに包まれて吐息を漏らす。火照った頬を彼の肩に預けていたが、涙が引き始めたところで曇った声で突然囁かれた。
「俺は怒ってるから」
「え、あの、なに?」
ぎょっとして身を起こそうとすると、後ろ頭に柊真の手が置かれた。離れられないように掌に力を込めた彼が耳元で言う。
「俺、言ったのに。お前のこと、好きって。なのに則正のことをどう思ってるかまだ訊いてくるとか。ほんと無神経」
「そ、そんなの! お前だってそうだろ? 俺に同じこと訊いてきたじゃん。さすがにどうかと思う」
「訊くだろ。だって俺は見てきたんだから。則正だけを見てたお前を……なあ、石鈴」
そこまで強気だった声が不意に掠れた。
「俺のこと、則正見てたみたいに見られる? あんなふうに想って、くれる?」
「お前さあ……」
問われてむっとした。自分の気持ちを疑われたようで納得がいかなかった。けれど……触れ合った肩先に走る震えを感じたら怒りは簡単に引っ込んだ。
同じだと思ったからだ。自分だってそうだったから。柊真が則正を見つめていた長い時間に自分たちのこの数日は太刀打ちできるのかと。
彼の不安は、自分の中にあるものと同じ色をしていた。
彼の心の内から憂いを全部消してやるためになにを言えばいいのだろう。なにを言えばわかってもらえる? 考えて考えて……思いついた。
「あき、のぶ」
これが正解なのかなんて知らない。でも今の自分からはこれしか出てこない。
だから、言った。則正には言ったことがなく、これからも絶対に言わない台詞を。
それどころか、人生で初めて口にする言葉を彼だけに告げた。
「キ、キス、してほしい」
「え」
本気で驚いたのか、柊真の体がぴくり、と痙攣する。そうされて羞恥と憤りで声が裏返った。
「そんなに変なこと言った?」
「言ってないけど。いいのか?」
「いいって? だって、し、したいって言ってたよな。その、好きな相手には手、出したいって、あの、昨日」
「それはまあ。でも……気遣って言ってない?」
「……もういい」
恥ずかしいのをこらえて言ったのにこいつと来たら、気遣ってないか、と来た。
「お前にだから言ったのに」
もう知らない、と拗ねて双葉は柊真の腕の中から抜け出そうと密着していた胸を押し返す。が、きゅっと強い力で抱きすくめられてそれ以上暴れられなくなった。
なんだよ、と憤る双葉の耳のそばで、ごめん、と低い声が詫びる。そして。
「双葉」
謝ったって許してやらない。そう言いたかったのに、突然名前で呼ばれて言えなくなった。その双葉の耳朶に囁きが沁み込んでいく。
「キス、させて」
「だから……」
いいって言ってる、と反射的に言い返そうとした。けれど可愛げのない態度を取り続けることを躊躇わせるくらいの真剣な声音に、言いたかった文句が全部頭から吹っ飛んでしまった。
「……しよう?」
気が付くと吐息めいた声でそう返していた。
腕が緩み、そうっと体が引き剥がされる。そろそろと見上げた先で、ふうっと柊真の顔が解けた。
その笑顔にずきりと痛むくらい胸が高鳴った。俯きそうになる。それを阻もうとするように上気した頬に手が触れられた。くい、と顎を上げられ、顔が近づく。
「好き」
吐息の届く距離で囁かれた声に答える前に唇が重ねられた……触れたら散ってしまう花弁に口づけるような、優しい触れ方で。
俺はそんな脆いものじゃないのに、と唇を塞がれながら思った。でも、自身の中から響いてくる鼓動で本当に崩れちゃいそうな気も、した。
救いを求めるように彼の服の裾を掴む双葉の瞳を覗き込むのは、底が見えない深い瞳。
間近く自分を映すその瞳を見たら不安は……消えた。代わりに浮かんだのは、願望。
このままこの深い色に囚われて溶けちゃえたらいいな、という陶酔にも似た願い。
だってそうしたらずっと離れられずにいられるから。見交わしたお互いの瞳に同じ人が映っていた過去を、こうしていればふたりで越えていけると信じられるから。
だから、まだ、解けないでほしい。
もう少しだけ。
祈りながら、自分だけを映してくれる彼の目の中を、ひたすら覗き続けた。彼の瞳の色と柔らかく唇を包んでくれる温もりだけを感じていた。
でも。
……ああ、だめだ。
……解ける。嫌だ。離れたくない。
頭の芯が痺れるほどそう思ったとき、すうっと唇が遠ざかった。
本気で、その時間が、憎かった。
「もう……」
視界を確かめるように数度瞬きをすると、キスの距離とそれほど変わらぬ近さで柊真が呟いた。至近距離で今一度瞳を交わしたところで背筋を正し、咳払いする。
「旅の最終日にしてこれは非常事態だと思う」
「な、なにが?」
上ずった声で問う双葉にちらっと視線を投げた柊真は、睫毛の下で目を彷徨わせてから覚悟を決めたようにこちらをまっすぐに見つめてきた。
「帰りたくない。もっと一緒にいたい」
「それは……」
言われて頬が一気に紅潮した。まったくもう、ストレートすぎる。
けれど正直、同じ気持ちだった。だからそっと笑んで目の前の彼の手に手を伸ばした。
「俺も」
触れた手はしかし、掬い取られるように逆に握られる。強い手の力に、口づけさえ交わした後だというのにどきっと胸が甘く鼓動を刻んだ。
「逃げちゃおうか。学校もバイトも捨てて。このまま」
そんな真顔で言われると、そうだね、と頷いて逃避行したくなる。けれどそんなわけにはもちろんいかない。
「だめ」
首を振ると柊真が眉を寄せる。不満顔を隠しもしない彼に愛おしさが込み上げてきた。やっぱりもっと旅をしようと言いたくなる自分を双葉は必死に抑える。
「俺、もっといろいろ秋信と話したいから。大学でもそうだし、その、カレー鍋以外のお前の飯も食いたい。それ、に」
「それに?」
両想いってやつになったのに、いやなったからなのか、心音は速いままだ。自分のものなのに制御できない命のポンプに手を焼きながら双葉は呟く。
「また旅をしたい。傷心旅行じゃなくて、ふたりで楽しむためだけの、旅行」
「……うん」
柊真が笑った。穏やかに柔らかく。好きで仕方ないという顔でこちらを見下ろした彼が、双葉の頬にそっと手を触れた。
「行こう。絶対。約束」
「うん」
頬を染めたと同時に、くう、と小さな音が響いた。あ、と顔をますます赤くすると、柊真は目を細めて笑い、双葉の頭を撫でた。
「気になってた。朝、あんまり食べてないみたいだったから、腹、大丈夫かなって」
「しょうがないだろ。お前が全然口利いてくれないから」
「……それで食べられなかった?」
「悪いか」
言うと、柊真が双葉の頭から離した手で口許を覆う。その手の向こうから、ああもう、とくぐもった声が漏れた。
「やっと帰る気になったのに帰りたくなくなる。なんでそんな可愛いの」
「腹鳴らしてるとこのどこが可愛いんだよ」
「腹鳴らしてるとこっていうか……。いや、まあそれも可愛いけど。好きなものなんでも食べさせてやりたくなる」
「……イセエビでも?」
「もちろん。今から漁に出たっていい」
こんな冗談を言うやつだったろうか。こらえきれず笑い出すと、柊真も肩を震わせた。彼の手が双葉の手をぐいと掴む。するりと指が絡められた。
さらっと恋人繋ぎをされてまたどきっとしてしまう。照れ臭くて彼から顔を背けると、尻込みするように手から力が抜けた。
「こうやって繋いで、いい?」
訊く前に繋いでんじゃねえよ、とこれまでだったら高飛車に言っていたと思う。けれど今はもう、そんなこと言いたくない。
返事の代わりにすがりつくような強さで指に力を込めて繋ぎ止めると、安堵したみたいに同じ力が返ってきた。しばらくそうしてから、ぼそり、と柊真が言う。
「帰りたくないけど……伊勢うどん食べて、帰ろうか」
「……うん」
そうだ。帰らねば。
わかっていたから頷いた。でも彼の、帰ろうか、を聞いたら無性に寂しくなった。歩き出す彼を引き止めたくなる自分を抑えながら足だけを必死に動かしていたとき、柊真の上着のポケットから覗く水色の貝殻が目に飛び込んできた。
揺れるそれを見ていたら……じんと胸が痺れた。
「秋信」
柊真が小首を傾げてこちらを見る。その彼に双葉は微笑んだ。
精一杯柔らかく見えるように。この想いが伝わるように、そう願いながら。
「連れてきてくれて、ありがとう」
……これからもそばにいて。
柊真の目がすうっと見開かれる。声にしなかった想いも確かに受け取られたことがわかる笑顔をこちらに向けてから、柊真は囁いた。
「こちらこそ」
大きな彼の手に手を取られ、歩く。
この旅は終わるけれど、きっとまた新たな旅が始まる。何度でも。
だから、行こう。一緒に、どこまでも。
行こう。
そうっと想いを込めて今一度握りしめたとき、背後で水音が響いた。
「あ、鳥がいる」
名前も知らぬ白い鳥が川面すれすれを滑空していた。そのまま風に掬い上げられるようにして上昇する。
「あ」
鳥の向かうその先にいたのは、もう一羽の白い鳥。
二羽の鳥がお互いを気遣うように寄り添って青い空で羽ばたく。その彼らの姿を並んで見上げた。
夫婦岩でそうしたように、ふたり、手を繋いで見上げ続けていた。
―――了―――



