恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 三日目の朝も晴れた。旅に出る前に聞いたざっくりとした旅程によると今日は勢田川(せたがわ)沿いに伸びる町、河崎(かわさき)を散策することになっている。その予定通り、車は走る。
「ここからは歩き」
 ナビに命じられるまま辿り着いた駐車場に車が止められる。言葉だけを残してドアが開けられ、柊真は降りていく。ばたん、と強めに閉められるドア。
 やはり、変だ。
 昨日の夜、ふたりでおにぎりを食べた。会話が盛り上がらないまま、テレビを見て、十一時少し前にはそれぞれベッドに入った。ぎくしゃくはしていたものの、おやすみ、と言った柊真の顔にはまだ笑みがあった。
 けれど今朝、おはよう、と挨拶してきた柊真の顔にはまるで笑顔がなかった。
 それどころか、話しかけても、ああ、と素っ気ない返事しかしてくれないし、目も合わせてくれない。
「なあ、秋信」
 すたすたと大股で遠ざかっていく彼に声を投げると、ん、と返事とも吐息ともつかぬ声が返ってきた。
 その投げやりな言い方でわかった。
 こいつはなにかを怒っている。
「あの、なんか……」
「俺、この先の古書店、行きたいから。ここから自由行動にしない?」
 柊真が言った。布を断つような容赦ない口ぶりだった。え、と言う間にもせかせかと言葉が続けられる。
「今、九時半だから、十一時半にこの先の河崎川の駅で。その後昼ご飯食べて帰るってスケジュールにしよう」
 じゃ、と言い捨て彼は歩いて行ってしまう。呼び止める隙もないくらい完璧に扉を閉めた態度で遠ざかる柊真を見送り、双葉は呆然としていた。
 昨日、あいつは告白してきたはずだ。自分は即答できなかったけれど、それを彼は笑って許してくれた。百年でも待つよ、とまで言ってくれた。なのに、あの態度はなんなのだろう。
 一晩考えた結果、我に返ったのだろうか。それはまあ、そうだろう。もともと同じ人を好きだった同士だ。いきなり服を着替えるみたいに好きな相手が変わるなんてそもそもおかしい。
 ああ、おかしいのだ。おかしすぎるのだ。なのに。
 じわり、と視界が歪む。慌てて瞼を拳で押さえる。
 河崎は昔ながらの藏を利用して建てられた雑貨屋や飲食店などが立ち並ぶ街だ。おかげ横丁のような華やかさとは違う、落ち着いた雰囲気に趣があって、平日の今日も観光客が行きかっている。旅の恥はかき捨てなどと言うが、こんな人目のある街角で泣くわけにはさすがにいかない。
 仕方なく、顔を伏せ歩き出したものの、手近な店に入って楽しむ気持ちになんてなれるはずもなかったので、早々に柊真に指定された河崎川の駅へと向かうことにした。
「あった……」
 スマホを見ながら進むと、河崎川の駅はすぐに見つかった。こちらも藏を改装して作られたものらしく、レトロな黒壁に白木の柱や手すりが陽光の下、光っている。
 この駅は駅と名がついているけれど、走っているのは電車ではなく船。特定の日時にだけ、観光船が離発着しているらしい。しかし真冬の今は運航していないらしく、駅舎の中に人の姿はなかった。そのことにほっとしながら、河崎の歴史を語る資料館としての顔をする駅舎の中をゆっくりと歩く。
「へえ……」
 水運を利用して発展したという河崎。伊勢神宮への参拝客へ物資を運んでいたこともあり、「伊勢の台所」とも呼ばれていたという歴史はとても興味深い。この国の最高位の神様を祀るあの荘厳な場所が、人々の生活をリアルな意味でも支えてきていたのだなと思うと、胸が熱くもなる。
 でも……その感動を語りたい相手は今、隣にいてくれない。
 また涙が出そうになり、双葉は慌てて瞼を擦るとパネルから目を離し、入った側とは反対に設けられた開口部から外へ出た。
 そこには、船の乗降に使われていると思しき、木製のデッキがあった。歩くたびに、かたん、かたん、と乾いた音を立てるそこを進み、数段の階段を下って川を見下ろす。
「眩し……」
 昼の太陽の直線的な日差しが川を実直に照らす。白く光る川面を見ていたら目が痛くなってきた。さっきはこらえられたのに、瞼の奥を刺す光に誘い出されるように目頭がじん、と熱を持ち始める。
 これまでだって和気あいあいとしていたかといえばそんなことはない。則正が間にいたときはとにかくあいつが邪魔だったし、なぜいる、とあからさまな敵意を視線に、そして口調に、込め続けてきた。それは自分も相手も同じで、等しい熱量でいがみ合っていたから、テニスのラリーみたいだとすら思っていた。
 打ったら返ってくる。絶対に。確実に。
 なのに、今日は違った。なにを打っても返ってこなかった。睨むことすら、してくれなかった。
 昨日まではあんなに笑ってくれていたのに。あんなに優しく見つめていてくれたのに。
 あいつはもう……こちらを見ることも嫌になってしまったのだろうか。告白なんかしてしまって、後悔しているのだろうか。
 こいつは則正とは違うんだった、と今更ながら自分の本来の恋に、立ち返ったのだろうか。
 そうかもしれない。この状況は最初から全部、異常だったのだから。それくらい、自分だってわかっていたのだから。
 だけど。
……こんな気持ちになるなら、いがみ合っていたときのほうが百倍ましだった。
 涙が出るのは光が強すぎるせいだ、と心で言い訳して双葉は川へ向かって顔を突き出す。抑えを失った涙がぽろっと落ちる。ああ、馬鹿みたい、と呟く声も川へと吸い込まれていく。
 でももういい。ここには今、誰もいない。船も来ない。誰も見ない……見てくれない。
 いてくれるのは川だけ。
「なにしてんの」
 そう思っていたのに、いきなり肩を引かれて双葉はぎょっとした。
 顔をしかめた柊真がこちらを見下ろしていた。
「あ、れ、まだ、十一時半になって、ない」
「そっちこそ」
 短い言葉と共に指が伸ばされ、頬に触れられた。顔は険しいのに丁寧な仕草で、落ちる涙がそうっと掬い取られる。昨日からこんなところばかり見られている。顔を赤らめ、身を引こうとするけれど、川を背にしているせいでそれ以上下がれない。背を反らすと、するっと腰に腕が回された。
「川、落ちちゃうから」
「落ち、ない。子どもじゃないんだから」
「子どもみたいに泣いてるくせに」
 言われてますます頬が火照った。手を上げて肩を思い切り強く押し返すと、腕が解けた。
「誰のせいだと思ってんだよ!」
 声がみっともなく震えている。瞼を手の甲でぐいぐい擦ると、その手首にするっと手が絡んだ。
「コンタクト、ずれるぞ」
「うるさい! 放せ、馬鹿!」
 コンタクトとかどうでもいいだろう! 癇癪を起こし、掴まれた手首を思い切り引っ張るけれど、憎たらしいくらい大きな手はびくともしない。いい加減に、と反対の手を振り上げようとした双葉の耳に、低い声が滑り込んできた。
「もしかして、俺のせい?」
 即答できなかった。言ったら全部言わないといけなくなる。この心の内に浮かび上がってしまった気持ちも全部。それはさすがに恥ずかしかった。けれど、そろそろと上げた視線の先にある、柊真のまっすぐな目を意識してしまったら、黙り続けることなんてもうできなかった。
「そうだよ!」
 かっこ悪い。こんなことを言うなんて。そう思っているのに、止められない。
「待つなんて言ったくせに、朝になったら見るのも嫌みたいな顔しやがって!」
 こんなふうに大声でわめきたてるなんて、絶対いつもの自分じゃない。こいつが好きと言ってくれた自分ともきっと違う。でももう、どうしようもない。
 溢れて、零れて、戻せない。
「俺は今日だってもっと一緒に笑いたかったのに! もっとたくさん話して、一緒に歩いて……。なのに、なんで一晩で急に態度変える? そんなだったら!」
 自由な片手で、どん、と柊真の胸を拳で叩き、双葉は怒鳴った。
「そんな簡単に気持ち変えちゃうなら告白なんてしてくるな! 百年待つなんていい加減なこと言うな! 馬鹿!」
 沈黙が重くのしかかってくる。かすかな川音だけが歌うそこで柊真は無言のまま立ち尽くしていたが、ややあってきっと目を上げ、こちらを睨んできた。
「……全部、俺が悪い?」