恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 ぽつり、ぽつりと話す彼の表情は硬い。緊張しているのか、膝の上に置かれた手は拳の形となって震えている。それでも丁寧に彼は語った。そうして話が終わると、すっと息を吸った。
「ごめん」
「……どうして、謝る?」
 吐き出された息と共にこちらへと差し出された謝罪に困惑する。柊真は俯いて上着の襟元に顎をめり込ませるようにして数秒黙ってから溜め息をついた。
「この今の状況、完全につけこんでるから。傷心旅行なんて言って、その実、石鈴と一緒にいたかっただけっていう。めっちゃ最低」
「あ……」
 そうか、そういうことになるのか。今更ながら赤くなる双葉をふっと柊真が横目で見た。
「怒ってる?」
「いや、怒るっていうか、よく、わからなくて」
 まあ、怒ってもいいはずなのだ。こんな遠くまで連れてこられて、しかも自分と同じ立場だからと心配までさせられたというのに、それが全部嘘だった、なんて。
 ただ……こいつはこんなふうに自虐的に自分のことを語るけれど、則正のことで傷ついていたのだってきっと嘘じゃない。
 だって柊真が見ていたのと同じように自分だって則正のそばにいた柊真のことを見ていたから。まったくの演技であんな目はできない。だから柊真の心に則正がいたのだって本当なのだ。
 しかも柊真は自分なんかより長い時間、則正を見つめていた。そんな彼だからこそ傷は深いと思う。
 人間なんて塗り絵じゃないのだから、塗ろうとしたって一色で全部塗りつくすことなんてできない。地層みたいに傷も痛みも積み重なっていく。則正のことだってきっと完全に吹っ切れてなんていないはずなのだ。
 だから……怒るというよりも、彼が壊れてしまわなくてよかった、という安堵の方が正直大きい。
 自分は、おかしいのだろうか。
「あ、の、それで、この話の結論って……?」
「結論?」
 柊真が首を傾げると、ダウンコートがさらりと衣擦れの音を立てた。
 そのかすかな音にさえどきっとしながら、双葉は注意深く口を動かす。
「あの、つまり、俺は、なにを言えばいい?」
「それは……」
 眉が寄せられる。少し前にはよくしていた顔をされて、ずきっと胸が痛む。俯くと柊真が小さく、ごめん、とまた呟いた。
「ひどいことをしているってわかってる。けど、言葉を強要はできない。石鈴が考えて教えてほしい」
「か、ん、がえる?」
「たとえば……もうホテルキャンセルして、帰るかどうか」
 問われて思わず、え、と声が漏れた。
「なんで?」
「なんでって。俺は石鈴に告白したんだ。そんな俺と一緒にあと一泊できる? 明日も一緒に観光なんて可能?」
「そ……」
 思った以上に自分はぽやっとしているのかもしれない。ええっと、と前髪をいじりながら言葉を探す。助け舟を出してくれる気はないのか、柊真はただこちらを見つめてくる。彼の視線を感じるだけで鼓動が速くなる。そんなことでは押さえきれないとわかっていながら、胸の生地を掴んで心臓を宥めつつ、双葉は口を開いた。
「あ、の、別になにかしようとか、手を出す的なこと思ってないだろ? お前は、多分」
「…………」
「黙るなよ!」
 助手席で大げさに身をすくめると、くすっと柊真が笑い声を漏らした。
「しないよ。なにも。したいけど」
「ちょ、は?!」
「当たり前じゃないか? 好きな相手になら。石鈴だって則正とキスしたいとか思ったことないの」
 言われて耳が熱くなった。想像したことがないわけじゃない。でも、今、このタイミングで則正の名前を出すのは反則だし、ひどいと思う。
「じゃあ俺も訊くけどさ、今ここに則正と俺がいたら、お前、どっちとキスしたいって思ってるわけ?」
 柊真が片手で口許を覆う。ほら、お前だってすぐに答えられないくせに、と茶化そうとして空気が硬いことに気付いた。
「あ、ええと……」
「それ、本当にいいの?」
「な、なにが」
「そんなこと訊いちゃって。本当にお前、困らない?」
 睫毛の陰で滑らされた黒目がじっとこちらに向けられている。
 そうされて、う、と詰まる。が、言い込められるのもしゃくだ。
「そんな試すみたいな言い方するのどうかと思う。大体、おかしいだろ。簡単に好きな相手変わるって」
「簡単?」
 声のトーンがいきなり下がった。ぎしっとシートがかすかに軋む。はっと顔を上げると、身を乗り出した柊真と体の距離が近づいていた。
「前もお前言ってたよな。そんなに簡単に則正を諦められるのなんで、とか。だけど俺に、『簡単』なんてない」
 こちらを見据える目は、はっきりとした怒りの色をしていた。
「特にお前に関して、適当な気持ちになんてなれるわけがない。俺のこと、そんないい加減な人間だと思ってんの、石鈴は」
「そ……」
 そんな意味で言ったわけではなかったのだ。ただ、則正の名前をここで出すなんてあまりにも無神経だと思ったからつい怒ってしまっただけで、柊真の気持ちを疑ったとかそういうのではない。けれどそれをうまく言葉にできない。沈黙すればするほど、柊真の顔は険しくなっていく。
 このままだと柊真のほうから、もういい帰ろう、と言い出すかもしれない。
 それは。
「嫌だ」
 ぽろっと声が落ちた。柊真が眉を顰める。その彼に双葉はつっかえつっかえ言った。
「ひどい言い方して、ごめん。だから、帰るなんて、言わないで、ほしい」
 柊真の唇が開く。唖然としたようにこちらを数秒凝視してから彼は、なんで、と零した。
「なんで俺が帰るって言いだしたことになってんの」
「いや、だって、しんどいんじゃないかって思ったから。俺といるの。でも、俺は、まだ……」
 まだ、の続きが言えず顔を伏せると、すうっと圧が消えた。元通り運転席に腰を落ち着けた柊真が前髪をぱさりと掻き上げ、呻く。
「ああ、もう。石鈴は悪くない。余裕なさすぎる俺が悪い」
「いや、そんな落ち込まれると調子狂うって言うか、あの」
 ああ、なにを言ったらいいのだろう。どう言えば空気は元に戻るのだろう。ずっと楽しかったのに。今はもどかしくて、胸がきゅっと狭くなる。
 掌で心臓の上を押さえると、柊真がゆっくりと首を上げてこちらを見た。
「もう一度だけ確認させて。石鈴も帰りたくないってことで、いい?」
「……うん」
「じゃあ、ごめん。一個だけ、やっぱり考えてほしい」
 厳かな声にどきっとする。そろそろと彼の方を見ると、彼もこちらを見ていた。
「俺とこの先、どうしたいか」
 車の外は先ほどまでのオレンジ色がどんどん温もりを奪われ、淡い青に沈み始めている。昼の衣を脱いで夜へと着替えようとする車窓を背負い、柊真が囁いた。
「石鈴がまだ則正のこと好きなの、俺は知ってる。だから……則正のことをずっと想っていくって言うならそれだって見守りたいって思う。応援だってする。でも俺は、石鈴が少しでも俺と一緒にいたいって思ってくれるなら」
 そこでふっと柊真は言葉を切った。夜の色の瞳がふわっと揺れるのが見えた。
「俺は、則正が心にいるお前だって受け止めたいって思う」
「お前、なんで……」
 激しい戸惑いのせいなのかなんなのか、震えみたいに驚きが全身を襲った。
 だって、理解できなかったから。
 双葉はわかっている。今の自分が塗り絵でいえば秩序もなにもなく、雑多な色で塗り潰されたぐちゃぐちゃの状態であることが。
 則正のことが好きなのに……柊真との時間を大事にしたいなんて、どう考えたって間違っている。完全に心がねじれている。でも柊真はそのぐちゃぐちゃの自分を、受け止めようとしている。
 それこそ、なにもかもを。でもそんなこと、容易じゃない。下手したら、彼の方が潰れちゃうかもしれない。
 そんなの、絶対にだめだ。だめ、なのに。
 不安に胸を塞がれてなにも言えずうなだれる双葉の隣で、すっと柊真が居住まいを正す気配がした。
「困らせてごめん。いいから。ゆっくり考えて。待つし。いつまででも」
「百年でも?」
 沈黙を埋めたかったとはいえ、なんてことを口走ったのだろう。が、エンジンボタンを押しながら返されたのは、あっさりとした頷きだった。
「いいよ」
 驚いて彼を見る。前方に静かな眼差しを向けたまま、柊真は続けた。
「それだけ石鈴が考えてくれるって思ったら俺はうれしいから。待てるよ。百年」
「……馬鹿」
 力なく呟いたが、柊真はそれには反応せず、ゆっくりと車をスタートさせた。