則正と出会ったとき、双葉はめちゃくちゃ孤独だった。
というのも、大学に入学してすぐ、風邪をこじらせて一週間、登校できなかったためだ。
入学してからの一週間の重要性は、きっと語るまでもないだろう。
やっと風邪が治って大学へと向かうと、すでに学科内ではグループができていて、完全に乗り遅れたと悟った。
もちろんまだ一週間。巻き返しができないわけじゃない。ただ、そこまで自分は押しが強いほうでもない。結局、講義に出るようになってひと月経っても、双葉はぼっちのままだった。
まあ、大学には遊びに来ているわけじゃない。本来の目的は知識の吸収だ。ひとりだって立派に卒業くらいできる。だから、友達なんていなくても死にはしないしね、なんて自分に言い聞かせてもいた。
しかし、双葉は忘れていた。友達がいなくても死にはしないけれど、いざというときに頼れる相手がいないというのもまた、ぼっちの宿命であると。
「あ、れ……?」
学食で食券を買おうと鞄を探るが、財布もスマホも見当たらない。もしやポケット、とパーカーとジーンズ双方のポケットも漁ってみたけれど、やはりなかった。
昼時の学食は混雑している。もたもたしている間に、まだかよ〜、と背後からうんざりしたような声も聞こえてきた。いつまでもここに陣取っているわけにはいかない。
すみません、と列から外れようとしたとき、すぐ後ろに並んでいた学生が隣に並んだ。
「なに食べる?」
え、と見返すと、自分より少し高い位置から視線が降ってきた。
黒縁眼鏡の奥からこちらを見つめる目と目が合った。
「早く。後ろ並んじゃってるから。なにがいい?」
「え、あ、じゃ、たぬきそば」
「オッケー」
反射的に答えると、眼鏡の彼は慣れた仕種でスマホを機械にタッチし、たぬきそば二杯分の食券を買う。はいよ、と軽い声と共に渡された小さな紙切れを手に、双葉はぽかんとする。邪魔になるからこっちな、と軽く肘を掴まれ、カウンターへと歩かされながら、双葉はやっとのことで口を開いた。
「あ、あの、ごめん、なさい。その、俺」
おたおたと頭を下げると、いいって、というように手が振られた。
「ってか、石鈴、じゃなかったっけ? 名前」
「あ、え? うん。なんで」
「よかった。名前、間違ってなかった。珍しい苗字だし、合ってるよなとは思ってたけど、万一違ってたら申し訳ないし」
ほっとしたように息を吐きつつ、彼はカウンターでトレイを取って双葉に渡す。ありがと、と呟く双葉にちらっと笑みを閃かせてみせてから、彼は自分の分のトレイを取った。
「俺、神田則正。よろしく」
「あ、うん……」
初めて見る人のような気がするのに、向こうはこちらを知っているらしい。誰だっけ、と必死に脳内データベースを照合している双葉の思考を読んだように、則正が笑った。
「選択科目、結構一緒なんだ。ほら、石鈴は物理学と中国語と日本国憲法、取ってるよな」
「うん」
「俺もなんだ。で、教授が石鈴って名前呼んでるの聞いて。それだけ。ごめんな、突然声かけて驚かせちゃったかもだけど、困ってたみたいだったから」
そう言いながらも、困ってた……よな? と恐る恐る確認される。そのあまりにも不安そうな口調に、双葉は思わず笑ってしまった。
「うん。困ってた。めっちゃ助かった。ありがとう」
久しぶりに人と話して、笑った気がした。
昼時の学食カウンターは混みあっていて、列はなかなか進まなかったけれど、気詰まりな空気は一切なかった。むしろのろのろと進む列が有難くすら感じた。おっとりとした見た目のわりに話好きな則正が、次から次へと話題を振ってくれたからだ。
「たぬきそば、美味そー。俺、初めて食べる」
結構な時間待たされたが、則正は不満を漏らすこともなく、出来上がったばかりのたぬきそばを前に歓声を上げていた。
「ってか石鈴、良かったら一緒に食べねえ? あ、ひとりで食べる主義とかそういうのだったら無理にとは言わないけど」
「ひとりで食べる主義じゃないよ」
そんなわけなかった。ふるふると大きく首を振ると、丼の中でたぬきそばのつゆもゆらゆらと揺れる。それを見て則正がまた笑った。
「こーぼーれーる。じゃ、行こ」
「あ、うん、ってか、あの!」
先に立って歩いていく則正の背中に焦って声を投げる。ん? と振り向いた彼に双葉は追いつきながら小さく頭を下げた。本当は九十度拝礼したいくらいだったけれど、たぬきそばが零れそうでできなかった。
「あの、ありがとう。本当に困ってたんだ。お金、明日必ず返すから」
「大げさ。たかがたぬきそば一杯で」
則正はそう笑い飛ばしたが、双葉にとってはたかがたぬきそば一杯じゃなかった。ここは何百人という人間が日々行きかうキャンパスだ。けれど、こんなにも人がいても、この一か月、教授以外に名前を呼んでくれる人なんて誰もいなかった。そんな中、認識してもらえて、困っているところを助けてもらえて、本気で涙が出るかと思ったのだ。大げさだ、とまた笑われそうだけれど、ありがとうだけじゃ全然言い足りなかった。
この人と仲良くなれたらなあ、と思いつつ、席につく。双葉の向かいに則正も座る。いただきます、と小学校の給食の時間みたいにふたりそろって手を合わせた。そのときだった。
ぬっとテーブルに影が差した。
「則正」
さらっと声が呼んだ。見上げると、則正よりもさらに長身の男が立っていた。
しかも……神々しいと言って差し支えないほど、端正な面立ちをした男だった。淡いブルーのシャツをここまで爽やかに着こなす人間を双葉は見たことがない。自分に似合うものを知り尽くした人間だからこそできるコーディネート、と言おうか。
「なに。石鈴も一緒?」
ぽかんとして見上げている双葉を、ほんのり色気さえ漂わせた切れ長の瞳が見下ろしてくる。石鈴、と自分の苗字が当たり前みたいに呼び捨てられて、双葉は慌てた。
「あ、ええと?」
名前を訊いていいだろうか。しどもどしながら彼を見上げたが、その双葉の疑問符を完全に無視し、彼は則正に向き直る。
まるで邪魔な虫を窓の外に追い出すみたいな切り換え方に見えた。
「どうせ則正が強引に誘ったんだろ。お前さ、相手の迷惑も考えろって。ってか学食行くなら声かけろって言ってるのに。無駄に待っちゃっただろ」
「え、あ、そっか。悪い……ってか石鈴もごめんな。迷惑だったよな。なんか初対面なのに一緒に食べようとか、馴れ馴れしくて……」
「迷惑じゃない」
則正が申し訳なさそうに眉を下げる。そうされて双葉はとっさに大声を出していた。
「迷惑なわけ、ない。迷惑とか勝手に決めつけられるほうが迷惑」
そこまで言うつもりなんてなかったのに口が滑った。ぴきっと空気が凍る。
やばい、と即座に思ったが、出てしまった言葉は戻せない。そろそろと顔を上げると、こちらを見下ろしてくる彼と目が合った。
「へえ?」
闇色をした目がすうっと細められる。が、数秒後、あっさりと彼は双葉から顔を背けた。そのまま立ち去るかと思いきや、なぜか則正の隣にすとんと座る。そして、じれったくなるほど丁寧な手つきで、自前の弁当と思しき包みを開け始めた。
「あー……と」
空気の悪さに耐え兼ねたように、則正がふたりの間で視線をきょときょとと彷徨わせた。
「石鈴、ええと、これ、俺の幼馴染。秋信柊真。柊真、こっち……」
「知ってる。同じ講義取ってるし。石鈴なんて苗字、一度聞いたら忘れない」
……なんだ、こいつ。
面倒臭そうに言う彼の顔を見ているうちにだんだん腹が立ってきた。
「秋信ってのも変わってるけど。どっちが名前かわかんない」
口から勝手にぽろっと皮肉が出てしまった。あ、と思ったがこれまた遅い。柊真は卵焼きをつまみかけていた箸を止めてこちらを見据えている。
むかつくな、とその目が言っているような気がした。
だが、そう言いたいのはこちらのほうだった。
学食に行くなら声をかけろ?
なぜ声をかけなければならないのか。そんなのは則正の自由だろうに。
まるで彼女の動向を逐一チェックする彼氏みたいだ。
……嫌なやつ。
そう瞬間的に思った自分に双葉は驚いていた。普段ならこんな感情はまず抱かないし、言い返しもしない。むかつくことや理不尽なことなんて世の中にごまんとあるけれど、それを大声でわめきたてず、密やかに消化するのが双葉の流儀だったからだ。しかしこの秋信柊真に対してはその流儀を通せなかった。
自分とは違って高身長な上に眩しいくらいの美形だからだろうか。いや、そういうことではない。
則正と仲良くできたらな、と思っていた矢先だったからだ。だって、もし則正と友達になれたとしても、幼馴染ということなら、こいつともまったくの無関係では過ごせないのではないだろうか。
「則正。つゆ、服に飛んでる」
「え、まじで? うわ〜。なんで白いシャツなの、俺ってば」
情けない声を上げる則正のシャツの胸元を、ハンカチでとんとんと叩くように拭く柊真を双葉はたぬきそばをすすりつつ、前髪の陰から観察する。
付き合っているのかと思うくらいの距離感だ。
もしそうなのだとしたら、則正と友達になるのは絶望的だ。
せっかくぼっちからも抜け出せると思ったのに束縛系の幼馴染が一緒じゃ……と肩を落としていたのだが、翌日、物理学の講義のため、講義室へと向かった双葉の隣の席に、則正はするっと滑り込んできた。
「おはよ。石鈴」
「あ、うん。おはよう」
「朝一の講義とかめちゃくちゃだるくない? 俺、あんまり朝、得意じゃないからさあ、もうふらふら」
言いながら黒縁眼鏡を外す。服の袖で行儀悪くレンズを拭う則正の横顔を窺いながら、双葉は密やかに息を落とす。
よかった、と心底思った。
学食での柊真とのやり取りのせいで気まずい思いをさせてしまったから、もう声をかけてくれないかと思っていたのだ。でも則正は昨日のことなんてまるでなかったみたいに隣に座ってくれた。
「……なんか、ありがとう」
「は? え? なんだっけ? 俺、なにかしたっけ?」
まったく心当たりがなさそうに彼が言う。こいつ、いいやつだな、と感動しつつ、双葉は慌てて首を振った。
「あ、えと、ほら、たぬきそばのこととか。お金、今返す」
「あー、あれ。今じゃなくていいよ? ってか今日も一緒に食べねえ?」
にこっと則正が笑う。眼鏡のレンズなしのその顔になぜかくらりとした。
「石鈴?」
不思議そうに則正が首を傾げる。邪気など孕んだことがないのではないかと思わせる澄んだ瞳に見つめられて、息が止まった。
「あ、えと、昼、だい、じょうぶ」
動揺しながらなんとか言葉を継ぐ。その双葉の目の前でぱあっと則正の顔が輝いた。
「やった! 今日もたぬきそばにしよっと」
一瞬、眩しい光に当てられ視界が完全に白に染め変えられた。え、と慌てた。けれどここは講義室の中だ。そんなことあるわけがない。
でも……確かに感じた。
目を瞬かせる双葉をよそに、則正は眼鏡を顔に戻し、物理の講義が難解すぎる、と嘆いている。内容は嘆きでありながらも少しもマイナスの気配を纏わない声で。
この人、やっぱり、いいな。
ふんわりと心が陽だまりに溶けていく。うっとりと目を細めたが、そうしていられたのはほんのわずかな時間だった。
「おはよ。則正」
則正の隣に当然のような顔で座った人物を目にして、昇ったばかりの太陽が秒速で地平に没した気がした。
「柊真、おはよう」
則正がぱっと柊真のほうに顔を向ける。必然的に双葉は則正の後頭部を拝むことになる。意図せず胸がちくりと痛んだ。その双葉を置いてきぼりに、柊真が則正の顔を見て声を上げた。
「お前、目腫れてる。夜更かししただろ」
「あ、うん、ばれた? いや〜、深夜にアニメ観始めたら止まらなくなっちゃって」
どんなアニメを観るのだろう。自分も聞きたい。身を乗り出してみたが、則正は気付かない。が、則正の向こうに座っていた柊真とはばっちり目が合った。
則正越し、柊真が双葉の目を見つめてくる。こいつの目も綺麗だとは思う。でも則正とは全然違う。
則正の目が陽光を透かすプリズムだとしたら、柊真の目は深さもわからぬ沼みたいだ。
外見の爽やかさとは対照的に、迂闊に踏み込んだらずぶずぶと沈み込んでしまいそうな得体の知れない不気味さがある。
少し怯んだ。しかし一拍の後、かっとなった。
底が見えなかった瞳にすっと愉悦の色が混じった。道端に転がる骨の折れたビニール傘を見るみたいに細められたそれが、双葉をまっすぐに射抜いていた。
――こいつは俺のだから。
視線に込められた意志がじりりと伝わってきた。
「あ、なあ? 石鈴は観たことある? 負け犬ヘヴン」
双葉と柊真、ふたりの間には吹き荒れるブリザードよろしく冷気が渦巻いているというのに、則正の周りだけは完全に温帯だった。のほほんとこちらを見られ、双葉は零秒で笑顔になった。
「あ、観てた。リアタイで」
「え! そうなんだ! どのキャラ好き?」
「俺はね……」
答えつつ、ちらっと則正の頭越しに柊真を見る。先ほどまでの余裕はどこへやら、再び不穏当な眼差しに戻っていた。
合わない相手というのはどうしたっているものだ。なんといっても世界には八十億以上もの人がいるのだから。その全員となんの引っかかりもなく接することができたら、ユートピアを通り越してちょっと不気味かもとは思う。思うけれど、皆、それぞれ違う物差しを持っているという認識はあって、その違いを埋めるために歩み寄ったり、折れたりするものなのだ。本来は。
でも秋信柊真。彼にはその平和への歩み寄りがまったくない。双葉とことを構えることになんの抵抗もない。
ほしいもののためには、戦うことも辞さない。
これまでの人生で向けられたことのない純粋な敵意を目の当たりにして、双葉の中でなにかが切れた。
「あの、さ、神田、くん」
「ん?」
眼鏡のレンズを通して大きな目がこちらを見つめる。双葉は軽く深呼吸してから続けた。
「則正くん、って名前で呼んでいいかな」
「え」
きょとんと見開かれる目を見て、こんなこと改まって言うことじゃない、と後悔もした。けれどもう止められなかった。それに確信もあった。
彼は多分不審がらないし、拒絶もしない。見ず知らずの人間にあんなにさりげなく手を差し出せるタイプの彼が、会って二度目の人間に名前呼びをしたいと言われたからと言って、気持ち悪いと顔を歪めるなんて考えにくい。
そしてその予想は見事当たった。
「いいよ? あ、じゃ、俺も名前で呼ぶな。えーと」
「双葉」
「おお、そっかそっか。双葉ね。改めてよろしくー」
にこっと笑いかけられて再びくらっとする。と同時に、双葉は彼の頭の向こうの彼も確認する。
はっきりと寄せられた眉に、胸がすっとした。
付き合っているわけでもないただの同級生を取り合うみたいに牽制し合い、ヤキモチを妬き合うなんて、どう考えても普通じゃない。
コミュニケーション能力がそれほど高いとはいえない自分からしたら、そんな厄介な関係、始まる前に逃げ出したくなるのが常だ。なのに、このときは思わずにはいられなかった。
こいつには負けたくない、と。
それは相手も同じ気持ちだったのだろう。それから先、約二年に渡り、双葉と秋信柊真は不毛とも言える争いを繰り返した。講義でどっちが則正の隣に座るかなんて些細な理由でさえ、言い争い、出し抜き合い、舌打ちし合った。
則正に……恋人ができるまで。
というのも、大学に入学してすぐ、風邪をこじらせて一週間、登校できなかったためだ。
入学してからの一週間の重要性は、きっと語るまでもないだろう。
やっと風邪が治って大学へと向かうと、すでに学科内ではグループができていて、完全に乗り遅れたと悟った。
もちろんまだ一週間。巻き返しができないわけじゃない。ただ、そこまで自分は押しが強いほうでもない。結局、講義に出るようになってひと月経っても、双葉はぼっちのままだった。
まあ、大学には遊びに来ているわけじゃない。本来の目的は知識の吸収だ。ひとりだって立派に卒業くらいできる。だから、友達なんていなくても死にはしないしね、なんて自分に言い聞かせてもいた。
しかし、双葉は忘れていた。友達がいなくても死にはしないけれど、いざというときに頼れる相手がいないというのもまた、ぼっちの宿命であると。
「あ、れ……?」
学食で食券を買おうと鞄を探るが、財布もスマホも見当たらない。もしやポケット、とパーカーとジーンズ双方のポケットも漁ってみたけれど、やはりなかった。
昼時の学食は混雑している。もたもたしている間に、まだかよ〜、と背後からうんざりしたような声も聞こえてきた。いつまでもここに陣取っているわけにはいかない。
すみません、と列から外れようとしたとき、すぐ後ろに並んでいた学生が隣に並んだ。
「なに食べる?」
え、と見返すと、自分より少し高い位置から視線が降ってきた。
黒縁眼鏡の奥からこちらを見つめる目と目が合った。
「早く。後ろ並んじゃってるから。なにがいい?」
「え、あ、じゃ、たぬきそば」
「オッケー」
反射的に答えると、眼鏡の彼は慣れた仕種でスマホを機械にタッチし、たぬきそば二杯分の食券を買う。はいよ、と軽い声と共に渡された小さな紙切れを手に、双葉はぽかんとする。邪魔になるからこっちな、と軽く肘を掴まれ、カウンターへと歩かされながら、双葉はやっとのことで口を開いた。
「あ、あの、ごめん、なさい。その、俺」
おたおたと頭を下げると、いいって、というように手が振られた。
「ってか、石鈴、じゃなかったっけ? 名前」
「あ、え? うん。なんで」
「よかった。名前、間違ってなかった。珍しい苗字だし、合ってるよなとは思ってたけど、万一違ってたら申し訳ないし」
ほっとしたように息を吐きつつ、彼はカウンターでトレイを取って双葉に渡す。ありがと、と呟く双葉にちらっと笑みを閃かせてみせてから、彼は自分の分のトレイを取った。
「俺、神田則正。よろしく」
「あ、うん……」
初めて見る人のような気がするのに、向こうはこちらを知っているらしい。誰だっけ、と必死に脳内データベースを照合している双葉の思考を読んだように、則正が笑った。
「選択科目、結構一緒なんだ。ほら、石鈴は物理学と中国語と日本国憲法、取ってるよな」
「うん」
「俺もなんだ。で、教授が石鈴って名前呼んでるの聞いて。それだけ。ごめんな、突然声かけて驚かせちゃったかもだけど、困ってたみたいだったから」
そう言いながらも、困ってた……よな? と恐る恐る確認される。そのあまりにも不安そうな口調に、双葉は思わず笑ってしまった。
「うん。困ってた。めっちゃ助かった。ありがとう」
久しぶりに人と話して、笑った気がした。
昼時の学食カウンターは混みあっていて、列はなかなか進まなかったけれど、気詰まりな空気は一切なかった。むしろのろのろと進む列が有難くすら感じた。おっとりとした見た目のわりに話好きな則正が、次から次へと話題を振ってくれたからだ。
「たぬきそば、美味そー。俺、初めて食べる」
結構な時間待たされたが、則正は不満を漏らすこともなく、出来上がったばかりのたぬきそばを前に歓声を上げていた。
「ってか石鈴、良かったら一緒に食べねえ? あ、ひとりで食べる主義とかそういうのだったら無理にとは言わないけど」
「ひとりで食べる主義じゃないよ」
そんなわけなかった。ふるふると大きく首を振ると、丼の中でたぬきそばのつゆもゆらゆらと揺れる。それを見て則正がまた笑った。
「こーぼーれーる。じゃ、行こ」
「あ、うん、ってか、あの!」
先に立って歩いていく則正の背中に焦って声を投げる。ん? と振り向いた彼に双葉は追いつきながら小さく頭を下げた。本当は九十度拝礼したいくらいだったけれど、たぬきそばが零れそうでできなかった。
「あの、ありがとう。本当に困ってたんだ。お金、明日必ず返すから」
「大げさ。たかがたぬきそば一杯で」
則正はそう笑い飛ばしたが、双葉にとってはたかがたぬきそば一杯じゃなかった。ここは何百人という人間が日々行きかうキャンパスだ。けれど、こんなにも人がいても、この一か月、教授以外に名前を呼んでくれる人なんて誰もいなかった。そんな中、認識してもらえて、困っているところを助けてもらえて、本気で涙が出るかと思ったのだ。大げさだ、とまた笑われそうだけれど、ありがとうだけじゃ全然言い足りなかった。
この人と仲良くなれたらなあ、と思いつつ、席につく。双葉の向かいに則正も座る。いただきます、と小学校の給食の時間みたいにふたりそろって手を合わせた。そのときだった。
ぬっとテーブルに影が差した。
「則正」
さらっと声が呼んだ。見上げると、則正よりもさらに長身の男が立っていた。
しかも……神々しいと言って差し支えないほど、端正な面立ちをした男だった。淡いブルーのシャツをここまで爽やかに着こなす人間を双葉は見たことがない。自分に似合うものを知り尽くした人間だからこそできるコーディネート、と言おうか。
「なに。石鈴も一緒?」
ぽかんとして見上げている双葉を、ほんのり色気さえ漂わせた切れ長の瞳が見下ろしてくる。石鈴、と自分の苗字が当たり前みたいに呼び捨てられて、双葉は慌てた。
「あ、ええと?」
名前を訊いていいだろうか。しどもどしながら彼を見上げたが、その双葉の疑問符を完全に無視し、彼は則正に向き直る。
まるで邪魔な虫を窓の外に追い出すみたいな切り換え方に見えた。
「どうせ則正が強引に誘ったんだろ。お前さ、相手の迷惑も考えろって。ってか学食行くなら声かけろって言ってるのに。無駄に待っちゃっただろ」
「え、あ、そっか。悪い……ってか石鈴もごめんな。迷惑だったよな。なんか初対面なのに一緒に食べようとか、馴れ馴れしくて……」
「迷惑じゃない」
則正が申し訳なさそうに眉を下げる。そうされて双葉はとっさに大声を出していた。
「迷惑なわけ、ない。迷惑とか勝手に決めつけられるほうが迷惑」
そこまで言うつもりなんてなかったのに口が滑った。ぴきっと空気が凍る。
やばい、と即座に思ったが、出てしまった言葉は戻せない。そろそろと顔を上げると、こちらを見下ろしてくる彼と目が合った。
「へえ?」
闇色をした目がすうっと細められる。が、数秒後、あっさりと彼は双葉から顔を背けた。そのまま立ち去るかと思いきや、なぜか則正の隣にすとんと座る。そして、じれったくなるほど丁寧な手つきで、自前の弁当と思しき包みを開け始めた。
「あー……と」
空気の悪さに耐え兼ねたように、則正がふたりの間で視線をきょときょとと彷徨わせた。
「石鈴、ええと、これ、俺の幼馴染。秋信柊真。柊真、こっち……」
「知ってる。同じ講義取ってるし。石鈴なんて苗字、一度聞いたら忘れない」
……なんだ、こいつ。
面倒臭そうに言う彼の顔を見ているうちにだんだん腹が立ってきた。
「秋信ってのも変わってるけど。どっちが名前かわかんない」
口から勝手にぽろっと皮肉が出てしまった。あ、と思ったがこれまた遅い。柊真は卵焼きをつまみかけていた箸を止めてこちらを見据えている。
むかつくな、とその目が言っているような気がした。
だが、そう言いたいのはこちらのほうだった。
学食に行くなら声をかけろ?
なぜ声をかけなければならないのか。そんなのは則正の自由だろうに。
まるで彼女の動向を逐一チェックする彼氏みたいだ。
……嫌なやつ。
そう瞬間的に思った自分に双葉は驚いていた。普段ならこんな感情はまず抱かないし、言い返しもしない。むかつくことや理不尽なことなんて世の中にごまんとあるけれど、それを大声でわめきたてず、密やかに消化するのが双葉の流儀だったからだ。しかしこの秋信柊真に対してはその流儀を通せなかった。
自分とは違って高身長な上に眩しいくらいの美形だからだろうか。いや、そういうことではない。
則正と仲良くできたらな、と思っていた矢先だったからだ。だって、もし則正と友達になれたとしても、幼馴染ということなら、こいつともまったくの無関係では過ごせないのではないだろうか。
「則正。つゆ、服に飛んでる」
「え、まじで? うわ〜。なんで白いシャツなの、俺ってば」
情けない声を上げる則正のシャツの胸元を、ハンカチでとんとんと叩くように拭く柊真を双葉はたぬきそばをすすりつつ、前髪の陰から観察する。
付き合っているのかと思うくらいの距離感だ。
もしそうなのだとしたら、則正と友達になるのは絶望的だ。
せっかくぼっちからも抜け出せると思ったのに束縛系の幼馴染が一緒じゃ……と肩を落としていたのだが、翌日、物理学の講義のため、講義室へと向かった双葉の隣の席に、則正はするっと滑り込んできた。
「おはよ。石鈴」
「あ、うん。おはよう」
「朝一の講義とかめちゃくちゃだるくない? 俺、あんまり朝、得意じゃないからさあ、もうふらふら」
言いながら黒縁眼鏡を外す。服の袖で行儀悪くレンズを拭う則正の横顔を窺いながら、双葉は密やかに息を落とす。
よかった、と心底思った。
学食での柊真とのやり取りのせいで気まずい思いをさせてしまったから、もう声をかけてくれないかと思っていたのだ。でも則正は昨日のことなんてまるでなかったみたいに隣に座ってくれた。
「……なんか、ありがとう」
「は? え? なんだっけ? 俺、なにかしたっけ?」
まったく心当たりがなさそうに彼が言う。こいつ、いいやつだな、と感動しつつ、双葉は慌てて首を振った。
「あ、えと、ほら、たぬきそばのこととか。お金、今返す」
「あー、あれ。今じゃなくていいよ? ってか今日も一緒に食べねえ?」
にこっと則正が笑う。眼鏡のレンズなしのその顔になぜかくらりとした。
「石鈴?」
不思議そうに則正が首を傾げる。邪気など孕んだことがないのではないかと思わせる澄んだ瞳に見つめられて、息が止まった。
「あ、えと、昼、だい、じょうぶ」
動揺しながらなんとか言葉を継ぐ。その双葉の目の前でぱあっと則正の顔が輝いた。
「やった! 今日もたぬきそばにしよっと」
一瞬、眩しい光に当てられ視界が完全に白に染め変えられた。え、と慌てた。けれどここは講義室の中だ。そんなことあるわけがない。
でも……確かに感じた。
目を瞬かせる双葉をよそに、則正は眼鏡を顔に戻し、物理の講義が難解すぎる、と嘆いている。内容は嘆きでありながらも少しもマイナスの気配を纏わない声で。
この人、やっぱり、いいな。
ふんわりと心が陽だまりに溶けていく。うっとりと目を細めたが、そうしていられたのはほんのわずかな時間だった。
「おはよ。則正」
則正の隣に当然のような顔で座った人物を目にして、昇ったばかりの太陽が秒速で地平に没した気がした。
「柊真、おはよう」
則正がぱっと柊真のほうに顔を向ける。必然的に双葉は則正の後頭部を拝むことになる。意図せず胸がちくりと痛んだ。その双葉を置いてきぼりに、柊真が則正の顔を見て声を上げた。
「お前、目腫れてる。夜更かししただろ」
「あ、うん、ばれた? いや〜、深夜にアニメ観始めたら止まらなくなっちゃって」
どんなアニメを観るのだろう。自分も聞きたい。身を乗り出してみたが、則正は気付かない。が、則正の向こうに座っていた柊真とはばっちり目が合った。
則正越し、柊真が双葉の目を見つめてくる。こいつの目も綺麗だとは思う。でも則正とは全然違う。
則正の目が陽光を透かすプリズムだとしたら、柊真の目は深さもわからぬ沼みたいだ。
外見の爽やかさとは対照的に、迂闊に踏み込んだらずぶずぶと沈み込んでしまいそうな得体の知れない不気味さがある。
少し怯んだ。しかし一拍の後、かっとなった。
底が見えなかった瞳にすっと愉悦の色が混じった。道端に転がる骨の折れたビニール傘を見るみたいに細められたそれが、双葉をまっすぐに射抜いていた。
――こいつは俺のだから。
視線に込められた意志がじりりと伝わってきた。
「あ、なあ? 石鈴は観たことある? 負け犬ヘヴン」
双葉と柊真、ふたりの間には吹き荒れるブリザードよろしく冷気が渦巻いているというのに、則正の周りだけは完全に温帯だった。のほほんとこちらを見られ、双葉は零秒で笑顔になった。
「あ、観てた。リアタイで」
「え! そうなんだ! どのキャラ好き?」
「俺はね……」
答えつつ、ちらっと則正の頭越しに柊真を見る。先ほどまでの余裕はどこへやら、再び不穏当な眼差しに戻っていた。
合わない相手というのはどうしたっているものだ。なんといっても世界には八十億以上もの人がいるのだから。その全員となんの引っかかりもなく接することができたら、ユートピアを通り越してちょっと不気味かもとは思う。思うけれど、皆、それぞれ違う物差しを持っているという認識はあって、その違いを埋めるために歩み寄ったり、折れたりするものなのだ。本来は。
でも秋信柊真。彼にはその平和への歩み寄りがまったくない。双葉とことを構えることになんの抵抗もない。
ほしいもののためには、戦うことも辞さない。
これまでの人生で向けられたことのない純粋な敵意を目の当たりにして、双葉の中でなにかが切れた。
「あの、さ、神田、くん」
「ん?」
眼鏡のレンズを通して大きな目がこちらを見つめる。双葉は軽く深呼吸してから続けた。
「則正くん、って名前で呼んでいいかな」
「え」
きょとんと見開かれる目を見て、こんなこと改まって言うことじゃない、と後悔もした。けれどもう止められなかった。それに確信もあった。
彼は多分不審がらないし、拒絶もしない。見ず知らずの人間にあんなにさりげなく手を差し出せるタイプの彼が、会って二度目の人間に名前呼びをしたいと言われたからと言って、気持ち悪いと顔を歪めるなんて考えにくい。
そしてその予想は見事当たった。
「いいよ? あ、じゃ、俺も名前で呼ぶな。えーと」
「双葉」
「おお、そっかそっか。双葉ね。改めてよろしくー」
にこっと笑いかけられて再びくらっとする。と同時に、双葉は彼の頭の向こうの彼も確認する。
はっきりと寄せられた眉に、胸がすっとした。
付き合っているわけでもないただの同級生を取り合うみたいに牽制し合い、ヤキモチを妬き合うなんて、どう考えても普通じゃない。
コミュニケーション能力がそれほど高いとはいえない自分からしたら、そんな厄介な関係、始まる前に逃げ出したくなるのが常だ。なのに、このときは思わずにはいられなかった。
こいつには負けたくない、と。
それは相手も同じ気持ちだったのだろう。それから先、約二年に渡り、双葉と秋信柊真は不毛とも言える争いを繰り返した。講義でどっちが則正の隣に座るかなんて些細な理由でさえ、言い争い、出し抜き合い、舌打ちし合った。
則正に……恋人ができるまで。



