恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 則正とゼミが一緒になるという彼は廊下でなぜか這いつくばっていた。驚いて、どうした、と声をかけると、あ、と困ったような顔でこちらを見上げてきた。
 ちょっとだけ寂しそうに見える眼差しが印象に残った。
「なくしちゃって。ペン」
「ペン?」
 首を捻ると、畑中は伏し目がちに頷いた。
「その、もらいもので。キャップのとこに宇宙人ついたやつ。この辺りで落としたと思うんだけど」
「それ」
 宇宙人。そのワードについ反応してしまった。
「則正にもらったやつ?」
 そう尋ねたところで畑中はこちらが誰かようやく認識したらしい。
「あ……則正くんの幼馴染の」
「秋信」
 一度しか顔を合わせていなかったから名前まで覚えていなかったようだ。眼中にないってことか、と少しだけいらっとした。けれどそれをそのまま表に出すほどこちらも子どもじゃない。
 そんな顔をしてみせるのは、あいつの前だけで充分だ。
「もしかしたら教務棟に落とし物として届けられてるかもよ」
「あ……そっか、そうかも。行ってみる。ありがとう」
 言いながら畑中は背中を向けて走っていった。控えめな笑みばかりを見せるやつの全力疾走は妙に気合が入っていて、ちょっと見とれてしまった。
 数十分後、講義と講義の間の隙間時間にひとり、学食でコーヒーを飲んでいたところに畑中がやってきた。
「秋信くん」
 小走りでこちらに近づいてきた畑中の手にはしっかりとボールペンが握られていた。てっぺんにくっついた宇宙人が皮肉っぽく舌を出してこちらを見つめている。
「教務棟にあった。ありがとう。教えてくれて」
「いや、俺はなんも」
 首を振りながら畑中を観察し、ふと気付いた。
 こいつは……似ていると。
 双葉に。
 形のよい頭部を覆うふわっとした髪の感じも。華奢な肩も。Vネックから覗く鎖骨が作る陰影も。
 胸の奥がじりっと熱くなった。けれど理由がわからない。心の奥に蹲るしこりに気付かないふりをして会話を続けた。
「畑中、くんも、あれ好きなの? ええと、なんとかヘヴン」
 あの宇宙人キャラが出ているアニメの名前をいつまで経っても覚えられない。興味ないにもほどがあるだろ、と双葉に嫌味を言われたときのことを思い出し、苦い顔をしながら問う。畑中は、ううん、と微妙な顔で笑い返してきた。
「実はあんまり。今度観てみようと思ってはいるけど」
 そこまで言って畑中はきゅっと手の中のペンを握りしめた。愛おしむような仕草だった。
「ただ、これはすごく、気に入ってるから」
 ああ、こいつもか、とすぐにわかった。
 畑中は初めて見たときの双葉と同じ顔をしていた。
 その畑中の背後から、保、と声がして、畑中が振り返る。視線を向けると、則正が手を振っていた。
 眩しいものを見るみたいに眼鏡の奥で目を細め、ほんのり頬を染めて則正が微笑む。
 畑中も笑う。双葉とよく似た顔で。
 そのふたりの様子を見ていて感じたのは、体の奥からじりじりと湧き上がってくるような……怒りだった。
 畑中は双葉に面差しが似ている。表情の作り方も。なのに、どうして則正はこいつのほうを選んだのだろう。
 二年近くもただ則正だけを見ていた双葉の想いに気付きもせず、あいつの紛い物みたいなこいつをそんな目で見るのはなんでだ?
 双葉は気付いただろうか。畑中の顔立ちが自分と似ていることに。そして則正が畑中のことを特別に思っているだろうことに。
 気付いていなければいいな、と強く願った。則正と畑中の仲がこれ以上進まないでくれとも祈った。
 双葉のことなんてどうだっていいはずなのに。そんなことよりもこれほど長い間そばにいても意識のいの字もされない自分のことをこそもっと心配すべきなのに。
 そんな複雑極まりない気持ちで祈ったせいなのかなんなのか。
 願い虚しく、その日はやってきた。
「お、れ、あの、保とさ、付き合うことになった」
 いつだって笑顔を絶やさない則正が、緊張に震えながら告白してきたとき、最初に気になったのはやっぱり双葉のことだった。
 覚られぬよう、そっと視線を向けると、双葉の顔が蒼白になっているのがわかった。
 今にも倒れそうな彼の顔色を見たとたん、胸がぎしりと軋んだ。
 その場で、あんなやつと付き合うなんて許さない、と暴れたくなった。けれどぎりぎりでこらえたのは、胸の軋みが失恋によるものなのか、それとも双葉の心の痛みを感じ取ったからなのか、瞬時に判断がつかなかったからだ。なにせ長年見つめ続けてきた則正に恋人ができたのだ。失恋のせいと考えるほうが自然だ。
 だとするならば、自分がするべき顔は幼馴染の顔だ。だって、則正を長年見てきた自分にはわかる。ごねたところで則正は絶対に自分を選ばないし、なにより自分は則正の笑った顔が好きだから。
 ただ、畑中と共にいる則正を見るともやもやはした。なんで畑中……とやっぱり釈然としなかった。
 じゃあ、双葉が則正と付き合っていたらよかったのだろうか? そうしたらここまで苛立たなかったのだろうか。
 考えたけれどそのときはわからなかった。
 則正が畑中と笑う姿を、双葉はいつも体の深部から痛みが滲み出したみたいな目で見ている。
 それを隣でただ見つめる。
 気が付いたら、則正本人よりも双葉の瞳の中の則正に目を凝らすようになっていた。
 毎日、毎日。切なくひび割れた、どこにも行けない目で好きな人を見る、彼。
 何日続くのだろう。こんな生活があと、何日?
 何日経てば、彼の目から痛みは流れ落ちるのだろう。思い切り泣ける映画でも見せれば、涙と一緒に全部洗いだされてくれるだろうか。あるいは腸がねじ切れるほど笑わせたら?
 青ざめた彼の顔を見るたび、そんなことばかり考えた。
 気が紛れるならと昼食も一緒に摂ったし、夜一緒に飲んだこともあった。
 双葉を構えば自分の心の傷も癒されるから、と時折刻むみたいに自分に言い訳した。自分の立ち位置を確認して確認して……なんとか踏みとどまろうとした。
 そうしなければ、これまでの自分を自分で否定してしまいそうで怖くて必死に抗った。
 なのに、あの夜、その抵抗を越えて思ってしまった。
「なんで、則正はお前じゃだめだったんだ?」
 ホラー映画を眺めながらビールを嘗めていた双葉に言われたときに。
「もう、嫌だよ。なにも見たくないよ」
 踏みにじられた花が出すみたいな声で彼がそう零したときに。
 思ってしまった。
……なにも見ないでいいようにしてやりたい。
 いや、違う。
……もう、則正のことは、見ないで。
……お願いだから、こっちだけ見て。
 もう、ごまかしきることは無理だった。
 則正のことが好きで、双葉が邪魔で。でも、この二年、自分の視界の真ん中にいたのは圧倒的に、双葉、だった。
 どこから変わったのか、それを明確に言うことはできない。
 きっかけはあったかもしれないけれど、そんなものだけで想うようになったとはとても思えない。
 則正を一途に見つめ続ける双葉も、こちらに向かって嫌な顔をする双葉も、人とは全然違う視点で憤ったり、胸を痛めたりする双葉も、飲みすぎていつもより潤んだ目をする双葉も。
 則正のことで傷ついているだろう恋敵を心配して必死に腕を掴んできた双葉も。
 全部、全部が、俺は。