恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 最初に石鈴双葉のことを認識したのは、則正ではなく自分だった。
 秋信柊真。石鈴双葉。あ、と、い。苗字が近かったからロッカーの位置も上下だった。石鈴なんて珍しい苗字だな、と思ったし、そうでなくても石鈴双葉は人目を引く容姿をしていた。
 色素が薄くて、華奢で。ちょっと妖精みたいで。本人は気付いていなかったようだけれど、双葉に熱い視線を送る女子が何人かいたことも知っていた。人嫌いなのかなんなのか、いつもひとりで行動している彼のことを、やっぱり妖精みたいだ、と思ってもいた。
 ただ、人は見た目通りじゃないということを教えてくれたのは、その双葉だった。
 今でも忘れられない。初めて言葉を交わした日、則正と向かい合わせで座っていたときの双葉の顔を。
 氷の精みたいな凍った表情ばかりをしていた彼が笑っていた。こんな顔で笑えるのか、と驚きつつも不安になった。
 則正は人との距離が近い。どんな相手でも心の垣根をひょいと越えて仲良くなれる。そんな則正だからこそ好きだと思っていたのだけれど、則正は時々間違える。相手が嫌がっているのにも気付かず距離を詰めすぎて、人間関係で痛い思いをすることも珍しくない。
 今回もそうだったらまずい。則正が傷つくのは絶対嫌だし、石鈴双葉にとっても負担になってしまう。だから割って入ったのだが、双葉の反応は予想とは違った。
「迷惑なわけ、ない。迷惑とか勝手に決めつけられるほうが迷惑」
 敵意剥き出しに言われ、驚いたし、むかついた。
 気を遣ってやったのになんだこいつ、と腹が立った。そしてすぐに気付いた。
 こいつは則正に惹かれているのだ、自分と同じく。
 それがわかってからは双葉のことが目障りで仕方なくなった。それはどうやらあちらも同じのようだった。
……こいつ、邪魔。
 双葉の淡い琥珀色の目にはっきりと浮かぶ嫌悪に気持ちはささくれたし、則正の前でだけ天使みたいに笑うところも気に入らなかった。
 そっちがその気ならこっちだって、と子どもの喧嘩みたいにこれ見よがしに則正にべたべたした。そうすればするほど、双葉の顔が歪むのが痛快だった。
 ただ、不思議なことにそんなにぎすぎすしながらも、三人で出かけたりレポートを書いたりした後、嫌な気分を引きずることはまずなかった。
「お前、こんなこともわかんないの?」
「そっちこそ、字、下手。読ませる気ゼロだろ」
 ずばずばと言い合って、腹を立てて、こいつマジでドブにはまれ! と刹那的に思うのに、家に帰ると不快感は残っていない。変な関係だと感じてはいた。
 そんなことが続いたある日、則正に言われた。
「柊真ってほんっとうに双葉と仲いいよなあ」
「は?!」
 その日はバイトがあると双葉が先に帰ったため、則正とふたりだけで講義室に残ってだらだらと話をしていた。
「なんで俺が石鈴なんかと仲良しだって思われてるわけ」
 少なからずショックだった。則正のことは中学のときから好きだったし、陽気で社交的だけれどおっちょこちょいの彼のことを陰ながらサポートし続けてきたのだ。もちろん、下心を持って。その相手にそんなことをさらっと言われたらさすがに悲しい。
 だがもちろん、則正にこちらの気持ちがわかるわけなどなく、彼はただただにこにこしている。
「いや、だって。ふたりとも気心知れてるって感じで遠慮なく話しするじゃん。今日だって双葉帰っちゃったらなんか柊真、寂しそうだし」
「寂しくなんてないし」
 そうだ。寂しいわけがない。むしろ邪魔者がいない今は至福の時といってもいい。
 則正は明るくて優しいが、人間ってものがやはりわかってない、と呆れたものだったが、彼にこう言われて以来、考えるようになった。
 双葉がいるときといないときの自分の心について。
 結果、双葉がいるとむかつくが……彼と話した夜はよく眠れるという事実を発見した。
 ただそれは、だからなんだ? という程度の小さな発見だった。ようするに好き勝手口論してエネルギーを消費しているというだけの話だろう。まあ、思ったより嫌いじゃないのかな、くらいには思ったけれど、その時点ではそれだけだった。
 それからしばらくして、則正に呼ばれ、飲み会に参加させられた。
「同じ講義取ってる井上っているだろ? あいつに誘われて。井上のサークルの先輩とかも来るらしいけど、柊真も来いよ」
「二十歳越えてないし、飲みはだめだろ、則正」
「わかってるわかってる。十代組はもちろんアルコール抜きだって」
 安心しろよ、とにこっと笑われて、くそ、相変わらずきらきらした目しやがって、と悶えつつ向かった飲み屋に双葉も来ていた。柊真の顔を見た双葉は、パブロフの犬かよ、と言いたくなるくらい反射的に嫌な顔をしたけれど、隣に座っても席を移動しようとまではしなかった。
 その日は十人ほどのメンバーが集まっていたが、顔を知ってはいてもそれほど接点もない人間との飲み会で、正直、面倒だな、という気分が勝ってはいた。それでも飲み会に参加したのは則正が羽目を外さないか心配だったからだ。どこでも楽しそうなのは良いことだけれど、酒を飲んだりしたらまずい。過保護、粘着質、と自分でも嫌になりつつ、それでも気になって則正の様子をさりげなくチェックしながら流れてくる話題に適当に相槌を打っていたそのとき、則正を誘ったという井上が大声で話し始めた。
「なあ、俺、ずっと気になってることあるんだけど」
「なに?」
 メンバーのうち、いい感じに出来上がっていたやつが反応する。井上は皆を見渡し、大真面目に言った。
「太陽ってすごくない? 毎日休みなく出たり入ったりしててさ。うちの親父より働いてると思う。あれどういう仕組みなんだろうね」
 沈黙が流れた。こういうの天使が通るって言うんだっけ、と思った直後、場がどっと沸いた。
「ちょ、井上! やばい、それはやばい! 太陽が出たり入ったりしてるんじゃなくて、地球が動いてるからそう見えるの。お前、まさか自転と公転、わかってないわけじゃないよな?」
「え、そんなの習った? ってか冬と夏で見える星が違うってのも超謎」
「習ったってか、世界の常識! お前、それでよく大学までこられたな」
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、まさかここまでとは……」
「いやほんと、今年一驚いたわ」
「え、え、そんな変? あ、そうそう! 俺、もう一個疑問あって。一オクターブってあるじゃん。あれって一億個のターブってことだよね?」
「それもなんかちがーう! しかもいきなり音楽かーい!」
 大声で皆が笑う。井上も笑っていた。ただ……その中で双葉だけが笑っていなかった。しかもそのまますっと席を立ってしまう。誰に告げるでもなく飲み屋を出る彼をとっさに追いかけた理由は、今でもよくわからない。
「石鈴」
 呼びかけると、不快感マックスの顔で双葉は振り向いた。
「なに。会費の徴収? 席に置いてきた。足りなかったら後で出すから」
「なに怒ってんの」
「別に怒ってない」
 速球を超高速で打ち返すバッターみたいな鋭い切り返しに顔が歪む。けれどもう少し話したくて、帰ろうとする双葉の腕を掴んだ。
「無理。そんな顔してたらわかる。なにが嫌だった? 井上の話? あいつのことみんなで馬鹿にしてる感じがしたから? けど、井上、わりとああいう話して笑い取るところあるやつだからあいつ自身は気にしてないと思うよ。多分だけど」
「そういうことが嫌だったわけじゃない。いや、まあそれもあるけど」
 立ち止まって話をしてもいいと思ってはくれたのか、こちらに向き直った双葉は額に落ちかかる柔らかそうな前髪をくしゃりと掻き上げる。
「俺が嫌だったのは……当たり前から外れた意見を口にした人間は馬鹿にしていいみたいな風潮。だって」
 そこまで言って興奮してきたのか、双葉はぎっとこちらを睨み上げてきた。
「コペルニクスやガリレオが太陽の周りを地球が回っているって言ったときの世界の常識は、空の方が動いていて、地面は止まっているってものだっただろ。あのころと事情は違って科学で地球の自転公転は目に見える形で実証されていることだとはいえ、あの場にいた人間の何人がそれを体感したことがあるんだ? その意味では天動説の時代と意識レベル大差なくないか? しかも今常識とされている説だって未来には新しい説にとって代わられるかもしれない。これまでの科学の歴史がそうだったようにさ。なのに、みんなで馬鹿にする感じがすごく嫌だし、気持ち悪い。突飛な説や素朴な疑問を口にしたら容赦なく叩かれる、そういう空気、俺は怖い」
 正直……驚いた。
 まさかこんなことを考えているなんて思わなかったし、こんなふうに自分とはまったく関係ないことで立腹するタイプだなんて知らなかった。
 面白いなと思った。むかつくとか、邪魔、とか、こいつを排除することばかり考えていたのが嘘みたいに、こいつの話もっと聞いてみたい、と強い欲求を覚えた。
 この飲み会以来、確実に自分が双葉へ向ける目は変わった。
 今日はどんなことを言うだろう。どんな角度からものを見るのだろう。
 ああ、辛いものは苦手なのか。ほうじ茶を飲んでいる姿をよく見るけれど、ココアを口にしているときのほうが顔が緩んでいる。ココア、好きなんだな。
 興味は尽きないまま、喧嘩腰を装って会話を続けた。双葉からしたら、腹立つやつが今日も絡んできやがった、くらいだったろうけれど、それでも構わなかった。
 やがて二年の秋になり、ゼミ選択の時期となった。そこで偶然とはいえ、双葉が自分と同じ石川ゼミを希望しているのを知ったとき、はっきりと感じた。
 うれしい、と。
 思えば……このころにはもう双葉を意識していたのかもしれない。ただ、まだ恋心と呼べるようなものでは当然なくて、則正のことを目で追ってもいた。
 それからまた少し時間が経って、冬が来たころ、偶然、あの男、畑中保を見かけた。