逃げ出すみたいに通りを戻り、適当な横道に入る。細いそこを抜けると川へと下りる階段があった。高めの段にもたつきながら下り、川沿いを走る。さっき柊真と並んで歩きながら見た川は、澄んだ輝きを宿していてただただ美しかったが、夕日で橙に染められた今はどうしようもなく寂しく見えた。
橙は暖かい色じゃない。ひとりだと思い知らされる色だ、と生まれて初めて思った。
「待って!」
泣きたいのか叫びたいのか、それもわからないままに駆けていると、背後から腕を掴まれた。勢い余ってつんのめる。
「石鈴!」
大声で名前が呼ばれる。誰かはわかっている。でも顔なんて見られない。闇雲に腕を振って逃れようとするけれど、手は外れなかった。反対にぐいと引き寄せられ、はずみでそちらを見てしまう。
思った通り、柊真の顔がすぐそばにあった。
「ごめん。石鈴」
「なにが?」
硬い声で謝られ、くすぶっていた埋火が一気に燃え上がった。理不尽極まりない怒りなのに止められなかった。
「お前、なんで謝ってるの?」
再び身をよじりながら双葉は怒鳴った。
「電話なんて好きに出ればいいんだよ。相手が則正ならなおさらそうだ。好きな相手からの電話だもん。そりゃ、出るよ。出て当然だよ。しかも則正は幼馴染なんだし、縁なんて切れない。お前が則正を諦めたってずっと繋がってる。これからだってずっと電話だってかかってくるし、かけるよな。俺にはしないだろうけど!」
そうだ、そうなのだ。
則正と柊真の関係は、恋心を媒介にしなくても繋がっていられる。自分には計り知れないくらいの長い長い時間によって培われた絆があるからだ。でも、自分はそうじゃない。
繋がろうとする意志がなければ繋がれない。切れたらそこで終わり。
終わり、なのだ。
この二日、ずっと隣にあり続けたその顔が片側だけ夕日に照らされているのを見つめているうち、目頭が熱くなってきた。
こんなの絶対おかしい。でも……でも……今、悲しいのは苦しいのは、則正が柊真にだけ電話したからじゃない。
終わってしまうから。この旅が終われば、自分と柊真の関係はきっともう続いていかないから。しかもそれを惜しんでいるのは、こんなふうに胸を騒がせているのは自分だけなのだ。
寂しがっているのは、自分だけなのだ。
「俺、楽しくて……お前といるの、すごく。この時間、終わんなきゃいいって、思っちゃってて。でもお前は違うよな。だって、さらっと言うくらいなんだもん、ひとりって」
「なんの話?」
柊真が眉を寄せてこちらを見る。その顔は見慣れている。則正と三人でいるとき、よくこんな顔を向けられた。お前なんか邪魔だと言いたげなその顔に、ますます苛立ちが募り、感情を爆発させた。
「言ってただろ! 則正に! 一人旅だって! 誰かと一緒に旅行に来てるって則正に知られたくなかったんだよな。忘れるって言ってもやっぱり忘れられないから、則正に誤解されたくなくてそう言ったんだろ! 結局さ、お前は則正を諦めるつもりなんて……」
「違う!」
強い声が遮る。手が伸びてきて掴まれていないほうの手首も捕まえられた。なんだよ放せよ、と暴れるけれど、彼の指は手首に絡んだままだ。
「全然違う。むしろ逆」
「逆ってなに! 言い訳すんなよ! ってかいいんだよ! 別に! 諦めないならそれはそれで! 応援するよ! お前が幸せなら、それで……」
ふっと脳裏を水色のお守りが横切った。
あのお守りはこいつを幸せにしてくれるだろうか。開運とか招福とか書いてあったからきっと大丈夫だろう。
こいつは自分だって苦しいくせに大事に大事に包もうとしてくれたから。
楽しめるように、笑えるように。寂しくて、痛くて、ひとりで立つのもしんどいと思っていたとき、優しく支えてくれたから。
そんなふうに誰かに温もりを与えられるやつだから。
だから、神様。こいつを幸せにしてやって。
ポケットの中の水色の貝殻に向かって双葉は願った。流れる川に、落ちて来る茜色の空に全身で祈ると、はらっと涙が落ちた。
「いい、から。ちゃんとお前、則正と」
話して。幸せになって。
いきなり左手首の戒めが解けた。双葉の手首から離れたその手は、過たず伸びてきて、落ちる涙を拭い去る。
一滴たりとも地面に落とすまいとするような丁寧なその手つきに胸がまた、とくり、と音を立てる。声もなく柊真の顔を見返すと、彼は一度唇を引き結んでからこちらを見た。
「それ、逆だから。ちゃんと話聞いて」
「逆って……なに」
ああ、拭われたけれどまだ止まらない。涙腺、壊れちゃったのだろうか、と不安になる双葉の涙を柊真はポケットから出したハンカチで押さえた。
「ひとりでいるって言ったのは、則正に取られたくなかったから」
「と、ら、れるって、あの、なにを」
どういう意味かわからない。たどたどしく問うと、わかってるくせに、と言いたげな目がこちらを睨む。次いで右手首に回されたままの指に力が籠った。
「もしあいつに言ったら、あいつは絶対言う。『ふたりでなんてずるいだろー。俺も行きたかったよ』って。悪気なく。無邪気に」
「あ、うん……」
唇を尖らせた顔まで想像がつく。涙を零しつつ苦笑したが、柊真は笑わなかった。
「でも俺は話したくない。この旅のこと。ひとかけらも則正と共有したくない。したら、減ってしまう気がするから」
「減る……?」
「俺と石鈴だけの時間が。それと」
すっと柊真が一歩歩を詰める。スニーカーの先と先が触れ合った。
「ふたりでいるときの石鈴の表情も声も全部。あれは俺だけに見せてくれたものだから。則正には絶対、渡したくない」
こいつはなにを言っているのだろう。これじゃ、まるで告白みたいだ。
いや、そんなはずはない。こいつは則正が好きで好きで仕方なかったはずなのだから。
そこまで思いめぐらせて双葉はふっと自由な片手で口許を覆う。
じゃあ、自分は?
自分だって思ってしまっていた。則正から電話をもらえる柊真に苛立ったのではなくて、この時間が続くことをただひたすらに願ってしまっていた……。
「石鈴、訊いて、いい?」
「な、に?」
動悸が収まらない。絶対、柊真にも伝わってしまっている。恥ずかしくて退こうとしたけれど、手首に絡められた手の力は強くてそれもできない。
「楽しかったって言ってくれた。この時間、終わらなきゃいいって。あれは本心?」
「あ……ええと、あの」
頷いてしまっていいのだろうか。頷いて……それで? そうなったら、自分達はどうなってしまうのだろう。第一、やっぱりわからない。
……お前は俺が則正を想うよりずっと、則正が好きだったはずだろう?
「っていうか……おかしくない? 俺達。傷心旅行だったのに。なんで、こんな。秋信だって困る、だろ。こんな……」
「ごめん」
柊真の口から零れたのは謝罪だった。瞼を閉じて柊真は数秒唇を噛んでからすっと目を上げた。
夕日が落ちてくる。斜陽に照らされて柊真の白目が金色に光った。
青く透けた白目を見て則正を好きになった、と語っていた柊真の白目を、息を詰めて見つめる双葉の前で、柊真はそっと笑った。泣き笑いみたいな、顔だった。
「俺は困らない。だって俺、石鈴のこと、好きになってた。多分、随分前から」
「え……」
呟きが川のせせらぎに溶けていく。ふわりと吹く風が彼の髪を乱す。二の句を告げず彼を見つめる双葉から柊真が顔を逸らす。白目の金色が見えなくなって少し、寂しかった。寂しい? と自分の心に慌てていると、手首から手がするっと解けた。
「風、出てきたし、車戻って話そう。風邪、引いたらいけないから」
橙は暖かい色じゃない。ひとりだと思い知らされる色だ、と生まれて初めて思った。
「待って!」
泣きたいのか叫びたいのか、それもわからないままに駆けていると、背後から腕を掴まれた。勢い余ってつんのめる。
「石鈴!」
大声で名前が呼ばれる。誰かはわかっている。でも顔なんて見られない。闇雲に腕を振って逃れようとするけれど、手は外れなかった。反対にぐいと引き寄せられ、はずみでそちらを見てしまう。
思った通り、柊真の顔がすぐそばにあった。
「ごめん。石鈴」
「なにが?」
硬い声で謝られ、くすぶっていた埋火が一気に燃え上がった。理不尽極まりない怒りなのに止められなかった。
「お前、なんで謝ってるの?」
再び身をよじりながら双葉は怒鳴った。
「電話なんて好きに出ればいいんだよ。相手が則正ならなおさらそうだ。好きな相手からの電話だもん。そりゃ、出るよ。出て当然だよ。しかも則正は幼馴染なんだし、縁なんて切れない。お前が則正を諦めたってずっと繋がってる。これからだってずっと電話だってかかってくるし、かけるよな。俺にはしないだろうけど!」
そうだ、そうなのだ。
則正と柊真の関係は、恋心を媒介にしなくても繋がっていられる。自分には計り知れないくらいの長い長い時間によって培われた絆があるからだ。でも、自分はそうじゃない。
繋がろうとする意志がなければ繋がれない。切れたらそこで終わり。
終わり、なのだ。
この二日、ずっと隣にあり続けたその顔が片側だけ夕日に照らされているのを見つめているうち、目頭が熱くなってきた。
こんなの絶対おかしい。でも……でも……今、悲しいのは苦しいのは、則正が柊真にだけ電話したからじゃない。
終わってしまうから。この旅が終われば、自分と柊真の関係はきっともう続いていかないから。しかもそれを惜しんでいるのは、こんなふうに胸を騒がせているのは自分だけなのだ。
寂しがっているのは、自分だけなのだ。
「俺、楽しくて……お前といるの、すごく。この時間、終わんなきゃいいって、思っちゃってて。でもお前は違うよな。だって、さらっと言うくらいなんだもん、ひとりって」
「なんの話?」
柊真が眉を寄せてこちらを見る。その顔は見慣れている。則正と三人でいるとき、よくこんな顔を向けられた。お前なんか邪魔だと言いたげなその顔に、ますます苛立ちが募り、感情を爆発させた。
「言ってただろ! 則正に! 一人旅だって! 誰かと一緒に旅行に来てるって則正に知られたくなかったんだよな。忘れるって言ってもやっぱり忘れられないから、則正に誤解されたくなくてそう言ったんだろ! 結局さ、お前は則正を諦めるつもりなんて……」
「違う!」
強い声が遮る。手が伸びてきて掴まれていないほうの手首も捕まえられた。なんだよ放せよ、と暴れるけれど、彼の指は手首に絡んだままだ。
「全然違う。むしろ逆」
「逆ってなに! 言い訳すんなよ! ってかいいんだよ! 別に! 諦めないならそれはそれで! 応援するよ! お前が幸せなら、それで……」
ふっと脳裏を水色のお守りが横切った。
あのお守りはこいつを幸せにしてくれるだろうか。開運とか招福とか書いてあったからきっと大丈夫だろう。
こいつは自分だって苦しいくせに大事に大事に包もうとしてくれたから。
楽しめるように、笑えるように。寂しくて、痛くて、ひとりで立つのもしんどいと思っていたとき、優しく支えてくれたから。
そんなふうに誰かに温もりを与えられるやつだから。
だから、神様。こいつを幸せにしてやって。
ポケットの中の水色の貝殻に向かって双葉は願った。流れる川に、落ちて来る茜色の空に全身で祈ると、はらっと涙が落ちた。
「いい、から。ちゃんとお前、則正と」
話して。幸せになって。
いきなり左手首の戒めが解けた。双葉の手首から離れたその手は、過たず伸びてきて、落ちる涙を拭い去る。
一滴たりとも地面に落とすまいとするような丁寧なその手つきに胸がまた、とくり、と音を立てる。声もなく柊真の顔を見返すと、彼は一度唇を引き結んでからこちらを見た。
「それ、逆だから。ちゃんと話聞いて」
「逆って……なに」
ああ、拭われたけれどまだ止まらない。涙腺、壊れちゃったのだろうか、と不安になる双葉の涙を柊真はポケットから出したハンカチで押さえた。
「ひとりでいるって言ったのは、則正に取られたくなかったから」
「と、ら、れるって、あの、なにを」
どういう意味かわからない。たどたどしく問うと、わかってるくせに、と言いたげな目がこちらを睨む。次いで右手首に回されたままの指に力が籠った。
「もしあいつに言ったら、あいつは絶対言う。『ふたりでなんてずるいだろー。俺も行きたかったよ』って。悪気なく。無邪気に」
「あ、うん……」
唇を尖らせた顔まで想像がつく。涙を零しつつ苦笑したが、柊真は笑わなかった。
「でも俺は話したくない。この旅のこと。ひとかけらも則正と共有したくない。したら、減ってしまう気がするから」
「減る……?」
「俺と石鈴だけの時間が。それと」
すっと柊真が一歩歩を詰める。スニーカーの先と先が触れ合った。
「ふたりでいるときの石鈴の表情も声も全部。あれは俺だけに見せてくれたものだから。則正には絶対、渡したくない」
こいつはなにを言っているのだろう。これじゃ、まるで告白みたいだ。
いや、そんなはずはない。こいつは則正が好きで好きで仕方なかったはずなのだから。
そこまで思いめぐらせて双葉はふっと自由な片手で口許を覆う。
じゃあ、自分は?
自分だって思ってしまっていた。則正から電話をもらえる柊真に苛立ったのではなくて、この時間が続くことをただひたすらに願ってしまっていた……。
「石鈴、訊いて、いい?」
「な、に?」
動悸が収まらない。絶対、柊真にも伝わってしまっている。恥ずかしくて退こうとしたけれど、手首に絡められた手の力は強くてそれもできない。
「楽しかったって言ってくれた。この時間、終わらなきゃいいって。あれは本心?」
「あ……ええと、あの」
頷いてしまっていいのだろうか。頷いて……それで? そうなったら、自分達はどうなってしまうのだろう。第一、やっぱりわからない。
……お前は俺が則正を想うよりずっと、則正が好きだったはずだろう?
「っていうか……おかしくない? 俺達。傷心旅行だったのに。なんで、こんな。秋信だって困る、だろ。こんな……」
「ごめん」
柊真の口から零れたのは謝罪だった。瞼を閉じて柊真は数秒唇を噛んでからすっと目を上げた。
夕日が落ちてくる。斜陽に照らされて柊真の白目が金色に光った。
青く透けた白目を見て則正を好きになった、と語っていた柊真の白目を、息を詰めて見つめる双葉の前で、柊真はそっと笑った。泣き笑いみたいな、顔だった。
「俺は困らない。だって俺、石鈴のこと、好きになってた。多分、随分前から」
「え……」
呟きが川のせせらぎに溶けていく。ふわりと吹く風が彼の髪を乱す。二の句を告げず彼を見つめる双葉から柊真が顔を逸らす。白目の金色が見えなくなって少し、寂しかった。寂しい? と自分の心に慌てていると、手首から手がするっと解けた。
「風、出てきたし、車戻って話そう。風邪、引いたらいけないから」



