お参りを終え、来たときに渡った橋を戻る。内宮全域に漂っていた、背筋をすっと正させてくれる清涼感のある空気が、橋を渡ってこっちへ戻って来るとすぐに、人の営みの気配へと顔を変えた気がして驚く。
橋とは常世と現世を繋ぐものなんて話もあるけれど、やはりそういうことなのかもしれない……などと神妙に考えていたのは数分。ふわりと鼻先をくすぐる食欲をそそる香り達に双葉は、自分の体がまぎれもなくこの世のものだと思い知らされた。
「食べたいものが多すぎる。煩悩が止まらない」
通りの両端にずらりと軒を連ねた店々に歓喜の声を上げる横で、柊真はスマホを忙しく操作している。
「石鈴、まずはなにが食べたい? 伊勢うどん食べられる店もあるっぽい。あと、ああ、松阪牛の串焼きとか」
「松阪牛だろ!」
迷わず即答する。柊真はくくっと笑ってスマホをポケットにしまった。
「よし、食べよう」
甘いものもしょっぱいものもふんだんにここにはあって、落ち着いて食べられる定食屋も買い食いが可能な店もあって、目移りしながらも、松阪牛ステーキの串焼き、牛肉コロッケ、あわび串、みたらし団子……と食べまくった。
「これ全部食べたら腹も財布も終わる」
「じゃ、シェアってことで」
食べ歩きが始まった時点で柊真がそう言ってくれたおかげでたくさんの味を楽しめてほくほくもしたけれど、一方で戸惑ってもいた。
こういうのは……付き合っている相手とするものじゃないだろうか。
「残り、ちょうだい」
半分かじった牛鍋まんを奪われながら双葉は困惑する。柊真は牛鍋まんをぱくつきながら通りを眺めている。いつも通りの涼しげな眼差しで。
……こいつは、なにも感じないのだろうか。
ぐるぐるしていると、わ、イケメン、と誰かが言う声を耳が拾った。声はまっすぐにこちらに向けられている。こっち来たら嫌だな、と思ったけれど、こういう不安は大抵現実になってしまう。
「あの、ご旅行ですか?」
二人組の女子が近づいてくるのが見えた。自分達とそう歳は変わらなそうだ。そのうちのひとり、長い髪をふわっと肩に下ろしたほうが尋ねる。彼等の目当ては柊真ひとりのようでこちらには注意を払われていない。
こいつも傷心旅行ってやつだし、ナンパされるのも悪くないのかな、という思いが胸を過った。だとするならここに自分が留まっているのは野暮というものだろうか。
ただもやっとした。怒りに限りなく近いもやっとだった。自分だけが無視されたからかと思ったけれど、ちょっと違う。
よくわからないが、この場所に居続けるのを不快と感じているのは確かだ。双葉は店を覗くふりをして、すっと彼らに背中を向けた。距離を取ろうと一歩踏み出す。が、それ以上前進はできなかった。
背後から伸びた柊真の手によって、肩が掴まれていた。
「旅行です」
不愛想極まりない声と共に手に力が籠り、引き寄せられる。ふわっと柊真の体温が近くなり、とん、と肩が彼の胸に当たった。ちょっと、と制止しようとしたが、それを許さない素早さで彼が言い捨てた。
「だから、放っといて」
そのまま返事も待たず、歩き出してしまう。今の声音には聞き覚えがある。則正の隣にいる自分に放ってきたものと同じ類のものだ。あの言い方はまあまあこたえるのを自分だけは知っている。振り返って彼女達の反応を確認する勇気はさすがになかったが、心配になり、双葉は小声で彼をたしなめた。
「ちょ、だめだろ」
「なにが」
「だって、失恋の傷癒すには新しい出会いが必要とかなんとか言わない? 今のはお前にとって願ってもない機会なのに。それをあんな」
「新しい出会いなんていらない」
思った以上に激しい口ぶりで言い返される。こいつなんで怒ってるんだ、と唖然としているうちに、肩に回されていた腕にくっと力が込められた。
「今、楽しいから。邪魔されたくない」
耳に落ちてきたのは……切実な、声。
心底嫌そうに眉を寄せた彼の顔をしばらく見つめてから、双葉は俯く。
――楽しい。
彼の口から出たその単語に胸がじわっと熱くなった。
「おんなじ……」
彼に届かないように息だけで呟き、目を伏せる。
ふうっと深く息を吐くと、柊真がこちらを見下ろすのがわかった。
……お前も楽しいと思っていてくれて、よかった。
言いたいけれど、言っていいのかわからない。だから今、言えることを言うことにした。
「次は、甘いの、食べたい」
柊真が瞠目する。次いで柔らかく、笑みの形に目が細められた。
それは学校では滅多にしなかった表情で、この旅で彼が見せてくれるようになった顔だった。それが自分にだけ、向けられている。
意識した瞬間、どきん、と激しく心臓が鳴った。おかしすぎるリズムの鼓動が彼に伝わってしまいそうで怖くて、双葉は慌てて柊真の腕から抜け出す。
「あ、あの、ほら、お前も寒いんじゃないかなって。ぜんざい、とか食べたら温かくなるし」
柊真はなにか言いたげに唇を半開きにしてこちらを凝視している。数秒そのままの顔でいてから彼はすっと通りの先を指さした。
「赤福の本店あるらしい。そこ、行く?」
ややあって彼の整った唇から出たのは、多分、彼が本当に言いたかったことじゃなかったと思う。
それでも双葉は頷いた。楽しい旅を続けたかったから。
なのに、おかしい。
目当ての店で向かい合ってぜんざいを食べていても、心音は収まらなかった。それどころか目の前の彼を直視することもできなくなってきた。
ぜんざいの入ったお椀を持ち上げる手も。湯気が立つ湯呑に寄せられる唇も。こちらを見る深い色をした目も。
パーツでさえ見ていられない。
焼いたお餅につぶあんがたっぷりのぜんざいも、きっと本来なら体の芯からリラックスできる絶品のはずなのに、なぜか全然味がわからない。
理由がわからなくておろおろしている間に、ぜんざいだけが機械的に胃袋へと流し込まれていく。
柊真も空気の重さを感じているのだろうか。話しかけてもこないし、先ほどまであった笑顔は完全に消えている。
無言だったからか、ふたりとも五分とかからず平らげてしまった。
「出ようか」
柊真に促され店を出ると、日はかなり傾いていた。この後は特に予定もない。昨日みたいに軽くどこかで夕飯を摂って、ビジネスホテルにチェックインするだけだ。この気まずい空気のまま。
そういえば昨日もそうだった。途中まで楽しかったのに変な空気になって、落ち着かなくてふたりとも早々に寝た。朝起きたらどうなるのだろうと心配もしていたけれど、今朝は柊真がまったくいつも通りだったから自分も変わらずにいられた。
でも、明日の朝はだめな気がする。柊真がどうとかじゃない。自分が無理だ。
なんでこうなったのだろう。さっきまでは普通だった。楽しかったし、笑えていた。なぜこんな状態になった?
西日に照らされた商店街へと並んで踏み出したが、思考の乱れは収まらないし、答えも出ない。
その双葉の耳をなにかの音が掠める。音を辿って視線を彷徨わせると、柊真がコートのポケットに手を入れるところだった。ポケットから解き放たれたスマホが、情緒豊かな街並みに不似合いなバイブ音で着信を叫ぶ。ぷらり、と揺れたのは、ぶら下げられた貝殻型のお守り。
揺れる水色に張りつめていた心がふわっと緩みかけたが、そこで双葉は固まった。
柊真の手に包まれていたスマホの画面が見えた。
「則正」
口が勝手に読み上げてしまう。柊真がこちらを見る。ごめん、と詫びつつ、双葉は顔を背けた。
「出ろよ」
「いや。でも」
珍しく柊真が迷っているのが後頭部に伝わってくる。そのいつもと違う彼の声の揺れが神経を逆なでした。
「連絡ないって心配してくれてるんだろ。安心させてやれよ」
「だけど」
「俺のことはいいから!」
怒鳴ると、通りのざわめきが一瞬静まった。はっと口を押さえ、双葉はその場から足早に離れる。背中で柊真が、ああ、旅行、と言う声が聞こえた。続いてもう一言。
「いや、ひとり」
ひとり。
その単語が耳に届くや否や、双葉は走り出していた。
橋とは常世と現世を繋ぐものなんて話もあるけれど、やはりそういうことなのかもしれない……などと神妙に考えていたのは数分。ふわりと鼻先をくすぐる食欲をそそる香り達に双葉は、自分の体がまぎれもなくこの世のものだと思い知らされた。
「食べたいものが多すぎる。煩悩が止まらない」
通りの両端にずらりと軒を連ねた店々に歓喜の声を上げる横で、柊真はスマホを忙しく操作している。
「石鈴、まずはなにが食べたい? 伊勢うどん食べられる店もあるっぽい。あと、ああ、松阪牛の串焼きとか」
「松阪牛だろ!」
迷わず即答する。柊真はくくっと笑ってスマホをポケットにしまった。
「よし、食べよう」
甘いものもしょっぱいものもふんだんにここにはあって、落ち着いて食べられる定食屋も買い食いが可能な店もあって、目移りしながらも、松阪牛ステーキの串焼き、牛肉コロッケ、あわび串、みたらし団子……と食べまくった。
「これ全部食べたら腹も財布も終わる」
「じゃ、シェアってことで」
食べ歩きが始まった時点で柊真がそう言ってくれたおかげでたくさんの味を楽しめてほくほくもしたけれど、一方で戸惑ってもいた。
こういうのは……付き合っている相手とするものじゃないだろうか。
「残り、ちょうだい」
半分かじった牛鍋まんを奪われながら双葉は困惑する。柊真は牛鍋まんをぱくつきながら通りを眺めている。いつも通りの涼しげな眼差しで。
……こいつは、なにも感じないのだろうか。
ぐるぐるしていると、わ、イケメン、と誰かが言う声を耳が拾った。声はまっすぐにこちらに向けられている。こっち来たら嫌だな、と思ったけれど、こういう不安は大抵現実になってしまう。
「あの、ご旅行ですか?」
二人組の女子が近づいてくるのが見えた。自分達とそう歳は変わらなそうだ。そのうちのひとり、長い髪をふわっと肩に下ろしたほうが尋ねる。彼等の目当ては柊真ひとりのようでこちらには注意を払われていない。
こいつも傷心旅行ってやつだし、ナンパされるのも悪くないのかな、という思いが胸を過った。だとするならここに自分が留まっているのは野暮というものだろうか。
ただもやっとした。怒りに限りなく近いもやっとだった。自分だけが無視されたからかと思ったけれど、ちょっと違う。
よくわからないが、この場所に居続けるのを不快と感じているのは確かだ。双葉は店を覗くふりをして、すっと彼らに背中を向けた。距離を取ろうと一歩踏み出す。が、それ以上前進はできなかった。
背後から伸びた柊真の手によって、肩が掴まれていた。
「旅行です」
不愛想極まりない声と共に手に力が籠り、引き寄せられる。ふわっと柊真の体温が近くなり、とん、と肩が彼の胸に当たった。ちょっと、と制止しようとしたが、それを許さない素早さで彼が言い捨てた。
「だから、放っといて」
そのまま返事も待たず、歩き出してしまう。今の声音には聞き覚えがある。則正の隣にいる自分に放ってきたものと同じ類のものだ。あの言い方はまあまあこたえるのを自分だけは知っている。振り返って彼女達の反応を確認する勇気はさすがになかったが、心配になり、双葉は小声で彼をたしなめた。
「ちょ、だめだろ」
「なにが」
「だって、失恋の傷癒すには新しい出会いが必要とかなんとか言わない? 今のはお前にとって願ってもない機会なのに。それをあんな」
「新しい出会いなんていらない」
思った以上に激しい口ぶりで言い返される。こいつなんで怒ってるんだ、と唖然としているうちに、肩に回されていた腕にくっと力が込められた。
「今、楽しいから。邪魔されたくない」
耳に落ちてきたのは……切実な、声。
心底嫌そうに眉を寄せた彼の顔をしばらく見つめてから、双葉は俯く。
――楽しい。
彼の口から出たその単語に胸がじわっと熱くなった。
「おんなじ……」
彼に届かないように息だけで呟き、目を伏せる。
ふうっと深く息を吐くと、柊真がこちらを見下ろすのがわかった。
……お前も楽しいと思っていてくれて、よかった。
言いたいけれど、言っていいのかわからない。だから今、言えることを言うことにした。
「次は、甘いの、食べたい」
柊真が瞠目する。次いで柔らかく、笑みの形に目が細められた。
それは学校では滅多にしなかった表情で、この旅で彼が見せてくれるようになった顔だった。それが自分にだけ、向けられている。
意識した瞬間、どきん、と激しく心臓が鳴った。おかしすぎるリズムの鼓動が彼に伝わってしまいそうで怖くて、双葉は慌てて柊真の腕から抜け出す。
「あ、あの、ほら、お前も寒いんじゃないかなって。ぜんざい、とか食べたら温かくなるし」
柊真はなにか言いたげに唇を半開きにしてこちらを凝視している。数秒そのままの顔でいてから彼はすっと通りの先を指さした。
「赤福の本店あるらしい。そこ、行く?」
ややあって彼の整った唇から出たのは、多分、彼が本当に言いたかったことじゃなかったと思う。
それでも双葉は頷いた。楽しい旅を続けたかったから。
なのに、おかしい。
目当ての店で向かい合ってぜんざいを食べていても、心音は収まらなかった。それどころか目の前の彼を直視することもできなくなってきた。
ぜんざいの入ったお椀を持ち上げる手も。湯気が立つ湯呑に寄せられる唇も。こちらを見る深い色をした目も。
パーツでさえ見ていられない。
焼いたお餅につぶあんがたっぷりのぜんざいも、きっと本来なら体の芯からリラックスできる絶品のはずなのに、なぜか全然味がわからない。
理由がわからなくておろおろしている間に、ぜんざいだけが機械的に胃袋へと流し込まれていく。
柊真も空気の重さを感じているのだろうか。話しかけてもこないし、先ほどまであった笑顔は完全に消えている。
無言だったからか、ふたりとも五分とかからず平らげてしまった。
「出ようか」
柊真に促され店を出ると、日はかなり傾いていた。この後は特に予定もない。昨日みたいに軽くどこかで夕飯を摂って、ビジネスホテルにチェックインするだけだ。この気まずい空気のまま。
そういえば昨日もそうだった。途中まで楽しかったのに変な空気になって、落ち着かなくてふたりとも早々に寝た。朝起きたらどうなるのだろうと心配もしていたけれど、今朝は柊真がまったくいつも通りだったから自分も変わらずにいられた。
でも、明日の朝はだめな気がする。柊真がどうとかじゃない。自分が無理だ。
なんでこうなったのだろう。さっきまでは普通だった。楽しかったし、笑えていた。なぜこんな状態になった?
西日に照らされた商店街へと並んで踏み出したが、思考の乱れは収まらないし、答えも出ない。
その双葉の耳をなにかの音が掠める。音を辿って視線を彷徨わせると、柊真がコートのポケットに手を入れるところだった。ポケットから解き放たれたスマホが、情緒豊かな街並みに不似合いなバイブ音で着信を叫ぶ。ぷらり、と揺れたのは、ぶら下げられた貝殻型のお守り。
揺れる水色に張りつめていた心がふわっと緩みかけたが、そこで双葉は固まった。
柊真の手に包まれていたスマホの画面が見えた。
「則正」
口が勝手に読み上げてしまう。柊真がこちらを見る。ごめん、と詫びつつ、双葉は顔を背けた。
「出ろよ」
「いや。でも」
珍しく柊真が迷っているのが後頭部に伝わってくる。そのいつもと違う彼の声の揺れが神経を逆なでした。
「連絡ないって心配してくれてるんだろ。安心させてやれよ」
「だけど」
「俺のことはいいから!」
怒鳴ると、通りのざわめきが一瞬静まった。はっと口を押さえ、双葉はその場から足早に離れる。背中で柊真が、ああ、旅行、と言う声が聞こえた。続いてもう一言。
「いや、ひとり」
ひとり。
その単語が耳に届くや否や、双葉は走り出していた。



