伊勢神宮には地元の神社とは違う部分が多々ある。
たとえば、外宮から参ってから内宮へ行くことが作法、だとか。
おみくじはない、とか。
「おみくじ、ないのか……」
「石鈴はおみくじ信じるタイプ、だろうな、なんとなく」
「どういう意味だよ」
軽口を叩きあいながら伊勢神宮外宮を回る。ケスターくん探しに随分時間を食ってしまったから、早回しでお参りをしたいのに、木々が頭上を覆い隠してくれるこの外宮の空気がたまらなく心地よくて少しも足は早まらない。
それと。
肩にとん、と触れる、肩。
どきっとする。どうしていいかわからなくなる。変だ。ふわふわする。
「内宮の駐車場、数は結構あるけど、近すぎる場所だといっぱいになってることもあるみたいだから、川沿いのここに止めようと思う。いい?」
参拝を終え車に戻ると、ナビを指し示しながら柊真が言う。その彼の指先に意識を集中しようと躍起になりつつ、うん、と双葉は頷く。
「任せる。ってか、全部任せてごめん」
「いいよ」
しかも、ごめん、が素直に言えるようになってしまっている。柊真の、いいよ、も引っかかりがない。馴染んでいる。いるけど、やっぱり双葉は考えてしまう。
この旅は明日には終わる。今日一泊して、明日の昼過ぎには帰り道を辿らなければならない。その道の先にあるのは元の生活だ。
でも戻った先、自分達はどんな顔で日々を送るようになるのだろう。
もうお互いに歯を剥き合う関係じゃいられない。じゃあ、普通の友達になるのか? 一緒に講義を受けて、ゼミのレポートを書いて。時々は居酒屋に行って、ごくたまに家でカレー鍋をしたり、して。
――俺がそばにいるから。
そばにいる、はいつまでを想定した台詞だった?
考えると胸の奥がきゅっと狭くなる。けれど今は……まだ。
「腹、減った」
体の声を素直に口に出すと、柊真が運転席で笑った。
「じゃあお参りはさらっとにして、買い食いに時間多めに取ろうか」
「ああ、そっか。なんかあの辺り、おかげ横丁だっけ? 食べるところいっぱいあるんだったよな」
弾んだ声を出す双葉に柊真は運転しながら横顔だけで頷く。その口許はふわりと綻んでいた。
外宮から内宮は車で十分ほどだった。渋滞もなくすいすいと辿り着いた駐車場は内宮から離れているはずだけれど、車の姿はそれなりにあった。
「平日だけど人、結構いるな」
「平日でこれくらいだと土日はさぞすごいんだろうなってちょっと怖くなる」
そんなことを口々に言いながら並んで歩く。
駐車場は大きな川沿いにあり、伊勢神宮内宮はその川を渡った先にあった。
繁った葉がアーケードのように頭上を覆っていた外宮に比べ、内宮は広く開けていて、太陽の光が直接脳天に落ちてくる。しかもそれだけではなく、
「普通に川なんだけど! ここで手、洗っていいの?」
数段ほどの階段を下った先に流れているのは、川だった。覗き込むと水底の石がしっかりと見えるほど透明度が高い。その澄み切った川のほとりで、参拝客が皆、鈴なりになって手をすすいでいる。その様子はそのまま儀式めいて見えて、双葉はとっさに声を潜めた。
「浄化されそう。煩悩とか、消えそう……違うか、煩悩は仏教の考え方だっけ」
「石鈴の消したい煩悩ってなに?」
「俺は……」
また難しいことを。双葉は川岸にしゃがみながら思案する。
煩悩。人間にとって苦しみの元となってしまう欲。執着。
真っ先に浮かんだのは、則正の顔だった。則正が畑中と一緒にいて笑っている顔が脳の奥で重みを伴って蘇ってくる。
ああ、やっぱりまだ消えてくれないか……と溜め息を零しながら冷たい川の水に手を差し入れる。その双葉の背中が軽い手つきで押された。前屈みになっていたのでそのまま川のほうに倒れそうになり、え、うそ、と思ったが、転げ落ちることはなかった……背を叩いた手によってぐいと肩を引き戻されたために。
「減点」
お前、ふざけるなよ! と怒鳴ろうとする自分のすぐそばから聞こえてきたのは、笑みのない声だった。
「また、思い出してた」
「……なんでそう勝手に人の心を覗くの」
「勝手にじゃない。石鈴がそういう顔をするだけ」
「そういう?」
外気から隔てようとするように肩を包んでいた腕がすっと離れる。そろそろと隣を見ると、川の水で手をゆすぎながら柊真が言った。
「切なそうな、痛そうな、顔」
「してないよ」
とは言ったけれど、柊真が言うなら多分していたのだろう。だってこいつはあまりにも長い間、則正を見ていたのだから……則正の周りにいる人間の顔だって嫌でも見えてしまうのだろうから。
「そんなこと言うお前だって煩悩、あるだろ」
なんだかいらいらする。洗い終わった手を外気で冷やしながら問いかけたが返事はない。清めた手はハンカチで拭かないほうがいいと言っていたのは誰だったか。忘れたけれど、その教えを守り続ける双葉の横で、柊真も手を自然乾燥しているようだ。
寒いのに川で洗ってこいつまた手、冷えちゃうのかな、と心配になって彼の手を見ると、その手が双葉の片手を包んできた。どきっとして、重ねられた手に目を落とす。
自分の手を覆ったその手はやはり、冷たかった。
「俺、手、濡れてる。秋信、冷えちゃうから」
「うん。だからこうしてる。石鈴、寒そうにしてたし、俺も寒かったから」
さらっと言う。なに言ってんだ馬鹿、と顔を赤くする双葉の手を引いて柊真は川のほとりから退く。各々楽しげに会話しながら参拝客がさっきまで自分達が手を洗っていた場所へと収まっていく。
「清められたのに俺の手掴んじゃったら意味なくなるだろ。もう一回洗えよ」
照れ臭さと、少し前に覚えた正体不明の苛立ちがないまぜになった気持ちのまま言うと、柊真は軽く肩をすくめた。
「いい。どうせ洗っても煩悩なんて完全に消えたりしない。だったらこのままがいい」
こいつの煩悩。想像したらやっぱりむかむかした。ぱっと手を払い、双葉は歩き出す。
「お参りさっさとしよう。本気で空腹」
「石鈴は手、洗わなくていい?」
「は?」
「俺と手、繋いじゃったけど」
「なに言ってんだよ」
自分もさっき同じことを言ったくせに胸がざわつく。なににそんなに引っかかっているのか、自分でも判然としないまま、双葉は白砂へと足を踏み出す。
「ほら、行くぞ」
「石鈴」
背後から柊真が呼ぶ。なんだよ、と勢いよく振り向くと、柊真は小首を傾げてこちらを見てから、進行方向とは逆を指さした。
「道、逆。本殿はあっち」
「……あ」
くそ、方向音痴の自分が恨めしい。くるっと方向転換するといきなり袖が掴まれた。
「なに」
放せ、と言いたかった。その気配を先取りしたように、ふるっと柊真が髪を揺らすように頭を振る。
「放牧しててどっか行かれると困るから。いい?」
いい? と言いながら返事も聞かず、双葉の袖を掴んだ状態で歩き出す。その柊真の上にも自分の上にも陽光は燦燦と降り注ぐ。放牧とかめちゃくちゃ失礼な言い様だし、人を牛扱いするな馬鹿、と怒鳴って突っぱねてもいい案件だけれど、眩しすぎる光がそれをやんわりと止めた。
だから黙っていた。大きな腕でそうっと抱きしめてくれるような日差しの中、ふたりで歩いた。
たとえば、外宮から参ってから内宮へ行くことが作法、だとか。
おみくじはない、とか。
「おみくじ、ないのか……」
「石鈴はおみくじ信じるタイプ、だろうな、なんとなく」
「どういう意味だよ」
軽口を叩きあいながら伊勢神宮外宮を回る。ケスターくん探しに随分時間を食ってしまったから、早回しでお参りをしたいのに、木々が頭上を覆い隠してくれるこの外宮の空気がたまらなく心地よくて少しも足は早まらない。
それと。
肩にとん、と触れる、肩。
どきっとする。どうしていいかわからなくなる。変だ。ふわふわする。
「内宮の駐車場、数は結構あるけど、近すぎる場所だといっぱいになってることもあるみたいだから、川沿いのここに止めようと思う。いい?」
参拝を終え車に戻ると、ナビを指し示しながら柊真が言う。その彼の指先に意識を集中しようと躍起になりつつ、うん、と双葉は頷く。
「任せる。ってか、全部任せてごめん」
「いいよ」
しかも、ごめん、が素直に言えるようになってしまっている。柊真の、いいよ、も引っかかりがない。馴染んでいる。いるけど、やっぱり双葉は考えてしまう。
この旅は明日には終わる。今日一泊して、明日の昼過ぎには帰り道を辿らなければならない。その道の先にあるのは元の生活だ。
でも戻った先、自分達はどんな顔で日々を送るようになるのだろう。
もうお互いに歯を剥き合う関係じゃいられない。じゃあ、普通の友達になるのか? 一緒に講義を受けて、ゼミのレポートを書いて。時々は居酒屋に行って、ごくたまに家でカレー鍋をしたり、して。
――俺がそばにいるから。
そばにいる、はいつまでを想定した台詞だった?
考えると胸の奥がきゅっと狭くなる。けれど今は……まだ。
「腹、減った」
体の声を素直に口に出すと、柊真が運転席で笑った。
「じゃあお参りはさらっとにして、買い食いに時間多めに取ろうか」
「ああ、そっか。なんかあの辺り、おかげ横丁だっけ? 食べるところいっぱいあるんだったよな」
弾んだ声を出す双葉に柊真は運転しながら横顔だけで頷く。その口許はふわりと綻んでいた。
外宮から内宮は車で十分ほどだった。渋滞もなくすいすいと辿り着いた駐車場は内宮から離れているはずだけれど、車の姿はそれなりにあった。
「平日だけど人、結構いるな」
「平日でこれくらいだと土日はさぞすごいんだろうなってちょっと怖くなる」
そんなことを口々に言いながら並んで歩く。
駐車場は大きな川沿いにあり、伊勢神宮内宮はその川を渡った先にあった。
繁った葉がアーケードのように頭上を覆っていた外宮に比べ、内宮は広く開けていて、太陽の光が直接脳天に落ちてくる。しかもそれだけではなく、
「普通に川なんだけど! ここで手、洗っていいの?」
数段ほどの階段を下った先に流れているのは、川だった。覗き込むと水底の石がしっかりと見えるほど透明度が高い。その澄み切った川のほとりで、参拝客が皆、鈴なりになって手をすすいでいる。その様子はそのまま儀式めいて見えて、双葉はとっさに声を潜めた。
「浄化されそう。煩悩とか、消えそう……違うか、煩悩は仏教の考え方だっけ」
「石鈴の消したい煩悩ってなに?」
「俺は……」
また難しいことを。双葉は川岸にしゃがみながら思案する。
煩悩。人間にとって苦しみの元となってしまう欲。執着。
真っ先に浮かんだのは、則正の顔だった。則正が畑中と一緒にいて笑っている顔が脳の奥で重みを伴って蘇ってくる。
ああ、やっぱりまだ消えてくれないか……と溜め息を零しながら冷たい川の水に手を差し入れる。その双葉の背中が軽い手つきで押された。前屈みになっていたのでそのまま川のほうに倒れそうになり、え、うそ、と思ったが、転げ落ちることはなかった……背を叩いた手によってぐいと肩を引き戻されたために。
「減点」
お前、ふざけるなよ! と怒鳴ろうとする自分のすぐそばから聞こえてきたのは、笑みのない声だった。
「また、思い出してた」
「……なんでそう勝手に人の心を覗くの」
「勝手にじゃない。石鈴がそういう顔をするだけ」
「そういう?」
外気から隔てようとするように肩を包んでいた腕がすっと離れる。そろそろと隣を見ると、川の水で手をゆすぎながら柊真が言った。
「切なそうな、痛そうな、顔」
「してないよ」
とは言ったけれど、柊真が言うなら多分していたのだろう。だってこいつはあまりにも長い間、則正を見ていたのだから……則正の周りにいる人間の顔だって嫌でも見えてしまうのだろうから。
「そんなこと言うお前だって煩悩、あるだろ」
なんだかいらいらする。洗い終わった手を外気で冷やしながら問いかけたが返事はない。清めた手はハンカチで拭かないほうがいいと言っていたのは誰だったか。忘れたけれど、その教えを守り続ける双葉の横で、柊真も手を自然乾燥しているようだ。
寒いのに川で洗ってこいつまた手、冷えちゃうのかな、と心配になって彼の手を見ると、その手が双葉の片手を包んできた。どきっとして、重ねられた手に目を落とす。
自分の手を覆ったその手はやはり、冷たかった。
「俺、手、濡れてる。秋信、冷えちゃうから」
「うん。だからこうしてる。石鈴、寒そうにしてたし、俺も寒かったから」
さらっと言う。なに言ってんだ馬鹿、と顔を赤くする双葉の手を引いて柊真は川のほとりから退く。各々楽しげに会話しながら参拝客がさっきまで自分達が手を洗っていた場所へと収まっていく。
「清められたのに俺の手掴んじゃったら意味なくなるだろ。もう一回洗えよ」
照れ臭さと、少し前に覚えた正体不明の苛立ちがないまぜになった気持ちのまま言うと、柊真は軽く肩をすくめた。
「いい。どうせ洗っても煩悩なんて完全に消えたりしない。だったらこのままがいい」
こいつの煩悩。想像したらやっぱりむかむかした。ぱっと手を払い、双葉は歩き出す。
「お参りさっさとしよう。本気で空腹」
「石鈴は手、洗わなくていい?」
「は?」
「俺と手、繋いじゃったけど」
「なに言ってんだよ」
自分もさっき同じことを言ったくせに胸がざわつく。なににそんなに引っかかっているのか、自分でも判然としないまま、双葉は白砂へと足を踏み出す。
「ほら、行くぞ」
「石鈴」
背後から柊真が呼ぶ。なんだよ、と勢いよく振り向くと、柊真は小首を傾げてこちらを見てから、進行方向とは逆を指さした。
「道、逆。本殿はあっち」
「……あ」
くそ、方向音痴の自分が恨めしい。くるっと方向転換するといきなり袖が掴まれた。
「なに」
放せ、と言いたかった。その気配を先取りしたように、ふるっと柊真が髪を揺らすように頭を振る。
「放牧しててどっか行かれると困るから。いい?」
いい? と言いながら返事も聞かず、双葉の袖を掴んだ状態で歩き出す。その柊真の上にも自分の上にも陽光は燦燦と降り注ぐ。放牧とかめちゃくちゃ失礼な言い様だし、人を牛扱いするな馬鹿、と怒鳴って突っぱねてもいい案件だけれど、眩しすぎる光がそれをやんわりと止めた。
だから黙っていた。大きな腕でそうっと抱きしめてくれるような日差しの中、ふたりで歩いた。



