「石鈴、石鈴ってば。いい加減起きろ」
翌朝、双葉を叩き起こしたのは、不機嫌丸出しの柊真の声だった。
「え……今、何時……? 早くない?」
夕べはあれこれ考えてしまったせいであまり眠れなかったのだ。不満を覚えつつ起き上がると、こちらを見下ろしていた柊真がこれみよがしな溜め息をつきながらスマホを見た。
「七時半」
柊真のスマホにぶら下げられていたレトロなタコ型宇宙人のマスコットが揺れる。あれは則正からもらったものだ。双葉のスマホにくっついているのと同じもの。
「朝飯、コンビニで買ってきた。食べたら出たいけど、大丈夫?」
「……ん」
揺れる宇宙人からそろそろと目を離す。則正からのプレゼントを未だに身に着けているところも含め、スマホを睨む柊真の様子は驚くくらいいつも通りで、双葉は拍子抜けした。
もっと……普通じゃない顔をされるかも、と思っていたのに。
「コーヒー淹れるけど、石鈴も飲む?」
きびきびした仕草で柊真が電気ケトルをセットする。うん、とくぐもった声で頷きながら双葉はそっとかぶりを振った。
考えるのはやめよう。どうせ答えなんて出ない。柊真がなんであんなことをしたのかもそうだけれど、あのとき覚えた感覚だってよくわからない。
ただ、思う。あのとき、テレビが点いていなかったらどうなっていただろう、と。
キス、されていたかも。しかも……自分はそれを許していた、かも。
「ないないないない!」
「なに、どした?」
うるさそうに柊真がこちらを眺めている。
……この野郎。一体、誰のせいでこんな百面相していると思ってるんだ。
そう思ったら怒りが湧いてきた。
「さっさとコーヒー淹れろ。俺は苦いのは飲めない。砂糖とミルクはたっぷりな!」
「なに、そのパワハラ上司みたいな言い方」
広い肩をすくめつつも柊真がふっと笑う。こぽこぽと紙コップにお湯が注がれ、ベッドに腰掛けたままの双葉に向かって差し出された。
「ほら、砂糖もミルクもたっぷりだよ、部長」
「誰が部長だ」
たどたどしくなってしまいそうな手つきをごまかすように素早くカップを奪い取り、そそくさと口をつける。
……砂糖とミルクがふんだんに入れられたそれは確かに甘かった。というか甘すぎた。
「今日はここから歩いてすぐの夫婦岩に行って、その後、車で移動。伊勢神宮の外宮、内宮へ訪問予定です」
ホテルをチェックアウトし、車に荷物を放り込んで歩き出す。今日のスケジュールを秘書めいた口ぶりで淡々と告げる柊真に、わかった、とそれこそ部長のように鷹揚に頷きつつ、双葉は周囲を見回した。車を止めた駐車場は海岸沿いにあったため、少し歩いただけで朝の光に霞む水平線が一望できた。
「海、いいなあ」
自然と声が出た。柊真も、うん、と頷き、長く伸びる浜の先を指さす。
「ここまっすぐ歩くと夫婦岩がある。散歩しつつ行こう」
「スケジュール厳しくないの? そんな悠長で平気?」
「別に急ぐ旅でもないだろ」
言いつつ、さらっと前髪を掻き上げる。眩し気に波間を見、コートのポケットからスマホを取り出した彼は、さらさらとさざめく海に向かい、ぱしゃり、とシャッターボタンを押した。
「石鈴」
そういえばあんまり写真を撮っていなかったな、と柊真に倣ってスマホを引っ張り出そうとすると、声がかかった。え、とそちらに顔を向けたと同時に、ぱしゃり、とシャッター音が響く。
「こら! 撮るなよ!」
「お前を撮ったわけじゃない。ほら、石鈴の後ろにカモメがいたから」
と、柊真は否定するが明らかに目が笑っている。なんだよ、もう! と怒った顔をしつつ、ああよかった、昨日までの秋信だ、と安堵する。が、その柊真の手元を見て双葉は瞠目した。
「秋信、それ!」
「それ?」
「ケスターくんがいない!」
「ケスターくん?」
不思議そうな柊真に向かって自身のスマホを突き出す。ぶらん、とタコ型宇宙人が揺れた。
「これ! 負け犬ヘヴンに出てくるやつ! 則正にもらったやつ!」
「あ……」
はっとしたように柊真がスマホを注視する。が、やはりない。慌てた手つきでポケットを探る。ハンカチや財布は出てくるが、緑色の宇宙人はやはりどこにも紛れていなかった。
「どこで落としたか、わかる?」
「朝はあったけど……」
それは双葉も記憶している。確かチェックアウトのときはまだついていたと思う。
「探そう。駐車場からここまでの間に落ちたのかもしれないし」
「でも、結構歩いたし。見つからないよ」
長々と続く砂浜を振り向く顔には諦めが濃く滲んでいた。海風の中、真剣な目でしばらく海岸をなぞっていたが、ぱっとこちらに顔を向け、柊真は声のトーンを上げた。
「他にも行きたいとこ、あるだろ。もう、いいから」
「よくない!」
怒鳴ると笑顔が固まった。その柊真の二の腕を双葉は掴んで揺さぶった。
「捨てるならいいんだ。もういいって自分で捨てるなら。でも大事にしてたものを、こんな形でなくすのはよくない。心残りになる。だから、探そう。俺も一緒に探すから」
「……なんで? なんでお前がそんなに一生懸命に言うの? お前にとって俺は邪魔者だったよな。あのストラップだって俺がなくせば、お前と則正、ふたりだけのお揃いだろ。則正もあれ、つけてるんだから。もっと喜べば……」
「馬鹿!」
大声が出てしまった。柊真も驚いたのか目を見開いている。その彼を突き放し、双葉は砂浜を駆けた。
――これ、バイト先の店長からもらったんだ。三人でつけよう。
にこにこしながら則正が宇宙人、ケスターくんのマスコットを持ってきてくれた日のことは今でも覚えている。書店でバイトをしている則正はこれまでにもクリアファイルだとか、ポストカードだとか、余ったからといってノベルティをくれることがあった。けれど、三人で、と言われて渡されたことはなかった。
正直……嫌だった。則正とふたりだけでつけたかった。なんでこいつにまでやるんだよ、と腹が立った。だってこいつはこのアニメを知らないし、興味もない。でも柊真も則正が好きなのだ。当然と言えば当然ながら、柊真もケスターくんをスマホにつけるようになり、八本足の宇宙人は大学一年の春から二年の今まで彼のスマホにぶら下がり続けた。彼と共に、あり続けた。
そう、それくらいあれは柊真にとっても大事なものだったはずなのだ。柊真のシックなスマホケースには確実に似合わないのに、それでも二年間もつけ続けるくらいには。だから。
全力で駐車場まで戻った双葉は車の下や側溝の中、砂浜へと上がる階段の下など、心当たりを覗き込む。一通り探したら砂浜へ向かい、必死に目を凝らす。
砂というよりも大小の石が目立つ浜ゆえ、見回しただけでは見つかりそうにない。腰を屈め、目を見開き、慎重に視点を変えながら浜を歩いていると、足音が近づいてきた。見ると砂浜に向かって顔を伏せて歩く柊真だった。
ふたりで探せばきっと見つかる。その思いで彼に向かって大きく頷くと、柊真も頷いて、そっと微笑みかけてきた。
だが……目を皿のようにして砂浜を二往復しても宇宙人は見つからなかった。
「なんで! 絶対ここしか考えられないのに」
これだけ探しても見つからないということは、波にさらわれてしまったのだろうか。あるいは散歩中の犬に持っていかれたとか。
「この辺りの家に聞き込みしてみよう。お宅の犬、なにか拾ってきてませんかって。そしたら……」
「もういいよ」
走り出そうとする双葉の肩がすっと掴まれ引き戻される。なんで、と声を荒らげるが、柊真は静かに首を振るばかりだ。
「ふたりでこれだけ探した。でも見つからない。それって、そういうことだって思う」
「そういうことって?」
「ちゃんと諦めなさいってこと」
「諦める? 則正のことをか? だったら俺のはまだなくなってない。それって俺は諦めなくていいって言われてるってことか? 俺だって諦めたんだよ。忘れようって思ってるんだよ。そのためにここに来たんだよ。なのに」
スマホを引っ張り出すと、そこにはちゃんとケスターくんがいた。
ひとりぼっちで取り残されたみたいに緑色のそれがゆらりと揺れる。
この空の下、確かに則正と繋がっている、それ。でも。
則正の横には、畑中がいる。
笑い合うふたりの姿を思い浮かべたら、かっとなった。石鈴? と呼ぶ柊真の声を無視し、双葉はスマホから宇宙人をむしり取った。
ぶちり、と嫌な手ごたえと共にケスターくんがスマホから離れた。
「嫌だよ。そんなの。だって則正がつけていたってそこに俺の居場所なんてない。お前がこれ持ってないなら、俺、ひとりじゃん。そんなの嫌だ」
ふっと柊真が息を呑む。波音がざばり、ざばり、と耳を打つそこで、乱れて仕方ない気持ちのまま、双葉は手にしたマスコットを砂浜へと投げ捨てようとする。
その手がすっと止められた。
目を上げた先で、柊真がゆっくりと無言で首を横に振った。拳が解かれ、冷えた指によって宇宙人がそうっと取り上げられる。彼はそれを双葉のコートのポケットに押し込むと、軽く首を傾けるようにしてこちらを覗き込み、ささやかな声で言った。
「行こ」
「……どこへ」
「夫婦岩、見に」
「なんで」
ぐちゃぐちゃの気持ちを抱えて睨むが、柊真は動じない。ただ淡く笑んで、双葉の背中を押した。
「ふたりで見たいから」
「だからなんで」
「だって」
双葉の肩を抱くようにして、柊真は歩を進める。抗いたいのに足が動く。耳の近くで彼が囁いた。
「俺、約束したし。お前と」
「約束って、なに」
「俺がそばにいるって」
――大丈夫。俺がそばにいるから。
「な、あ。それ、あの」
やっぱり聞き違いではなかったのだ。はっとして柊真を見上げるがそれより早く彼は双葉から離れ、青天への懸け橋のように立つ鳥居の前へと進み出ていた。丁寧に会釈して鳥居をくぐる背中に倣いしばらく歩くと、社が見えた。
来たことがないはずなのに、迷いない足取りで社へ向かい、手を合わせた柊真は、お参りが済むと、社右手から伸びる遊歩道を進み始める。
「なに、どこ行くの」
「この先」
答えにならないような説明しか返ってこない。大股で歩いていく柊真に、待てって、と声を投げたところで双葉は足を止めた。
遊歩道の手すりの向こうに、荒れた海が見えた。浜で見たときは、波も低く穏やかな顔をしていると思っていた。でも、ここにある海は違った。
波同士が意思を持つようにぶつかり合う。そのぶつかり合った波がさらに別の波へと体当たりし、より大きな波へと生まれ変わる。そうしてざぶりざぶりと上へ下へと絶えず揺らぎ続ける。果てはない。永遠に波の踊りは繰り返される。
まるで生き物の連鎖のように。
そしてその無数の生き物を思わせる海の中に、巨大な岩がふたつ、あった。
向かって左の岩は大きく、右の岩は小さい。荒波に長年削られ続けたからだろうか。どちらの岩肌も黒々としていて表面もごつごつとあちこち切り立っている。ところどころ深い碧に沈んで見えるのは苔かもしれない。何者にも守られることなく、海から屹立するそのふたつの岩は、遠目で見ても堅強な注連縄によってしっかりと結ばれていた。
「夫婦岩」
柊真がぽつり、と言う。彼の顔を振り仰ぐと、波の音をすり抜けるようにして低い声が降ってきた。
「五月から七月くらいの早朝だとあの岩と岩の間からご来光が見えて縁起がいいらしい。今は二月だし、もう昼近いから、ご来光では当然ないけど。でもなんだろ、見てるだけですごく……」
唐突に言葉が途切れる。彼の顔から目線の先へと目を向けた双葉にも柊真が見ているものがわかった。
左側の大岩の上に、二羽、鳥がいた。なんという鳥かはわからない。白い鳥だ。同じ種類らしい彼らはなにをするでもなくただ寄り添って、岩の上で佇んでいた。すっと首をもたげ、同じ方向を見て、ただ、そこにいる。彼らの眼差しの先には、どこまでも続く海があった。
ざざん、と音を立て、白い波が岩に打ち寄せては、砕ける。
それでも、鳥はどちらも動かない。
海だけを、見据えている。
ふたりで。
「あ……」
不意に陽光が強くなり、景色が白くぼやけたのを感じた。秋信、と名前を呼びたくなった。今、胸の中に湧き上がってきた大きすぎる感動を隣にいる彼と分かち合いたかった。その自分の手に、手が、触れた。
甲と甲が触れるだけだったはずの手と手が徐々に近づいていく。見えない線の間で迷うように儚く触れていた手は、しかし次の瞬間、波音に押されてするりと境界を越え、双葉の手を取った。
そうされて、心臓が大きく跳ねた。
でも……双葉は柊真の手を振り解かなかった。退けずに、手を預けた。
そこにどんな意味があるのかなんてまったくわからないまま、手を繋いだ。ざばり、ざばりと叫ぶ、命そのものみたいな海の音に全身を浸しながら、自分よりもやや大きなその手を握りしめていた。
車の運転によるものなのか、それとももっと別の理由によるものなのか。いつも冷たい柊真の手は今日も冷えていたけれど、掌を重ねている間にどんどんと温もっていくのがわかった。
それが……無性にうれしかった。
鳥はまだ、いる。もちろん手は繋いでいない。でも、彼らもきっと繋がっているんだろうな、と思った。ふたつの岩を繋ぐ、注連縄みたいな強い絆で。
自分達は……どうなのだろうか。
わからない。双葉にはわからない。自分が彼をどう思っているのか。彼が自分をどう思っているのか。どうして今、手を繋いでいるのか。
わからないのに、手を離したくない。自分はやはり、おかしいのだろうか。
「あ、の、秋信」
どれくらいそのままでいただろう。そろそろと声をかけると、ん? と柊真が穏やかに返事をした。
「俺、思った、んだけど」
「うん」
「その……お守り、買わない? ここで」
「お守り?」
不思議そうに柊真が首を傾げる。頬がふわっと熱くなったけれど、それを隠すように双葉は俯く。
「お前の、ケスターくん、なくなっちゃったし。お前だけ、ひとりに、なっちゃうし。だから、俺と同じの買ったら、そしたら」
繋がっていられる。と言いかけて顔から火が出た。
おかしい。これはさすがにおかしい。
「いや、いいや! 今のなし!」
「行こ」
握られたままだった手が引かれる。え、と漏れた声を置き去りに、柊真はずいずいと歩いていく。手はやっぱり繋いだままだった。
平日だから混雑期に比べれば人はそれほど多くはないのだろう。しかしそれでも皆無なわけじゃない。目当ての授与所にはまあまあの数の人がいるのが見える。
「あの、秋信」
「ん?」
「手……」
頬を染めて言うと、あ、というように柊真が足を止めた。
ふっと目線が下がって自身と双葉の手に落ちる。数秒そのままでいてから柊真はそうっと手を離した。
「ごめん」
かすかに笑ってから背中を向ける。いつも通りの歩幅で遠ざかっていこうとする彼を見ていたら、言葉が勝手に転がり出てしまった。
「嫌だ、とか、そういう、ことじゃない、から」
柊真の足が止まる。彼の視線にさらされ頬がじりっとまた熱を持つ。それを見られまいと前髪をいじるふりをしながら双葉は片手で顔を隠す。
「手、離したのは……ここじゃ、ちょっと」
そこまで言ってはたと気付く。この言い方だとここでなければいいみたいに聞こえないだろうか。
だけど、もし夫婦岩が臨めるあの場所にふたり、あのまま残っていたら、多分まだ手を繋いでいただろう。それがなんとなくわかる自分に激しく狼狽した。
これはどういうことなのか。自分が好きなのは則正のはずなのに。なんで。
混乱しながら地面を睨む。すると、視界に黒いハイカットスニーカーの先が飛び込んできて双葉は顔を上げた。
柊真がすぐ前に立っていた。いつもとは違う、少しはにかむような顔でこちらを見下ろした彼は、すっと目を逸らし、ぼそぼそと言った。
「わかったから。お守り、買いに行こ」
「……うん」
こくり、と頷くと、柊真は軽く笑んで再び歩き出す。ゆっくりとこちらを待つような足取りで授与所へと向かう彼の背中を双葉は追いかけた。
……さんざん迷った結果、貝の形をしたお守りを買うことにした。色はふたりとも水色。
示し合わせたわけでもないのに同じ色を選んだことが、妙にくすぐったかった。
翌朝、双葉を叩き起こしたのは、不機嫌丸出しの柊真の声だった。
「え……今、何時……? 早くない?」
夕べはあれこれ考えてしまったせいであまり眠れなかったのだ。不満を覚えつつ起き上がると、こちらを見下ろしていた柊真がこれみよがしな溜め息をつきながらスマホを見た。
「七時半」
柊真のスマホにぶら下げられていたレトロなタコ型宇宙人のマスコットが揺れる。あれは則正からもらったものだ。双葉のスマホにくっついているのと同じもの。
「朝飯、コンビニで買ってきた。食べたら出たいけど、大丈夫?」
「……ん」
揺れる宇宙人からそろそろと目を離す。則正からのプレゼントを未だに身に着けているところも含め、スマホを睨む柊真の様子は驚くくらいいつも通りで、双葉は拍子抜けした。
もっと……普通じゃない顔をされるかも、と思っていたのに。
「コーヒー淹れるけど、石鈴も飲む?」
きびきびした仕草で柊真が電気ケトルをセットする。うん、とくぐもった声で頷きながら双葉はそっとかぶりを振った。
考えるのはやめよう。どうせ答えなんて出ない。柊真がなんであんなことをしたのかもそうだけれど、あのとき覚えた感覚だってよくわからない。
ただ、思う。あのとき、テレビが点いていなかったらどうなっていただろう、と。
キス、されていたかも。しかも……自分はそれを許していた、かも。
「ないないないない!」
「なに、どした?」
うるさそうに柊真がこちらを眺めている。
……この野郎。一体、誰のせいでこんな百面相していると思ってるんだ。
そう思ったら怒りが湧いてきた。
「さっさとコーヒー淹れろ。俺は苦いのは飲めない。砂糖とミルクはたっぷりな!」
「なに、そのパワハラ上司みたいな言い方」
広い肩をすくめつつも柊真がふっと笑う。こぽこぽと紙コップにお湯が注がれ、ベッドに腰掛けたままの双葉に向かって差し出された。
「ほら、砂糖もミルクもたっぷりだよ、部長」
「誰が部長だ」
たどたどしくなってしまいそうな手つきをごまかすように素早くカップを奪い取り、そそくさと口をつける。
……砂糖とミルクがふんだんに入れられたそれは確かに甘かった。というか甘すぎた。
「今日はここから歩いてすぐの夫婦岩に行って、その後、車で移動。伊勢神宮の外宮、内宮へ訪問予定です」
ホテルをチェックアウトし、車に荷物を放り込んで歩き出す。今日のスケジュールを秘書めいた口ぶりで淡々と告げる柊真に、わかった、とそれこそ部長のように鷹揚に頷きつつ、双葉は周囲を見回した。車を止めた駐車場は海岸沿いにあったため、少し歩いただけで朝の光に霞む水平線が一望できた。
「海、いいなあ」
自然と声が出た。柊真も、うん、と頷き、長く伸びる浜の先を指さす。
「ここまっすぐ歩くと夫婦岩がある。散歩しつつ行こう」
「スケジュール厳しくないの? そんな悠長で平気?」
「別に急ぐ旅でもないだろ」
言いつつ、さらっと前髪を掻き上げる。眩し気に波間を見、コートのポケットからスマホを取り出した彼は、さらさらとさざめく海に向かい、ぱしゃり、とシャッターボタンを押した。
「石鈴」
そういえばあんまり写真を撮っていなかったな、と柊真に倣ってスマホを引っ張り出そうとすると、声がかかった。え、とそちらに顔を向けたと同時に、ぱしゃり、とシャッター音が響く。
「こら! 撮るなよ!」
「お前を撮ったわけじゃない。ほら、石鈴の後ろにカモメがいたから」
と、柊真は否定するが明らかに目が笑っている。なんだよ、もう! と怒った顔をしつつ、ああよかった、昨日までの秋信だ、と安堵する。が、その柊真の手元を見て双葉は瞠目した。
「秋信、それ!」
「それ?」
「ケスターくんがいない!」
「ケスターくん?」
不思議そうな柊真に向かって自身のスマホを突き出す。ぶらん、とタコ型宇宙人が揺れた。
「これ! 負け犬ヘヴンに出てくるやつ! 則正にもらったやつ!」
「あ……」
はっとしたように柊真がスマホを注視する。が、やはりない。慌てた手つきでポケットを探る。ハンカチや財布は出てくるが、緑色の宇宙人はやはりどこにも紛れていなかった。
「どこで落としたか、わかる?」
「朝はあったけど……」
それは双葉も記憶している。確かチェックアウトのときはまだついていたと思う。
「探そう。駐車場からここまでの間に落ちたのかもしれないし」
「でも、結構歩いたし。見つからないよ」
長々と続く砂浜を振り向く顔には諦めが濃く滲んでいた。海風の中、真剣な目でしばらく海岸をなぞっていたが、ぱっとこちらに顔を向け、柊真は声のトーンを上げた。
「他にも行きたいとこ、あるだろ。もう、いいから」
「よくない!」
怒鳴ると笑顔が固まった。その柊真の二の腕を双葉は掴んで揺さぶった。
「捨てるならいいんだ。もういいって自分で捨てるなら。でも大事にしてたものを、こんな形でなくすのはよくない。心残りになる。だから、探そう。俺も一緒に探すから」
「……なんで? なんでお前がそんなに一生懸命に言うの? お前にとって俺は邪魔者だったよな。あのストラップだって俺がなくせば、お前と則正、ふたりだけのお揃いだろ。則正もあれ、つけてるんだから。もっと喜べば……」
「馬鹿!」
大声が出てしまった。柊真も驚いたのか目を見開いている。その彼を突き放し、双葉は砂浜を駆けた。
――これ、バイト先の店長からもらったんだ。三人でつけよう。
にこにこしながら則正が宇宙人、ケスターくんのマスコットを持ってきてくれた日のことは今でも覚えている。書店でバイトをしている則正はこれまでにもクリアファイルだとか、ポストカードだとか、余ったからといってノベルティをくれることがあった。けれど、三人で、と言われて渡されたことはなかった。
正直……嫌だった。則正とふたりだけでつけたかった。なんでこいつにまでやるんだよ、と腹が立った。だってこいつはこのアニメを知らないし、興味もない。でも柊真も則正が好きなのだ。当然と言えば当然ながら、柊真もケスターくんをスマホにつけるようになり、八本足の宇宙人は大学一年の春から二年の今まで彼のスマホにぶら下がり続けた。彼と共に、あり続けた。
そう、それくらいあれは柊真にとっても大事なものだったはずなのだ。柊真のシックなスマホケースには確実に似合わないのに、それでも二年間もつけ続けるくらいには。だから。
全力で駐車場まで戻った双葉は車の下や側溝の中、砂浜へと上がる階段の下など、心当たりを覗き込む。一通り探したら砂浜へ向かい、必死に目を凝らす。
砂というよりも大小の石が目立つ浜ゆえ、見回しただけでは見つかりそうにない。腰を屈め、目を見開き、慎重に視点を変えながら浜を歩いていると、足音が近づいてきた。見ると砂浜に向かって顔を伏せて歩く柊真だった。
ふたりで探せばきっと見つかる。その思いで彼に向かって大きく頷くと、柊真も頷いて、そっと微笑みかけてきた。
だが……目を皿のようにして砂浜を二往復しても宇宙人は見つからなかった。
「なんで! 絶対ここしか考えられないのに」
これだけ探しても見つからないということは、波にさらわれてしまったのだろうか。あるいは散歩中の犬に持っていかれたとか。
「この辺りの家に聞き込みしてみよう。お宅の犬、なにか拾ってきてませんかって。そしたら……」
「もういいよ」
走り出そうとする双葉の肩がすっと掴まれ引き戻される。なんで、と声を荒らげるが、柊真は静かに首を振るばかりだ。
「ふたりでこれだけ探した。でも見つからない。それって、そういうことだって思う」
「そういうことって?」
「ちゃんと諦めなさいってこと」
「諦める? 則正のことをか? だったら俺のはまだなくなってない。それって俺は諦めなくていいって言われてるってことか? 俺だって諦めたんだよ。忘れようって思ってるんだよ。そのためにここに来たんだよ。なのに」
スマホを引っ張り出すと、そこにはちゃんとケスターくんがいた。
ひとりぼっちで取り残されたみたいに緑色のそれがゆらりと揺れる。
この空の下、確かに則正と繋がっている、それ。でも。
則正の横には、畑中がいる。
笑い合うふたりの姿を思い浮かべたら、かっとなった。石鈴? と呼ぶ柊真の声を無視し、双葉はスマホから宇宙人をむしり取った。
ぶちり、と嫌な手ごたえと共にケスターくんがスマホから離れた。
「嫌だよ。そんなの。だって則正がつけていたってそこに俺の居場所なんてない。お前がこれ持ってないなら、俺、ひとりじゃん。そんなの嫌だ」
ふっと柊真が息を呑む。波音がざばり、ざばり、と耳を打つそこで、乱れて仕方ない気持ちのまま、双葉は手にしたマスコットを砂浜へと投げ捨てようとする。
その手がすっと止められた。
目を上げた先で、柊真がゆっくりと無言で首を横に振った。拳が解かれ、冷えた指によって宇宙人がそうっと取り上げられる。彼はそれを双葉のコートのポケットに押し込むと、軽く首を傾けるようにしてこちらを覗き込み、ささやかな声で言った。
「行こ」
「……どこへ」
「夫婦岩、見に」
「なんで」
ぐちゃぐちゃの気持ちを抱えて睨むが、柊真は動じない。ただ淡く笑んで、双葉の背中を押した。
「ふたりで見たいから」
「だからなんで」
「だって」
双葉の肩を抱くようにして、柊真は歩を進める。抗いたいのに足が動く。耳の近くで彼が囁いた。
「俺、約束したし。お前と」
「約束って、なに」
「俺がそばにいるって」
――大丈夫。俺がそばにいるから。
「な、あ。それ、あの」
やっぱり聞き違いではなかったのだ。はっとして柊真を見上げるがそれより早く彼は双葉から離れ、青天への懸け橋のように立つ鳥居の前へと進み出ていた。丁寧に会釈して鳥居をくぐる背中に倣いしばらく歩くと、社が見えた。
来たことがないはずなのに、迷いない足取りで社へ向かい、手を合わせた柊真は、お参りが済むと、社右手から伸びる遊歩道を進み始める。
「なに、どこ行くの」
「この先」
答えにならないような説明しか返ってこない。大股で歩いていく柊真に、待てって、と声を投げたところで双葉は足を止めた。
遊歩道の手すりの向こうに、荒れた海が見えた。浜で見たときは、波も低く穏やかな顔をしていると思っていた。でも、ここにある海は違った。
波同士が意思を持つようにぶつかり合う。そのぶつかり合った波がさらに別の波へと体当たりし、より大きな波へと生まれ変わる。そうしてざぶりざぶりと上へ下へと絶えず揺らぎ続ける。果てはない。永遠に波の踊りは繰り返される。
まるで生き物の連鎖のように。
そしてその無数の生き物を思わせる海の中に、巨大な岩がふたつ、あった。
向かって左の岩は大きく、右の岩は小さい。荒波に長年削られ続けたからだろうか。どちらの岩肌も黒々としていて表面もごつごつとあちこち切り立っている。ところどころ深い碧に沈んで見えるのは苔かもしれない。何者にも守られることなく、海から屹立するそのふたつの岩は、遠目で見ても堅強な注連縄によってしっかりと結ばれていた。
「夫婦岩」
柊真がぽつり、と言う。彼の顔を振り仰ぐと、波の音をすり抜けるようにして低い声が降ってきた。
「五月から七月くらいの早朝だとあの岩と岩の間からご来光が見えて縁起がいいらしい。今は二月だし、もう昼近いから、ご来光では当然ないけど。でもなんだろ、見てるだけですごく……」
唐突に言葉が途切れる。彼の顔から目線の先へと目を向けた双葉にも柊真が見ているものがわかった。
左側の大岩の上に、二羽、鳥がいた。なんという鳥かはわからない。白い鳥だ。同じ種類らしい彼らはなにをするでもなくただ寄り添って、岩の上で佇んでいた。すっと首をもたげ、同じ方向を見て、ただ、そこにいる。彼らの眼差しの先には、どこまでも続く海があった。
ざざん、と音を立て、白い波が岩に打ち寄せては、砕ける。
それでも、鳥はどちらも動かない。
海だけを、見据えている。
ふたりで。
「あ……」
不意に陽光が強くなり、景色が白くぼやけたのを感じた。秋信、と名前を呼びたくなった。今、胸の中に湧き上がってきた大きすぎる感動を隣にいる彼と分かち合いたかった。その自分の手に、手が、触れた。
甲と甲が触れるだけだったはずの手と手が徐々に近づいていく。見えない線の間で迷うように儚く触れていた手は、しかし次の瞬間、波音に押されてするりと境界を越え、双葉の手を取った。
そうされて、心臓が大きく跳ねた。
でも……双葉は柊真の手を振り解かなかった。退けずに、手を預けた。
そこにどんな意味があるのかなんてまったくわからないまま、手を繋いだ。ざばり、ざばりと叫ぶ、命そのものみたいな海の音に全身を浸しながら、自分よりもやや大きなその手を握りしめていた。
車の運転によるものなのか、それとももっと別の理由によるものなのか。いつも冷たい柊真の手は今日も冷えていたけれど、掌を重ねている間にどんどんと温もっていくのがわかった。
それが……無性にうれしかった。
鳥はまだ、いる。もちろん手は繋いでいない。でも、彼らもきっと繋がっているんだろうな、と思った。ふたつの岩を繋ぐ、注連縄みたいな強い絆で。
自分達は……どうなのだろうか。
わからない。双葉にはわからない。自分が彼をどう思っているのか。彼が自分をどう思っているのか。どうして今、手を繋いでいるのか。
わからないのに、手を離したくない。自分はやはり、おかしいのだろうか。
「あ、の、秋信」
どれくらいそのままでいただろう。そろそろと声をかけると、ん? と柊真が穏やかに返事をした。
「俺、思った、んだけど」
「うん」
「その……お守り、買わない? ここで」
「お守り?」
不思議そうに柊真が首を傾げる。頬がふわっと熱くなったけれど、それを隠すように双葉は俯く。
「お前の、ケスターくん、なくなっちゃったし。お前だけ、ひとりに、なっちゃうし。だから、俺と同じの買ったら、そしたら」
繋がっていられる。と言いかけて顔から火が出た。
おかしい。これはさすがにおかしい。
「いや、いいや! 今のなし!」
「行こ」
握られたままだった手が引かれる。え、と漏れた声を置き去りに、柊真はずいずいと歩いていく。手はやっぱり繋いだままだった。
平日だから混雑期に比べれば人はそれほど多くはないのだろう。しかしそれでも皆無なわけじゃない。目当ての授与所にはまあまあの数の人がいるのが見える。
「あの、秋信」
「ん?」
「手……」
頬を染めて言うと、あ、というように柊真が足を止めた。
ふっと目線が下がって自身と双葉の手に落ちる。数秒そのままでいてから柊真はそうっと手を離した。
「ごめん」
かすかに笑ってから背中を向ける。いつも通りの歩幅で遠ざかっていこうとする彼を見ていたら、言葉が勝手に転がり出てしまった。
「嫌だ、とか、そういう、ことじゃない、から」
柊真の足が止まる。彼の視線にさらされ頬がじりっとまた熱を持つ。それを見られまいと前髪をいじるふりをしながら双葉は片手で顔を隠す。
「手、離したのは……ここじゃ、ちょっと」
そこまで言ってはたと気付く。この言い方だとここでなければいいみたいに聞こえないだろうか。
だけど、もし夫婦岩が臨めるあの場所にふたり、あのまま残っていたら、多分まだ手を繋いでいただろう。それがなんとなくわかる自分に激しく狼狽した。
これはどういうことなのか。自分が好きなのは則正のはずなのに。なんで。
混乱しながら地面を睨む。すると、視界に黒いハイカットスニーカーの先が飛び込んできて双葉は顔を上げた。
柊真がすぐ前に立っていた。いつもとは違う、少しはにかむような顔でこちらを見下ろした彼は、すっと目を逸らし、ぼそぼそと言った。
「わかったから。お守り、買いに行こ」
「……うん」
こくり、と頷くと、柊真は軽く笑んで再び歩き出す。ゆっくりとこちらを待つような足取りで授与所へと向かう彼の背中を双葉は追いかけた。
……さんざん迷った結果、貝の形をしたお守りを買うことにした。色はふたりとも水色。
示し合わせたわけでもないのに同じ色を選んだことが、妙にくすぐったかった。



