幸せ、というワードを最後に口にしたのはいつだったろう。頭の片隅には幸せへの憧れが棲みついているはずなのに、口に出すことは少ない、幸せ。
ただ最近、その滅多に言わないはずの、幸せ、を何度か声に出した。たとえばあのときだ。
ホラー映画を観ていたとき。
――則正にとって、俺たちってこの……幸せを脅かす殺人鬼みたいなものなのかなあ。
あのとき口にした、幸せ、は自分の幸せを噛みしめるものでも、願うものでもなかった。言葉の核には則正がいて、幸せであってほしいという願いよりも、後ろ暗い想いが染み込んでしまっていた。
今、思い出しても胸が潰れそうになる。だって自分は、そして柊真も、則正が大好きだからこそ彼の幸せを良くも悪くも思ってしまったのだから。
でもじゃあ、今は? 今、自分と彼が漏らした、幸せ、はどうだろう。
完全に則正とは別のところにある、幸せ、じゃなかったろうか。
自分たちは同じ苦い幸せを見つめた者同士なのに、なぜ今、こんな気持ちで、幸せ、などと口にしているのだろう。
「お前さ……」
どういうつもりでそう言うの。
自分でも言ったくせにそう問いかけたくなった。だって全然わからないから。自分のこのふわふわした気持ちも、柊真の優しすぎる態度も。
傷心旅行のはずなのに、旅の始まりには色濃かった則正の面影がどんどん薄れていく。
あんなに好きだったはずなのに。自分も柊真も。でも、ふたりの間から徐々に徐々に則正が消えていこうとしている。
これは正しい状態なのだろうか。本当に?
自分たちのこの関係があまりにも不確かで、頼りなくて、怖かった。
「その、お前、さ、お前……則正のどこが好き、だった?」
だから……すがりつくような思いで問いかけてしまった。自分達の関係の名前を確かめるため、訊かずにいられなかった。
唐突な質問に柊真が目を瞬かせるのがわかった。それでも祈るみたいに柊真の顔を見つめ続けていると、彼はなにかを言いたげに唇を開いてから、すっと閉じた。
「なあ、お前は……」
「冷める。早く食べて」
急かす口調で柊真が言う。それきり無言でお茶を飲み始めてしまう彼をしばらく見つめてから、双葉はのろのろと箸を取った。
こいつだって……困っているのかもしれない。
この旅の不自然さに気付いて、来てしまったことを後悔しているのかもしれない。だとしたらこんなふうに詰め寄るのは間違いなのではないだろうか。
そもそも彼は……気晴らししようと誘ってくれたのだ。だから、楽しいならそれで満足していればいいだけのはずだ。
それを自分はなんでこうも引っ掻き回してしまうのだろう。
そこまで考えたところで双葉は決意した。
食べ終わったら柊真にちゃんと謝ろう。それで、残りの旅を楽しもうと言おう。
しかし、謝る隙は与えられなかった。双葉が食事を終えると、間を空けずに柊真は席を立ってしまい、後に続くしかなかったからだ。
しかも黙りこくったまま車に戻り、今夜の宿へと向かって発進させてしまう。一連の動きにあまりにも無駄がなさすぎて口を挟む余地がまるでない。
重々しい空気に押し潰されそうになりながらホテルに着き、フロントで指示された番号の部屋の扉を開けると、そこはこぢんまりとしたツインルームだった。
室内に入ったところで、柊真はやっとこちらを振り返った。
「ベッド、どっちがいい? 窓際?」
「あ、ええと、どっちでも」
普段なら窓際を絶対希望するけれど、なんとなく言い出しにくい。まあ、三階だし、夜だし、闇に沈んだ窓の向こうには道路を渡っていく車のヘッドライトくらいしか見えず、それほど景色がいいというわけでもない。こだわらなくてもいいか、と自分を納得させたのだが、柊真は双葉の答えを聞くと、壁際のベッドのシーツをめくって枕元にポケットから出したスマホを置いた。
「じゃ、俺、こっち使うな」
もしかして気を遣ってくれたのだろうか? とちらっと思ったが、そんな些細な問いすらしづらい空気がまだ漂っている。
「外、寒かったし、風呂、先入りな」
「あ、うん」
悩んでいると、有無を言わせない口調で促された。困ったな、と悶々としながらシャワーを浴びる。薄い扉の向こうからはドラマだろうか、会話する男女の声が聞こえた。
もやもやはしていたが、柊真の言う通り、外気で体は冷えていたようで、温かいお湯を浴びたことで少し気持ちが落ち着いてきた。さっきまでの自分はどうかしていたのかもしれない。
よし、変なこと訊いてごめんとちゃんと言おう、と改めて決意してバスルームから出る。
「風呂、ありがと」
室内にはやはりテレビの音が響いていたが、柊真は窓際に置かれた椅子に腰掛け、テレビではなく外を見ていた。そのままの姿勢で、ん、と短い頷きだけが返される。それっきり言葉はない。視線もこちらを向かない。
……謝るなら今しかない。
覚悟を決め、バスタオルで髪を拭きながらそろそろと彼に歩み寄る。が、その双葉の視界に、窓ガラスに映った自分が飛び込んできた。ホテル備え付けのフリーサイズのナイトウェアを着ているせいか、ぶかぶかしていて手も足もやたら細く見える。これじゃあ貧弱な体つきが丸見えだ。意識したとたん、猛烈に恥ずかしくなった。
考えてみれば、寝る前のこんな無防備な姿、今まで見せたことがない。
慌てて窓から目を逸らしつつ、双葉はそろそろと彼の向かい側の席に腰を下ろした。気付いているだろうに、柊真はやはりこちらを見てくれない。
どうしよう、どうしよう。まずは、さっきはごめん、だろうか。よし、と気合を入れ、両膝に置いた手に力を込める。
「秋信、あの……」
「さっきの質問の答えなんだけど」
だが、正式に口火を切ったのは柊真のほうだった。え、と声を漏らすが、視線は合わない。こちらを一切見ることなく、窓ガラスの向こうを見つめたまま、彼は続ける。
それは、ひどく苦い声だった。
「教えたくない」
「……は?」
「則正を好きだと思ったところ。お前には教えたくない」
「なんで」
こいつは尋ねられてから今まで考えていたのだろうか。驚きつつさらに問う双葉の前で、柊真は眉根を寄せた。
「多分、理解してもらえないから」
「なんだそれ。言わないとわからないだろ。言えよ」
もう余計なことを訊かない方がいい、とにかく謝ろう、と先ほど決意したにも関わらず、ついつい迫ってしまう。その双葉からやっぱり目を背けたまま、柊真は窓ガラスに映る自分を睨みつけている。
「変態と思われそうで、嫌だ」
「はあ?」
変態?
場違いに飛び出してきた、変態、に呆気に取られる。が、変態、と告げた柊真が苦しげに唇を引き結んでいるのを見たら、黙っていられなくなった。
だって、こんな顔をさせたくて訊いたんじゃない。
「なに言ってんだよ。人間なんてみんなそれぞれ変態じゃないの?」
やっと、彼がこちらを向いた。憂い顔が一転、唖然とした顔になっていた。
「そうか?」
「そうだろ? たとえばだけど……ええと、高校のとき、納豆にチョコレート入れて食べるやつがクラスにいたんだよ」
なんの話だ、と考えていることが丸わかりの顔で柊真が首を傾ける。さっきまでの思い詰めていたような顔色ではなくなって内心ほっとしつつも、双葉はじれったさに悶えた。
「絶対美味いから食べてみろってクラス中に布教し始めたんだけど、不評でさ。俺も食べたけど、正直一度でいいやって思った」
「……それで?」
「変態っていろんな意味あるけど、ようはまあ、普通と違うってことだよな。その意味で考えたら、クラスの大多数の人間からしたら、チョコレート入り納豆を食べるそいつは普通とは違うって意味になるじゃん。つまり変態」
「それは乱暴だろ。そもそも変態って性癖と一緒に語られるものじゃないか? その彼は変態と言われるほど異常なことをしてない。ただの食の好みだろ」
「性癖にしたってそうだろ。ここからが変態ですって誰が決めるんだ? なんとなく多数決でふわっと線引きされてるだけじゃん。しかもさ、普段口にしなくても人間なんてひとつやふたつ、自分だけの癖や好みってあるよな。当たり前すぎてそれが異常かどうか考えもしないものがさ。それ全部出して世界中の人間で吟味したら、それは変態案件でしょ、いやそれは変態じゃないんじゃ、いやいや変態ですって、って結構もめると思わない? 文化にだって宗教にだって時代にだって左右されるだろうし、そもそも人によって物差し全然違うんだからさ。だから変態って思われるってびびるのは、なんかナンセンスかなあって俺は思う」
一気に語ってしまってから我に返った。なんで自分はこんなに変態について熱弁をふるっているんだっけ。ああ、そうか、あまりにも深刻そうにしているこいつを見るに見かねて、と会話の全体像を思い出す。が、張り巡らされていた緊張の糸を断ち切るように、ぷっと吹き出され、驚愕した。
「え、ちょっとなに」
「もう……」
固まる双葉のことなどお構いなしに、柊真は声を上げて笑い出す。腰を折り、腹を押さえるという本格的な笑い方だった。
「熱く語りすぎ」
「お前が変態ってワードに怯えるからだろうが!」
なんてむかつくやつだろう、と、長年の習性で怒鳴ったけれど、実はかなり安堵もしていた。
まさか……こんなに悩むとは思わなかったから。
不安ばかりが大きくなってつい口にしてしまった自分の質問に、これほど長時間向き合ってくれるなんて、予想外だったから。
でも、笑ってくれて、よかった。
とはいえ。
「お前、いい加減笑い止めよ」
頬を膨らませるが、柊真の肩は依然として揺れたままだ。こいつはいつまで笑い続ける気だろう。あと三十秒待っても止まらなかったらどうしてやろうか、と殺意を覚え始めたころ、ようやく笑い声が収まった。
「ほんとにさ、則正はなんでお前じゃだめだったんだろうな」
ぽん、と頭に乗せられる掌の感触と共に、あのカレー鍋の日、自分が柊真に言った言葉がそのまま返ってくる。どきっとしたのも束の間、
「白目」
発せられた単語に虚を突かれた。
「へ?」
「俺が則正を好きだなって思ったところ。白目が綺麗だったから」
「白目? え、目?」
「そう」
まさか、体の部位が出てくるとは思わなかった。
「意外。しかも白目って。随分ピンポイントな」
「って言っても、別に白目好きってわけでもない。こんなことで好きになったのは則正だけ」
照れたようにこめかみを掻き柊真はすっと双葉の髪から手を離す。とたんに、髪の間を風がすり抜けていくような心許なさが襲ってきた。
本当に俺はどうしたんだ、と慌てたが、双葉はふるっと髪を揺らすことでその気持ちを振り切った。
「なんで白目?」
「理由はよくわからない。ただ……中学校の野外学習で班が同じになったとき、眼鏡のない顔で則正がこっち見たことがあったんだ。月が綺麗な夜で、則正は空を見上げてた。眠れないのか、って声かけた俺を則正はすうっと振り返って、うん、って笑った。その則正の目が月光で青く透けて見えて」
そこに思い出の月の光があるみたいな目で、柊真は窓の下を走る道路を見ている。夜がどんどんと黒を積み重ねていく時間のためか、通り過ぎる車の量はまばらだ。一瞬の流れ星のように現れては消えていくそれを見つめていた柊真がすっと目を伏せた。
「それ見たら……好きだなって思ってしまった。それまではただの手間のかかる幼馴染だったのに。そばにいたいって思った」
そばに、いたい。
ぎりり、と胸の奥が重く軋んだ。ふっと息を吸い込むとその音がやけに高く響いた。音に反応して、柊真がぱっと目を開ける。
「どした?」
「い、いや……なんでも。その、あの」
焦ったけれど、動揺の理由なんて自分にだってわからない。ふるふると激しく首を振ってから、双葉は柊真に向き直った。
「あ、あの、さ、秋信、その気持ち、ちゃんと言った方がいいと思う。則正に。だってお前、まだ全然」
「言わない」
叩き落とされそうなくらい鋭い拒否だった。気だるげに窓縁に肘を突き、柊真が吐き捨てる。
「なんのためにここに来たのか、わかってるだろ。石鈴だって」
「わかってるけど。でも」
「俺は諦めるって言った。それは変わらない。それに俺」
そこまで言って柊真は不意に振り向いた。ダウンライトの黄色がかった光の下、視線が交じり合う。
こいつの目ってなんかつい覗き込みたくなるかも、とちらっと思った声が聞こえたように、柊真が椅子の背もたれから背中を離し、こちらに向かって身を乗り出す。則正とは違う、怖いくらい深い瞳が目の前に迫った。
「な……」
なに、と言いかけた。その双葉の額に彼が手を伸ばす。まだ乾かしていなかった濡れ髪からぽたり、と雫が落ちた。肌を流れ落ちるそれを柊真の手がそうっと拭う。けれど、丁寧に水滴を掬い取った指先は、用事が終わっても離れてはいかなかった。そのままつと滑り、額から下へと落ちていく。
気が付いたら……大きな手に頬を包まれていた。
吸い込まれて溺れてしまいそうな瞳が目の前に迫ってくる。その目からどうしても目が離せない。
このままでいたら自分達はどうなってしまうのだろう。
顔と顔の間隔が狭まっていくごとに、甘く痺れていく脳の奥でぼんやりとそう思った、そのとき。
点けたままになっていたテレビから、ぱあん、と甲高い銃声が響いた。
音でばりんと空気までが割れてしまった気がしてどきっとした。実際にそんなこと起きてはいないはずなのに、砕けた破片を避けるように、柊真の指がふっと引っ込められる。
「俺も風呂入る。石鈴、髪、ちゃんと乾かせよ」
一瞬前のことが幻だったと錯覚させる態度で柊真が身を起こす。視線も双葉から外れ、頬に触れてきた手も何事もなかったかのようにテーブル上にあった空のペットボトルを掴む。
「あ……」
口を開きかけて双葉は言葉を見失う。
……なあ、今、なにをしようとしたの?
……なにを言おうとしたの?
……それに俺、なに?
訊きたいのに、怖い。
訊いたら、なにかが壊れそうで、怖い。
だから、言えなかった。ただ言えずに、うん、とだけ頷いた。
ただ最近、その滅多に言わないはずの、幸せ、を何度か声に出した。たとえばあのときだ。
ホラー映画を観ていたとき。
――則正にとって、俺たちってこの……幸せを脅かす殺人鬼みたいなものなのかなあ。
あのとき口にした、幸せ、は自分の幸せを噛みしめるものでも、願うものでもなかった。言葉の核には則正がいて、幸せであってほしいという願いよりも、後ろ暗い想いが染み込んでしまっていた。
今、思い出しても胸が潰れそうになる。だって自分は、そして柊真も、則正が大好きだからこそ彼の幸せを良くも悪くも思ってしまったのだから。
でもじゃあ、今は? 今、自分と彼が漏らした、幸せ、はどうだろう。
完全に則正とは別のところにある、幸せ、じゃなかったろうか。
自分たちは同じ苦い幸せを見つめた者同士なのに、なぜ今、こんな気持ちで、幸せ、などと口にしているのだろう。
「お前さ……」
どういうつもりでそう言うの。
自分でも言ったくせにそう問いかけたくなった。だって全然わからないから。自分のこのふわふわした気持ちも、柊真の優しすぎる態度も。
傷心旅行のはずなのに、旅の始まりには色濃かった則正の面影がどんどん薄れていく。
あんなに好きだったはずなのに。自分も柊真も。でも、ふたりの間から徐々に徐々に則正が消えていこうとしている。
これは正しい状態なのだろうか。本当に?
自分たちのこの関係があまりにも不確かで、頼りなくて、怖かった。
「その、お前、さ、お前……則正のどこが好き、だった?」
だから……すがりつくような思いで問いかけてしまった。自分達の関係の名前を確かめるため、訊かずにいられなかった。
唐突な質問に柊真が目を瞬かせるのがわかった。それでも祈るみたいに柊真の顔を見つめ続けていると、彼はなにかを言いたげに唇を開いてから、すっと閉じた。
「なあ、お前は……」
「冷める。早く食べて」
急かす口調で柊真が言う。それきり無言でお茶を飲み始めてしまう彼をしばらく見つめてから、双葉はのろのろと箸を取った。
こいつだって……困っているのかもしれない。
この旅の不自然さに気付いて、来てしまったことを後悔しているのかもしれない。だとしたらこんなふうに詰め寄るのは間違いなのではないだろうか。
そもそも彼は……気晴らししようと誘ってくれたのだ。だから、楽しいならそれで満足していればいいだけのはずだ。
それを自分はなんでこうも引っ掻き回してしまうのだろう。
そこまで考えたところで双葉は決意した。
食べ終わったら柊真にちゃんと謝ろう。それで、残りの旅を楽しもうと言おう。
しかし、謝る隙は与えられなかった。双葉が食事を終えると、間を空けずに柊真は席を立ってしまい、後に続くしかなかったからだ。
しかも黙りこくったまま車に戻り、今夜の宿へと向かって発進させてしまう。一連の動きにあまりにも無駄がなさすぎて口を挟む余地がまるでない。
重々しい空気に押し潰されそうになりながらホテルに着き、フロントで指示された番号の部屋の扉を開けると、そこはこぢんまりとしたツインルームだった。
室内に入ったところで、柊真はやっとこちらを振り返った。
「ベッド、どっちがいい? 窓際?」
「あ、ええと、どっちでも」
普段なら窓際を絶対希望するけれど、なんとなく言い出しにくい。まあ、三階だし、夜だし、闇に沈んだ窓の向こうには道路を渡っていく車のヘッドライトくらいしか見えず、それほど景色がいいというわけでもない。こだわらなくてもいいか、と自分を納得させたのだが、柊真は双葉の答えを聞くと、壁際のベッドのシーツをめくって枕元にポケットから出したスマホを置いた。
「じゃ、俺、こっち使うな」
もしかして気を遣ってくれたのだろうか? とちらっと思ったが、そんな些細な問いすらしづらい空気がまだ漂っている。
「外、寒かったし、風呂、先入りな」
「あ、うん」
悩んでいると、有無を言わせない口調で促された。困ったな、と悶々としながらシャワーを浴びる。薄い扉の向こうからはドラマだろうか、会話する男女の声が聞こえた。
もやもやはしていたが、柊真の言う通り、外気で体は冷えていたようで、温かいお湯を浴びたことで少し気持ちが落ち着いてきた。さっきまでの自分はどうかしていたのかもしれない。
よし、変なこと訊いてごめんとちゃんと言おう、と改めて決意してバスルームから出る。
「風呂、ありがと」
室内にはやはりテレビの音が響いていたが、柊真は窓際に置かれた椅子に腰掛け、テレビではなく外を見ていた。そのままの姿勢で、ん、と短い頷きだけが返される。それっきり言葉はない。視線もこちらを向かない。
……謝るなら今しかない。
覚悟を決め、バスタオルで髪を拭きながらそろそろと彼に歩み寄る。が、その双葉の視界に、窓ガラスに映った自分が飛び込んできた。ホテル備え付けのフリーサイズのナイトウェアを着ているせいか、ぶかぶかしていて手も足もやたら細く見える。これじゃあ貧弱な体つきが丸見えだ。意識したとたん、猛烈に恥ずかしくなった。
考えてみれば、寝る前のこんな無防備な姿、今まで見せたことがない。
慌てて窓から目を逸らしつつ、双葉はそろそろと彼の向かい側の席に腰を下ろした。気付いているだろうに、柊真はやはりこちらを見てくれない。
どうしよう、どうしよう。まずは、さっきはごめん、だろうか。よし、と気合を入れ、両膝に置いた手に力を込める。
「秋信、あの……」
「さっきの質問の答えなんだけど」
だが、正式に口火を切ったのは柊真のほうだった。え、と声を漏らすが、視線は合わない。こちらを一切見ることなく、窓ガラスの向こうを見つめたまま、彼は続ける。
それは、ひどく苦い声だった。
「教えたくない」
「……は?」
「則正を好きだと思ったところ。お前には教えたくない」
「なんで」
こいつは尋ねられてから今まで考えていたのだろうか。驚きつつさらに問う双葉の前で、柊真は眉根を寄せた。
「多分、理解してもらえないから」
「なんだそれ。言わないとわからないだろ。言えよ」
もう余計なことを訊かない方がいい、とにかく謝ろう、と先ほど決意したにも関わらず、ついつい迫ってしまう。その双葉からやっぱり目を背けたまま、柊真は窓ガラスに映る自分を睨みつけている。
「変態と思われそうで、嫌だ」
「はあ?」
変態?
場違いに飛び出してきた、変態、に呆気に取られる。が、変態、と告げた柊真が苦しげに唇を引き結んでいるのを見たら、黙っていられなくなった。
だって、こんな顔をさせたくて訊いたんじゃない。
「なに言ってんだよ。人間なんてみんなそれぞれ変態じゃないの?」
やっと、彼がこちらを向いた。憂い顔が一転、唖然とした顔になっていた。
「そうか?」
「そうだろ? たとえばだけど……ええと、高校のとき、納豆にチョコレート入れて食べるやつがクラスにいたんだよ」
なんの話だ、と考えていることが丸わかりの顔で柊真が首を傾ける。さっきまでの思い詰めていたような顔色ではなくなって内心ほっとしつつも、双葉はじれったさに悶えた。
「絶対美味いから食べてみろってクラス中に布教し始めたんだけど、不評でさ。俺も食べたけど、正直一度でいいやって思った」
「……それで?」
「変態っていろんな意味あるけど、ようはまあ、普通と違うってことだよな。その意味で考えたら、クラスの大多数の人間からしたら、チョコレート入り納豆を食べるそいつは普通とは違うって意味になるじゃん。つまり変態」
「それは乱暴だろ。そもそも変態って性癖と一緒に語られるものじゃないか? その彼は変態と言われるほど異常なことをしてない。ただの食の好みだろ」
「性癖にしたってそうだろ。ここからが変態ですって誰が決めるんだ? なんとなく多数決でふわっと線引きされてるだけじゃん。しかもさ、普段口にしなくても人間なんてひとつやふたつ、自分だけの癖や好みってあるよな。当たり前すぎてそれが異常かどうか考えもしないものがさ。それ全部出して世界中の人間で吟味したら、それは変態案件でしょ、いやそれは変態じゃないんじゃ、いやいや変態ですって、って結構もめると思わない? 文化にだって宗教にだって時代にだって左右されるだろうし、そもそも人によって物差し全然違うんだからさ。だから変態って思われるってびびるのは、なんかナンセンスかなあって俺は思う」
一気に語ってしまってから我に返った。なんで自分はこんなに変態について熱弁をふるっているんだっけ。ああ、そうか、あまりにも深刻そうにしているこいつを見るに見かねて、と会話の全体像を思い出す。が、張り巡らされていた緊張の糸を断ち切るように、ぷっと吹き出され、驚愕した。
「え、ちょっとなに」
「もう……」
固まる双葉のことなどお構いなしに、柊真は声を上げて笑い出す。腰を折り、腹を押さえるという本格的な笑い方だった。
「熱く語りすぎ」
「お前が変態ってワードに怯えるからだろうが!」
なんてむかつくやつだろう、と、長年の習性で怒鳴ったけれど、実はかなり安堵もしていた。
まさか……こんなに悩むとは思わなかったから。
不安ばかりが大きくなってつい口にしてしまった自分の質問に、これほど長時間向き合ってくれるなんて、予想外だったから。
でも、笑ってくれて、よかった。
とはいえ。
「お前、いい加減笑い止めよ」
頬を膨らませるが、柊真の肩は依然として揺れたままだ。こいつはいつまで笑い続ける気だろう。あと三十秒待っても止まらなかったらどうしてやろうか、と殺意を覚え始めたころ、ようやく笑い声が収まった。
「ほんとにさ、則正はなんでお前じゃだめだったんだろうな」
ぽん、と頭に乗せられる掌の感触と共に、あのカレー鍋の日、自分が柊真に言った言葉がそのまま返ってくる。どきっとしたのも束の間、
「白目」
発せられた単語に虚を突かれた。
「へ?」
「俺が則正を好きだなって思ったところ。白目が綺麗だったから」
「白目? え、目?」
「そう」
まさか、体の部位が出てくるとは思わなかった。
「意外。しかも白目って。随分ピンポイントな」
「って言っても、別に白目好きってわけでもない。こんなことで好きになったのは則正だけ」
照れたようにこめかみを掻き柊真はすっと双葉の髪から手を離す。とたんに、髪の間を風がすり抜けていくような心許なさが襲ってきた。
本当に俺はどうしたんだ、と慌てたが、双葉はふるっと髪を揺らすことでその気持ちを振り切った。
「なんで白目?」
「理由はよくわからない。ただ……中学校の野外学習で班が同じになったとき、眼鏡のない顔で則正がこっち見たことがあったんだ。月が綺麗な夜で、則正は空を見上げてた。眠れないのか、って声かけた俺を則正はすうっと振り返って、うん、って笑った。その則正の目が月光で青く透けて見えて」
そこに思い出の月の光があるみたいな目で、柊真は窓の下を走る道路を見ている。夜がどんどんと黒を積み重ねていく時間のためか、通り過ぎる車の量はまばらだ。一瞬の流れ星のように現れては消えていくそれを見つめていた柊真がすっと目を伏せた。
「それ見たら……好きだなって思ってしまった。それまではただの手間のかかる幼馴染だったのに。そばにいたいって思った」
そばに、いたい。
ぎりり、と胸の奥が重く軋んだ。ふっと息を吸い込むとその音がやけに高く響いた。音に反応して、柊真がぱっと目を開ける。
「どした?」
「い、いや……なんでも。その、あの」
焦ったけれど、動揺の理由なんて自分にだってわからない。ふるふると激しく首を振ってから、双葉は柊真に向き直った。
「あ、あの、さ、秋信、その気持ち、ちゃんと言った方がいいと思う。則正に。だってお前、まだ全然」
「言わない」
叩き落とされそうなくらい鋭い拒否だった。気だるげに窓縁に肘を突き、柊真が吐き捨てる。
「なんのためにここに来たのか、わかってるだろ。石鈴だって」
「わかってるけど。でも」
「俺は諦めるって言った。それは変わらない。それに俺」
そこまで言って柊真は不意に振り向いた。ダウンライトの黄色がかった光の下、視線が交じり合う。
こいつの目ってなんかつい覗き込みたくなるかも、とちらっと思った声が聞こえたように、柊真が椅子の背もたれから背中を離し、こちらに向かって身を乗り出す。則正とは違う、怖いくらい深い瞳が目の前に迫った。
「な……」
なに、と言いかけた。その双葉の額に彼が手を伸ばす。まだ乾かしていなかった濡れ髪からぽたり、と雫が落ちた。肌を流れ落ちるそれを柊真の手がそうっと拭う。けれど、丁寧に水滴を掬い取った指先は、用事が終わっても離れてはいかなかった。そのままつと滑り、額から下へと落ちていく。
気が付いたら……大きな手に頬を包まれていた。
吸い込まれて溺れてしまいそうな瞳が目の前に迫ってくる。その目からどうしても目が離せない。
このままでいたら自分達はどうなってしまうのだろう。
顔と顔の間隔が狭まっていくごとに、甘く痺れていく脳の奥でぼんやりとそう思った、そのとき。
点けたままになっていたテレビから、ぱあん、と甲高い銃声が響いた。
音でばりんと空気までが割れてしまった気がしてどきっとした。実際にそんなこと起きてはいないはずなのに、砕けた破片を避けるように、柊真の指がふっと引っ込められる。
「俺も風呂入る。石鈴、髪、ちゃんと乾かせよ」
一瞬前のことが幻だったと錯覚させる態度で柊真が身を起こす。視線も双葉から外れ、頬に触れてきた手も何事もなかったかのようにテーブル上にあった空のペットボトルを掴む。
「あ……」
口を開きかけて双葉は言葉を見失う。
……なあ、今、なにをしようとしたの?
……なにを言おうとしたの?
……それに俺、なに?
訊きたいのに、怖い。
訊いたら、なにかが壊れそうで、怖い。
だから、言えなかった。ただ言えずに、うん、とだけ頷いた。



