恋敵と傷心旅行へ行くことになりました。

 酒を飲んで全部綺麗に忘れられる人間ではなかったので、あの夜のことはまあまあ覚えている。ただ……あまりにも普段の柊真とは違う言動過ぎたから、もしかしたら夢だったのかもと疑ってもいる。実際にあったのか、なかったのか。確認してみたい気もしたが、いささかこそばゆい記憶ではある。結局、柊真の真意を確かめられぬままに、双葉は今、ここにいる。
「よかった。最終に間に合った」
 フェリー乗り場で出航時間を確かめる柊真の横で、双葉も時刻表を見上げる。
「真珠島とかあるんだ」
「石鈴、真珠、興味あるの?」
「いや、ない」
 そうだろうな、と柊真が横顔で笑う。鳥羽湾にはいくつか島が点在していて、どの島に行くかでコースは違うようだったけれど、相談して鳥羽湾をざっくり一周できる遊覧船のチケットを購入した。
「なあなあ、遊覧船ってどれだろ。さっき、竜宮城みたいなの泊まってたじゃん。あれだったらいいな」
「残念、違う。俺達が乗るのはあれ」
 海の向こうから船が近づいてくる。ごつごつして見えた竜宮城とは正反対の瀟洒な白い観光船で、双葉はちょっとがっかりした。しかもなぜか船の上部に女性の像があしらってある。
「なんかでかい女の人、いるけど」
「フラワーマーメイド号らしいから、あれはマーメイドだと思う」
「マーメイド」
 男ふたりでマーメイド! たじろいでいる間に乗船口にフラワーマーメイド号が横付けされた。平日の、しかも真冬だからか、乗客は少なかったが、子どももいて皆、楽しげにタラップを渡っていく。まあ、マーメイド云々はどうでもいいか、と諦め顔で乗船したくせに、出航したフラワーマーメイドの床板から響いてくる力強いエンジン音に、双葉は完全に魅了されてしまった。
 ぐんぐん波を蹴立てて進む船の客席で、ガラス窓にすがりつき、興奮気味に叫ぶ。
「秋信! 海! 海すごい! ってあれ、これ、甲板にも出られるんだ。出よう! 秋信!」
「……お前ってそんなに船好きだったの?」
「いや、好きっていうか、なんかテンション上がらない? こういうの。俺だけ?」
「そんなことないけど」
 柊真はしげしげとこちらを眺めてからいきなりくつくつと笑いだした。え、なに、と固まる双葉に向かってひらひらと片手を振ってから、その手で口許を覆い肩を震わせている。
「なんだよ」
「見た目大人しく見えるし、はしゃぐとかあんまりしなさそうなのに、こういうの好きなんだなあって思ったらなんか」
「子どもっぽいとか言いたいのか」
 むっとして唇を捻じ曲げると、違う違う、とまた手が振られる。切れ長の目がこちらを見据えてから、ふっと柔らかく細められた。
「可愛いと思ってしまった」
「は?!」
 耳を疑った。次いで血液がぶわっと顔に向かって流れるのを感じた。
 なんだろう、これ。熱い。
「……なに言ってんだよ」
 やっとのことでそれだけ返し、勢いよく顔を背ける。が、数秒経っても柊真から反応がない。覚悟を決めて振り向いて双葉は目を剥いた。
 柊真が再び片手で口許を覆っていた。俯いているので表情は見えない。失言に気付いて今更ながら狼狽えているのだろうか。慌てるくらいなら言うんじゃねえよ馬鹿、と頬を赤らめていると、がたん、と船が揺れた。そのせいでもうひとつの可能性に思い至り、双葉は焦って彼の顔を覗き込んだ。
「秋信、もしかして船酔い? 気持ち悪い? 大丈夫?」
「え」
 伏せられていた顔が上げられる。顔色は悪くない。ほっとしたとたん、柊真の顔がくしゃっと崩れた。
「もう……」
 広い肩が大きくわななく。直後、彼は本格的に笑い出した。
「だめだ、お前にはやっぱり敵わない……」
「ええ?」
 なんだ? なにがそれほどツボに入ったのだろう。まったく意味がわからない。ここまで大笑いをするところを見たことなんてなくて目を白黒させたが、そんな双葉の戸惑いなどお構いなしに笑い続けた柊真の手によって、不意に腕が掴まれた。
「甲板、出る?」
「あ、うん。出る、けど」
 おたおたしているうちにぐいぐいと引っ張られ、上階へと伸びる階段に差しかかった。人一人がやっとすれ違えるような細い階段を上った先にあるドアを柊真が開ける。
 視界が一気に、開けた。
「うわあ……!」
 甲板の向こうは海だった。傾き始めた日差しによって染められた波頭が真珠の連なりのように煌いている。ここは複数の島々によって囲まれている内海のはずだけれど、大きくうねる白波の下に控えた海面は、眩しいながらも冷たさをしっかりとその奥に抱いていることが見下ろしただけでもわかる深い藍色をしていた。
「あんまり潮の匂いはしない……わ!」
 そうっと手すりから海面を覗き込んだ双葉の顔面に向かって、強風がいきなり吹き付けてくる。マフラーをもぎ取ろうとするかのように容赦なく襲いかかってくる風に、双葉はたまらずよろめいた。
「なにこれ! 風、めっちゃ強!」
「石鈴」
 声と共にぐいっと手すりから遠ざけられる。振り向くと柊真が風に目を細めながらこちらを見下ろしていた。
「危ない」
 風がごうごうと渦を巻く。甲板には家族連れが一組いたが、強い上に冷たい風に耐え兼ねて客室へと戻っていくところだった。その声の尻尾が消えたのと同じタイミングだった。
「あんまり手すり、近づくな」
 きゅうっと掴まれた腕に力が込められる。海に落ちたりなんてしないって、と笑って手を払おうとして……できなかった。
 腕に絡んでいた手によって強く引き寄せられたために。
 ふわっと体が傾ぎ、顎が彼の肩に当たった。
「頼むから、走り回らないでここにいて」
 耳元で柊真が言う。低いその声に双葉は返事ができなかった。
 二月の旅だからふたりとも厚手のコートを着ている。柊真は黒のダウンコートを、自分もチャコールグレーのコート。分厚い布に遮られて体温なんて伝わるはずがない。けれど、引き寄せられるまま彼の肩に顎が触れたとき、うるさいくらい周りで渦巻いていた風の音が途切れて、温もりが確かに自分を包んだ。
「あ、の」
 訊くなら今かもしれない。
 本当はずっと気になっていたから。気にしないようにしよう、訊いたらただでさえ謎の旅なのにますます息苦しくなる、だから、何事もなかった顔で楽しもう、それが絶対、お互いにいい、と信じていた。
 でも、本当はずっと頭の中から消えずにいた。あの夜の柊真の声が。腕の温もりが。
――大丈夫。俺がそばにいるから。
 なあ、なんでお前はあの夜、あんなことを言った?
 なんで抱きしめるみたいなことをした?
 同情したから? 元気づけたかったから? でも、あんな距離……。
「あ、の、秋信。この前さ、お前……」
「風、強すぎるな」
 言いかけた双葉を遮り、柊真がすっと体を引く。双葉の首元で風に弄ばれているマフラーを手早く結び直すと、彼は階段へと足を向けた。
「冷えるし。下、戻ろう」
「いや、あの」
「温かい飲み物も売ってたし」
 言いながら双葉から離れ、歩き出す。ちょっと待て、と言おうとするが声を受け付けまいとする意志が柊真の背中にはみなぎって見え、双葉は声を口の中へしまい込む。
「なんだよ……」
 彼に聞こえないよう零したものの、本当は少しほっとしてもいた。
 柊真が遮らなければ、多分自分は疑問を残らず口から出していただろう。でも旅は一日目。その一日目にややこしいことを言ってしまって、ぎくしゃくしてしまったら?
 それは、嫌、だった。
 だって……ここまですごく、楽しい、と感じていたから。
 柊真はどうだろうか。楽しいと思ってくれているだろうか。
 そこでふと、大笑いしていた柊真の顔を思い出した。
 則正と三人でいたときのあいつの顔は基本無表情で、双葉に向けられる視線には棘が仕込まれていた。
 でも、則正と過ごさなくなった今、柊真の視線には棘なんて一片もない。相変わらずなにを考えているかは読めないけれど、向けてくる笑みには温度があるし、あんなふうに馬鹿笑いもする。
 やっぱりあいつにはいろんな顔があるのだ。双葉の知らない顔が。
 見てみたい。
 まだ知らないあいつの顔を見てみたい。
 ざああっと風が甲板を薙ぐ。柊真に結び直されたマフラーが再び解けようとする。慌てて首元を押さえると、石鈴、と風の中で名前を呼ばれた。
「おいで」
 客室へと下りる扉の前で柊真が振り返っていた。夕日と風のせいで細められているけれど、彼の黒い瞳はこちらに向けられている。
 心配そうなその目はちょっとだけ……則正を見ていたときの目と、似ていた。
……手間がかかる俺見て、則正思い出してるのかな。
「今、行く」
 頷いて歩き出すと、胸の奥が、ずくり、と疼いた気がした。そろそろと胸を押さえる双葉を柊真が、石鈴? とまた呼ぶ。
「なんでもない」
 首を振り、彼に向かって走り出す。転ぶから走るなって、と注意する声が聞こえた。
 橙をほんのりと混ぜた光の中にいる彼は、笑っていた。