柊真の家は双葉のアパートから徒歩十五分ほどのところにある。古そうだけれど、しっかりとしたレンガ造りのマンションで、その三階の角部屋が柊真の部屋になる。建物の下までたどり着くと、ベランダで洗濯物を取り込んでいる柊真の姿が見えた。
「上がってきて」
柊真からも双葉が見えたのか頭上から声が降ってくる。うん、と頷いてエレベーターホールを覗くと、エレベーターは上階へと旅立った直後だった。待つほどの階数でもないと判断し、非常階段で三階まで上がる。
三階の共用廊下にはカレーの香りが漂っていた。ああ、どこかの家ではカレーなのか、と想像したら猛烈に空腹を感じた。カレーもいいなあ、と思ってから、いや、鍋だと言っていたっけ、と肩を落として柊真の家のチャイムを押す。しかし、開かれたドアの中からはなぜかカレーの匂いがした。
「なぜにカレー? 鍋じゃなかったの?」
「カレー鍋」
短く言い、柊真が中へ入るよう促す。久しぶりに訪れた部屋は相変わらず片付いていて、彼そのもののような顔で双葉を迎えてくれた。
「カレー鍋って食べたことない」
「締めはうどんの予定。いい?」
「うん」
カレーうどん。久しぶりだ。楽しみかも。笑顔で頷くと、ふっと柊真が目を見張った。
「なに」
「いや」
緩く首を振り、柊真は部屋へ引っ込んだ。玄関横のキッチンに立ち、きゅうりを切り、サラダボウルにこんもり盛られたレタスの上に飾り付けていく。まるで豪奢な花のように飾られたきゅうりの緑とプチトマトの赤が眩しかった。
「手、洗って。終わったら座ってて」
母親みたいに命令されて、はいはい、と頷いて洗面所へ向かう。ふかふかの清潔なタオル。水垢ひとつない洗面台。ここも隅々まで綺麗に掃除されている。自分の部屋とは大違いだ。
則正は……ここにどれくらいの回数来たのだろう。彼がやって来たとき、柊真はどんな気持ちになったのだろう。
想像したら憂鬱になってきた。鏡に映る陰気な目をした自分を、馬鹿馬鹿、と罵倒して洗面所を出た双葉を迎えてくれたのは、濃厚なカレーの香りだった。
「やば……匂いから美味そう」
食べ物の匂いってやつはどうしてこう、簡単に笑顔を引っ張り出せてしまうのだろう。
「一応白米も炊いたけど、どうする?」
やっぱり母親のような甲斐甲斐しさで尋ねられる。こいつこんなに優しかったっけ、と訝しみつつ、双葉は首を振った。
「カレーうどん食べたい。いい?」
「いいよ」
ふっと唇の端に笑みが刻まれる。あんまり笑わないやつだから、たまに見るとやはり戸惑ってしまう。けれどそう思う一方で、その顔、悪くない、と思ってもいた。
悪くないどころか、すごく、いい。
「あ、そうだ。俺、プリン買ってきた」
「おお、偉い偉い」
心を満たしてくれるカレーの匂いに包まれながら、テーブルの上にコンビニプリンをふたついそいそと並べる。しかし、その双葉に帰ってきたのは馬鹿にするような声だった。
「お前にも手土産持ってくる常識はあったんだな」
……冗談じゃなく、気分が一気に急降下した。
「お前……いいやつだと思ったのに」
俺の純情を返せ、じゃないが、わくわく感が台無しだ。やっぱりこんなやつとふたりだけで鍋とか冗談じゃない。心が和んだ後だけに下がり幅も大きく、双葉は憤然と立ち上がる。鞄を掴みコートを取ろうと手を伸ばすが、その手は空を切った。
何たることか、一瞬早く柊真によってコートが奪われていた。
「なんだよ、返……」
「映画」
尖った声に柊真の静かな声がかぶさる。え、と目を瞬く双葉のコートを腕にかけ、柊真は閉じられていたドアを開ける。隣は寝室らしかった。
「お前の好きなの、選んでいいから。マナプラ入ってるし、新作もあったと思う。コート、臭いつくからこっちかけとく。いい?」
「……あ、ああと、うん」
隙が、なさすぎる。
……そんな冷静に言われたら、いらない、帰る! と怒鳴れないだろうが。
不承不承頷くと、寝室へと向かいながら柊真が言った。
「俺としては、食事時に観ても問題なさそうなやつを希望する」
「は……」
確かに内蔵がでろっと出るようなタイプの映画を見ながら鍋はつつきたくない。が、それにしても、いつも平然としているのに食事時とかそういうのは気にするのか。
怒っていたのを忘れて、ちょっと笑ってしまった。
「なんだよ」
寝室から戻ってきた柊真が仏頂面をする。いや、と首を振り、テーブルの前に腰を下ろすと、柊真はそれ以上突っ込んではこず、キッチンへと姿を消した。
数分後、テーブルの上には、ぐつぐつと美味しそうな音を立てる土鍋と取り皿が用意されていた。他にも煮えるまでのつまみにと筑前煮と磯辺揚げ、冷ややっこ、サラダが並べられている。
壮観すぎて溜め息が出た。
「秋信って、本当に料理得意なんだな」
「別に。バイトしてたら覚えただけ。ビール飲む?」
対する柊真の声には愛想がない。まあ、顔良し、スタイル良しで周りから注目を浴びまくってきた人間からしたら、褒められるのも却って煩わしいのだろう。
でも、そんな完璧に見える人間にも悩みはあるのだ。それを双葉は嫌になるくらい知っている。
「やっぱりカレーうどん、最高」
カレー鍋はめちゃくちゃ美味しかった。しっかりと出汁がきいていて締めのカレーうどんも箸が止まらなかった。
美味い美味いばかり言って大した会話もなく食事を終え、さあいよいよホラー映画を本腰入れて観ようかとテレビ前にふたりで並んで座り、ビール片手に観始めたが……あまりにもつまらなくて、すぐ飽きてしまった。画面を観ながらぽつりぽつりと会話を始めて三十分。
「最近、則正と話した?」
まあまあ酔ってもいて、問う声は普段よりずっと滑らかに双葉の口から滑り落ちた。
「いや、あんまり。向こうからも連絡来ないし。邪魔するのもどうかと思って」
「邪魔……になるのかな。俺達」
画面の中では避暑地でのバカンス気分が一転、正体不明の殺人鬼にじりじりと追い詰められ、生き残ったふたりが抱き合って震えている。
「則正にとっての俺達ってさあ、この……幸せを脅かす殺人鬼みたいなものなのかなあ」
ホラーは明かりを消して観てこそだ、と双葉が力説したから、部屋の明かりは消されている。テレビからのゆらゆらと揺れる不安定な光に照らされ、柊真がこちらを見た。
「そこまでひどいものだと思ってはいないだろ。せいぜい柿の種のピーナッツくらいじゃないかな」
「ピーナッツは邪魔者じゃないだろー」
「俺はないほうがいい」
そこまで言って柊真がすっと立ち上がる。てっきり柿の種でも取ってくるのかと思ったら、双葉が持ってきたプリンを手に戻ってきた。
「まだ飲んでるのに」
「飲みすぎ。ビール一回やめて、こっち……」
「やだ、まだ飲む」
ビール缶を胸に引き寄せて抱きしめる。普段、それほど飲まないタイプなのだけれど、今日はやけに酒が進んでしまう。呂律が回っていない自分の声を頭の片隅で聞きつつも、酒も、零れ落ちてしまう言葉も、止められなかった。
「ずっと考えてたんだけどさ、恋人と友達ってどっちが上なのかなあ」
「人それぞれだと思うからなんとも言えないけど。石鈴は? 恋人と友達、どっちが上?」
「俺はー……わかんないなー。付き合ったことはあるけど、ひと月もたなかったから」
「意外。丁寧に付き合いそうなのに」
「いやー、告白されて始まったけど、話が嚙み合わないってお断りも向こうからだったし」
「……好きになった人は? 則正以外で」
問われて記憶を辿る。好きな人がいたことは確かにあった。小学校のころ、隣の席の女子が気になった。中学のときも委員会が一緒だった子のことを、いいな、と思った。けれどそれは、好き、と言い切れるほど、色づいた感情だったろうか。
誰にも渡したくない、と思うような独占欲を伴う気持ちだったかというとそうとは思えない。
「いたと思ってたけど、よくわかんない。ってか、そもそも好きってなんだろ。なんかそれさえ微妙」
手にしたビール缶を軽く振ると、ちゃぷちゃぷ、と音がする。残り少なくなったそれをぐいぐいと飲み干し、双葉はローソファーにぐたりと身を預けた。
「ただ……嫌だったんだあ。則正がさ、俺の知らない話でお前と盛り上がるの。俺だけ置いて行かれちゃうみたいですっごく不安だった。いいなあ、羨ましいなあって思ったりした」
「そんなの俺もだ」
すとん、と柊真が腰を下ろす。ソファーが揺れて肩先が少し触れた。
「俺はアニメ、あんまり観ないし。ふたりがなんだっけ、なんとかヘヴン? の話して盛り上がっているのが嫌だった。俺とふたりでいても則正、アニメの話なんてまずしないのに、石鈴と仲良くなってからはいきいきとするようになって。今まで話せなくてつまらなかったのかなって思ったら申し訳ないやら悔しいやら」
「なんだそれ。涼しい顔して、そんなこと思ってたんだ」
「涼しくなんてない。むかついてたし、俺もアニメ勉強しようかとマナプラ入ったけど、やめた」
「なんで?」
とろんとした声で問う。柊真はそんな双葉の手からビール缶を取り上げ、振る。空だと覚ると眉を寄せ、テーブルに缶を置いた。
「勉強したところでにわか知識であることは則正にはすぐ見破られるだろうし、そもそも石鈴には敵わないだろうなって思ったから。ほんと詳しいもんな、アニメ」
「詳しい? そっかあ、そう見えてたかあ、でもね、違うんだな、これが」
ああ、本格的に酔っぱらっているらしい。ふわふわしながら、机の上に置かれたままになっていた柊真の分のビールを取り上げる。おい、と柊真が止めようとしたが、それより早くぐびぐびと飲み、双葉は、ふふふ、と不敵に笑った。
「俺、アニメ別に好きじゃなかったんだよ。負け犬ヘヴンは観てたから話合わせられただけ」
「でも他にもいろいろ話してたよな?」
「あれはー、勉強したの。お前、アニメ、疎いみたいだったし、お前に勝てる話題はこれしかないって思ってさ。二年間でアニメ観すぎて頭パンクするかと思った。ちょっと単位も危なかった」
「なんて涙ぐましい努力」
くたりと柊真がソファーの上で脱力する。その柊真の肩に双葉は、がん、と肩を当てた。
「馬鹿だと思っただろ。俺のこと」
「まあ。単位やばくなるまですることじゃないでしょうが、とは」
「うるさいな。それくらいしないと勝てないって思ったんだよ」
イケメンで勉強も料理もできて。則正が困っていれば躊躇わず手を差し出せる包容力もあって。好奇心旺盛で放っておくとどこへでも飛んでいってしまう則正を支えるように、彼の傍らで背筋を伸ばして立っていて。
まるで大樹みたいに則正のことを長年見つめ続けてきた、こいつ。
「なんでなんだろ」
ぽつりと言うと、ん? と近い位置から声が返ってきた。
「なんで、則正はお前じゃだめだったんだ?」
ふっと柊真が息を呑む。ああ、こんなことを言ってもこいつを困らせるだけだとわかっているのに、酔いのせいで口を閉じることができない。
「畑中なんかより、お前のほうがずっと則正のこと好きだった。俺、知ってるもん。見てたもん。なのになんで」
「酔っぱらいすぎ」
水、飲む? と立ち上がろうとする柊真の腕を座ったまま引っ掴む。上げかけた腰をすとん、とソファーに落とした彼の腕に腕を絡めるようにして、双葉は言い募った。
「お前は本当にいいの? 俺なんかよりずっと長い間、則正のこと見てたのに。応援するとか言うし。そんな簡単に諦められるのはなんで?」
「簡単ではないけど……まあ、仕方ない。則正が決めたことだから」
「仕方ないじゃなくて。そもそもさ、なんで応援するなんて言った? お前、俺のこと、認めてないだろ。畑中と俺のなにが違うの」
そうだ。畑中も双葉も、柊真にとってみれば同じではないのか。ぽっと湧いて出てきて則正に引き寄せられてうろうろする羽虫みたいな。いや、畑中よりも双葉のほうが性質が悪かったに違いない。随分嫌味も言ったし、邪魔だという顔を隠しもせずにきたのだから。その自分に柊真は、応援する、と言った。
ぐっと腕を掴む双葉に柊真は短く息を吐いてみせると、だって、と笑んだ。
「俺も見てたから。則正をずっと見てたお前の顔。あり得ないくらいまっすぐなとこも知ってたし。だから応援しようって自然に思えたよ。無理も意地もなく」
「そんなの」
そんなの、と言ったきりなにも言えなくなった。
胸が痛くてたまらなかった。
思い出すのは、則正、と彼を呼ぶ柊真の声。細められた、目。すぐ食べこぼす則正の服をさっと拭いてやる手の形。
誰よりも好きって顔をしていたくせに。あんなにも彼だけを見ていたくせに。
なんでそんなことをさらっと言えるんだ、と胸倉を引っ掴んで揺さぶりたくなった。
こいつの心の内にぽっかりと空いた穴を思うと痛くて仕方なかった。
「もう……嫌だよ。なにも見たくないよ」
だから……この言葉は失恋した自分の心の叫びじゃない。目の前の彼を心配して出てしまったものだ。仲睦まじい則正と畑中を見続けることに疲れていたのだって確かだけれど、それよりもこいつが同じものを見て感じる心のひび割れのほうが見たくないと思った。
だってこいつは、自分よりもずっと、ずっと長いこと、彼のそばにいたのだから。
酔いの中で唇を噛む。柊真も黙っている。しばらくして、沈黙に染められていた空気の中に、ふっと柊真の吐息が落ちた。
「じゃあ、俺と行かない? 傷心旅行」
「……は?」
飲みすぎたせいで目が霞んでいる。のろりと顔を上げると、ぼやけた視界の中で、柊真がうっすらと笑っていた。
「俺もつらかったから。もういいって思ってもやっぱり。けど、お前とどっか行って、美味いもの食べて、馬鹿みたいな話できたら本当の意味で楽になる気がする。幸いもうすぐ春休みだし。石鈴は、どう?」
「どっかって……どこ……?」
「そんな金もないし、兄貴に車借りて行ける場所……三重とか静岡とか、近場かなって思うけど。でもここでふたりで腐ってるよりいいかと思うから」
突然降ってわいたみたいな思い付きの計画だ。柊真も本気かどうか怪しい。双葉ほどではないにせよ、こいつも相当飲んでいたはずだから。
でも彼の提案は悪くないと思った。少なくとも埋まる気がした。
則正の不在が。そして……目の前のこいつの心にびっしりと浮いているだろう傷が。
だから。
「行く」
躊躇なく頷いた。恋敵であったこいつと旅をするなんて、素面だったら多分、頷かなかっただろうけれど、このときの双葉には迷いがなかった。
「三重って言ったら……伊勢神宮?」
決断したらなんだか急に眠気が襲ってきた。夢うつつで問うと、そうだな、と柊真が同調する声が聞こえた。
「鳥羽水族館のスナメリとか」
「スナメリ」
眠気からずるずると頭が落ちていく。ぽてり、と隣に座る彼の肩に頭を落とし、双葉はぼんやりと呟いた。
「則正も畑中とどっか行ったりするのかな」
言うべきじゃなかったのに言ってしまった。ごめん、と呟き、目を伏せる。柊真も黙っている。ああ、酒は鬼門かもしれない、と朦朧としながら思っていたときだった。
背もたれと背中の間を腕が滑り、その腕によってくいと抱き寄せられた。もたせかけていたままの頭が一層肩に押し付けられ、髪に指がくぐらされる。
あれ、なんか距離がおかしいな、と思う双葉の耳に声が滑り込んだ。
「大丈夫。俺がそばにいるから」
「上がってきて」
柊真からも双葉が見えたのか頭上から声が降ってくる。うん、と頷いてエレベーターホールを覗くと、エレベーターは上階へと旅立った直後だった。待つほどの階数でもないと判断し、非常階段で三階まで上がる。
三階の共用廊下にはカレーの香りが漂っていた。ああ、どこかの家ではカレーなのか、と想像したら猛烈に空腹を感じた。カレーもいいなあ、と思ってから、いや、鍋だと言っていたっけ、と肩を落として柊真の家のチャイムを押す。しかし、開かれたドアの中からはなぜかカレーの匂いがした。
「なぜにカレー? 鍋じゃなかったの?」
「カレー鍋」
短く言い、柊真が中へ入るよう促す。久しぶりに訪れた部屋は相変わらず片付いていて、彼そのもののような顔で双葉を迎えてくれた。
「カレー鍋って食べたことない」
「締めはうどんの予定。いい?」
「うん」
カレーうどん。久しぶりだ。楽しみかも。笑顔で頷くと、ふっと柊真が目を見張った。
「なに」
「いや」
緩く首を振り、柊真は部屋へ引っ込んだ。玄関横のキッチンに立ち、きゅうりを切り、サラダボウルにこんもり盛られたレタスの上に飾り付けていく。まるで豪奢な花のように飾られたきゅうりの緑とプチトマトの赤が眩しかった。
「手、洗って。終わったら座ってて」
母親みたいに命令されて、はいはい、と頷いて洗面所へ向かう。ふかふかの清潔なタオル。水垢ひとつない洗面台。ここも隅々まで綺麗に掃除されている。自分の部屋とは大違いだ。
則正は……ここにどれくらいの回数来たのだろう。彼がやって来たとき、柊真はどんな気持ちになったのだろう。
想像したら憂鬱になってきた。鏡に映る陰気な目をした自分を、馬鹿馬鹿、と罵倒して洗面所を出た双葉を迎えてくれたのは、濃厚なカレーの香りだった。
「やば……匂いから美味そう」
食べ物の匂いってやつはどうしてこう、簡単に笑顔を引っ張り出せてしまうのだろう。
「一応白米も炊いたけど、どうする?」
やっぱり母親のような甲斐甲斐しさで尋ねられる。こいつこんなに優しかったっけ、と訝しみつつ、双葉は首を振った。
「カレーうどん食べたい。いい?」
「いいよ」
ふっと唇の端に笑みが刻まれる。あんまり笑わないやつだから、たまに見るとやはり戸惑ってしまう。けれどそう思う一方で、その顔、悪くない、と思ってもいた。
悪くないどころか、すごく、いい。
「あ、そうだ。俺、プリン買ってきた」
「おお、偉い偉い」
心を満たしてくれるカレーの匂いに包まれながら、テーブルの上にコンビニプリンをふたついそいそと並べる。しかし、その双葉に帰ってきたのは馬鹿にするような声だった。
「お前にも手土産持ってくる常識はあったんだな」
……冗談じゃなく、気分が一気に急降下した。
「お前……いいやつだと思ったのに」
俺の純情を返せ、じゃないが、わくわく感が台無しだ。やっぱりこんなやつとふたりだけで鍋とか冗談じゃない。心が和んだ後だけに下がり幅も大きく、双葉は憤然と立ち上がる。鞄を掴みコートを取ろうと手を伸ばすが、その手は空を切った。
何たることか、一瞬早く柊真によってコートが奪われていた。
「なんだよ、返……」
「映画」
尖った声に柊真の静かな声がかぶさる。え、と目を瞬く双葉のコートを腕にかけ、柊真は閉じられていたドアを開ける。隣は寝室らしかった。
「お前の好きなの、選んでいいから。マナプラ入ってるし、新作もあったと思う。コート、臭いつくからこっちかけとく。いい?」
「……あ、ああと、うん」
隙が、なさすぎる。
……そんな冷静に言われたら、いらない、帰る! と怒鳴れないだろうが。
不承不承頷くと、寝室へと向かいながら柊真が言った。
「俺としては、食事時に観ても問題なさそうなやつを希望する」
「は……」
確かに内蔵がでろっと出るようなタイプの映画を見ながら鍋はつつきたくない。が、それにしても、いつも平然としているのに食事時とかそういうのは気にするのか。
怒っていたのを忘れて、ちょっと笑ってしまった。
「なんだよ」
寝室から戻ってきた柊真が仏頂面をする。いや、と首を振り、テーブルの前に腰を下ろすと、柊真はそれ以上突っ込んではこず、キッチンへと姿を消した。
数分後、テーブルの上には、ぐつぐつと美味しそうな音を立てる土鍋と取り皿が用意されていた。他にも煮えるまでのつまみにと筑前煮と磯辺揚げ、冷ややっこ、サラダが並べられている。
壮観すぎて溜め息が出た。
「秋信って、本当に料理得意なんだな」
「別に。バイトしてたら覚えただけ。ビール飲む?」
対する柊真の声には愛想がない。まあ、顔良し、スタイル良しで周りから注目を浴びまくってきた人間からしたら、褒められるのも却って煩わしいのだろう。
でも、そんな完璧に見える人間にも悩みはあるのだ。それを双葉は嫌になるくらい知っている。
「やっぱりカレーうどん、最高」
カレー鍋はめちゃくちゃ美味しかった。しっかりと出汁がきいていて締めのカレーうどんも箸が止まらなかった。
美味い美味いばかり言って大した会話もなく食事を終え、さあいよいよホラー映画を本腰入れて観ようかとテレビ前にふたりで並んで座り、ビール片手に観始めたが……あまりにもつまらなくて、すぐ飽きてしまった。画面を観ながらぽつりぽつりと会話を始めて三十分。
「最近、則正と話した?」
まあまあ酔ってもいて、問う声は普段よりずっと滑らかに双葉の口から滑り落ちた。
「いや、あんまり。向こうからも連絡来ないし。邪魔するのもどうかと思って」
「邪魔……になるのかな。俺達」
画面の中では避暑地でのバカンス気分が一転、正体不明の殺人鬼にじりじりと追い詰められ、生き残ったふたりが抱き合って震えている。
「則正にとっての俺達ってさあ、この……幸せを脅かす殺人鬼みたいなものなのかなあ」
ホラーは明かりを消して観てこそだ、と双葉が力説したから、部屋の明かりは消されている。テレビからのゆらゆらと揺れる不安定な光に照らされ、柊真がこちらを見た。
「そこまでひどいものだと思ってはいないだろ。せいぜい柿の種のピーナッツくらいじゃないかな」
「ピーナッツは邪魔者じゃないだろー」
「俺はないほうがいい」
そこまで言って柊真がすっと立ち上がる。てっきり柿の種でも取ってくるのかと思ったら、双葉が持ってきたプリンを手に戻ってきた。
「まだ飲んでるのに」
「飲みすぎ。ビール一回やめて、こっち……」
「やだ、まだ飲む」
ビール缶を胸に引き寄せて抱きしめる。普段、それほど飲まないタイプなのだけれど、今日はやけに酒が進んでしまう。呂律が回っていない自分の声を頭の片隅で聞きつつも、酒も、零れ落ちてしまう言葉も、止められなかった。
「ずっと考えてたんだけどさ、恋人と友達ってどっちが上なのかなあ」
「人それぞれだと思うからなんとも言えないけど。石鈴は? 恋人と友達、どっちが上?」
「俺はー……わかんないなー。付き合ったことはあるけど、ひと月もたなかったから」
「意外。丁寧に付き合いそうなのに」
「いやー、告白されて始まったけど、話が嚙み合わないってお断りも向こうからだったし」
「……好きになった人は? 則正以外で」
問われて記憶を辿る。好きな人がいたことは確かにあった。小学校のころ、隣の席の女子が気になった。中学のときも委員会が一緒だった子のことを、いいな、と思った。けれどそれは、好き、と言い切れるほど、色づいた感情だったろうか。
誰にも渡したくない、と思うような独占欲を伴う気持ちだったかというとそうとは思えない。
「いたと思ってたけど、よくわかんない。ってか、そもそも好きってなんだろ。なんかそれさえ微妙」
手にしたビール缶を軽く振ると、ちゃぷちゃぷ、と音がする。残り少なくなったそれをぐいぐいと飲み干し、双葉はローソファーにぐたりと身を預けた。
「ただ……嫌だったんだあ。則正がさ、俺の知らない話でお前と盛り上がるの。俺だけ置いて行かれちゃうみたいですっごく不安だった。いいなあ、羨ましいなあって思ったりした」
「そんなの俺もだ」
すとん、と柊真が腰を下ろす。ソファーが揺れて肩先が少し触れた。
「俺はアニメ、あんまり観ないし。ふたりがなんだっけ、なんとかヘヴン? の話して盛り上がっているのが嫌だった。俺とふたりでいても則正、アニメの話なんてまずしないのに、石鈴と仲良くなってからはいきいきとするようになって。今まで話せなくてつまらなかったのかなって思ったら申し訳ないやら悔しいやら」
「なんだそれ。涼しい顔して、そんなこと思ってたんだ」
「涼しくなんてない。むかついてたし、俺もアニメ勉強しようかとマナプラ入ったけど、やめた」
「なんで?」
とろんとした声で問う。柊真はそんな双葉の手からビール缶を取り上げ、振る。空だと覚ると眉を寄せ、テーブルに缶を置いた。
「勉強したところでにわか知識であることは則正にはすぐ見破られるだろうし、そもそも石鈴には敵わないだろうなって思ったから。ほんと詳しいもんな、アニメ」
「詳しい? そっかあ、そう見えてたかあ、でもね、違うんだな、これが」
ああ、本格的に酔っぱらっているらしい。ふわふわしながら、机の上に置かれたままになっていた柊真の分のビールを取り上げる。おい、と柊真が止めようとしたが、それより早くぐびぐびと飲み、双葉は、ふふふ、と不敵に笑った。
「俺、アニメ別に好きじゃなかったんだよ。負け犬ヘヴンは観てたから話合わせられただけ」
「でも他にもいろいろ話してたよな?」
「あれはー、勉強したの。お前、アニメ、疎いみたいだったし、お前に勝てる話題はこれしかないって思ってさ。二年間でアニメ観すぎて頭パンクするかと思った。ちょっと単位も危なかった」
「なんて涙ぐましい努力」
くたりと柊真がソファーの上で脱力する。その柊真の肩に双葉は、がん、と肩を当てた。
「馬鹿だと思っただろ。俺のこと」
「まあ。単位やばくなるまですることじゃないでしょうが、とは」
「うるさいな。それくらいしないと勝てないって思ったんだよ」
イケメンで勉強も料理もできて。則正が困っていれば躊躇わず手を差し出せる包容力もあって。好奇心旺盛で放っておくとどこへでも飛んでいってしまう則正を支えるように、彼の傍らで背筋を伸ばして立っていて。
まるで大樹みたいに則正のことを長年見つめ続けてきた、こいつ。
「なんでなんだろ」
ぽつりと言うと、ん? と近い位置から声が返ってきた。
「なんで、則正はお前じゃだめだったんだ?」
ふっと柊真が息を呑む。ああ、こんなことを言ってもこいつを困らせるだけだとわかっているのに、酔いのせいで口を閉じることができない。
「畑中なんかより、お前のほうがずっと則正のこと好きだった。俺、知ってるもん。見てたもん。なのになんで」
「酔っぱらいすぎ」
水、飲む? と立ち上がろうとする柊真の腕を座ったまま引っ掴む。上げかけた腰をすとん、とソファーに落とした彼の腕に腕を絡めるようにして、双葉は言い募った。
「お前は本当にいいの? 俺なんかよりずっと長い間、則正のこと見てたのに。応援するとか言うし。そんな簡単に諦められるのはなんで?」
「簡単ではないけど……まあ、仕方ない。則正が決めたことだから」
「仕方ないじゃなくて。そもそもさ、なんで応援するなんて言った? お前、俺のこと、認めてないだろ。畑中と俺のなにが違うの」
そうだ。畑中も双葉も、柊真にとってみれば同じではないのか。ぽっと湧いて出てきて則正に引き寄せられてうろうろする羽虫みたいな。いや、畑中よりも双葉のほうが性質が悪かったに違いない。随分嫌味も言ったし、邪魔だという顔を隠しもせずにきたのだから。その自分に柊真は、応援する、と言った。
ぐっと腕を掴む双葉に柊真は短く息を吐いてみせると、だって、と笑んだ。
「俺も見てたから。則正をずっと見てたお前の顔。あり得ないくらいまっすぐなとこも知ってたし。だから応援しようって自然に思えたよ。無理も意地もなく」
「そんなの」
そんなの、と言ったきりなにも言えなくなった。
胸が痛くてたまらなかった。
思い出すのは、則正、と彼を呼ぶ柊真の声。細められた、目。すぐ食べこぼす則正の服をさっと拭いてやる手の形。
誰よりも好きって顔をしていたくせに。あんなにも彼だけを見ていたくせに。
なんでそんなことをさらっと言えるんだ、と胸倉を引っ掴んで揺さぶりたくなった。
こいつの心の内にぽっかりと空いた穴を思うと痛くて仕方なかった。
「もう……嫌だよ。なにも見たくないよ」
だから……この言葉は失恋した自分の心の叫びじゃない。目の前の彼を心配して出てしまったものだ。仲睦まじい則正と畑中を見続けることに疲れていたのだって確かだけれど、それよりもこいつが同じものを見て感じる心のひび割れのほうが見たくないと思った。
だってこいつは、自分よりもずっと、ずっと長いこと、彼のそばにいたのだから。
酔いの中で唇を噛む。柊真も黙っている。しばらくして、沈黙に染められていた空気の中に、ふっと柊真の吐息が落ちた。
「じゃあ、俺と行かない? 傷心旅行」
「……は?」
飲みすぎたせいで目が霞んでいる。のろりと顔を上げると、ぼやけた視界の中で、柊真がうっすらと笑っていた。
「俺もつらかったから。もういいって思ってもやっぱり。けど、お前とどっか行って、美味いもの食べて、馬鹿みたいな話できたら本当の意味で楽になる気がする。幸いもうすぐ春休みだし。石鈴は、どう?」
「どっかって……どこ……?」
「そんな金もないし、兄貴に車借りて行ける場所……三重とか静岡とか、近場かなって思うけど。でもここでふたりで腐ってるよりいいかと思うから」
突然降ってわいたみたいな思い付きの計画だ。柊真も本気かどうか怪しい。双葉ほどではないにせよ、こいつも相当飲んでいたはずだから。
でも彼の提案は悪くないと思った。少なくとも埋まる気がした。
則正の不在が。そして……目の前のこいつの心にびっしりと浮いているだろう傷が。
だから。
「行く」
躊躇なく頷いた。恋敵であったこいつと旅をするなんて、素面だったら多分、頷かなかっただろうけれど、このときの双葉には迷いがなかった。
「三重って言ったら……伊勢神宮?」
決断したらなんだか急に眠気が襲ってきた。夢うつつで問うと、そうだな、と柊真が同調する声が聞こえた。
「鳥羽水族館のスナメリとか」
「スナメリ」
眠気からずるずると頭が落ちていく。ぽてり、と隣に座る彼の肩に頭を落とし、双葉はぼんやりと呟いた。
「則正も畑中とどっか行ったりするのかな」
言うべきじゃなかったのに言ってしまった。ごめん、と呟き、目を伏せる。柊真も黙っている。ああ、酒は鬼門かもしれない、と朦朧としながら思っていたときだった。
背もたれと背中の間を腕が滑り、その腕によってくいと抱き寄せられた。もたせかけていたままの頭が一層肩に押し付けられ、髪に指がくぐらされる。
あれ、なんか距離がおかしいな、と思う双葉の耳に声が滑り込んだ。
「大丈夫。俺がそばにいるから」



