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ふたりの幼なじみ、陽菜と蒼。

といっても母親同士が親しくしていて、おなかのなかにいた頃から一緒だったふたりの絆には俺は全然及ばない。

俺が今のマンションに引っ越してきたのは小学校二年生のときだから。

当時の俺はチビで引っ込み思案な子どもだった。引っ越しも、前の小学校になじめなかった俺の環境を変えるため。

両親の思いきった決断は、結果的に功を奏した。

同じマンションに同級生、華やかで目立つ蒼と誰にでも優しくて友達の多い陽菜がいてくれたから。

俺はふたりにくっついているだけで、すんなりと学校になじむことができた。

おっとり女の子らしい陽菜と、勝気で真夏の太陽みたいにまぶしい蒼。

注目を集めるのは蒼だけど、男にモテたのは陽菜のほうだ。

守ってあげたくなるタイプってやつだからだろう。

いざとなると陽菜が一番強いってことを知ってるのは、俺と蒼くらいだったから。

小学校のとき、ふたつ年上のガキ大将みたいないじめっ子がいて、そいつは多分陽菜のことが好きで……だから事あるごとに陽菜に突っかかっていじめていた。

俺は中学生といっても通用するほど身体の大きなそいつが怖くて、大事な幼なじみが嫌な思いをしているのに声をあげることもできなかった。

でも、蒼は違う。いつも真正面からそいつにぶつかっていって、陽菜を助けた。

そいつが飼ってた馬鹿でかい犬をけしかけられたときも、一歩も引かなかった。

でも、蒼は本当は犬が苦手なんだ。通学路にいる小さな犬すら怖がって、わざわざ遠回りしているのを俺は知ってた。

あのときのあいつは、とんでもなくかっこいいヒーローだった。

まぁ、結局犬をやっつけたのは、ここぞというときに肝が据わる陽菜だったんだけど。

恐ろしい犬といじめっ子がいなくなったあとで、蒼はボロボロと泣いた。

頬を伝う涙がキラキラとして、ものすごく綺麗だった。

「よ、よかった。陽菜が……壮真が……怪我しなくてよかったよぉ~」

今思えば、始まりはこの瞬間だったんだろう。

初めて見た蒼の涙に、俺は恋をした。守ってあげたい、と思った。

本当は臆病なところも繊細なところもあるくせに、いつも強がってばかりの蒼が涙を流せる場所に自分がなりたい。そう思ったんだ。

だから弱虫だった自分を変えようとした。

彼女の隣が似合う男になりたくて、俺なりに努力もした。肝心の蒼には一向に気づいてはもらえなかったけど。

高校にあがっても、俺たち三人は仲のいい幼なじみのままだった。

いや、少しの変化はあったかもしれない。

誰にでも優しくてみんなに好かれる陽菜は高校からの友達も増えて、べったり俺たちと一緒ってわけじゃなくなったから。

蒼とふたりの時間が増えて俺は少し嬉しかったけど、陽菜を取られてしまった蒼は寂しそうな顔を隠さなかった。

そのことで俺が傷ついているなんて、あいつはひとつも知らないんだろうな。

高校二年に進級する前の春休み。時間は昼過ぎくらいだったと思う。

塾の講習を終えた俺がマンションに帰ろうとしていたら、入れ違いで蒼が出てきた。白いワンピースの裾がふんわりと風をはらむ。

道路を挟んで反対側にいた俺の存在に彼女は気づいていないようだ。

なんの花かわからないけど、蒼は綿毛みたいな黄色い花の花束を大切そうに抱えていた。

声をかけようと思ったけど、「蒼」という言葉を喉の奥でグッとのみ込む。

愛おしそうに、花束に顔をうずめてほほ笑む彼女。

蒼が誰に会いに行くつもりなのか、わかってしまった。

俺は結局、子どもの頃から成長しない弱虫のまま。引き止めることもできずに、黙って彼女の背中を見送った。

あいつに好きなやつがいることは知ってる。

俺はずっと蒼を見ていたから。その視線の先にいるのが自分ではないこと、嫌というほどにわかってたんだ。

失恋すればいい。そして、いつか俺に振り向いてくれたらいいのに。

弱虫で卑怯者の俺は心のどこかで、それを願っていた。



蒼が変わってしまったのは、その春休みが終わった頃だ。

なにも映さない無気力な目で、不特定多数の男と適当に遊び歩くようになった。

蒼の華奢な肩に知らない男の手が回る。白くて柔らかな頬に不潔な唇が触れる。

顔に貼りつけただけの安っぽい笑顔。そんな偽物を「かわいい、綺麗」とチヤホヤする馬鹿っぽい男が蒼の隣に立つ。

見ていられなかった、耐えられなかった。

「話ってなに? 壮真」

誰もいない放課後の教室。制服姿の蒼は俺に背を向けたまま、ひどく冷たい声でぽつりと言う。

窓から差し込むオレンジ色の光に、蒼の輪郭があやふやになっていく。

白いブラウスもグレーのスカートも、そのまま溶けて、消えていってしまいそうで。

ふと気がついたら……以前にもまして細くなった彼女の背中を俺は後ろから強く抱き締めていた。

この腕のなかに、閉じ込めてしまうように。蒼がそれを望んでなどいないことは嫌というほどわかっているけれど。

「誰でもいいなら俺でいいじゃん」

喉から絞り出したその声は、笑えるほど震えている。

「別に誰でもいいんだけどね。壮真はダメ」

これ以上はない拒絶の言葉。

だけど引けない。引けるはずがない。

「ずっと蒼が好きだった」
「ふぅん、そうなんだ」

他人事みたいに蒼は薄く笑う。

それでも俺は必死に言葉を重ねた。

十年近くにもなる片想いを、ぜんぶ乗せて。届いてほしいと願いながら。

「蒼が誰を好きでもいい。その想いも、痛みも、傷も、全部そのまま引き受ける。だからっ」
「もうやめて! それ以上なにか言ったら、壮真を一生許せなくなる」

研いだナイフみたいに鋭い声。

蒼は俺の腕を振りほどき、こちらを振り返った。

綺麗な瞳に激しい憎悪が浮かんでいた。悲しくなるほど純粋な怒り。

その矛先は……俺じゃない。

蒼は自分自身をどうしようもないほど憎んでいる。

「私のせいなんだよ? 私があの日、呼び出したりしたから……」

ありとあらゆる負の感情を全部背負い込んだような、喉を切り裂いて出てきたみたいな、悲痛な声音。

瞳の奥で純度を増した青い炎がメラメラと燃え盛っている。

「蒼のせいじゃない。信号無視した車のせいだ」

同じ台詞をもう何度繰り返しただろう。でも彼女には届かない。俺の声も、想いも。

ズボンのポケットに入れていた白い封筒。ずっと渡すのをためらっていたそれに俺は手を伸ばす。

触れた瞬間、無意識のうちに指先にグッと力が入る。

本当は渡したくなんかない。弱虫の卑怯者のままでいいから。

これをグシャグシャに握りつぶして、蒼を俺の恋人にしてしまいたかった。

だけど、そんなのは最初から無理な話で……。俺の指先から力が抜けていく。

蒼の心には俺が忍び込む隙間なんて1ミリもない。初めから、そしてこれから先も。

彼女がミモザの花束を持って出かけたあの日、蒼の最愛の人が死んだ。