午後二時十五分。予定より少し早く鯨井さんが到着して、全員合奏室に集められた。
 いつもと同じ部屋なのに、合奏室がやけに狭く感じる。西女のメンバーに加えて、相楽の部員も合奏室の中にいるのだから当たり前かもしれない。

 プロ奏者の鯨井さんに指揮してもらえるのが嬉しいのか、相楽のメンバーはみんな表情が明るい。私の隣に座る大橋くんなんて、若干前のめりになって鯨井さんに熱視線を送っている。

 結局初回は私がコンマス席に座ることになった。大橋くんはまだ何か言いたげだったけど、もしかしたら後で鯨井さんに直接抗議するつもりかもしれない。
 合奏中に比較されるくらいなら、その方がよっぽどいい。大橋くんが個人的に鯨井さんに意見を言うのは自由だし、その結果私が呼び出されることになっても我慢する。
 ただ部員全員の前で、大橋と如月順番に吹いてみろと言われるのだけは勘弁してほしかった。

 西女に男がいるの、なんか新鮮だよなぁ。と鯨井さんが私に話しかける。確かにこの状況は新鮮ではあるけれど、鯨井さんも性別としては男なんだから、鯨井さんの言うことは正しくない。

「合奏してみたらもっと新鮮かもしれないですね」

 私がやんわりと早く始めてほしいことを伝えると、鯨井さんはわざとらしく首をすくめてみせた。ちなみに鯨井さんはやや肥満気味の体型なせいか、首をすくめてもあまり分からない。

「あー、じゃあ改めまして。相楽高校吹奏楽部のみなさん初めまして、鯨井です。今回の西館女子高校吹奏楽部との合同演奏会では、自分が指揮を務めます。よろしくお願いします」

 胡散臭いほど爽やかな笑顔を浮かべて、鯨井さんが一人一人の顔を見つめる。たぶん視線を合わせることでどんな性格か、探ろうとしているんだと思う。
 ふいによろしいですか、とよく響く声が飛んできて、私は振り返る。トランペットパートに座る、水沢くんだった。

「相楽高校吹奏楽部、部長で金管リーダーも兼任しています。水沢颯斗と申します。この度は鯨井さんに指揮を振っていただく機会を設けていただき、誠にありがとうございます。相楽の部員を代表して、挨拶させていただきます。未熟な部員たちなので、指摘される点も多数出てくると思います。しかしそれを全て新たな音に変えて、音楽に繋げていきます。なのでどうぞよろしくお願いいたします」

 ぺこりと九十度きれいに頭を下げた水沢くんに、拍手が起こる。鯨井さんも薄ら笑いを浮かべながら手を叩いていた。

「いいねぇ。じゃあ始めようか」

 鯨井さんがそう言うと、合奏室に緊張が走った。
 簡単な基礎練習を鯨井さんに見てもらい、そのまま先週配られたばかりの曲の合奏に移る。

 一曲目は二部で演奏予定のポップスで、流行りのアニメ映画の曲だった。そんなに難しい譜面ではないし、有名なメロディなので表現のイメージもしやすい。おかげで鯨井さんに怒られることなく、「いいんじゃないの」と珍しく合格点までもらえた。
 二曲目は馴染みのCMソング。これもみんなが知っている曲なので、音楽の方向性がケンカすることはない。

 相楽のメンバーと行う初めての合奏は、順調に思えた。ここまでは。


 クラシック曲に移ってからはずっと、鯨井さんの意向に沿う演奏ができずにいた。最初こそやわらかい言い方で注意していた鯨井さんも、だんだん声色が厳しくなってくる。
 そして怒声が重なるにつれて、相楽の部員たちの表情もかたくなっていく。

 大橋くんなんて特に顕著だった。

「おいクラリネット!」と楽器ごとに怒られていたのが、「おい大橋!」と名指しで呼ばれるようになる。前のめりになって演奏していたはずなのに、気づけば大橋くんは私の音に隠れるような演奏に変わっていた。

 合奏がひと段落する頃。鯨井さんはしょんぼりしている大橋くんに、にやにやした笑顔で言い放った。

「おいおい。これくらいでへこたれてるようじゃコンマスなんてやらせねえよ?」

 その言葉で私は理解した。
 たぶん大橋くんは、鯨井さんが来てすぐに交渉したのだ。
 僕にコンマスをやらせてください。如月さんより上手にできます、と。

 私は心の中だけで、性格の悪いことを呟いた。

 コンマスがやりたいって言うなら、ちゃんと私から奪ってよ。私だって怒られたらへこむし、みんなに嫌われる役なんてやりたくない。でも必死でやってる。私がコンマスを降りることを、鯨井さんは許してくれないから。
 コンマスがやりたいなら、代表して怒られる役も、嫌われ役も、全部代わってよ……。

 私の心の内なんて、誰も知らない。きっと誰も興味すらない。
 俯く私をよそに、合奏は長く、長く、続いた。