クラリネットの練習部屋に着く頃には、もう練習が始まっていた。

 西女のクラリネットは七人。二年が四人と一年が三人。
 相楽のクラリネットパートは三人。二年二人と一年一人。かなり少人数だけど、部員が少ないので仕方のない話だ。

「遅れてすみません」

 声をかけながら室内に足を踏み入れると、パートリーダーの亜美がため息をこぼした。

「鈴ちゃあん。ちゃんと時間通り来てよぉ」
「ごめんね」
「如月さん。みんなで名前を覚えられるまでは名札をつけようってことになりました」

 そう言って渡されたのは、百均で売っているような白い紐付きのネームタグだった。首から提げて使うタイプ。他にも赤色の用紙と黒いマジックを渡されたので、私はそこに『如月鈴音』と書く。そして念のためふりがなも振って、ネームプレートを首から提げた。

 私に話しかけてくれた黒縁メガネの男の子は、私がネームプレートを身につけたのを確認して大きく頷いた。
 メガネくんのネームプレートには、黒のマジックで大橋流架と書かれている。

「ネームプレート助かりますね。これ、誰が用意してくれたんですか?」
「もちろん僕ですよ。すぐに名前を覚えられるわけではないと思ったので、名札があった方が便利じゃないですか」

 得意気な顔で大橋くんがメガネの縁をくいと直した。
 大所帯だと名前を覚えるのは大変だし、ネームプレートがあれば助かるのは本当のことだ。だけど大橋くんが「僕のアイディアのおかげですね」と何度も繰り返すから、ちょっと面倒くさかった。

 ちなみにクラリネットパートには赤色の用紙を配ったけれど、楽器別に色を変えているらしい。フルートはピンク、サックスは黄色、オーボエはオレンジ。
 木管楽器は暖色で、金管楽器は寒色、パーカッションは白にした、とこれもまた得意気に大橋くんが語っていた。

 後から聞いた話によると、大橋くんは私が来るまでの間もずっと自分語りをしていたらしい。亜美が困り果てていたところに私が来て、ようやく練習らしい練習になった、と言っていた。
 大橋くんは少し自信家なところがあるけれど、ちゃんと上手い人だった。だから曲のパート分けをするときに、僕が全曲ファーストクラリネットのトップをやりますと言い出しても、私たちは驚かなかった。

「うーん、大橋くん確かに上手いけど……。ファーストのトップは鈴ちゃんの方がいいんじゃないかな。コンマスになっちゃうし……」

 コンマスは、コンサートマスターの略称だ。
 指揮者の意図を汲み取り、全体に伝える役。必要に応じて音楽の方向性を示し、練習では指揮もとる。部長が部活のリーダーであるのに対して、コンマスは演奏面でのリーダーだ。
 指揮者不在のときにはコンマス中心に練習を進めることになるし、どんなに仲のいい相手でも、演奏をよくするために注意を言わなければならない。

 オーケストラではバイオリンの主席奏者が担当するけれど、吹奏楽では主にファーストクラリネットのトップがコンマスを担う。西女でもコンマスはクラリネットのトップ、つまり今年の編成では私が担当している。

 学校によっては曲によってコンマスを変えるところもあるらしいけれど、西女は違う。どんな曲、どんな編成で、パートを入れ替えることがあっても、コンマスだけは変わらない。それは鯨井さんのこだわりらしい。コンマスの席に私以外の誰かが座ってみようものなら、すぐに怒声が飛んでくる。
 先輩が引退する前は、二人いる三年生のうちの茜先輩がコンマスを担当してくれていた。だから私はファーストクラリネットだったけど、次席で済んでいたのだ。


 相楽との合同演奏会を決めたのは、鯨井さんだ。だからもしかしたら、相楽の部員からコンマスを出すことを了承してくれる可能性もある。その場合、もちろん全ての曲でコンマスをお願いすることになってしまうけど。

 でも、と私は心の中でつぶやく。
 そんな都合のいいこと、あるわけがない。
 鯨井さんが私を、コンマスから逃してくれるところなんて、想像できなかった。

 まだ鯨井さんと対面したことのない大橋くんは、自信満々に胸を叩いてみせる。

「大丈夫ですよ。コンマスも僕がやるんで」

 大橋くんは何も悪くない。
 希望のパートがあるなら主張していいと思うし、コンマスをやると言ってくれるのもありがたい。

 でも亜美は眉を下げて、必死に大橋くんを説得しようとした。亜美は知っているからだ。
 鯨井さんはコンマスを変えると怒ってしまう。
 特に私がコンマスを降りるなら、鯨井さんも指揮を振らないとまで言っていること。意地悪な執着を知っているから、亜美はどうにか大橋くんをファーストクラリネットの次席に落ち着けようとしているのだ。

「えーっと大橋くんが悪いって言ってるんじゃないよ? でも……ほら、鯨井さんがどんな指揮を振るかも、どんな音楽に仕上げるかも、鈴ちゃんの方が知ってるし」
「大丈夫ですって。これからちゃんと勉強しますから。飲み込みは早い方なので」

 たぶん大橋くんの言葉に嘘はないのだろう。
 進学校に通っているくらいだから勉強は得意なはずだし、クラリネットが上手いのも努力がちゃんと実を結んでいる証だと思う。
 私は目線を落としたまま、小さく声を上げた。

「……大橋くんがコンマスをやってくれるなら、私はすごく助かります」
「そうですよね? 如月さんはやっぱり女の子だし、他校の男子に注意したり、指示を出したりするのは重荷になってしまうと思うんですよ」

 女の子だし、というのはあまり関係がないと思うけれど、そこに反論するのは面倒だった。
 相手が男子でも女子でも、言いにくいことに変わりはない。でもそれは私が女子だからじゃなくて、私が『私』だからだ。性別ではなくて、性格の問題。

「でもごめんなさい。たぶん、コンマスは私になると思います」

 さっきまで饒舌だった大橋くんが急に黙り込む。たぶん、気分を悪くしてしまったんだと思う。
 でも私は今、言わなければいけなかった。

「大橋くんの演奏と、私。鯨井さんに聴いてもらって選んでもらうこともできるけど、やめた方がいいと思います」
「…………どうしてですか」

 顔を見なくても分かる。大橋くんの表情は、たぶん強張っている。
 私はうさぎのスリッパの爪先を譜面台にちょこんとぶつけ、折れた耳をなおした。そして「だって鯨井さんは、私を選ぶと思うから」と小さくつぶやいた。

 そんな言い方、と声を上げたのは、相楽の一年生だった。
 私が顔を上げると、相楽高校のメンバーだけでなく、亜美以外のクラパートのメンバーからも冷たい視線を向けられている。

「…………まあ、大橋くんが鯨井さんに決めてほしいって言うなら、それでもいいですよ。私、いつでもコンマス降りるので」
「や、やめてよ鈴ちゃん!」

 慌てた声を上げる亜美に、ごめんね、と小さく謝って、私は席を立つ。
 パート内の空気を悪くしてしまったのが居た堪れなかったからだ。

「……他の楽器のパート割りも見なきゃいけないから、亜美、クラの練習よろしくね」

 そう言って逃げる私は、たぶんすごくずるい。
 移動する先はどこでもよかった。でもまずはクラリネットをどこか安全な場所に置かなければいけなそうだった。だって、私のお腹らまたキリキリと痛みを訴えているから。

 もうやだ、と小さくつぶやいた声は、桜記念館の廊下に消えていった。