桜記念館、三階。階段を登る手間があるため、パート練習のとき以外は人が寄り付きにくい。
私はみんながお昼を食べている一階の合奏室を出て、わざわざ長い階段を登る。その間もキリキリとお腹は痛みを訴えて、途中で足を止めたくなる。
それでも誰かに見られるのは嫌だから、できるかぎり早く三階まで上がり切り、女子トイレの一番奥に入った。
トイレの個室に駆け込むなんて、女の子としては非常にしたくないことだけど、悲しいことに私の日課になってしまっている。
自律神経の乱れかもね。と最初に言ったのは、かかりつけの内科医だった。
中学のとき、ちょっとしたストレスですぐにお腹が痛くなってしまう私を、お母さんが病院に連れて行ってくれた。そのときに診断されたのが、おそらく『自律神経の乱れ』だろうという曖昧なものだった。
いつになっても腹痛が治らないので、いくつか検査をしてみたけれど、何も病気は見つからない。
精神的に負荷がかかると、自律神経に乱れが生じて体調が崩れる。今は腹痛だけかもしれないけど、これから他の症状も出てくる可能性があるからね。
医者はそう言って『自律神経失調症と関わりのある症状』と書かれた一枚の紙を私に渡した。
頭痛。めまい。胃痛。便秘。下痢。吐き気。動悸。不眠。鬱。不安。緊張。リラックスできない。汗が止まらない。震え。他多数。
並べられた症状に全て当てはまるわけではないけれど、便秘とか下痢なんて誰にでもあると思う。それに、疲れていれば頭痛も珍しくないし、不安や緊張は、置かれている状況によっては感じて当然のものに思える。
当時の私はそう思っていたけれど、高校生になってしばらくしてから、思い知ることになった。
とにかく常にどこか体調が悪い。頭が重くてうまく回らない日もあれば、同時にめまいもあったりする。
お腹を壊すのはほとんど毎日のことなので、食事が怖くなってしまっていた。食べたらお腹が痛くなる。それなら何も食べなければいい。そんな無茶な発想でコンクール時期を乗り越えたら、すっかり体重が落ちてしまった。
ほとんど食べていないのでお腹を壊す頻度は減ったけど、めまいがひどいし、体力もなくなってしまった。
お腹は壊したくないけれど、やはり生きていくためにはある程度食事は必要なのだ。私がお腹壊したくないなぁなんて考えながら少量のご飯を食べると、計らったかのように腹痛は私を襲う。
冷や汗をかきながらお腹を壊し、ようやくトイレから出た頃には、もう一階の方が騒がしくなっていた。
早く戻らなきゃ。と心の中で呟く。
でも強い腹痛のせいで体力を奪われてしまったのか、私の頭からは血の気が引いている。三階にいる理由が、他の部員には説明できない。クラリネットパートが練習していた部屋は二階だったし。合奏室や荷物置き場は一階。三階には用がないはずの私が、楽器も持たずに三階にいるところを見られたら、変に思われてしまう。
もしかしてトイレ使いに来たんじゃないの? なんて噂が立ったら最悪だ。実際にそうなんだけど。私だって女の子だし、しょっちゅうお腹を壊しているだなんて、そんな恥ずかしいこと誰にも知られたくない。
立ち上がらなきゃ、と思いながらも三階小部屋の入り口前に座り込んだまま、私は動けなかった。
しばらくしていつもよりにぎやかな足音が迫ってくる。きっと西女のメンバーだけでなく、相楽のメンバーも混ざっている。編成の確認をするために、まずは楽器ごとに分かれることになったのかもしれない。
三階の小部屋はどのパートが使っていたんだっけ。血の気が引いたままなかなか戻らない頭で、それでもなんとか私は立ちあがろうとする。
あぶね、と低い声が響くのと、ぐらりと視界が揺れるのはほとんど同時だった。
数秒真っ白な世界の中を彷徨い、ゆっくりと目を開けると、黒目がちな目が私を覗き込んでいた。顔が近いせいか、それともまだみんなの顔と名前を覚えていないからか。目の前にいる人が誰か分からない。私がすっかり固まっていると、「如月?」と聞いたことのある声が鼓膜を揺らした。
「え…………羽島、くん?」
「おお。大丈夫? 貧血?」
「え……? 分かんない、です。とりあえず、ありがと」
ん、とぶっきらぼうに答えた羽島くんは、私の背中を支えて私が起き上がる手伝いをしてくれた。どうやらめまいがして前のめりに倒れた私を、羽島くんが慌ててキャッチしてくれたみたい。お腹の辺りを支えていた羽島くんの手は分厚かった。
少し離れると、確かに目の前にいるのは羽島くんだった。見間違いようのない金色と、内側を彩るピンクの髪。
最初に話していたときは気づかなかったけど、心配そうに私を見つめる羽島くんは、くりっとした目をしている。背の高さと派手な髪色に惑わされてしまうけれど、羽島くんは案外かわいい顔をしているのかもしれない。
「クラパートって練習どこなん」
「二階の……真ん中にある一番大きな部屋です」
クラリネットは人数が多いので大部屋。加えてコンサートマスターの私がいるので、他のパートの練習をいつでも聴きにいけるように、配慮された配置になっている。
「如月先輩、大丈夫ですか?」
心配そうに声をかけてくれるアルトサックスの後輩に、私はひらひらと手を振ってみせる。
「んー、大丈夫大丈夫。それよりこの後鯨井さんくるから、曲ごとのパート分けは終わらせておいてね」
振り返って私が笑顔を見せると、心配そうな後輩の顔が視界に入る。その隣に立つ二年のバリトンサックスの子は、心配なんて微塵もしていない、むしろちょっと軽蔑の色が滲んだ表情で私を冷たく見つめていた。
たぶん、またかよって思ってるんだろうなぁ。私が逆の立場でも思うかもしれないし。仕方ないよね。仕方ない。分かってもらえなくても、しょうがない。
自分に言い聞かせながら、階段を一歩ずつ降りていく。さすがにさっきめまいを起こしたばかりで怖かったので、ゆっくり降りることしかできなかったけれど、誰にも何も言われなかった。



