西館女子高校には、校舎とは別に桜記念館という建物がある。
記念館と名前はついているが、中に記念品のようなものが飾ってあるわけではない。西館女子高校を卒業したOGたちによって、寄付金が集められ、その一部で建てられたのが桜記念館らしい。
卒業生たちの優しさの結晶だというのに、残念ながらほとんどの生徒は桜記念館に足を踏み入れることなく卒業していく。
利用するのは、吹奏楽部の生徒だけ。
私が桜記念館の入り口で靴を履き替えていると、よく通る声が合奏室から飛んできた。
「鈴音! おっそい! 何してたの、もう部活始まるよ!?」
「ごめん、先生に呼ばれてた」
「は? 土曜日なのに?」
訝しげに眉を寄せるのは、部長の日坂朱莉。普段は優しいけれど、部活のことに関してはとことん厳しい。だから部長に任命されたわけだけど、もう少し甘くしてくれてもいいのに、と思うこともある。
嘘をついてないことを証明するために、私はオーボエの二年に声をかけた。
「こっちゃん、私、八時にはここに来てたよね?」
「あ、鈴おかえり。来てたよ。担任の先生が呼びに来て、鈴を連行していったんだよ」
遅刻しそうになった私本人ではなく、他の部員の言葉を聞いて、朱莉はしぶしぶ納得してくれたらしい。
まだ若干の不満を残した表情で、「それならいいけど」と呟き、早く楽器の準備! と私を急かした。誰のせいで足を止めることになったと思っているんだ、と文句を言いたかったけど、私は言葉を飲み込んで急いで準備を始めた。
午前八時半、練習開始。
まずは部員全員が揃って、合奏室で基礎練習。ロングトーンなど、基礎中の基礎から始めていく。一年も二年も、入部してから何度も繰り返している練習だというのに、指摘するポイントはいくらでも出てくるのだから不思議だ。
一番の原因は、夏のコンクールを終えて三年生が引退したからだとは思う。先輩が抜けたことによって、楽器を担当する人数が変わり、全体のバランスも大きく変化した。
みんなまだ新体制になった部の雰囲気に慣れていない。音のバランスの取り方も、模索中なのかも。
一度キリがついたところで、私は席を立つ。そして部員たちの視線を浴びながら、重い口を開いた。
「いろいろ言うことあるけど、まずは低音から。先輩抜けてから低音グラグラしすぎ。全体のサウンド支えて。あと音程探るのやめて。低音のメンバーは全員もっと音の始めから音程きっちり決める練習して。低音がブレてると話にならないから、もっと自分たちが全体を支えてるって意識を持ってやってください」
私の言葉を受けて、低音楽器を担当している子たちが元気のない返事をする。注意をされて不貞腐れているんじゃなくて、低音担当のメンバーは元々返事の声が大きくない。
朱莉が厳しい声でそれを嗜めた。
「返事の声小さい」
はい、とさっきよりも少し大きくなった声。私はなんだか居た堪れなくなって、俯きたくなった。
「…………中低音。ホルン、もっと音を飛ばす方向考えて。ベルが後ろ向いてるんだから、ちゃんと音を当てる向き考えなきゃ前になんか音飛ばないよ。テナーサックスは音浮いてる。周りの音よく聞いて、音色馴染ませて。トロンボーンが一番安定してるから、中低音で練習するときはトロンボーン中心に合わせて」
はい、と一番声が響いたのは朱莉だった。朱莉はファーストトロンボーン。部長である朱莉は、もともと練習の中心にいる。
それでもわざわざ名指ししたのは、練習にいろいろと口出しして、進行を乱してしまう部員がいるから。本人に悪気はなくて、こんな練習もいいんじゃない? と親切心で発言してくれているので、朱莉も強く言えない。
こんな調子で低音から高音までみっちり注意を伝えたら、ようやく私は自分の席に座れた。他に注意のある人いますか、と朱莉が訊いても、誰も声を上げない。そのくせ小さなため息は聞こえてくるのだから嫌になる。
鈴音がうるさいくらい注意を言ったから特にありません、ってこと?
そんなことを考えて、私の胸に重石のようなものがたまっていく。
部長の朱莉が「じゃあ今の注意を踏まえてもう一回」と言った。もう一度同じ練習をして吹き終われば、また私が細かく注意を言わなければいけない。
気が重い。
粗だらけのサウンドを聴きながら、私はため息を飲み込んだ。



