クラリネットの準備をして、姿勢を正す。河川敷で吹くのは初めてだ。
 ホールで吹くのとはまた違う緊張に身体がこわばるけれど、私は大きく息を吐いた。深く吸うためには、まずは息を吐き切ることが大事なのだ。

 頭の中で何度も繰り返したソロを、吹き始めた。
 ソロのイントロ三小節。
 吹き始めてすぐに、羽島がずるずると座り込む。遠くて表情なんて見えないけど、楽しんでくれていればいいな、と私は想いを込めた。

 前半は、定期演奏会のときと同じイメージ。
 どうか音が出ますように、会場の一番後ろまで音が届きますように、最後まで無事に吹き切れますように。祈るような気持ちで、音を紡いでいく。

 ワンフレーズ吹くごとにたくさん嫌な記憶がよみがえった。

 なんでトランペットのソロをクラに渡すわけ?
 菜穂のソロだったのにこのまま鈴音になるの?
 ソロ奪ったくせに音が出ないとかなんなの? 練習してんの?


 私の心を抉ったたくさんの言葉は、今も消えない。それは全部私のクラリネットの音に乗って、悲鳴へと変わった。

 苦しい。こわい。また音が出なくなったらどうしよう。
 私、ちゃんと練習してるよ。
 朝も昼も夜も、寝ている間だって、夢に見るくらい、音楽のことを考えてる。
 練習してないなんて言わないで。
 頑張ってないなんて言わないで。
 私、ずっと必死にやってるんだよ。

 ソロの後半に差し掛かって、苦しい気持ちをかき消すように、羽島の優しさを思い出す。
 抱えてきた苦しさに気づいて、私を救いあげてくれた。
 手を差し伸べてくれた羽島の優しさが、本当に大好きだから。
 ありがとね、大好きだよ、と音に気持ちを乗せてみる。

 ようやく吹き切ったとき、私は崩れ落ちることも泣くこともなく、ちゃんとその場に立っていられた。代わりにクラリネットを抱きしめるように抱えて、大きく息を吐いた。


 羽島が遠くで何か言う。
 なーに、と明るい声で訊けたのは、羽島の言う通り、案外私の中で何かが吹っ切れたのかもしれない。

「めっちゃ好き……」

 繰り返してくれた羽島の声はちゃんと届いていたけれど、もう一度聞きたくて、「もう一回言って!」と意地悪なことを言ってしまう。
 しゃがみ込んでいた羽島が、急に立ち上がる。それから早足で私のところまで歩み寄り、声を張り上げた。

「めっちゃ好き!!」
「うるさっ!」
「お前が言えっつったんじゃん!」

 羽島はなぜか泣きそうな顔をしている。私は笑みをこぼして、ありがとう、と返した。苦しさの象徴だったこのソロを、こんなにも明るい気持ちで吹けたのは、絶対に羽島のおかげだから。


 ソロの前半は、あの頃の苦しさと祈りを込めて。
 夜の闇に迷うような心細さと寂しさは、定期演奏会の頃からずっとイメージしていたものだ。

 ソロの後半は長かった夜が明けるようなイメージ。
 長い長い真っ暗な夜。雲に隠れていた月が、顔を出したみたいに。迷子になっていた私に、道はこっちだろ、って教えてくれた。その月は羽島なんだよ、ありがとね、という感情も乗っているけれど、そこまで伝わったかは分からない。

「定演のときと構成違うけど、嫌いじゃなかった?」
「めっちゃ好き……」
「羽島、それしか言わないじゃん」

 くすくすと笑う私に、語彙が消失してんだよ、と羽島は眉を下げた。
 羽島が嬉しかったことは十分に伝わってくるから、それ以上の言葉はいらないけど。

 でも私の気持ちも一緒に届いていてほしいと思ってしまう。さすがにそこまで願うのはわがままだろうか。

「ね、届いた?」
「………….なにが?」

 羽島が首を傾げる。
 やっぱり音楽で気持ちを伝えるのは、無理があったらしい。仕方がないから、言葉で伝える方法を考えよう。
 台本を書いて覚えるのはどうだろう。それならば誤解されないように言葉は選べるし、私の気持ちを余すことなく伝えられる。
 問題があるとすれば、私の記憶力だけど。暗譜はできるので、時間をかければ覚えられるはず。


 そんなことを考えて、私はクラリネットケースを持って陽だまりの中を歩き出す。
 橋の下は日陰になっていたから寒かったけれど、日光が当たるところはぽかぽかしていた。少し歩いて、ふいに羽島がまだ橋の下に留まっていることに気がついた。羽島? と私は呼びかける。日陰にいるから羽島の表情は見えない。

「……めっちゃ好き」

 大きな声ではなかったけれど、今度は羽島の声をちゃんと拾うことができた。
 さっきも聞いた! ありがと! と私が答えると、羽島は「ちげーよ!」と声を上げる。

 河川敷に、羽島の声が響いた。

「如月のことが、好きだって言ってんだよ!」

 危うく楽器ケースを落とすところだった。私は慌ててケースを抱え直して、なんで急に、と呟く。
 少し離れているのに、不思議と羽島にまで届いたらしい。「お前が先に言ったんだろ」と羽島が不満そうに言うから、私は笑ってしまった。

 やっぱり私の音は、ちゃんと羽島に届いていた。

 私が一歩踏み出すと、羽島も私の方に近づいてくる。あっという間に距離は縮まった。
 見上げた金髪は、今日もきらきらしている。

「ね、羽島。なんか怒ってない?」
「……タイミングとかシチュエーションとか、如月が考えたやつの方が男前だったんだよ」

 羽島も告白する予定があったらしい。それは嬉しいけれど、男前と言われても喜んでいいのか分からない。
 私の複雑な気持ちが表情に出ていたのか。羽島は「褒めてんだよ」といたずらな笑顔を浮かべてみせた。

 私の胸がきゅんと鳴く。苦しいわけではないのに、なんだか泣き出しそうだった。
 両想いの嬉しさが後から込み上げてきたのか。それとも、羽島の笑顔を見て安心したのかもしれない。

 どっちでも構わないけれど、今、私は羽島の大きな手が恋しくてたまらなかった。
 ちょん、と羽島の右手の小指をつまむ。羽島は驚いたような顔をして、何も言わずに私の手をぎゅっと握ってくれた。私の意図はちゃんと伝わったらしい。
 言葉や音楽だけじゃない。受け取ろうとしてくれる人がいる限り、気持ちを届ける方法はたくさんあるみたいだ。
 羽島の手の温もりを感じながら、それでも、と心の中で私は呟く。


 私の声を受け取ってくれるのは、羽島がいい。
 隣に立つ月のように優しい人を見上げて、私は笑みをこぼした。