桜記念館のエアコンが、一台壊れた。卒業生の寄付で建てられた、それなりに年数の経っている建物なので仕方ないのかもしれない。合奏室を含め、何部屋かエアコンの調子が悪かったので、壊れたと聞いても誰も驚かなかった。
他の部の人には意外と知られていないけれど、吹奏楽部にエアコンは欠かせない。気温によって楽器の音程が狂ってしまうから。それに寒すぎると、木管楽器のクラリネットはヒビが入ってしまうこともある。
結局急ぎでエアコンは修理してもらうことになった。壊れたエアコンだけではなく、調子の悪いものは全てみてもらうことになり、土曜日の午後が急遽休みになった。
いつものように羽島と一緒に帰るけれど、周りが明るいのはなんだか新鮮だった。
夜道を歩く羽島は、月みたいだと思う。でも太陽に照らされると、金髪は少し眩しく感じた。
眩しいから全部ピンクにしちゃえば? と言いそうになって、私は思いとどまる。これは絶対余計な一言だ。本気にした羽島が頭をピンクにしてきたら、さすがに後悔する気がする。
珍しくクラリネットを持って帰る私のことを、羽島はしきりに重くないかと気にかけてくれた。羽島の押す自転車のカゴにスクールバッグを入れてもらったから、私の持ち物はクラリネットケースだけなのだけど。
それにテナーサックスを背負っている羽島より、ずっと楽なはずだ。クラリネットは楽器の中では軽い方だし、車で移動させるような大きな楽器でもないから。
「相楽に戻って練習するの?」
西女のメンバーは、今日の練習場所を失ったけど、相楽の部員たちは学校に戻れば練習できる。そう思って私が訊ねると、羽島はどうすっかな、と呟いた。急なことだったから、まだ決めかねているらしい。
私もかなり迷っていた。
昼間に帰れることなんてなかなかないし、チャンスかもしれない。
そう思ってクラリネットを持って帰ってきたものの、正直、私もまだ覚悟は決まっていなかった。
羽島の前で、一人で演奏する。
『ありがとう』も、『大好き』も全部音楽に乗せてしまえ。そうすればきっと伝わる。羽島になら私の音は届く。そう思ったのに、いざそのチャンスが来ると不安になってしまう。
頭の中で何度もイメージトレーニングはしている。毎日、毎日。定演のあの時期と違って実際に演奏しているわけではないけど、ちゃんとイメージはできている。
私が迷っていると、羽島が「なに深刻な顔してんの」と顔を覗きこんできた。
「顔色は悪くねえけど。もしかして体調悪い? 休む?」
「う、ううん。違うの、悪くないから大丈夫……」
「じゃあ何。なんかあった?」
羽島は心配してくれているのに、私が考えているのは告白のことだなんて。あまりに情けなさすぎる。
これ以上心配をかけないためにも勇気を振り絞って、私はその言葉を紡いだ。
「寄り道、してもいい?」
伝えたい、私、羽島のことが好きだよって。
羽島に聞いてほしい。ありがとね、私は羽島のおかげで今も頑張れてるよ、って。
もしも振られてしまっても、大丈夫。
羽島に私の音楽が届いたこと。
そして、羽島が私の頑張りを認めてくれた事実は、これからも絶対に、揺らぐことはないから。
不思議そうな表情を浮かべる羽島を、私は河川敷に連れ出した。
河川敷というと日当たりがいいところを想像する。でも橋の下はちゃんと日陰になっていた。
クラリネットに日光は厳禁なので、昼間でも太陽の光が遮られていることに私は安心した。
さすがに朝の早い時間帯や夕方以降はダメだけど、この河川敷で楽器を練習している人は多い。住宅街まで離れているから、迷惑にもならないはずだ。
私は楽器ケースを抱えて、羽島に訊ねる。
「ね、羽島。今もたまに、西女の定演のDVDって観てるの?」
「一部は一回しか観てないけど。二部の音楽劇は結構観てる」
主にソロのところ、と笑った後、羽島は慌てたような声をあげる。
「ごめん、さすがに借りすぎ? 如月も観たいよな」
「観ないけど」
「いや観ろよ、めっちゃいいぞ」
私は思わず笑みをこぼす。自分たちの演奏を、なぜか羽島に勧められている。観ないから、と笑いながら答えたら、羽島は目を丸くした。
「…………なんか吹っ切れた?」
定期演奏会について話すとき、今までの私は、どんな表情をしていたのだろう。
ちょっと笑っただけで驚かれるんだから、たぶん、相当暗い顔をしていたに違いない。
「どうだろ。分かんないけど…………」
「けど?」
「羽島のためなら、もう一回あのソロ、吹いてもいいよ」
私は緊張しながら羽島を見上げる。え、マジ? と呟いた後、羽島の表情に葛藤の色が浮かぶ。
「正直めっちゃ聴きたい。聴きたいけど……でも如月、もう二度とあのソロは吹かないって言ってたよな……?」
「言ったけど。一回だけならいいよ」
羽島の目は、私の表情を注意深く観察しているみたいだった。
無理をしていないか、と訊かれたら分からない。もしかしたらまたクラリネットの音が出ないかもしれないし、上手く演奏できるか不安もある。
私はあのソロが嫌いだった。
定期演奏会の第二部音楽劇。劇を盛り上げるシーンを任された大事な演奏。
全部で十二小節もあるのに演奏は三人だけ。主旋律は私のみ。表現は私に丸投げ。メロディを吹くのは私だから当たり前かもしれないけれど、一年生に責任を押し付けすぎだ。
ソロはやたらと長いし、前奏の三小節なんて、本当に私一人だし。
先輩のソロを奪ってしまったから周りからは非難の嵐。応援の声はない。
練習ではプレッシャーで音が出ない。出ても上手く吹けているか分からない。
みんなには下手だとか、練習が足りないとか、もっと頑張りなよとか、好き勝手言われて。
逃げたくて、必死にカッターに手を伸ばした。でもリストカットのことは誰にも知られたくない、だなんて。
自分でも何がしたかったのか分からない。
結局腕に傷が残っただけで、救われることも逃げることもないまま、状況を変えられなかった意気地なし。
みんなから反感を買って、自分のことを嫌いになっただけの、最悪の思い出だ。
何一つ、いい思い出なんてない。もしもタイムマシンがあって、選ぶ権利がもらえるならば、絶対にソロなんてやらなかった。
過去に戻れるならば、もう二度とソロなんて吹きたくない。注目はされなくても、みんなの反感を買わず、鯨井さんにも贔屓されず、楽しく音楽をやる道を選ぶ。
でも、私のあのソロが。苦しんだあの日々が。
羽島を連れてきてくれたのは確かなのだ。
演奏会のソロを聴いて、羽島が西女に興味を持たなかったら。クラリネットパートを注意深く観察していなかったら。
きっと私は羽島に見つけてもらえなかった。私も羽島の優しさに気づくことはなかったかもしれない。
そう思うと、ちょっとだけ私の苦しかった過去にも価値があるような気がしてくる。
「ソロを聴く際の注意事項です」
「なに、急に」
「定演のときと同じ表現はできません」
「そりゃそうだろ」
定期演奏会のとき、どんな表現をしたかったのかは覚えている。でも本番での演奏がどうだったかまでは覚えていない。映像を観る勇気もなかったから、確認できず仕舞い。
「もう一つ。顔見られるのやだから、ちょっと離れてください」
どんなお願いだよ、と笑いながら羽島が日当たりのいいところまで移動する。遠くて羽島の表情は確認できない。
きらきらした髪を揺らして、羽島が声を張った。
「他に注意事項ある?」
私は少し考えて、最後まで聴いてください、と声を張り返した。



