相楽との合同練習の期間、私と羽島は一緒に帰った。寄り道して何か食べたり、体調が悪くなって座り込んだり。帰りが遅くなることはしょっちゅうだったけれど、羽島はいつも付き合ってくれた。

 今も定期演奏会のソロは悪夢になって私を責め続けるし、ストレスで体調だって崩してしまう。
 でも前よりも少しだけ、部活が憂鬱ではなくなった。
 相楽との合同練習がない日に、鯨井さんが来るときはさすがに辛いけれど。週に三回羽島と会えることが、私の心の支えになっているのは確かだ。


 部内の雰囲気も、少しだけ変わった。
 羽島が私を連れ出した件をきっかけに、私の悪口が朱莉の耳にも入ったらしい。
 私に不満を抱いているメンバーに対し、朱莉が注意をしたのだと私は後から知った。教えてくれたのは、その場にいたという相楽の部長の水沢くんだ。

『鈴音がよく休むのは事実だけど、練習してないっていうのは違うでしょ。音聴けば分かるじゃん。鈴音が上手くないと思うんだとしたら、それはあんたらの音楽の理解力が足りないだけ! そもそも鈴音が嫌いなら、鯨井さんに注意されたときに鈴音に庇ってもらうのやめたら?』

 すごい剣幕だったよ、と水沢くんは苦笑していた。
 朱莉からも、もちろん他の部員からも、そんな話は聞かされていなかったので、私は驚いてしまった。

 後で朱莉にお礼を言わなきゃと考えていると、水沢くんがまたびっくりすることを口にする。

「朱莉ちゃんは、鈴音ちゃんのこと大好きだよね」
「えっ?」
「なかなかあそこまで怒らないよ。ちょっと鈴音ちゃんが羨ましいくらい」

 水沢くんの言葉はまるで、私にヤキモチを妬いているみたいだ。その意味を理解して、私の頰は赤く染まっていく。

「もしかして水沢くん……」
「まだ内緒ね? 鈴音ちゃん」

 唇に人差し指を当てて微笑む水沢くんは、爽やかでかっこいい。
 朱莉と水沢くん。金管のセクションリーダーで、部長同士。かなり早くから連絡先を交換していたらしいけど、水沢くんが朱莉のことを好きなのは知らなかった。

 いつから? と訊きたかったのに、私と水沢くんの間に大きな手のひらが差し込まれ、会話は中断される。

「なに照れてんだよ、お前は」
「え、羽島? 照れてないけど、なにが?」
「今、水沢に名前呼ばれて照れてたじゃん」
「照れてないってば!」

 急に絡んできた羽島に、私は言い返す。
 確かに顔は赤くなっているかもしれないけれど、それは水沢くんの朱莉への好意に気づいたからだ。別に私が名前を呼ばれて照れているわけではないのに、羽島は変な勘違いをしているらしい。


 最近、羽島は髪を染め直した。黒かった髪の根元も金色に染まっている。本人は色を変えていないと言っているけれど、前よりもほんの少し明るくなった気がする。
 髪の色、変えないんだね、と言った私に、羽島は照れたような口調で、この色好きって言ったろ、と答えた。私が気に入っているからという理由で髪の色をキープしているのだとしたら、羽島は相当私に甘い。

 最初こそ不良に見えて怖かった金髪とピンクのインナーカラーも、慣れてしまえば綺麗な色だな、としか思わない。

 ぐい、と顔を寄せて羽島が睨んできたけれど、私は睨み返した。

 仲はよくなっても、相変わらずケンカばかりしてしまう私たちを、水沢くんは楽しそうに見つめている。
 それから「二人って付き合ってないんだよね?」とからかうような言葉をかけてくるから、私だけでなく羽島まで真っ赤になってしまった。

「……付き合ってねえよ」
「付き合っちゃえばいいのに」
「そ、そういうこと言わないで水沢くん……」

 不機嫌そうに言い返す羽島と、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う私。
 最近は、こうして水沢くんにからかわれることが多い。面白がっているのか、それとも応援してくれているのかは分からないけれど。

 羽島は否定するだけで、それ以上何も言わない。たぶん嫌われてはいないと思うけど、好きだとも言ってもらえない。そもそもそういう好きではないのかもしれないけれど。
 定演のときに聴いたソロが、助けてって言っているように聞こえたから、今も人助けしているだけとか。優しい羽島ならありえなくもなさそうで、ちょっと怖くなってしまう。



 帰り道も、羽島は少し不機嫌そうだった。それでも私と一緒に帰ってくれるのだから、羽島は優しいと思う。

「……怒ってる?」
「怒ってない」
「でもむすっとしてる」
「してるけど」

 してるんじゃん。
 心の声はギリギリ飲み込んだ。余計な一言を口にしてしまうのは私の悪い癖だ。そのわりに、助けてほしいとか、しんどいとか、そういう大事なことは言えないのだから、自分でも厄介な性格だなと思ってしまう。

 性格が悪いし、口も悪いし、泣き虫だし、メンタルも弱いし。面倒な性格だから、羽島も私のことを彼女にはしたくないと思っているのかもしれない。

 羽島のことが好き、彼女になりたい、と私から言えればいいのに。
 上手く伝えられる気がしない。タイミングも、言葉選びも、表情も、全部間違えてしまいそうだった。ただ振られるだけならば、仕方がないと割り切れる。でも、言い方を間違えて羽島を傷つけてしまったら、と考えると、怖かった。


 ふいに羽島が足を止めた。どうしたの? と見上げると、羽島は低い声で呟く。

「…………さっきの、どういう意味」

 さっきのって? と私が訊くよりも先に、羽島は言葉を続ける。珍しくちょっと早口だった。

「水沢に言ってたじゃん。そういうこと言わないで、って」

 私は目をまたたかせて、記憶を掘り返す。確かに言ったかもしれない。
 付き合っちゃえばいいのに、と水沢くんに言われて、恥ずかしさのあまり口走った言葉。
 からかわないで、という意味だったけれど、違う意味にも取れるのかな。少し考えて、私は正直に答えた。

「ああいうこと言われると、羽島が困るかなって」
「…………」
「私も恥ずかしいし……」
「恥ずかしいだけ?」

 その質問は、俺との仲をからかわれるのは嫌じゃないの? という意味に聞こえた。もしかしたら、間違っているかもしれないけれど。
 私は頷いてみる。実際に、嫌なわけじゃないから。羽島と仲良くなれたことは嬉しいし、からかわれるのだって羽島との仲を公認されているみたいでちょっと嬉しいくらいだ。
 付き合っているわけではないし、もちろん恥ずかしさは消えないけれど。

「ふーん」

 なにその反応。
 素直に答えたのに、羽島の反応が薄いから、不安になってしまう。
 勇気を出して、私からも訊いてみることにした。

「ああいうの、……やっぱり困る?」

 付き合っちゃえ、なんて。
 もしも羽島が私のことを好きじゃなければ、迷惑に違いない。

 大きくなる心臓の音を聞きながら、緊張して右手が彷徨う。無意識に、左腕を掴もうとしたのかもしれない。
 ささいな動きを、羽島は見逃さなかった。当たり前のように私の左手をさらって、ぶっきらぼうに答えた。

「困んねえよ」
「…………ふーん」
 
 今度は私が、曖昧な反応をしてしまった。自分で訊いたくせに、かわいくない。
 困らない、と言ってくれて嬉しかったのに。羽島の答えも、手を握ってくれたことも、嬉しくて上手く反応できなかった。

 羽島は私の方をちら、と盗み見て、またすぐにそっぽ向く。ふーんってなんだよ、と思ったのかもしれない。
 でも悔しいことに、弁解するほどの語彙力は持っていないから、私は大きな手をぎゅっと握ることしかできなかった。

 手を握る以外に、何か羽島に伝える方法があればいいのに。あいにく私は楽器しかやってこなかったし、クラリネットだってそこまで上手なわけじゃない。
 あんなに苦労した定演のソロも、羽島にしか届かなかったし、と考えて、私は気がついた。

 あった。
 ーーーー私が羽島に想いを伝える、たった一つの方法。