「前に、言ったじゃん。如月は考えて練習してる音がする、って」

 羽島のその言葉はしっかり覚えている。褒めている、と言ってくれたから。
 私が頷いたのを確認して、「これは俺の持論だけど」と羽島は前置きをした。

 何も考えずに練習した十時間よりも、考えて練習した一時間の方がよっぽど価値があるんじゃないか。
 そしてそれは、音楽だけではなく、勉強やスポーツ、他の分野にも共通していると思う、と。

 不思議と羽島の言葉はしっくりきて、なるほど、と私は呟く。

 勉強に例えられると分かりやすい。
 テスト前、ひたすら問題集に向き合っていてもあまり効果はない気がするから。問題集の答えを覚えてしまうくらい勉強しているのに、テストでちょっと数字をいじられると途端に解けなくなる。
 どういう風に解くのか、どうしてこの答えになるのか。あまり考えていないから、身につかない。勉強した気になって、時間を浪費しただけだ。

「すげー考えて勉強したり、野球上手くなるために考えて練習したり」
「うん」
「そういうのを、頑張ってる、って言うんだろ」

 羽島はきらきらした髪を揺らして、首を傾げる。さっきよりも少し下がった目線から覗き込まれると、なんだか羽島に上目遣いをされているみたいだった。
 しゃがんでいても羽島の方が大きいのに、不思議だ。

「考えながら練習する時間の価値とか難しさ? 自分で体験しないと分からないんだろうな」

 達観した老人みたいなことを、羽島が言う。
 羽島も実感したのだろうか。ただ練習するだけじゃダメだ、もっと考えて練習しなきゃ、と。

 そこでふと私は気づく。羽島は上手いけど、高校からテナーサックスを始めたと言っていた。つまり中学から始めた人より三年分も練習量に差がある。その三年間は、これからも埋まることがないものだ。
 後から始めた分、追いつくために一生懸命考えながら練習したのかもしれない。たくさん考えて、たくさん練習して、羽島は上手くなった。

 そう考えるとどうしようもなく羽島のことが愛おしくなる。


「今は気づいてないやつらも、いつか絶対に気づくよ」

 私が今、羽島の頑張りに気づけたように。
 いつかみんなも、私が頑張ってきたことに、気づいてくれるのだろうか。

 そうだといいな。今は羽島にしか伝わっていなくても。認めてもらえなくても。

 大人になって思い返したとき、あの頃の鈴音ってすごかったよね、頑張ってたよね、と言ってもらえるように。
 そうだよ頑張ってたんだから! と笑いながら言えるような自分でありたい。

 少し前向きに考えられるようになったのは、たぶん……。

「如月は、頑張ってるよ」
「…………うん」
「俺が保証する」


 とくん、と優しく音を立てた心臓も、ずっと握られていて温かくなってきた指先も、全部。羽島の優しさが私を変えてゆく。

 また泣きそうになったけれど、ギリギリ堪えることができた。代わりに私は下手くそな笑顔を浮かべてみせる。

「羽島は、いっつも優しいね」
「そ?」
「そうだよ」

 私は一度だけ大きく深呼吸をして、立ち上がる。
 深く息を吸ったけれど、いつものように頭の中に定演のときのソロは流れ始めなかった。

 でももしあのソロが流れ始めても、今なら大丈夫かもしれない。

 クラリネットソロに乗せた助けて、という私の叫びは、ちゃんと羽島が受け取ってくれる。
 私が頑張っていることは、みんなが認めてくれなくても、羽島が分かってくれるから大丈夫。

 羽島のおかげで、生きづらかった世界が、少し私に優しくなった気がした。



「さてと……部活抜け出して、ラーメンでも行く?」

 私に続いて立ち上がった羽島は、とんでもないことを口にする。驚いた私は、「なんで!?」と思わず大きな声を上げてしまった。

「さっき手首掴んで思ったけど、如月もっと食った方がいいよ。なんか食わせたい」
「いや、そうだとしても」
「それにもう練習再開してんじゃね? 一時過ぎてるだろ」

 羽島に言われて時間を確認しようとしたけれど、私のポケットにスマートフォンは入っていなかった。
 合奏中はスマートフォンはスクールバッグにしまっている。終わってすぐにトイレに行ってしまったし、戻ってからも回収する暇がなかった。

「私、スマホもバッグも合奏室に置きっぱなしだ……」
「それは俺もだけど」

 バツが悪そうに、羽島は肩をすくめた。仕方ねえ戻るか、と言う羽島の言葉は何も間違っていない。
 さっきの羽島の提案に、すぐに賛成はできなかったけれど。本当は、部活になんて戻りたくなかった。憂鬱な気分がまた戻ってきて、私は俯く。

 羽島の手に、優しく力が込められる。きゅっと握られた手は、私を励ましてくれているみたいだ。

「夜、部活終わったらなんか食いに行こ」
「……私、食べると体調悪くなっちゃうの」
「そうなん? じゃあ軽いもんにするか」

 そういう問題ではないのだけど。
 誘ってくれるのは嬉しいのに、体調を崩してしまうのが分かりきっているから申し訳なくなってしまう。
 おそるおそる、「もしかしたらお腹痛くなったり気持ち悪くなるかもしれないけど」と伝えてみる。羽島は目をまたたかせて、それから優しく笑った。

「そしたら体調よくなるまで待ってる」
「……いいの? 帰るの遅くなっちゃうよ」
「ちゃんと如月のことは送ってくし」
 
 俺は体力あるから平気、と笑う羽島は、心強い。
 それに、と続いた声はなぜか急に小さくて、宙に消えてしまう。なに? と私が聞き返すと、羽島は私から目を逸らして口を尖らせる。
 風になびいた髪の合間から、赤く染まった耳が顔を出した。

「今日断られても、また誘うし」

 もしも今日ダメなら次回。次回がダメなら、その次。
 もしかしたら体調が悪くなるかもしれないと言っているのに、そんなことは気にしない、と羽島は言ってくれる。
 その気持ちが嬉しくて、私はこぼれた笑みを隠すこともなく、羽島の手を握り返した。

「…………行く。絶対、今日行く!」
「え、なに、次誘われたくねえってこと?」

 羽島は一瞬変な勘違いをしたけれど、私の笑顔を見て黙り込む。
 それから照れたようにまた目を逸らして、「今日行っても、次も誘うからな」と羽島が言う。
 分かってるよ、と答えた私も、たぶん羽島と同じくらい、頬は真っ赤に染まっているはずだ。



 桜記念館に戻ると、木管と金管に分かれて練習が再開していた。木管の方はセクションリーダーである私と羽島がいなかったので、鯨井さんが直接指導してくれていたらしい。
 戻った瞬間に当然のように鯨井さんの怒声が飛んでくる。コンマスで木管のリーダーのくせに、無断遅刻しているわけだから、怒られても当然だけど。

 鯨井さんの怒る声を聞きながら身を縮こまらせていると、羽島の大きな手に背中をぽんと叩かれた。そっと隣を盗み見ると、凛とした表情の羽島が、まっすぐに鯨井さんを見つめ返している。怒られても逃げずに、堂々とした態度で受け止める羽島は、なんだかかっこいい。
 私も真似して背筋を伸ばして、つい俯きそうになる顔を上げる。鯨井さんの目を正面から見て、「すみませんでした」と私は声を上げた。言葉を遮ったから怒られるかもしれないと思ったけれど、鯨井さんは拍子抜けしたみたいに黙り込む。それから、分かったなら席戻れ、と吐き捨てた。

 席に戻ったら、隣の大橋くんに舌打ちされてしまった。今回に限っては、怒られても仕方ないことだと思う。泣いていた原因は、大橋くんにもあるわけだけど、練習に遅刻したのは本当だから。
 私は、すう、と息を吸い込む。

「練習に遅刻してすみませんでした……!」

 木管メンバー全体に聞こえるくらい。
 もしかしたら部屋の外にまで響くくらい大きな声で私が言うと、大橋くんはあんぐり口を開けた。羽島も大きな声で申し訳ありませんでした、と私に続く。
 そんな私たちが面白かったのか、鯨井さんはいいねえ、と口角を上げた。

 大橋くんは信じられないという顔で私を見つめた後、何も言わずにそっぽ向いてしまった。
 今更、大橋くんと仲良くなるのは難しいかもしれない。嫌われていると思うし、マイナスからプラスまで好感度を上げるのは時間がかかりそうだ。

 でも、私が心細くなって顔を上げれば、心配そうにこっちを見つめている羽島と目が合う。
 たった一人、私には味方がいる。その事実が、私の背中を支えてくれた。