「えっ鈴音!? 羽島くん!?」
 
 背後からかけられた声は、たぶん朱莉のものだった。焦るような朱莉の声に、まあまあ、と宥める水沢くんの声。私が聞き取れたのはそこまで。


 腕を引っ張られ、連れ出されたのは学校の外だった。泣いているから視界は悪かったのに、しっかりと腕を掴まれているから、私は転ばずに済んだ。

 吹奏楽部の練習場になっている桜記念館。そして、西女の校門も抜けて少し外に出る。ようやく羽島が足を止めて、私はカーディガンの袖で涙を拭った。
 羽島の手が緩む。手を離されるのかと思ったけれど、羽島は優しく握り直しただけだった。

 ぐす、と昼間から路上で鼻をすする私は、すごく情けない気がする。
 でも羽島は笑ったりしなかった。なぜか空を見上げていて、たまに私の様子を確認する。私が落ち着くのを待ってくれているのかもしれない、と気づいて、私の目にはまた涙が込み上げてきた。

 一度見られたとはいえ、できれば泣き顔は見られたくない。
 両手で顔を覆いたくて、ぐ、と自分の方に腕を引き寄せる。私の手を掴む羽島は、びくともしなかった。
 それどころか、さっき緩んだばかりなのに、私の手を掴む力が再び強くなる。私は空いている右手でもう一度涙を拭った。

「羽島……」

 涙声で羽島の名前を呼ぶ。羽島は私の方を見ないまま、ん、と短く返事をした。


 泣き顔を見られたくないくせに、心細くてたまらなくて、私は羽島を見上げる。潤んだ視界の中でも、羽島のきらきらした髪は目印みたいに分かりやすかった。

 苦しい、と吐き出した心の声は、ひどくかすれていた。

「しんどい……っ、もうやだよぉ……」

 羽島は、私の話す準備ができたらいつでも話を聞いてくれる、と言ってくれたけれど。今も心の準備なんて何もできていない。それなのに、私は我慢できずに弱音を吐き出している。

「やだ……なんで私ばっかり責められるの……」
「…………」
「コンマスもソロも……っ、やりたいなんて言ってないのに……、責任ばっかり押し付けられて……!」

 ぽろぽろと溢れ出した涙は、私の頰を伝って地面を濡らしていく。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔も、涙でまばらな模様のついた地面も。カーディガンの少し伸びた袖口や、強く掴まれてシワになった左の袖も、どうでもよく思えた。

 私が気になるのは、羽島がどんな表情を浮かべているか。ただそれだけだった。

「練習してないって言われるけど……っ、ちゃんとしてるもん……! 譜面をひたすらさらうだけの上澄みを価値のある練習だと思い込んでる人たちは、ご自由にどうぞって感じだけど! その練習が全てです、同じ練習をしてないやつはみんな努力不足、みたいな風潮は知らないよ! バカなんじゃないのっ! あんたたちの価値観を押し付けんなっ…………!」

 吐き出した言葉は全部、羽島に言っても仕方ないものだった。
 だって羽島は当事者じゃない。私が苦しんでいるのは、西女吹奏楽部が抱えている問題だ。羽島はすごく優しいけれど、どうしたって他校の生徒だから、当事者にはなれない。
 それでも羽島は何も言わずに聞いてくれていた。

「私にやれって言うなら、ちゃんと見ててよ……。頑張ってることも認めてよ……っ!」
「…………」
「私……頑張ってるんだよ……」

 その言葉を口にした瞬間、私はようやく気がついた。

 定期演奏会が終わって、ソロから解放されてもずっと苦しかった理由。
 前よりはずっと恵まれた環境にいるはずなのに、体調を崩すくらい辛かった理由。

 私はただ認めてほしかったんだ。
 鈴音も頑張ってるよね、って。誰かに言ってほしかったんだ。


 自分の苦しさの理由に気づいたら、嗚咽が止まらなくなってしまった。泣きじゃくる私を、羽島は黙って見守っている。左手は掴まれたままだったので、カーディガンの右袖だけが涙でぐしゃぐしゃになっていった。

 たぶん何回も泣き言を口にした。もうやだよぉ、と言うたびに、羽島はうん、と相槌を打ってくれる。うんざりしているかもしれないけれど、羽島の声はずっと優しかった。


 ようやく涙が落ち着いてくると、私はその場に座り込んでしまった。

「どうした? 貧血?」
「…………ううん」

 違うの、大丈夫。
 答えながらも顔を上げられないのは、冷静になってしまったから。

 泣きすぎて顔はぐちゃぐちゃだろうし、絶対に目も腫れている。さんざん泣き顔を見せておいて何を今更と羽島には思われるかもしれないけれど、泣いている間はそれどころじゃなかったのだ。
 少し落ち着いた今だからこそ、ブサイクな顔を見られたくないと思ってしまうし、自分の口にした言葉の数々を思い出して怖くなってしまう。


 かっこ悪い本音も口に出してしまったし、汚い言葉もたくさん吐いてしまった。
 今の私のことを、羽島はどう思っているだろう。

 こいつ、こんなに性格が悪いやつなのか、とがっかりしたかな。呆れている可能性もある。私に手を差し伸べようとしたことを、後悔しているかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふいに私の手を握る羽島の力が強くなった。そして、これどうした? と低い声が響いて、私は顔を上げる。
 手を掴まれているのにそのまま座ってしまったせいで、左の袖がずり落ちて大きく捲れていた。その意味を理解して、私は本当に血の気が引く。

「だ、だめ……!」

 勢いよく腕を自分の方に引こうとしたけれど、やっぱり羽島は離してくれない。
 もうこれ以上見られたくなくて、私は無理矢理カーディガンの袖を下ろした。

 でももう遅い。羽島に、見られた。
 左腕の切り傷。誰が見てもリストカットの跡だ。

 さんざん羽島にはダメなところを見られている。情けない弱音も、汚い本音も、全部吐き出した。
 それなのに今まで見せたどの一面よりも、たった一つの傷跡の方が、恥ずかしくてたまらなかった。

 流れる沈黙が怖くて、身体が震えてしまう。
 逃げ出してしまいたい。逃げる場所なんて、どこにもないのに。

 そんな私の心を、羽島の優しい声がノックする。

「…………自分でやったん?」

 責めるような声色ではなかった。なぜか泣きそうな声だと思った。
 心配してくれているのかも。羽島は、びっくりするくらいに優しいから。

「…………うん」

 なんとか絞り出した私の声は、本当に消え入りそうだった。

「気持ち悪くてごめんね」
「や、気持ち悪くはないけど」
「けど、なに……?」

 引いた? 呆れた? 今度こそ関わりたくないって、思った……?


 そこまで考えて、私の心の中に淡く色づいた気持ちがあることに気がついてしまう。

「やだ、羽島には、嫌われたくない……」

 くちびるから溢れた私の本音。
 届いてほしいけれど、聞こえていなければいいと思う。私はしゃがんでいるし、俯いているから、羽島にはそもそも聞こえなかったかもしれないけれど。
 数秒の沈黙の後、羽島は私の隣に腰をおろす。そしていつもよりも少し低い声で、羽島は呟いた。

「…………嫌ってたら、わざわざ連れ出したりしねえよ」
「でも何か言いかけてた……」

 めんどくさい私の性格に音を上げることなく、羽島はやわらかい声で優しい言葉を紡ぐ。

「如月は、マジで一人で頑張ってたんだな、と思っただけ」

 かけられているのは優しい言葉なのに、なぜかまた泣き出しそうになってしまった。胸の奥がぎゅっと痛くなって、無意識に右手が左腕に伸びる。羽島は私の手を制して、「俺が掴んでてやるから、自分で強く握るのやめろよ」と言った。

 左手を握られていると落ち着くというわけではないから、羽島に掴まれていても意味はないと思う。
 でも、羽島の優しさは、私のぐちゃぐちゃな心に寄り添ってくれるものだった。私が一人で泣かないように、そばにいてくれている。
 ちょっと不器用で、強引ではあるけれど、羽島の優しさは痛いくらいに私の心に響いた。

「引いてない?」
「なんで」
「傷も気持ち悪いし……。さっきのも、性格悪いって、思わなかった……?」
「どっちも思ってねえよ」

 本当に? と私がおそるおそる顔を上げると、すぐに羽島と目が合った。

 派手な髪に似合わない、優しい目の色。少し眉を下げて、私を見つめるその表情は、いつものわんちゃんみたいな顔ではなくて。嘘みたいに大人っぽい表情をしていた。
 私が顔を上げるのを待っていたのかな、だなんて、自意識過剰かもしれないけれど。

 至近距離で目が合ったまま、二人で黙り込む。もっと訊きたいことはあるのに、なぜか言葉がうまく出てこない。
 先に口を開いたのは、私ではなく羽島だった。