帰り道、なんとなく空を見上げると、月が優しい光を帯びていた。
隣を見れば羽島の髪も似たような色をしているから、なんだか月が近くにあるみたいだ。
私の視線に気づいた羽島は、なぜか少し頭を下げた。なに? と私が訊くと、ん、と短く声を上げる。どういう意味か分からずに首を傾げていると、頭を下げたまま、羽島がぶっきらぼうな口調で言う。
「触りたいんじゃねぇの」
撫でていいぞ、ということらしい。さっきは断ったくせに。
おそるおそる手を伸ばすと、羽島は私が撫でやすいようにさらに頭を下げた。その仕草はおばあちゃんの家で飼っていたわんちゃんそっくりで、やっぱり羽島は大型犬みたいだ。
派手な色に染めているわりに、羽島の髪はあまり痛んでいなかった。一本一本がしっかりしていて、指通りもいい。
頭を撫でると、私の指に触れた髪がキラキラ光る。うるさいくらいに主張する心臓の音に気を取られ、私はつい「月みたい」と口走ってしまった。
羽島の頭の位置が、少し戻る。私の声に反応して顔を上げたから。至近距離で羽島と目が合って、ようやく私は自分が何を言ったか自覚した。
ちょっと恥ずかしくなって、私は自分の手を引っ込める。
でも羽島は揶揄ったりせず、むしろ得意気に笑ってみせた。
「かっこいいだろ。この髪色、気に入ってんだよな」
「女子ウケ狙ったくせに?」
「男はモテたい生き物なんだよ」
モテたいと思っているのは本当かもしれないけれど、羽島の頰は照れて赤く染まっている。
男の子らしい一面に、私は少し笑みをこぼす。暗い話をするよりも、こういうくだらない話をする方が、羽島には似合っている。
重い話を無理矢理聞かせてしまったことへの後悔が生まれるけれど、羽島に聞いてもらえたから、私の心が少しだけ軽くなったのも事実だ。
「……冗談はそろそろ終わりにして。羽島、話、聞いてくれてありがとね」
きゅっとパーカーの袖を握りしめ、お礼を言う。これ以上付き合わせてしまってはダメだ。
もう十分助けてもらったのだから、もっと甘えてしまいたいだなんて、わがままにもほどがある。
俯く私に、羽島が低い声で問いかける。
「全部話す必要はないけど、しんどいことは言ってもいいんじゃね?」
「今、たくさん話聞いてもらったところだよ……」
「まあ定演の話は聞いたけど」
今も如月は辛そうなのに。
羽島の言葉の裏には、そんな言葉が隠れている気がして、私は唇を噛む。
今の私は恵まれている。
コンサートマスターに選んでもらって、音楽の方向性を提案できる立場にいる。音楽をやりたくて吹奏楽部に入っているのだから、今の立場はこれ以上ないほどに贅沢なポジションのはずだ。
指揮者と部員の間で板挟みになって、苦しむことはあるけれど、我慢すればいい。
いい音楽を作るためには、少しくらいの犠牲は必要なのかもしれない。それがたまたま私の好感度だっただけ。
疎まれて、嫌味を言われることはある。でも定演のソロのときとは違って、演奏は一人じゃない。全責任が私にかけられていたあの頃よりも、ずっと心強いはずだ。
今の状況は恵まれている。だから、辛いと感じるのは私のわがままだ。
定演の頃の辛い記憶を何度も繰り返すせいで、心細くなっているだけ。
今の状況に問題はないよ、と言い聞かせるように心の中で繰り返す。もしも何かあるとすれば、特に問題ない現状で、それでもなぜか苦しいと思ってしまう、私の心の問題だろう。
また無意識に左腕を強く握っていたらしい。大きな手に肩をとんと叩かれて、私は顔を上げた。羽島の視線を追うと、私の右手が左腕をぎゅっと握っている。慌てて手を離して、私は誤魔化すように笑ってみせた。
「大丈夫、ありがと。羽島が話聞いてくれたから、ちょっと気が楽になった」
「…………ならいいけど」
あまりよくなさそうな口調で、それならいい、と羽島は言う。
私と羽島の関係は、たぶんまだ友達と呼べるほどのものではない。他人以上、友達未満といったところだろうか。
それなのに羽島があんまり優しいから、私の心は恥ずかしさと嬉しさできゅうと悲鳴を上げる。
ふいに羽島が、「もしも」と呟く。私は首を傾げて、もしも? と繰り返した。
「もしも、如月が話す準備できたら。……いつでも聞く準備して待ってるから」
羽島はそれ以上何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。隣に立ったまま、買ったまま開けていなかったペットボトルを開ける。ぬるくなった無糖の紅茶は、なぜか少し甘い気がした。
相楽と西館女子の合同練習は続いた。
結局このメンバーでも、コンサートマスターは私のままだ。コンマスにこだわっていた大橋くんも、数回目の合奏を境に何も言わなくなった。
みんなの前で、鯨井さんにこっぴどく言われてしまったからだ。
『大橋のそれは音楽とは言わねえよ。譜面吹いてるだけだろ』
『譜面通りしか吹けねえいい子ちゃんのコンマスなんていらねえよ』
なかなかひどい言葉だったので、私は心配になって隣に座る大橋くんを盗み見た。頰を真っ赤に染めた大橋くんは、なぜか私のことをキッと睨んできた。私が言ったわけではないのに、大橋くんの怒りは私に向いたらしい。
どうしていいか分からず、小さく呟いたごめんね、という言葉は、大橋くんに届いたのか分からない。大橋くんの返事はなかったから。
その合奏の後、私は見事に体調を崩した。今までは暫定のコンマスだった。でも合同演奏会も、鯨井さんは私にコンマスをやらせるつもりだ、と分かってしまったからだと思う。
合奏が終わってお昼休みになってすぐ、私は三階のトイレに逃げ込んだ。相変わらずストレスを感じるとお腹が痛くなってしまう。毎日薬を飲んでいるのに、なかなか治らない自分の体質に、もうやだ、と一人で嘆いた。
ようやく調子が落ち着いてきて、私はおそるおそる合奏室に戻る。西女吹奏楽部の風習のようなもので、お昼は合奏室で食べるのだ。
お昼休みだから楽器の音はしないけれど、合奏室はとても賑やかだった。たぶんいつも通り、何グループかに分かれてご飯を食べているに違いない。
合同練習を数回やったことで、西女と相楽のメンバーはだいぶ距離が近くなった。お昼を食べるときも、男女入り混じっているグループが多い。
私は部長の朱莉と一緒にご飯を食べることが多かった。相楽との合同練習が始まっても、それは変わらない。少し変わったのは、メンバーに水沢くんと羽島が加わったことだ。
お昼の時間に午後の打ち合わせをすることで、効率よく午後練習に入れるようにするためだ。木管のセクションリーダーである私と羽島、そして金管リーダーの朱莉と水沢くん。真面目なメンバーが多いから演奏の話が多いけれど、私は四人でいる時間が嫌いじゃなかった。
合奏が終わってすぐ、誰にも声をかけずにいなくなったから、どこに行ってたの、って朱莉に怒られそうだな。
そんなことを考えながら、私が合奏室のドアをそっと開くと、中から私の名前が聞こえてきた。私はドアノブを握ったまま、反射的に固まった。
「鈴音は、鯨井さんのお気に入りだから」
「…………っ」
少し高めの女子の声。誰の声かまでは分からない。
合奏室は賑やかなのに、わざわざ嫌味のような言葉を拾ってしまうなんて。
引き返した方がいいのに、私は入り口から動けなかった。
「そうそう、気にすることないよ。大橋くんの方が鈴ちゃんより上手いと思うし」
「えっ、如月さん、普通に上手くない?」
「魅せ方はね。だから鯨井さんに贔屓されてるんだろうし」
男の子の声が私をフォローしようとしてくれたけれど、被せるように女子の声が響く。
話の流れからして、鯨井さんに突き放されてしまった大橋くんのことを、周りが慰めているのだろう。
でもそんなこと、私にはどうでもよかった。大橋くんを慰めるためであっても、私を下げるようなことは言わないで欲しかった。それとも大橋くんを励ますふりをして、私の悪口を言いたいだけなのだろうか。
ぐさぐさと胸に刺さった言葉は、私の涙腺を刺激する。視界が涙で滲んでいった。
「それに鈴音ちゃん、あんまり練習しないから、正直……ね?」
濁された言葉の続きは、分からない。
でも、私を否定する言葉だったんだと思う。
正直、コンマスは任せたくない?
正直、一緒にやりたくない?
正直、鈴音は好きじゃない?
想像した全ての言葉が私に突き刺さって、ダメだった。唇を噛んで必死に涙は堪えたけれど、足は震えてしまう。
一回どこかに逃げて涙を引っ込めなきゃ。
そう思うのに、動けない。
「如月…………?」
賑やかな合奏室から、また私の名前を呼ぶ声が聞こえる。今度は低い男の子の声で、誰の声かすぐに分かった。羽島だ。
涙で歪む視界の中、誰かが大きく動く。近づいてくる足音が誰のものか確認する前に、私の左腕は強い力で引っ張られた。



