私は止まらない涙をぎゅっとパーカーの袖で押さえる。
 ごめん、急に泣いたりして、と羽島を見上げると、羽島は呆然とした顔で私を見つめていた。

「……羽島?」

 泣いたせいで、少し鼻声になってしまった。羽島の反応が気になったけど、羽島は固まったまま何も言わない。
 もう一度私が呼びかけると、形のいい眉を下げて、羽島は情けない声を上げた。

「え、待って。俺、泣かせた?」
「……えっ?」
「ちょっと待って女の子泣かせたのはショックでかい」

 羽島がすとんと私の隣で座り込む。地面にお尻をついたわけではないみたいだけど、膝を抱えるようにして羽島は落ち込んでいる。背が高いからか、座っても頭の位置が高い。

「馬鹿力っていうのは比喩で……俺のが普通に力強かったし。あんまり強く握ったら痛くね? と思っただけで……。本当に如月のことゴリラみたいに馬鹿力だって思ったわけじゃねえから……」

 頭を下げて羽島は項垂れる。
 私よりも羽島の方が背が高いから気づいていなかったけれど、つむじの辺りは髪が黒かった。染めた後に少し髪が伸びたのかもしれない。
 場違いなことを考えながら、私は首を傾げた。

「何言ってんの?」
「……馬鹿力とか言ってごめん」
「ほんとに何言ってんの、羽島」

 私は思わず吹き出しそうになった。だって、たぶん羽島は勘違いをしている。
 私が泣いた理由は、羽島に馬鹿力だと言われたからじゃない。そんなかわいい理由で泣いていたわけではないのに、勘違いの末、羽島に変な発言をさせてしまった。

「羽島がおかしなこと言うから、涙どっかいっちゃったよ」
「は?」

 心底訳が分からないという顔をする羽島には申し訳ないけれど、説明は後でいいだろう。
 だって実際私は羽島の言葉に傷ついたわけではないし、むしろその優しさに救われたのだから。


 だから、これは、私のわがままだ。
 もう少しだけ羽島の優しさに浸っていたい。羽島が照れて引っ込めてしまう前に。

「ね、羽島。頭撫でていい?」

 私が口にしたお願いに、羽島は勢いよく顔を上げる。その顔は驚きの色に染まっていた。

「…………は?」
「モテなそうって言ったけど、羽島の髪の色、私は結構好きなんだよね」

 自分でも変なお願いをしているのは分かっている。男の子と一緒に帰るのは恥ずかしいくせに、頭を撫でてみたいだなんて。女子校に通っているせいで、男の子との距離感がおかしくなっているのかもしれない。

 でも羽島の頭を撫でてみたいと思ったのは本当だった。
 つむじがかわいかったからかもしれないし、理由は自分でもよく分からないけれど。

 羽島は少し考えるそぶりを見せて、「如月も俺のお願い聞いてくれるならいいよ」と言った。

「お願いってなに?」
「定演のときのソロ、生で聴きたい」
「やだ。あのソロはもう二度と吹かないよ」

 私の返答を聞いて、羽島は見るからに肩を落とした。それから私のお願いも、却下されてしまう。

「じゃあ俺もダメ」

 羽島の髪を撫でてみたかったけれど、大嫌いなあのソロを吹いてまで叶えたいわけではなかったから仕方ない。
 髪をじっと見つめられていることに気づいたのか、羽島は視線から逃げるように立ち上がった。
 

「聴きたかったけど、如月が吹きたくねえなら諦めるか」

 羽島がぽつりと呟いた言葉に、私の胸がきゅうと鳴く。いつもの苦しい胸の痛みとは少し違う。左腕を強く握って痛みに逃げなくても、抱えていることのできる優しい痛みだった。

 私はさっきの羽島の言葉を思い出す。
 助けてって泣いているような音楽。でもかっこいい。
 私の演奏を、そんな風に受け取ってくれるのは、たぶん羽島だけだ。もう一度聴きたいと思ってくれるのも、羽島だけかもしれない。

 羽島は少し変わっていると思う。
 でも、ちょっとズレている羽島が、私は結構好きだった。だって羽島が他のみんなと同じ感性だったなら、きっと私のソロは受け取られないままだった。
 羽島が気づいてくれなければ、これからも私は一人でこの苦しみを抱えていくはずだった。今までずっとそうだったように、誰にも気づかれることのないまま、一人で泣いていたと思う。




 現実的に、何かが変わったわけではない。

 私の過去は変わらない。
 大事な定期演奏会で先輩のソロを奪ってしまったことも、それをきっかけに部員から反感を買ってしまったことも。変わらず私の記憶に刻み込まれている。
 左腕に残った傷の跡が、私の苦しんできた何よりの証拠だ。

 苦しい現状も、何も変わらない。
 明日部活に行けば、私は変わらず西女吹奏楽部のコンサートマスターとして、みんなを引っ張っていく立場。今日休んでしまったから、たぶん陰口も叩かれるし、嫌な顔もされるだろう。それでも私は、鯨井さんが指揮をする合奏でみんなのフォローをするし、音楽を求め続ける。

 コンマスをやめたいです、と言えば、鯨井さんに怒られるのも変わらないと思う。
 「お前がコンマスを降りるなら、俺も指揮振らねえからな」という脅し文句で、私を縛り付けてくる鯨井さん。
 逃げ道のない苦しさに、私はまた体調を崩し続けるのだと思う。みんなの嫌われ役になりながら音楽をまとめ上げ、鯨井さんから過度な責任を押し付けられるから。
 その事実だって、たぶんこれからも変わらないままだ。


 現実は、状況は、何も変わっていない。
 それなのに、心配そうに私を見つめる羽島が隣にいるだけで、なんだか少し苦しくない気がした。