DVDを貸して欲しいと言われたときから、羽島が私のソロを気に入ってくれていることは知っていたはずなのに。
改めて好きだと言われて、胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
言葉足らずな羽島が、一生懸命言葉を選びながら紡いでいるのが、私にも伝わってきた。
「正直、……ちょっと記憶が美化されてるかもって思ってたんだよ。でも、ソロの前奏? クラの音が響いて……。なんつーか、……泣きそうになって」
私は羽島の言葉を黙って聞いていた。
何も言わなかったのではない。胸がつまって、何も言葉にできなかったのだ。
練習のときも、定期演奏会が終わってからもずっと。私は不安だった。
私のあのソロは、ちゃんと吹けていたのかな。私以外のメンバーが吹いた方がよかったんじゃないかな、と。
絶対に私よりも、菜穂先輩や他のクラの先輩の方が上手かったから。
たぶん、当時の西女のメンバーはみんなそう思っていたに違いない。
だけど私だって一生懸命頑張った。私なりに真剣に曲と向き合って、音楽を作り上げたから。
だから、たった一人でいい。
誰かに認めてほしかった、あのソロは鈴音でよかった、と。
もしも誰かがそう言ってくれたなら、私は自分を許してあげられる気がした。
鯨井さんや部員の誰か。そんな身近な人でなくてもいい。演奏会を聴きに来てくれた、知らない人だって。
「芝居の後押ししてんのに、演奏自体にも心がこもってて」
こころ、と小さく繰り返した私の声を、羽島は聞き漏らさなかった。うん、と頷いて、私の表情を確かめながら、羽島は低い声で呟く。
「助けて、って泣いてるみたいだった」
「…………っ」
ぎゅう、と痛いくらいに胸が締め付けられる。
胸の痛みから逃れるように、私は右手で左腕を強く握りしめる。ちょうど傷の跡が残っているところ。傷口なんてとっくに塞がっているはずなのに、ズキズキと痛む気がした。
今にも泣き出しそうてしまいそうだった。
音が出ないかも、という不安や、周囲に応援されない苦しさは、今でも鮮明に思い出せる。
逃げてしまいたい。でも逃げ場がない。ずっと一人で土砂降りの雨に溺れているような。途方もない苦しみからは、状況が変わった今も、なぜか抜け出せていない。
定期演奏会はもう終わったはずなのに。ひとりぼっちの演奏からは解放されたはずなのに。なぜか私は、今も苦しんでいる。
「でも、かっこいいんだよな……」
予想外の羽島の言葉に、私は思わず間抜けな声を上げた。
「え……?」
「あのソロ聴いて、音楽ってこんな表現もできんのか、かっこいいな、って思った」
かっこいい。
初めて言われたそれは、間違いなく褒め言葉だった。私は何度か心の中で羽島の言葉を繰り返す。
かっこいい。…………かっこいい。
音が出ないかもしれない、と不安だったクラリネットソロ。
技術は足りなかったと思う。まだまだ直すべきところはたくさんあった。
でも、下手くそなりに一生懸命吹いた私の演奏は、ちゃんと届いていた。
羽島が、受け取ってくれていた。
「……そんな風に言ってもらったの、はじめて……」
隣に立っている羽島は、低い声で「そんな風って?」と低い声で訊ねる。あのソロを褒めてもらえたのが初めてだと答えると、羽島は疑わし気な声を上げた。
「さすがに嘘だろ、あんないい演奏なのに」
「ほんとだもん。あのソロ、誰も褒めてくれなかったし……それどころか誰にも触れられなかったの」
私は涙まじりの声で語る。上手く言葉にできているか、ちゃんと説明できているか分からなかったけど、羽島は相槌を打ちながら聞いてくれた。
トランペットの先輩が吹く予定だったソロ。
鯨井さんが急にクラリネットがいいって。
私、他のパートの先輩からソロを奪っちゃったの。
しかも、クラリネットにも先輩はいるのに、先輩を差し置いて私だったから、よく思われなくて。反感ばっかりで、誰も応援してくれなかった。
主観で語る裏話なんて、羽島からしたら迷惑かもしれない。
でも私は聞いてほしかった。他でもない、あのソロを受け取ってくれた羽島に、聞いてほしかったのだ。
「しかもね」
「まだあんのかよ……」
どんどん出てくる愚痴に呆れたような声を上げながらも、羽島はちゃんと聞いてくれる。左腕をぎゅっと強く握って、私は震える声で続けた。
「私、あの頃全然音出なくなっちゃったから、余計にみんな、なんであいつがソロなのって思ってたんだと思う」
「音が出ないって、なんで」
「分かんないよ……。そんなの、私がききたい」
ついかわいくない言葉を吐いてしまう。でも羽島は怒らなかった。
「ストレスかプレッシャーか分かんないけど、ソロを吹こうとすると、音が出なくなっちゃって。……練習が足りないんじゃないか、っていっぱい言われて」
あの頃私に向けられた、心ない言葉が頭で再生される。
それだけで私は崖っぷちに立たされているみたいな気持ちになった。恐怖と心細さに駆られて、足が震える。心臓の鼓動も速くなった。
痛いくらいに胸が苦しくなる。胸の苦しさから逃げるように、左腕を強く握った。
たぶんそれは私の癖になっていて、自分では意識していなかった。羽島の手が触れるまで、私は自分がどれほどの力で左腕を掴んでいるのか、気づいていなかったくらいだ。
羽島の大きな手が、私の手にそっと触れる。ハッと慌てて左腕を掴む右手を解こうとしたけれど、手がこわばって、上手く解けなかった。
「どんだけ強く握ってんだよ……」
呆れたような声で呟いて、羽島が私の指を一本ずつ引き剥がしていく。自分で自分の腕を掴んでいたのに、ほとんど感覚がなかった。
羽島に触れられて初めて、私の指は感覚を取り戻していくみたいだ。
「馬鹿力かよ。アザにでもなったらどうすんの」
その言葉で、ようやく私は気がついた。
呆れているわけじゃなかった。羽島は、私を心配してくれているんだ。
向けられた優しさに気づいてしまったら、もう堪えられなかった。
ぽろ、と一粒私の頰に涙がこぼれ落ちる。慌てて拭ったけれど、隠しきれなかった。次から次へと涙が溢れて、止まらなくなってしまったからだ。



