コンビニで買ったのはあたたかいペットボトル一本。羽島はペットボトルに加えておにぎり二個とパンを買っていて、私にそれだけ? と訊いてくる。
うん、と答えると、羽島はそれ以上何も言ってこなかった。
コンビニの灯りを背に、羽島がおにぎりにかぶりつく。一口がとても大きくて、あっという間に一つなくなってしまった。そのまま二つ目のおにぎりも羽島の大きな口に飲み込まれていく。しっかり噛んで飲み込んで、羽島はようやく私の方を見た。
「悪い、腹減ってて」
「もう夜遅いもんね。でも家に帰ってからちゃんと食べた方がいいよ」
「家でも食うから平気」
家に帰ってからお夕飯を食べるのに、今おにぎりを二つ食べてしまったらしい。昨日の話によれば、勉強しながら夜食も口にするという話なので、羽島の一日の食事量はすごいことになりそうだ。
「如月は?」
「ん?」
「飯、食えてる?」
羽島の質問に、私は上手く答えられなかった。食べていないわけではないけれど、たぶん必要な栄養は摂れていない。それに何より、食事が怖くなってしまっている。
だって食べると、体調が悪くなる。ご飯を食べるとお腹が痛くなってしまうから、食べなくない。食べるときも少しずつ時間をかけて口にしていく。お腹が痛くなりませんように、と祈るような気持ちになりながら。
そんな食事は苦行でしかない。
「この間、貧血っぽかったじゃん」
ふいに羽島が口を開く。それはたぶん合同練習の初回のときの話だ。昼食後、私はお腹を壊して、めまいが止まらなくなってしまったから。
ふらついたところを羽島に支えられて、何とか練習に戻れたことを私は思い出す。
「今日もそんな感じ?」
「うーん、ちょっと違うけど」
症状的には頭痛だったので、貧血とはちょっと違う。ただ、私が診断された自律神経失調症というのは、かなりいろんな症状が現れる病気らしい。腹痛、頭痛、めまい、動悸、不安に不眠。症状の種類があまりにも多いので、調子が崩れているときはどんな症状が現れるか分からない。
この間の腹痛とめまいも、今日の頭痛も、眠れなかったことも。全て自律神経の乱れが原因だと思えば、羽島の言う「今日もそんな感じ」に当てはまる気がした。
曖昧な答えしか返さなかったけれど、羽島は苛立ったりすることはなかった。落ち着いた声のまま、「本当はちょっと気になって来たんだよ」と呟く。
「なにを?」
「昨日練習中に泣いてたっぽいじゃん。……今日休んだの、そのせい?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
私は無意識に唇を噛んで、足元に視線を落とす。適当に履いて来たスニーカーは、つま先が少し汚れていた。
練習中、泣いていたこと。
羽島が気づいていたのは、もちろん知っている。わざわざ水沢くん経由でフォローしてくれたくらいだから、羽島の優しさは疑いようもない。
だけど、お礼を言ったときにも深く訊かれなかったので、あれ以上突っ込まれることはないと思い込んでいた。
「なにかあった?」
静かな声で訊ねられて、私の胸がきゅっと悲鳴を上げる。冷たい指でペットボトルを抱きしめて、私は震える口を開いた。
「図星、つかれて………ちょっとへこんでただけだよ」
「図星って?」
さっきまでの羽島は、私が曖昧に濁したら、意図を汲んでスルーしてくれていた。これ以上聞いてほしくないんだな、と察して、さりげなく話題を変えていく。それが羽島の優しさなのだと思っていた。
だけどこの話題は、羽島の興味をひいたらしい。羽島はまっすぐな目で私を見つめて、私の次の言葉を待っている。
私は羽島の目を見つめ返して、無理矢理笑ってみせた。
「人に注意できるほど上手くない、って。ある人に言われて……何も言い返せなかったの。私、本当に上手くないから」
眉をひそめた羽島は、なんだよそれ、と苛立たし気に呟く。
「悔しくて泣いちゃったけど……でも、そのせいじゃないよ。休んだのは、体調が悪かったからだし」
紡いだ言葉に嘘はない。
悔しかったことも、泣いてしまったことも、体調が悪かったことも全て本当だ。休みの理由が大橋くんのせいではないことも嘘じゃない。
だけど、棘のある言葉に傷ついて、心がぐちゃぐちゃにされるたびに、私の体調は乱れていく。身体が心の負荷に耐えられないみたいだった。
私の作った笑顔が下手くそだったからか。それとも私のかけられた言葉に、羽島も腹を立てているのかもしれない。
羽島は険しい表情で「誰に言われたか知らねえけど」と呟く。
「俺は…………好きだよ」
「え、?」
羽島の小さすぎる声は、コンビニから出てきた不良の騒がしい声にかき消されてしまった。ガラの悪そうな人たちは、あまり近寄りたくないタイプだ。入り口から少し離れて、私は羽島に謝る。
ごめん、聞こえなかった、と言うと、羽島は眉をひそめた。今日はそんな表情ばかり見ている気がする。
それから羽島はそっぽ向く。頭が揺れたせいで、金色の髪の間から、ピンクが覗いた。インナーカラーだと思ったけど、耳だ。羽島の耳が色づいて、ピンクになっている。
「なんて言ったの?」
「なんでもねえよ」
言いかけておいて途中で言葉を引っ込めるのはずるい。
気になるじゃん、と私は思わずムキになってしまった。
羽島は私のことを睨みつけるけれど、耳が赤いせいで全然怖くない。むしろなんだかかわいく見えてしまうのだから、不思議な話だ。
「ねえ、なに? 気になるってば」
もう一度私が急かすと、羽島は大袈裟にため息を吐いてみせた。そして口を尖らせて、拗ねたような声を上げた。
「だから! 俺は、如月の演奏、好きだけど」
「……………………えっ」
私は驚いて息を飲んだ。
コンビニから漏れ聞こえてくる音楽も、ちょうど曲が切り替わるタイミングだったのか、一瞬周囲から音がなくなる。いつの間にかコンビニの周りには人がいなくなっていて、私と羽島だけが薄暗い空間に取り残されていた。
「定演のソロとか。あれ、改めて聴いたら絶対如月の音じゃん」
あのソロを誰が吹いたか知りたくて、合同練習中もずっとクラリネットの音を聞いていたんだ、と羽島は言った。
さっきまで照れていたくせに、今はもう開き直っている。顔は赤く染まっているけど、羽島の目はまっすぐ私を捉えていた。
今度は私が照れる番だった。身体中の熱が頰に集まって、羽島の目から逃げたくなる。
「あのソロ、如月だろ?」
初めて会ったときは、定演のクラリネットソロが誰か知りたい。でも答えは言うな、と強い口調で言ってきたのに。
羽島はもう、答えに気づいている。分かっていて、私に答え合わせを求めてきていた。
逃げようとする私の視線を捉えるように、金色の髪が揺れる。羽島が身を屈めたのだ。きらきらとした金髪が視界に入ってきたら、なぜか胸の奥がぎゅうと締め付けられてしまう。うん、と私は小さな声で答えた。
「……だよな」
羽島が笑う。目を合わせるのが恥ずかしかったはずなのに、自然と羽島に目を奪われた。
びっくりしてしまうくらい、羽島が優しい表情を浮かべていたから。



