いつのまに眠ったのか、目が覚めると朝になっていた。辛い夢を見たせいで、目が覚めたばかりだというのに休んだ気がしない。
ぼーっとする頭のまま、左腕の袖を捲ってみる。リストカットの傷は、今でもしっかり残っていた。言い逃れできないくらい、くっきりと。深く切り過ぎたのか、傷跡は白くなって少し膨らんでいる。このまま一生傷跡が残るのかもしれない。
怪我をすれば正当な理由で部活が休める。
そういう発想でリストカットに及んだはずなのに、結局私はこの傷のことを誰にも話していない。
なかなか血が止まらないくらい、傷は深かったようだけど、別に指が動かないわけではない。今までと変わらず動く。
それなのに怪我をしたんです、しかも自分で切ったんです、なんて言ったら、ただのかまってちゃんだと思われるに違いない。
自分でやったことなのに、傷を見るたびに私の気持ちは重くなった。この傷のせいで、今年は半袖を切られなかった。
リストカットの跡は私の弱さの証明みたいに思えた。
ずきんずきんと頭が痛んだ。
頭痛の原因が寝不足か、自律神経の乱れなのかは分からない。どちらであっても、頭痛薬で対処することに変わりはないけれど。
しばらく枕に突っ伏していたけれど、頭痛はひどくなるばかりだ。そうしている間にも、時計の針の音が私を急かす。
私は重い身体を引きずるようになんとか起き上がり、リビングへと向かった。
早起きをしたお母さんが、私のためにお弁当を作ってくれている。小さなピンクのお弁当箱に詰め込まれているのは、私が食べやすいように軽いものばかりだった。
「…………お母さん、ごめんね、学校休んでもいい?」
せっかくお弁当を作ってくれたのに。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、私はおずおずと声を上げる。
お母さんは深く訊いてこなかった。病院に行く? とだけ訊かれたけれど、私は首を横に振る。
「お母さん、今日仕事だけど鈴音一人で大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「病院行くなら保険証は持って行ってね」
「うん、ありがと」
私が学校を休むこと、お母さんはどう思っているんだろう。
休むならせめて病院に行け、と思っているのかな。それとも仮病だと思われているかもしれない。
お母さんが学校に休みの連絡をしてくれているのを聞きながら、私はリビングのテーブルに突っ伏した。
頭が痛くて、気持ちも悪い。頭痛薬を飲むためにも何か胃に入れなければいけないけれど、それすらもしんどかった。
「鈴音、部活も休むって連絡しないと心配されちゃうよ」
お母さんの言葉で私は重い頭を上げた。
学校を休むときに一番億劫なこと。それは、部活のグループメッセージに休みの連絡を入れることだ。
お母さんの言う通り、学校を休むことを伝えておかないと大変なことになる。心配されてしまうからではなくて、また遅刻? とか、サボりだと思われてしまうからだけど。
体調不良で休みます。すみません。
私の送信したメッセージには、すぐ既読の文字がつく。あっという間に既読の数は十を超えたけれど、誰からも反応はなかった。
不思議なことに、学校を休むと決めて今日は部活に行かなくていいと分かると、しっかり眠れる。
目が覚めたらお腹も空いていて、お母さんの作ってくれたお弁当も半分食べられた。しばらく様子を見て、お腹が痛くならないことを確認すると、私はお弁当の残りも口にした。小さなお弁当箱だけど、完食できたのは久しぶりだった。
だけど調子がいいのは、夕方、スマートフォンの通知を見るまでだった。
吹奏楽部のグループメッセージ画面には、『今日は鯨井さんが来ます』と書かれている。朱莉からだった。
今日は相楽との合同練習もないし、明日が鯨井さんの来てくれる日なので、今日は来ないだろうと思っていた。私は休んしまったけれど、鯨井さんが来るということは合奏になる。部活が終わった後に、今日の注意点の共有と称して朱莉から長文のメッセージが来るのは確実だった。
そわそわと落ち着かない気持ちになって、結局私は山積みになったフルスコアに手を伸ばした。せっかく学校を休んで部活から逃げたのに、曲のことを考えていないと不安でたまらないのだ。
夜まで集中してスコアを読み込んだ。
集中が切れたのは、家のチャイムが鳴ったからだった。
お母さんは何も言っていなかったけれど、宅配便かもしれない。部屋の窓から外を見てみる。宅配らしいトラックは停まっていなくて、代わりに家の門の前には自転車が置いてあった。
私はおそるおそるインターフォンの画面を覗く。薄暗い画面に白っぽい髪が映って、私は目を丸くした。
「…………羽島?」
確かに、昨日DVDを借りに来たから、羽島は私の家を知っている。でも、返すのはいつでもいいと伝えたし、わざわざ家まで来る用件もないはずだ。
考えているうちに羽島は二度目のチャイムを鳴らすことなく、頭をかいて引き返してしまう。私は慌てて玄関に向かった。
「羽島……?」
「うお……! いるのかよ……」
「え、どうしたの。なんでいるの」
私が玄関のドアから顔を出して呼びかけると、羽島は飛び上がった。ちょうど自転車に乗ったところだった。
「何か用?」
首を傾げて私が問いかけると、羽島は分かりやすく顔をしかめる。
なにそれ、どんな表情なの。
戸惑っていると、羽島は真面目な顔で静かに呟いた。
「いや、感想。言いに来ただけなんだけど」
「感想?」
「DVD観たから」
でも冷静になったら家まで来るのはキモイなと思って帰ろうとしたところだった、と真剣な表情で羽島が言うので、私は笑ってしまった。
「明日、合同練習あるんだから、どうせ会うのに」
「明日もお前、休みかもしれないじゃん」
私はまた首を傾げる。羽島と違う学校なのに、どうして私が今日休んだことを知っているのか分からなかったから。
しれっとした顔で、羽島が「うちの水沢から聞いた」と教えてくれる。なんで水沢くんは私が休んだって知ってるの、と言うと、水沢くんは朱莉と連絡先を交換しているらしい。
二人は部長同士だから当然かもしれないけれど、私は相楽の誰ともまだ連絡先を交換していないので、なんだか寂しい気持ちになってしまった。
「体調、平気なん」
「うーん、まあ、ちょっとましになったかな」
「ふーん」
自分で訊いたくせに、羽島は興味のなさそうな声を上げる。私はどんな反応をしたらいいか分からなかった。
だけどわざわざ感想を伝えに来たという羽島を、このまま帰すのも忍びない気がして、少しだけ羽島に待っていてもらう。部屋からパーカーを取ってきて羽織ると、私は羽島と一緒に家の近くのコンビニまで歩いた。



