今日の夕飯は、煮込みうどんだった。消化にいいものだけど、念のためたっぷり時間をかけて少しずつ胃の中に取り込んでいく。
体調を崩すタイミングが学校にいるときになってしまうから、朝食と昼食はあまり口にしたくない。最近だと朝とお昼は、ほとんどジュースやスープなど、水分中心の生活になっていた。
夕飯を食べても体調は崩れるけれど、自宅にいる分まだマシだと自分に言い聞かせている。
ろくに食べていないせいで、胃は荒れているみたいだし、腸も過敏になっている。それでも朝とお昼に食事が摂れない分、夕飯だけは少しでも口にしないと最低限の生活も保てなくなってしまう。
ふらつく、めまいがする。それだけでも困るのに、貧血があまりにもひどいと気を失ってしまう。
時間をかけてゆっくり食べてみたけれど、結局お腹が痛くなってしまった。頑張って半分ほど食べたのに、全て身体の外に排出されてしまった気がする。
体調の悪さと惨めさに耐えられなくて、私は途中で食事を諦めた。
疲れているせいか、お風呂から出るとすぐにベッドに倒れ込んでしまった。このまま眠ってしまえたらいいのに、と思うけど、私の頭の中は部活のことでいっぱいだった。
今日の合奏は、水沢くんと羽島の優しさに甘えてしまった。でも毎回甘えているわけにもいかない。いつ、どの曲が合奏になってもいいように、ちゃんとスコアに目を通しておかなければいけない。
自分の譜面とフルスコアを見比べながら、曲の山場がどこになるのか、一曲ずつ丁寧に確認していく。盛り上げたいところ、聴かせたいところ、技術を魅せたいところ。それぞれ曲によって隠された意図があるはずだから、読み取っていくのだ。
途中までは集中できていた。でも、今日パート練習で演奏した曲になると、途端に集中が切れてしまった。大橋くんに言われたことを思い出してしまったのだ。
『……人に言えるほど上手くないくせに』
大橋くんの言葉は、何も間違っていない。そもそも私に向けて放ったのか、ひとりごとだったのかも分からない。でも、私の心を抉るには十分な鋭さを持っていた。
曲の表現について考えたいのに、ネガティブな考えに支配されてしまって、それどころではなくなってしまう。スコアブックを見て頑張ってみたけれど、十五分ほどで私の心は折れてしまった。
布団を被っていても、なかなか眠れない。心身ともに疲れ果てている気がするのに、どうしてか眠気はやってきてくれない。
早く寝なきゃ明日に響いちゃう。
また体調が悪くなるかも、食べられない分睡眠だけでもとらなきゃ。
そう思うのに、焦りのせいかどんどん目が冴えていく。病院でもらった睡眠導入剤も、全然効いてくれない。
自律神経が乱れていると医者に言われたので、ゆっくりと呼吸することを意識してみる。深呼吸で副交感神経が優位になれば、リラックスできると教えてもらったから。
でも残念ながら、あまり効果は感じられなかった。深く息を吸い込んだことで、頭の中にあるメロディが流れ始める。
去年の定期演奏会。第二部、音楽劇。終盤に吹いたクラリネットソロだった。
会場全体に届きますように。何より、クラリネットの音がちゃんと出ますように、と。
祈りながら深く息を吸い込んだ、あの瞬間を思い出す。
これでは眠くなるどころか逆効果だ。
悪夢を見るほど何度も繰り返したメロディを、頭の中で反芻する。
あのソロは、本当に私でよかったのかな。私以外のメンバーが吹いた方がよかったんじゃないかな。
答えは出ないと分かっているのに、私は私を責め続ける。定期演奏会の前に戻れるなら、ソロなんてやりたくありません、と鯨井さんに言いにいくのに。
時間は巻き戻ってくれない。私が本番でソロを吹いた過去も。練習期間のほとんどの時間音が出なかったことも。そして、先輩からソロを奪ってしまった、という事実も、覆りようがなかった。
『あれ、菜穂のソロじゃないの?』
トランペットの菜穂先輩。朱莉の前の部長で、とびきり上手な人だった。当たり前のようにソロを任されて、特別なことじゃないって顔で吹いていた。
上手くてかっこよくて、菜穂先輩のそんなところに私は憧れていた。
『鯨井さんに吹いてみろって言われたとき、なんで鈴音は断らなかったんだろうね。本当はソロ、やりたかったんじゃない?』
そんなことない。私は菜穂先輩の吹くトランペットソロが好きだった。自分がそのフレーズを吹くところなんて、想像したこともなかった。
他の人だって、鯨井さんに吹いてみろって言われたら絶対吹いたでしょ。断れるわけがない。西館女子高校吹奏楽部にとって、指揮者の鯨井さんの言うことは絶対だから。
『なんでトランペットのソロをクラに渡すわけ?』
あのクラリネットソロは、元々トランペットの譜面だった。鯨井さんの思いつきで、クラリネットに変更されただけ。みんなの前で、唐突に。
クラリネットにも先輩はいたけれど、なぜか私が指名されてしまった。理由は今でも分からない。でも鯨井さんは「如月、代わりに吹いてみろ」と私を名指しした。
『如月ちゃんもさぁ、一年なんだから先輩のソロ渡されそうになったら普通譲らない? しかも他のパートの先輩のソロなのに』
私がやりたいって言ったんじゃない。私だって菜穂先輩が吹いた方がいいと思っていたし、先輩のソロが聴きたかった。
『遠慮とかないわけ?』
ソロなんてやりたくないよ。
『鯨井さん、なんで鈴音のこと贔屓してるの?』
知らないよ、鯨井さんに聞いてよ。
贔屓してほしいなんて頼んでない。特別扱いなんてしてほしくない。みんなと一緒でいい、みんなと一緒がいいのに。
『菜穂からソロ奪ったくせに、音が出ないとかふざけてんの? 練習してんの?』
してるよ……!!
一日中ソロのことばかり考えてた。ソロばかり練習していたら感じが悪いと思って、ソロの練習だけに集中はできなかったけど。他のどの曲よりも、ソロの表現について考えてた。
菜穂先輩の代わりに吹くなら、せめていい音楽にしよう、って。菜穂先輩が納得できるくらい上手くなろうって、必死だった。
でも焦れば焦るほど、プレッシャーを感じるほど、音が出なくなってしまった。
誰よりも一番、私自身がふざけんなよと思っていたはずだ。
なんで音が出なくなるの、あんなに練習したのに、たくさんイメージして、夢にまで見るのに、どうして音にならないの、って。
『いいよね、如月ちゃんは才能があって』
……才能なんて持ってない。
どんな音楽にしたいか、たくさん考えているだけ。寝る間も惜しんで、音楽のことを考えているだけだよ。
才能って言葉で簡単に片付けないで。
私だって頑張ってるよ、一生懸命やってる。
頑張る方向は、もしかしたらみんなと違うのかもしれない。それでも私なりの方法で、誰にも負けないように戦っている。
それを、才能なんて安い言葉にまとめないで。私が頑張っていること、認めてよ……。
どこで糸が切れたのか、もう覚えていない。
だけど私はあの頃、周りからの負の感情に耐えられなかった。
逃げればよかったのかもしれない。ソロはやりません、と鯨井さんに宣言すれば解放されたかもしれないし、そもそも部活を辞めてしまえば私の悩みなんてないに等しいものだ。
でも怖くて言えなかった。できません、やりたくありません、辞めます、と言ったら、居場所がなくなってしまう気がして。部内どころか、学校にも行くことができなくなる気がして、怖かった。
それは部活を辞めることよりも、私にとって、『怖くない』方法だった。
怪我をすること。部活を休む正当な理由があれば、誰にも責められないから。
部屋にあるピンクのカッターナイフで、左腕を深く抉った。ぶつり、と音がして、見る見るうち血が溢れ出す。リストカット、と言われる行為をしたのは、初めてだった。
切る瞬間は全く怖くなかったのに、血が止まらなくなったのを見て、急に怖くなる。
このまま血が止まらなかったらどうしよう。私が死んだら、誰か、悲しんでくれる…………?
ゾッとした。
鈴音、自殺したらしいよ、とお葬式で笑われる自分を想像してしまって、必死に傷口をタオルで押さえた。あっという間に真っ赤に染まって、タオルは使いものにならなくなってしまった。
ようやく出血がおさまる頃には、左手の指先は冷たくなっていて、私の身体は小刻みに震えていた。いつのまにか泣いていたみたいで、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃ。
タオルをそっと離してみると、皮膚の間からピンク色の肉が覗いている。気持ち悪くて、汚くて、でも不思議と痛みは感じなかった。
傷口を眺めながら、私はぽつりと呟いた。
「…………生きてる」
生きているから、お葬式で笑われずに済む。
でも生きているから、苦しみから逃げられない。
誰か助けて。
胸の内で叫んだけれど、誰にも届かない。腕は痛くないのに、不思議と胸のあたりがぎゅうと痛んだ。



