家に着くと、羽島を玄関の外に残したまま私は自分の部屋へ急ぐ。

 定期演奏会のDVDは、記憶していた通りちゃんと本棚の端っこにしまわれていた。
 しまってから一度も取り出していなかったDVDケースには、うっすら埃が被っている。ウェットティッシュで汚れを落としてから、やわらかいタオルでさっと表面を拭く。

 それから部屋の中を見回して、ピンクの巾着袋を手に取った。
 修学旅行で京都に行ったときに、自分へのお土産として購入したものだ。ちりめんの布地も、巾着の形もかわいくて気に入っている。でも大きすぎて使いにくくて、日常使いはしていない。
 試しにDVDケースを入れてみると、巾着袋にすんなり入ってくれた。さすがにちょっとケースの方が大きくて、頭が飛び出ているけれど、そのくらいはご愛嬌だろう。

 急いで玄関まで戻ろうとして、私はちょっとだけリビングに寄り道をする。戸棚の中にはお母さんが買ってきてくれたお菓子がいくつか入っている。ドーナツとおせんべいを取り出して、私は今度こそ玄関に向かった。

「お待たせ、羽島」
「あった?」
「ちゃんとあったよ」

 ピンク色の巾着袋を受け取って、羽島は何よりも最初に「ピンクの袋で渡すなよ」と渋い顔をした。
 金髪にピンクのインナーカラーを入れているくらいだから、羽島はピンク色が好きなのかと思っていた。でもどうやら、そういうわけでもないらしい。

「羽島だって、髪の毛ピンクじゃん」
「俺のは女子ウケ狙ってんだよ」
「え、モテなそう……」

 つい口からこぼれた言葉に、羽島は「おいこら」と不満気な声を上げる。
 帰り道に羽島ってモテそう、と思ったときは言えなかったくせに。反対の言葉はすんなり口から出てきてしまうのだから、私の性格に問題があるのは間違いなさそうだ。


 羽島の機嫌はすぐに直った。巾着袋からDVDを取り出して、目を輝かせている。
 「おお……本物……」と羽島が嬉しそうに呟くので、私は思わず笑ってしまった。

「中身は偽物かもよ」
「え。違ったら夜中にめっちゃピンポンするけど」

 想像すると、ちょっとおもしろい。
 定演のときのクラリネットソロをやけに気に入っているから、ケースの中身が違ったら羽島は確かに怒りそうだ。わざわざ夜中に家までやってきて、玄関の呼び鈴を連打するところまで簡単に想像できてしまった。

「冗談だよ。一度も開けてないから安心して」
「え。俺が最初に開けんの?」

 それはさすがに、と躊躇する羽島に、私は続けて言葉を投げかける。

「返すのも、いつでもいいよ」
「マジ? 何回か観ていい?」
「好きにしたら? 私はどうせ観ないし」

 定期演奏会の映像なんて見てしまったら、絶対に苦しくなるに決まっている。ただでさえトラウマのように頭にこびりついているのに、わざわざ見返したりなんて、できるわけがない。
 事情を話したわけではないから、羽島はそんなことを知るはずもない。思い出を振り返らない冷たい女だと思われているかもしれないけど、それでもよかった。

 羽島がそれ以上何かを言う前に、私はリビングから持ってきたお菓子を羽島に押し付けた。

「あげる、家に帰るまでにお腹減っちゃうでしょ」

 羽島の手の上に乗せると、ドーナツもおせんべいもやけに小さく見える。足りるかな、と思ったけれど、私はすぐに思い直す。
 おやつでお腹が満たされてしまったら、夕飯が食べられなくなってしまう。足りないくらいできっとちょうどいいはずだ。

 手の上のお菓子をまじまじと眺めて、羽島は「如月の夜食、なくならない?」といらない心配をした。
 夜食なんて食べないよ、と私が答えると、夜中勉強するときに腹減らねえのか……と羽島が呟く。

 さすが進学校に通うだけあって、夜中まで勉強するのは羽島にとって普通のことらしい。しかもそこに夜食もセットになっているというのだから、私とは大違いだった。

 朝も昼も夜も。お腹が痛くなることに怯えて、まともに食事をしていない。夜食なんて口にしたら、きっと胃が驚いてしまうに違いない。
 正直、好きな時間に好きなものを食べられる羽島のことが羨ましい。こんな体質になる前は、ドーナツもおせんべいも大好きだったのに。今は何かを口にするとき、おいしいかどうかよりも、お腹を壊さないかを考えてしまうから。

 私がしばらく黙っていると、羽島は「そろそろ帰るわ」と言って自転車に乗る。DVDの入った巾着袋は、大事そうにスクールバッグにしまわれた。

「気をつけてね」
「おー」

 そっけなく返事をした羽島が、ひらひらと手を振って自転車で走り出す。しばらく背中を見送っていると、急に自転車が止まって、羽島が戻ってきた。

「なに、忘れ物?」
「いや……。DVD、観たら感想言うから」

 それだけ、と言い残して、羽島は再び去っていく。今度は戻ってくることなく、曲がり角で大きな背中は見えなくなった。