私から提案したとはいえ、羽島と二人で家まで帰るのはなんだか変な感じだった。羽島は何を考えているのか分からないし、私は少し緊張している。
 仲がいいわけでもない男子と二人で並んで歩くなんて、緊張しないわけがない。

 うちまで取りにくる? なんて言うんじゃなかった。
 しかも沈黙が続いているから、かなり気まずい。この気まずさを取り除くために何か話そうと思ったけど、気の利いた話題も思い浮かばない。
 羽島も気まずいと思っているだろうな、と思うと、なんだか申し訳なくなってしまう。少し前を歩いているので、羽島の表情は私からは見えなかった。


 まだ一緒に練習したのも二回だけで、羽島のことを私はよく知らない。でもたぶん、優しい部類に入るのだと思う。
 体調が悪いところを助けてくれたし、泣いていたことに気づいてさりげなくフォローしてくれたから。

 羽島に関して知っていることは何かな、と私は考えてみた。
 名前と学年、通っている高校、担当楽器。あとは西女の去年の定演を聴きにきてくれて、クラリネットソロをやけに気に入ってる。
 その程度の情報しかないのに、二人で一緒に帰っているのだから、なんだか変な話だ。


 自転車を押しながら、しかも楽器ケースも背負っているのに、羽島の一歩は大きい。
 私はスクールバッグしか持っていないくせに、早足にならなければいけなかった。

 ゆっくり歩いて、とお願いするのはためらってしまう。私は家に帰るだけ。でも羽島は私の家までDVDを取りに行った後、自分の家まで帰らなければいけないから。
 羽島の家の方向も知らないな、と私が考えていると、ふいに羽島が口を開いた。

「如月ってクラリネットいつからやってんの」
「中学一年からだよ。羽島は?」
「俺は高校」

 中学のときは違う部活だったらしい。そうなの? と私は驚きの声を上げてしまった。
 木管のリーダーだし、合奏やパート練習で羽島の音を覚えている。上手いなと思ったから、印象に残ったのだ。

「じゃあかなり努力したんだ」
「あー。……いや、普通に練習はしたけど」
「なにその反応」
「いや、文脈的に褒められてんのかなって」

 褒められるのは嫌なのかな。
 ちょうど明かりの多い通りだったから、羽島の耳が赤く染まっているのが見えてしまった。ただ照れているだけらしい。

「如月は、考えて練習してる人の音がするよな」
「…………なにそれ?」
「褒めてる」

 私が首を傾げると、羽島は振り返って笑った。
 褒められるのは苦手なのに、褒めるのは照れないなんて、羽島は変わっている気がする。
 ちょっと恥ずかしくなって、私はふいと横を向いた。


 急に羽島の一歩が小さくなった。私が頑張って速く歩いているのに気づいたらしい。
 羽島ってモテるでしょ、と言おうと思ったけど、やめておいた。それを指摘したら、私が羽島に好意を抱いたみたいに思われてしまう気がして、少し恥ずかしいから。

 代わりの話題を探そうと思ったけど、思いついたのはやっぱり吹奏楽に関するものだけだった。

「なんで羽島は、テナーを選んだの?」

 他にもいろいろ楽器はあるのに、どうしてテナーサックスなのか。なんとなく気になって訊ねたら、羽島は「テナーかっこいいじゃん」と即答した。

 ちなみに私がクラリネットを選んだのは、他の楽器が合わなかったからだ。

 金管楽器はマウスピースで試しても音が出なかったし、リズム感が皆無だからパーカッションもできない。
 私のいた中学は、吹奏楽部の人数が少なかったので、オーボエはいなかった。木管楽器の中で、フルートには肺活量が足りないと言われてしまい、選択肢はクラリネットとサックスしか残らなかった。
 サックスとクラリネットを比べたときに、私はどちらかといえば高い音の方が好きだから、クラリネットを選んだ。そんな面白みのない理由だった。

 訊かれたら恥ずかしいなと思ったけれど、羽島は私がクラリネットを選んだ理由を訊いてこなかった。

「鯨井さんって、どんな人?」

 代わりに投げかけられたのは、脈絡のない質問だった。突然出てきた鯨井さんの名前に、私は動揺してしまう。鯨井さんに対して苦手意識が強いせいか、名前を聞いただけなのに身体がこわばった。

「鯨井さん、は……すごく上手いし、合奏でも足りないところを的確に言い当ててくる人だよ」

 かなり怖いけど、と私は心の中で言葉を付け足した。

 プロの奏者だから、上手いのは当たり前なのかもしれない。
 鯨井さんは音楽に対して絶対に妥協しない。いつだって限られた時間の中で、最高の演奏を目指そうとする。だからこそ、プロなんだと思う。

 技術も表現力も足りない西女の吹奏楽部は、しょっちゅう怒鳴られている。私を含め、鯨井さんに泣かされたことのあるメンバーも少なくない。私は恐怖が勝ってしまっているけれど、みんなは鯨井さんのことを盲信している。鯨井さんの指示通り吹いていれば、最高の音楽ができると信じているから。

 でも、それは口にしなかった。言葉にしたら、羽島を不安にさせてしまうかもしれない。
 今回の合同演奏会と合同練習は、相楽のメンバーにとって、プロに指揮を振ってもらうチャンスなのだ。それなのに私のせいで、羽島が鯨井さんを信頼できなくなってしまったら、申し訳なくなってしまう。

 私の心のうちを知らない羽島は、ふーん、と小さく呟いた後、びっくりすることを口にした。

「如月は鯨井さんのこと、あんまり好きじゃねえんだな」
「え……?」
「まあ別に、どっちでもいいけど」

 驚いて足を止めてしまった私に、帰らねえの? と羽島が言う。誰のせいで足を止めたと思っているんだ、と心の中で毒づいて、私は慌てて歩き出した。
 羽島は鯨井さんについてそれ以上何も訊いてこなかった。