涙が止まり、トイレから出る頃にはカーディガンがぐしゃぐしゃになってしまっていた。袖を軽く引っ張ってみたけれど、不自然に左腕だけしわが残ってしまった。
気にならないわけではないけれど、どうせみんなは私のことなんて気にしていない。少し拗ねた気持ちで練習部屋に戻ると、みんなが合奏室に移動するところだった。
「鈴ちゃんこの後一曲合わせるって」
「……鯨井さんが来たの?」
「ううん。来てないけど合わせておこうって、朱莉ちゃんが」
勝手に決めないでよ、と思うけれど、私が席を外していたせいかもしれない。私はため息を飲み込んで、さっき突然逃げてしまったことを亜美に謝る。
「あの……亜美、ごめんね。さっき、私、急に練習抜け出したりして……」
「本当だよぉ。びっくりしちゃった。でも鈴ちゃん、朝から体調悪そうだった、ってみんなには言っといたから」
「……ありがとね」
また泣いてしまいそうになりながら、私は合奏室に移動する準備を始めた。
鯨井さん不在で合奏をするときは、コンサートマスターの私が中心になって進める。スコアブックを見ながら準備をしていると、何やら視線を感じた。目線を上げると、サックスパートのところで、派手な金髪が突っ立っている。羽島がなぜか椅子に座ることなく、私を見つめている。
ファーストクラリネットのトップは、最前列の一番端。テナーサックスの羽島の席は二列目で、ちょうど私が視界に入る位置ではある。
それでもどうして見られているのか分からなくて、私は首を傾げた。少し離れているから声をかけても届かないだろうし、わざわざ席を立つのも億劫だったから。
羽島は口をとがらせて、何か言いたげな顔をしたけれど、私の方には来なかった。そしてなぜか身を翻し、後方に座るトランペットの水沢くんの元へ行ってしまった。
何だったんだろう。
少し気になるけれど、再びスコアブックに意識を戻す。すると今度は水沢くんから声をかけられた。
「如月さん、俺が進行してもいい?」
「え……?」
「もちろん如月さんにいろいろ訊きながらになるし、意見も仰ぐけど、それでもよければ」
「あ、ありがとう……」
水沢くんの提案に、私はためらいながらも甘えてみることにした。また大橋くんに何か嫌味でも言われたらと思うと怖かったから。それに、嫌味じゃなくても、今はため息をこぼされただけでも、泣いてしまう気がした。
合奏の最初に水沢くんが前置きを入れてくれたおかげで、私は朱莉に睨まれずに済んだ。
「本来ならコンマスの如月さんが進行すると思うんだけど、俺も部長としてみんなの顔を早く覚えたいので、今日は無理言って進行を代わってもらいました。至らないところがあったら改善するので気兼ねなく言ってください」
合奏の進行を代わってくれた理由は、本当にみんなの顔を覚えたいからなのかもしれないし、違うのかは分からない。でも誰も疑問を抱かないように、そして私がサボっているように見えないように前置きをしてくれたのは、間違いなく水沢くんの優しさだった。
今日合奏することになったのは、まだみんなで合わせたことのない曲だった。クラシック曲だけど比較的難易度は低め。
演奏しながら頭の中で注意点を控えていく。増えていく注意点にどんどん気が重くなっていったけれど、いつものように私一人で全てを言うことにはならなかった。
演奏を止めるたびに、水沢くんは自分がまず注意を言った。その後、木管と金管のリーダーである羽島と朱莉に演奏の注意点を言ってもらったのだ。
私に順番が回ってきたときには、三人のセクションリーダーからの注意が挙がった後。さすがに技術面はほとんど指摘する部分がなくなっていた。
水沢くんの進行が上手いからか。それともセクションリーダー三人の協力のおかげか。
大嫌いな合奏も、いつもより負担少なめに終えることができた。
合奏が終わってすぐ、私は水沢くんの元へ急ぐ。進行を代わってくれたこと、注意を言う順番を一番最後にしてくれたこと、どちらもお礼がしたかったから。
でも水沢くんは爽やかに笑って、「俺より羽島にありがとうって言ってあげて」と言った。
「羽島? なんで?」
「合奏の進行代わってやれって急に言われてさ、なんでって訊いたら、すごい渋い顔で言ってたよ」
如月、泣いた後みたいな顔してる。って。
私が慌てて顔を隠すと、水沢くんは声を上げて笑う。
「さすがにもう分かんないよ」
「う……そうだよね」
泣いたことがバレていただけでも恥ずかしいのに、その上変な反応までしてしまったから、なんだかいたたまれない。
でも水沢くんのおかげで、合奏前の羽島の視線の意味が分かった。私はそのまま羽島のところに行って声をかけた。
「羽島。ねえ、羽島」
周りに楽器の音が溢れているせいか、名前を呼んでもすぐには気づいてもらえなくて、私は羽島のカーディガンの裾をつんとつまむ。もちろん、すぐに離したけど。
羽島は勢いよく振り返って、目をぱちぱちさせた。さっきの私の声は本当に聴こえていなかったらしい。
「びびった。なに?」
「ごめん、びっくりさせるつもりじゃなかったんだけど……」
羽島が驚いた顔をしているので、私は思わず謝る。私の言葉に、羽島は少し身を屈めた。
「なんて?」
「そんなに聞こえない? 耳、遠くない?」
「遠くねぇよ。でも合奏の後だし」
「別に合奏の後でも聞こえづらくなったりしないよ……」
私が苦笑すると、羽島の表情が緩んだ。笑った拍子に金髪の内側からピンク色の髪が見えて、思わず目を奪われてしまう。
派手な髪だし、絶対に自分で染めたいとは思わない色だけど、羽島の髪色はかわいい。
羽島が私の視線に気づいてしまったので、私は慌てて羽島の髪から目を逸らした。かわいい色なのは確かだけど、あまり見つめていると変な誤解をされてしまいそうだ。
「……で、なに」
相変わらず言葉は少ないけれど、羽島の声色は案外優しい。それに私の声が聞きやすいようにまだ屈んだままなところにも優しさが表れている。
羽島は背が高いから、ちょっと中腰がキツそうだった。なるべく早めに話を終わらせてあげないと、気を遣ってくれている羽島になんだか申し訳ない。
「さっき、ありがとって言いにきただけ」
「さっき?」
全くピンときていない様子の羽島に、合奏、水沢くん、と一つずつ関連ワードを挙げていく。途中で話が繋がったのか、「あー」と呟いて羽島が目線を彷徨わせる。それから別に何もしてないけど、と言った羽島の耳は、しっかり赤く染まっていた。
お礼を言われると照れてしまうタイプなのかもしれない。私は小さく笑みをこぼして、羽島に話を合わせることにした。
「うん、何もしてなかったとしても、私が羽島にお礼を言いたかっただけ」
「ふーん」
「…………うん。じゃあ、またね」
クラリネットを持ったまま手を振ると、羽島が私を呼び止めた。
「定演のDVD」
「えっ、ごめん。完全に忘れてた……」
「まじかよ……」
羽島に言われるまで、私はすっかりDVDを貸す約束を忘れてしまっていた。
いい思い出がないせいか、家で定期演奏会の映像を観ることはない。顧問がせっかく編集してプレゼントしてくれたのに、開封すらしていない。本棚の隅にひっそりとしまわれていて、普段は視界にすら入らない。
定期演奏会のことはトラウマのようにしょっちゅう思い出すから、個人的にはそれでいいのだけれど。
でも羽島は、大きな身体が一回り小さく見えるくらい、背中を丸めて落ち込んでいる。
私としては軽い約束のつもりだったけれど、羽島はかなり楽しみにしていたらしい。
そんな姿を見れば、私にも罪悪感は生まれる。
「ごめんってば。次……えっと、水曜日に絶対持ってくるから」
「絶対忘れるやつじゃん」
合同練習はこれからも続くから、次回の練習のときに、と思ったけれど、羽島は拗ねてしまっている。
本当に、あのソロをもう一度聴きたいと思ってくれてるんだ……。
苦しかった思い出ばかりで、どんな演奏をしたのか、私はよく覚えていない。
だけど羽島がもう一度あの演奏を聴きたいと思ってくれているのは、素直に嬉しかった。
「羽島さえよければうちまで取りにくる?」
さすがにそれは、予定していた言葉ではなかった。
よく考えずに紡いでしまった言葉に、私は慌てて口を押さえる。それから「今のなし」と訂正しようとしたけれど、羽島の答えの方が早かった。
「行く」
「まって、違うの、今のは」
「行く。今日聴きたいし」
「待ってってば……」
目を輝かせて前のめりになる羽島は、案外分かりやすい。
第一印象はぶっきらぼうで怖そうな感じだったのに。今目の前にいる羽島は、大型犬にしか見えない。ちぎれそうなくらいぶんぶん尻尾を振っているわんちゃん。たぶん、ゴールデンレトリバー。
大型犬だと思うと、前回の顔合わせのときの態度もなんとなくしっくり来る。初めて見る人間を警戒しているわんちゃんだ。私のおばあちゃんの家にも犬がいるから、簡単に想像できた。
本当に取りにくる? 面倒じゃない? と私が訊ねると、羽島は眉を下げた。
「家に上がりたいとか言わねえから……ダメ?」
強引なのか優しいのか、よく分からない。
たぶん、両方だ。
定演のDVDは借りたいけど、私の家まで取りに行くのは迷惑かもしれない。でもやっぱり借りたい。羽島の心の葛藤が全部顔に出ていて、私は思わず小さく笑った。
「いいよ、本当に羽島さえよければね」
羽島は目をまたたかせた後、「行くって言ってんじゃん」と笑ってみせた。



