西館女子高校と相楽高校の吹奏楽部合同練習は、決まった曜日にやることになった。
 月曜日、水曜日、土曜日の週三回。さすがにテスト期間や本番が近くなってきたら変更もあると思うけれど、当面はこの頻度で合同練習をするみたいだ。

 鯨井さんは外部講師なので、毎日教えにくるわけではない。水曜日は西女のために予定を空けてくれているので、鯨井さんは必ずやって来る。
 でも他の日は、いつ鯨井さんが来るのか、私たちには分からない。教えにきてもらえるのはありがたいことだけど、常に心の準備をしておかなければいけないのは、実は結構しんどかったりする。

 特にこれからは、相楽との練習もあるので、鯨井さんが来る頻度は上がりそうな気がした。
 他の部員たちは喜びそうだけど、正直私にとっては気が重い。


 また月曜日がやってきた。
 一週間の始まりの曜日なので、私の心は憂鬱だった。これから五日間、授業も部活もあると思うとかなりしんどい。
 でも私の気持ちが落ち込むのは、何も月曜日だけではない。火曜日と木曜日は苦手な体育があるし、水曜日は鯨井さんが絶対にやってくる。金曜日になれば『土日は部活が長いから嫌だな……』と思うし、土日はもちろん長時間部活に拘束される。しかも土日は高確率で鯨井さんが教えにくるので、私はコンマスとしてみんなの代わりに怒られるのだ。
 そうして心身ともにへとへとになって、一週間が終わる。

 結局一週間のうちに、私の楽しみなんて一つもない。それどころか毎日の部活で、心はどんどんすり減っていっていく。
 今日も朝からすごくお腹が痛くて、朝練に少し遅刻してしまった。朝練は強制じゃないけれど、実際は参加が当たり前になっている。だから私が遅れて桜記念館に入っていくと、誰かが小さな声で「遅刻じゃん」と呟いた。

 直接言ってくれれば、私も何か言うことができた。言い訳にしか聞こえなかったとしても、「出かけ間際に体調悪くて遅れちゃった」と説明できる。もちろん、謝ることだって。
 でもぽつりと呟かれた言葉は、私の主張を求めていないみたいだった。
 そんな小さなことなのに、私の心には鈍い痛みがたまっていく。誰にも聞こえないくらい小さな声で、もういやだなぁ、と呟いた。



 夕方になると、相楽の部員たちがやってきた。二回目だからか、部員たちの表情はやわらかい。
 コンマスとしてパート練習を見て回ると、前回よりも全体的に雰囲気がよくなっているのが伝わってきた。
 すでに結構仲のよさそうなパートもあって、フルートとトランペットパートは特に楽しそうだった。フルートは西女の中でもコミュニケーション上手な子が集まっているし、トランペットは相楽の部長の水沢くんが架け橋になっているみたい。

 見回りを終えてクラリネットの練習する部屋に戻ったけれど、私は足を踏み入れるのをためらってしまった。
 ようやく私も練習できると思ったのに、クラリネットパートは何やら空気が重い。
 戻りました、と私が声をかけると、相楽のクラリネットのトップである大橋くんに睨まれた。前回の私の発言を根に持っているのか、コンマスの件でライバル視されているのかは分からない。どちらにせよあまり私のことをよく思っていないらしい。

 クラリネットパートの雰囲気がよくないのも、もしかしたらそのせいかもしれない。大橋くんのいらいらした様子につられて、みんな少し気が立っているように見える。
 でもたとえ空気がピリピリしていても、練習が始まれば私はみんなに注意を言わなければいけない。それがコンマスの責任だから。

 なるべく気にしないようにしていたけれど、私が何度目かの注意を言うと、大橋くんはついに返事をしなくなった。そして代わりに小さく吐き捨てられた言葉。

「……人に言えるほど上手くないくせに」

 大橋くんの言葉に、私は息を飲んだ。

 何か言った? とパートリーダーの亜美が訊いて、相楽の一年生が「俺じゃないです」と答える。首を傾げているメンバーもいる。
 低く呟かれた声を正確に聞き取れたのは、隣に座る私だけだったのだ。

 大橋くんの悪意ある言葉は、どう考えても私に向けられたものだった。
 目頭がじんと熱くなって、唇を噛む。こみあげてきた涙を堪えようとするのに、どうしても溢れてしまいそうになって、私は慌てて席を立った。

「え、鈴ちゃん? どこ行くの!?」

 大橋くんの嫌味が聞こえなかった亜美には、状況が分からないのだろう。動揺する声が聞こえたけれど、私は振り返れなかった。

 部屋を出て扉を閉めた瞬間に、涙がぽろっとこぼれ落ちる。カーディガンの袖で涙を拭いて、誰もいない廊下で「分かってるよ」と私は呟いた。


 コンマスをやるには私の実力が足りていないことも。みんなに注意できるほど上手じゃないことも。
 私が一番よく分かっている。
 でも、これ以上どうしろって言うの。

 自分の練習がしたくても、部員みんなの練習を見ておけ、と鯨井さんに任されている。練習時間を削ってみんなが上手くなるようにと思うのに、多人数だから思うようにいかない。結局誰かが合奏で怒られれば私の責任になって、ちゃんと見ておけよとか、教えてやれよとか責められる。

 でも、私だって練習したい。もちろん朝練も、お昼も、普段の練習だって手を抜いているつもりはない。だけどみんなより練習時間が足りないのは、誰の目にも明らかだった。
 好きで言っているわけではないのに、練習で注意を言えばみんなから嫌われていく。言わなければ鯨井さんに怒られるし、注意を言っても部員の不満を買ってしまう。どちらを選択しても私にはデメリットしかない。

 そうするとストレスがたまって、分かりやすく体調に表れた。頻繁にお腹が痛くなって練習を抜け出さなきゃいけないし、ご飯が食べられないから体力も落ちていく。不調続きだから、休んでしまうこともあった。
 だけどしょっちゅう体調を崩しているせいで、部員からはサボりだと思われているみたいだ。休み明けに謝ったときの、みんなの目が冷たい。
 なるべく休まないように体調を整えよう、と思うけれど、早く帰れば嫌味を言われてしまう。部活から離れることでしか心を休める術がないのに、離れることを許されていないみたいだ。

 極めつけは大橋くんのさっきの言葉。
 上手くないくせに、という嫌味に、何も言い返せなかった。
 あんたより上手いからと言えればよかったのに。自分にはそれほど実力がないと分かっているから、何も言えない。図星だから、ぐさりと心に刺さってしまったのだ。


 一つ一つの出来事は小さいかもしれない。でも、私の心の中でどんどん積み重なって、もう手に負えなくなってしまっている。

「…………どうしたらいいか、分かんないよ……」

 逃げるようにトイレに駆け込んだけれど、誰も追いかけてきたりはしない。
 亜美も、クラパートのみんなも、私が練習を抜け出しても、たいして気に留めないのかもしれない。もしかしたら、またかよと思われている可能性すらあった。

 心配してほしいとまでは言わないけれど、何かあったの? くらいは訊いてほしい。
 みんながいろいろ思っているように、私にもたくさん思っていることがあるのに。私が抱えているものを、誰も気にかけてくれない。誰も聞いてくれないから話せなくて、私も自分から発信する方法が、分からない。


 ずっとこのままなのかな、と考えて、私の胸の中に苦しさがこみあげる。

 仲間であるはずのみんなを敵みたいに感じながら、これからも一人で頑張り続けなきゃいけないのかな。
 それっていつまでだろう。
 部活を引退するまで? 
 まだ二年の秋。あと一年近くも、この苦しさの中で耐えなきゃダメ?
 もっと早く、ここから抜け出す方法はない?

 土砂降りの雨に打たれているみたいに、苦しくて息ができない。
 目印のない、月も見えない、夜の暗闇に迷ってしまったようで、心細くてたまらない。
 
 いつか明けるなら、今明けてよ…………!

 心の中で叫びながら、私はぎゅっと左腕を掴む。痛いくらいに握りしめると、少しだけ心の痛みが誤魔化される気がした。