「これが西女の去年と今年のコンクールのDVD。相楽のも、音源があったら借りてもいい?」
「もちろん。部にあるから持ってくるよ」

 部の備品であるコンクールのDVDは、本来なら貸し出すことはない。でも今、コンクールのDVDが相楽の部長である水沢くんに手渡された。
 合同演奏会の相手だし、部長の朱莉がいいって言うから、たぶん特例なのだろう。

 隣に立つ羽島からの視線を受けながら、私は朱莉と水沢くんのやり取りを眺めていた。

 定期演奏会だけじゃなくて、コンクール曲も聴きたいな。

 水沢くんがそう言ってくれたので、私はこれ幸いと話を逸らしてみた。
 一年生のときはコンクールメンバーじゃなかったから、去年のDVDは持っていないんだよね、朱莉なら持ってるかも、と。
 定期演奏会ではなくコンクールに話をシフトして、朱莉に話をパスすることで、上手く逃れたつもりだった。


 でも羽島はかなり頑固な性格らしい。私の隣に立って、物言いたげにじっと見つめてくる。目力が強い上に背が高いから、羽島からの圧はやけに強く感じた。
 結局私は耐えきれなくなり、ため息をこぼす。

「答え教えるなって言ったのに、定演のDVDを観たがるのはズルくない?」
「舞台の照明落ちてたろ。役者しかスポットライト当たってなかったし」

 そこまで覚えてるなら、わざわざ観なくてもいいじゃん。
 私が呟いた言葉に、羽島は首を傾げる。

「いや、普通にもう一度聴きたいだけなんだけど」
「えっ?」
「好きだし、あの演奏」
「…………え、? 演奏にクレームつけたいんじゃないの?」

 思わず目をまたたかせる私に、羽島は初めて声を上げて笑った。

「わざわざ奏者探してまで、他校の演奏にクレームつけねえだろ」

 本当におかしそうに羽島が笑うから、私は自分の勘違いに恥ずかしくなってしまった。
 隣で話を聞いていた朱莉も、「私はちゃんと分かってたよ?」と笑う。水沢くんに至っては、「羽島はあのクラリネットソロのファンだもんね」と言った。

 羽島の言葉と、水沢くんの口にしたファンという単語。二つを頭の中で繰り返して、じわじわと私の頬が熱くなってくる。

「そんなこと言われても……家に帰らないとDVDないし……」
「じゃあ借りに行っていい?」
「今から!?」

 たぶん、私の顔は真っ赤に染まっている。
 私の反応で気づいても良さそうなのに、羽島は平然とした様子でDVDを求めるから、気づいているのか分からない。

 水沢くんがぼそっと「なるほど?」と呟いて、朱莉にそっと耳打ちをする。朱莉はくすくすと笑いながら何かを答えたみたい。
 きっと水沢くんは、クラリネットソロの正体が私だと気づいて、朱莉に確認したんだと思う。

「いいじゃん、鈴音。貸してあげなよ。家にあるでしょ定演のDVD」
「朱莉までそういうこと言う……」

 まだ私は貸すと言っていないのに、羽島は急いで楽器を片付けている。DVDを貸す約束をするまで、羽島は引いてくれそうになかった。
 私は小さなため息をこぼし、テナーサックスをケースにしまう羽島に声をかけた。

「次回の練習のとき、持ってくるから」
「……了解」

 羽島はやわらかい笑みをこぼす。
 西女の演奏をもう一度聴けるのが嬉しいと思ってくれていること、嬉しい気持ちもあるのに、少しだけ心の中がざわついている。

 それはたぶん、あの演奏会にいい思い出がないからだ。




 暗転したステージ。主役のこっちゃんにスポットライトが当たる。感動のシーンの数秒前。観客は舞台に見入って息をひそめている。

 私はクラリネットを構え、深く息を吸い込んだ。





「っ!!」

 目が覚めた瞬間、身体が酸素を求めるように必死で息をする。吸い込みすぎて咽せてしまったけれど、咳が出ることよりも、息ができなくなる気がしてこわかった。

 ようやく咳が落ち着いて、ちゃんと呼吸できていることが確認できると、強張っていた身体から力が抜けていく。

 少し時間が経つと、私は夢にうなされていたのだと理解できた。
 起きた直後は、夢と現実がごちゃごちゃに混ざってしまっていた。あの日にまた戻ってしまったのかと思って、軽いパニックになってしまった。

「……定演なんて、もう半年以上前のことなのに……」

 小さく呟いた声は、私の部屋の静けさに溶けていく。


 午前三時半。
 悪夢にうなされるのも、夜中に目が覚めるのも、珍しいことではない。ついでにそのまま眠れなくなってしまうところまでセットになっている。

 もう一度眠ろうと毛布を被るけれど、頭は冴えてしまっていた。たぶん、定演の夢のせいだ。
 頭の中をぐるぐると回るのは、あの時期の記憶。


 大きなキャパシティのホールに、広々としたステージ。ステージに置かれているのは、音楽劇で使う打楽器と舞台小道具だけ。

 劇の見せ場になる感動のシーンだけど、繊細な表現にしたいからという理由で、演奏担当はたったの三人だった。
 メインメロディを吹くソロクラリネット、対旋律を奏でるアルトサックス、メロディに深みを与えるマリンバ。私以外の二人は、二年の先輩だった。

 三小節の前奏。これは本当に私の音だけ。
 ステージ上どころか、会場内に私のクラリネットの音だけが響く。前奏が終わると、アルトサックスとマリンバも演奏に合流する。

 もちろん劇だから、主役はお芝居の方だ。でも普通の劇ではなくて、音楽劇。そして私たちは吹奏楽部だから、お芝居は本業じゃない。こっちゃんたちは一生懸命演じてくれていたけれど、観客の心を動かせるかは、演奏を担当する私たちにかかっていた。
 

 定期演奏会でのプレッシャーがよみがえり、ちくちくとお腹が痛くなる。

 この音楽劇が泣けるかどうかはおまえらの演奏次第だよ、と鯨井さんはあの頃よく言っていた。お前たちと鯨井さんは言ったけれど、その目が私だけを捉えていることに、私はちゃんと気づいていた。

 主旋律の私が上手く吹けるかどうか。
 アルトサックスやマリンバの先輩は主旋律じゃないから、音楽を示すのは私じゃなければいけない。実際に先輩たちは私の示そうとする表現に合わせてくれていたし、技術も表現力も申し分なかったと思う。

 でも私はこわくてたまらなかった。

 表現の仕方は合っているのか。
 こっちゃんや先輩たちが作り上げた音楽劇を、私のソロで邪魔をしていないか。
 感動に繋がる音楽になっているのか。

 何度練習しても、頭の中でイメージを繰り返しても、不安は消えなかった。

 だって、私のソロがコケたら、せっかくの音楽劇が全てダメな印象になってしまう。二部構成の定期演奏会、その半分近くを台無しにしてしまうかもしれない。

 恐怖と不安。責任感に重圧。
 私の弱い心は、演奏に顕著に現れた。音楽劇のソロを吹こうとすると、クラリネットの音がかすれてしまうのだ。一度音が不安定になると、また失敗するかもしれないという不安で、どんどん演奏が崩れていく。悪循環だった。


 これは当時の西女吹奏楽部のメンバーしか知らないことだけど、定期演奏会の練習期間の半分以上。
 私は、音楽劇のソロのときだけ、クラリネットの音が出なかった。

 息を吸っていないわけじゃない。
 リードの調子が悪いわけでもない。
 何度も練習して。
 練習ではちゃんと音も出ていたのに。音が出るかどうかなんて初歩的なところで躓いている場合ではなかったのに。
 どう表現するか寝る間も惜しんで考えていた。夢に見るくらいずっと考えていた。

 それなのに、私は吹けなくなってしまった。音楽劇の練習のとき、鯨井さんにソロを見てもらうとき。ステージの立ち位置などを確認する、ホールを貸し切った練習のときも。本番前日の全曲通しリハーサルのときだって。

 私がソロを吹かなければサックスもマリンバも演奏を始められないし、ステージに無音の時間が生まれてしまう。それなのに、いざというときの代役を用意されることもなく、ソロから降ろされることもないまま、私はステージに立っていたのだ。
 もしかしたらまた音が出ないかもしれない。そんな不安と、必死に戦いながら。


 強いお腹の痛みに襲われて、私はベッドの上でうずくまる。
 またお腹を壊してしまいそうだった。でもすぐにはその場を動くのが難しいくらい、ずきんずきんとお腹は脈打っている。

 自分自身を抱きしめるように身体を縮こめて、私は気を紛らわせようと視線を動かす。カーテンがわずかに開いていて、少し欠けた月が見えた。最近似たような色をどこかで見た気がする。痛みに冷や汗をかきながら月を見つめ、私はふと気がついた。

「羽島の髪の色だ……」

 自分で呟いた言葉なのに、なぜか笑みがこぼれる。派手な金色の髪だと思っていたけれど、意外と優しい色合いなのかもしれない。だって月よりも羽島の髪の色の方が、少しやわらかい印象を受けるから。

 じっと月を眺めていると、いつのまにかお腹の痛みが和らいでいた。月から優しい癒しの光を注いでもらったのかな。もしくは羽島のことを思い出して、あの言葉が脳内で再生されたからかもしれない。

『好きだし、あの演奏』

 今日初めて会った人の言うことを、どこまで信じていいかは分からない。でも私が苦しみながら吹いたあのソロは、確かに羽島の心に刻まれた。少なくとも、ソロの演奏者を探したいと思うくらいには。
 その事実をゆっくりと噛み締めながら、私はもう一度布団の中で目を閉じた。