ようやく合奏が終わる頃にはへとへとだった。疲れるのはいつものことだけど、今日は特別に心がすり減っている気がする。
 たぶん、合奏の途中で鯨井さんが余計なことを言ったせい。

『俺は今日相楽のみんなの音を初めて聴くし、みんなも西女のメンバーの音は初めてだろ? どっかワンフレーズずつ切り取って、一人ずつ吹いてみようか』

 にやにやしながらされた提案は、少し鯨井さんの意地の悪さも反映されていた。
 確かに演奏会に向けて、誰がどんな音を出すのか。どんな吹き方をするのかは把握しておいた方がいい。

 でもまだ西女のメンバーは譜面がさらいきれていないし、相楽のメンバーは慣れない環境に四苦八苦しているはず。
 わざわざ合同練習の初回にやらなくても、と私は思ってしまう。合奏室を見回すと、動揺が広がっていて、青くなっている人もいた。

 どこを吹くか指定しておいて、一人ずつ吹くのは次回にしてもいいんじゃないですか。

 私が鯨井さんに意見を言うと、伸び代を確認するためにも毎回聴くんだよと笑いながら返されてしまった。現状どれくらい吹けるか。そして前回の練習からどのくらい吹けるようになったか。毎回一人ずつ披露させられるらしい。

 結局鯨井さんが折れることはなくて、西女と相楽のメンバー合わせて六十人近くが、一人ずつ吹いていくことになった。ワンフレーズなので短いけれど、人数が多いのでとにかく時間がかかる。
 鯨井さんはときおりなるほどね、とか、ふーん、と呟きながら、メモをとっていたので、余計に緊張した。


 合奏が終わって全員で挨拶を終えると、今日の練習は終了になった。時刻は二十時。終わりはいつもより、少しだけ早い。

「九時半までは鍵開けておくので、相楽の人も練習していっても大丈夫ですよ」

 朱莉がそう言って周りを見回して声をかける。西女のメンバーはいつも通りだけど、相楽高校もほとんどの部員が居残りして練習していくみたいだった。

 みんなが練習する雰囲気の中、私はクラリネットの手入れをして片付け始めた。同じクラリネットパートの大橋くんは、目を見開いて私を見ている。コンマスのくせに練習していかないのかよ、という驚きと、若干の軽蔑が混ざった視線だった。
 もちろん大橋くんの視線は気になるけど、私はなるべく意識しないようにして帰る準備を進める。

「如月」

 ふいに低い声が私を呼んだ。振り返ると、羽島くんがじっと私を見つめている。
 もう帰るの? と責められるのかと思ったけど、羽島くんは全く別のことを口にした。

「定期演奏会のCDとかDVDってないの」
「えっ」
「去年のやつ」

 例のクラリネットソロの正体を探るためかもしれない。
 答えを言うなと羽島くんは言うけれど、定演のDVDを観るのはカンニングにならないのだろうか。

 私が答えに詰まっていると、どこからやってきたのか、部長の水沢くんが「俺も聴きたいな」と言い出した。

「西女の音楽の方向性とか、鯨井さんの指揮の感じを知りたいし。それに純粋に興味があるな」
「う……ある、けど……」
「如月、俺が訊いたときは答えなかったくせに」

 羽島くんが文句を口にするので、私はつい言い返してしまった。

「だって水沢くんは西女の音楽を勉強したいって目的だけど、羽島くんは絶対違うじゃん」

 私の言葉に、羽島くんは怒らなかった。
 むしろなぜか声を上げて笑うから、私は首を傾げてしまう。

「え……なんで笑うの?」
「いや? 敬語じゃなくなったなー、と思って」
「あ……」

 いいよ、敬語なんて使わなくて。それに呼び捨てでいいし。

 羽島くんの言葉は少しくすぐったく感じて、私は目線を泳がせる。
 そんな私と羽島くんを見比べて、水沢くんが優しく笑った。

「如月さん、やっと肩の力が抜けたね」
「え?」
「俺たちが来てから、ずっと緊張してたみたいだから」

 羽島パワーかな、と水沢くんがからかうと、羽島くんは水沢くんのことをこづいた。二人はかなり仲がよく見える。同じ部活で、打ち解けられる人がいるのは心強そうだ。
 少し羨ましく思いながら、私も水沢くんの冗談に乗っかった。

「羽島に絡まれすぎて、力抜けたのかも」

 男の子を呼び捨てにするのは初めてだったけど、なぜだか『羽島』という呼び方はしっくりきた。
 羽島は二、三回まばたきをして私をまじまじと見つめた後、照れたように目を逸らした。