夏休み中に何があったかを語りたくはない。
地味な部活動がぽつぽつあった。ボランティア部の表活動の真骨頂。
柳はユマニチュードケアを日々深めている。
舞斗に毎日触れているからかもしれない。
しつこく。優しく。舞斗の心を溶かす適切さで。
語りたくないのは嫌な記憶だからというのとは、真逆。
なんだか、思い出すと浮かれてしまいそうだから。
怒涛の勢いで付き合うことになった流れはとどまるところを知らず、舞斗の日々を渦巻くようにして絡め取っていった。
舞斗と北斗が見つめ合っていた現場に連れていけと柳が主張して、そのこだわり加減を何故か愛しいと思ってしまった舞斗が頷いたことであっと言う間に二人旅をすることになって。
京都に。
しかも2泊。しかも何故か母親も大賛成。
しかもの2連続。
息子の涙を引き出し、頑なに行きたがらなかった京都に行ってみようと思わせた男への信頼は厚いようだ。
北斗がかつて住んでいた場所は知らないし、今はどの空の下かも知らないし、知っていたところで会いたいとも思っていない。
さらに京都への旅は別にセンチメンタルジャーニーとかでもなくて、柳のワガママな子どもじみた欲望なんだと母親に言ったところで理解はされないだろう。
言わないけど。
あと、二人の関係性を母親に語る勇気は、まだ持ち合わせていない。
― 友達がいるから、あの部屋があるから、それだけで行き先を決める旅ってコンセプトのドミトリーがあるんだ。
夏休みに入ってすぐ。
柳がうっれしそうに旅のプランを一晩で練ってきて、駅前のスタバで耳打ちしてきた。
― ハリィノネドコロは、 “京都に住む友達の部屋” のような場所なんだってさ。2泊して一万ちょっと。安いよね。ここは「先輩の部屋」っていいよねって話から始まったらしいよ。
そう言って柳がプリントアウトしてきたドミトリーの写真を見せてきた。ハリネズミのイラスト。
…ハリネズミ?
― 部屋って、おもしろい本や楽器や意外な趣味が暴露されるモノが置かれてたりするじゃない?パジャマやファブリックのセンスとか見て相手への理解が深まるよね。
柳は舞斗の前では多弁になる。
しかも惜しげなく幸せそうな顔を見せてくれる。
― このドミトリーのオーナーが“ 気が合う人たちの溜まり場みたいなイメージもある先輩の部屋 ”っていいなって思ってコンセプト練ってるうちに“ 友達の部屋 ”って居場所を作ろうって結果になったんだってさ。
こうやって珈琲を飲みながらの柳のプレゼンに舞斗は押し切られ、8月には二段ベッドのお洒落な空間で寝泊まりして京都タワーサンドに行ってきた。
あの時の柳の行動力にはかなわない。
ハリネズミの名前が付くドミトリーの二段ベッドで。
ハリネズミのように捕獲されている男子高校生。
一線は越えなかったけど。
…たぶん。
ぎりぎりのところを攻められて死にそうには、なった。
なんでこんなことになってしまってるんだろう。
「杉山先輩〜。雰囲気かなり柔らかくなりましたね!」
「あ、俺も思いました!マッド先輩がマッドじゃない」
夏休み明け、朝夕が涼しくなっても昼間は暑いという暦だけ秋になった9月にLとRに指摘された。
舞斗の変化。
自分でも分かってる。
不思議と笑顔が増えた。気がつくと優しい気持ちになっている。なんだか心が軽い。
悔しいけれど、これが伊部の言っていた“ 恋か愛 ”なんだろうか。
なんだか伊部と柳に負けた気がして悄然とする瞬間もあるわけだけど、前みたいに頻繁に怒りが湧いてこないので呼吸のしやすい日々に転換された。
舞斗は大きく深呼吸をする。
部室の後ろに柳を手招きすると、柳はすぐに席を立って近寄ってきた。
舞斗は夏休み前だったら死んでもしなかったような行為をするようになっている。
人間って短期間でこんなに変わるものなんだ。
「柳。眼鏡かけてよ」
「…やだ」
「眼鏡つけてなくたってじゅうぶん翻弄されてるからさ」
「北斗パパに重ねられるのが嫌」
「パパって言うな!」
「…あ。久しぶりに怒ったね。杉山先輩?」
互いに「好きだ」と言ったわけでもないまま、周辺の言葉だけでじわじわと輪がせばめられるようにして恋人同志になった。
…恋人なんだよな?
付き合うって相手が異性じゃなくても恋人ってことで間違ってないよな。
恥ずかしいから、伊部には“ 恋か愛 ”問答以降、相談できない。
でもきっと、伊部なら察してる。
怒った舞斗をからかうように、小さな声で会話していた部室から舞斗の腕をつかんで連れ出して。
素早く誰も通らない廊下で首すじを噛んでくる柳が。
ヤバい。
前とは違って今は褒め言葉として。ヤバすぎる。
二人の予想が当たって伊部が新しい部長になった。
相変わらず言葉が少ないので、舞斗が通訳兼、翻訳者みたいな立場になっている。
それもまぁ面白いと思う。
最小限にしか放たれない言葉を、余すことなく理解出来る能力が自分にはあるんだってポジティブに考えられる。
どうも柳と一緒にいると、どんな自分でも受け入れられる柔軟さを深められるみたいだ。
「今日の1時間の講義は、正常性バイアスについて」
舞斗は1年生三人と、受験生でボランティア部を卒業したはずなのに何故か今も顔を出す時枝の前で語りつつ、黒板に《 正常性バイアス 》とチョークで書く。
「予期せぬ出来事や危険に直面した際に、それを正常な範囲内だと認識して都合の悪い情報を無視してしまうこと。事態を過小評価してしまう心理現象のことを指す。だよな
K?」
いつもは伊部と呼んでいたけれど、部長として敬意を込めるというのか普段の同級生としての伊部と区別したくなったというのか、部活中だけは伊部のことをコードネームかアルファベットで呼ぶようになった。
伊部がゆっくりと頷く。
相変わらず前髪は伊部の目を隠したままだ。
「これらは本来は心理的な防衛機能としては必要なものなんだってさ。でも、こういう心理状態で相手から警察だと名乗られると動揺が大きくなって感情も揺さぶられる。
詐欺グループからの指示には不審で不明な点がいくつもあるのに冷静に判断できずに対応してしまうってワケ」
うんうんと頷いているLRの横で、Jつまり柳も真面目に舞斗の言葉に耳を傾けていた。
夏休み前に急に部室に入り込んできた1年生からの相談に関する勉強会だったから、メイン対応を任されているLとRは必死に学ぼうとしている。
そんな1年生三人が可愛いなぁと思って、舞斗は小さく笑ってしまった。
(やば)
慌てて口元を押さえる。
LRはノートを取るのに忙しくてちょうど下を向いていたから、舞斗の笑顔を見られずにすんだ。
柳にはばっちり見られてしまって甘い顔をされる。
舞斗が笑う顔を見るのが好きらしい。
挙動不審な舞斗を時枝がじっと見て、それから真横の柳を見た。柳がふわっとした笑顔になっているのを見て、時枝は一人で頷いている。
一瞬で見抜いたんだろう、二人の関係性を。
恐るべし元部長の洞察力。
「被害に遭わないためには自分自身が狙われていることを認識して備えることが大事」
そう語って舞斗はチョークで素早く追記する。
―「備える」とは「犯人とは話をしない」こと
こう黒板に書きながら、なんだか自分が教師みたいだと思って笑ってしまった。
振り返りかけて、また慌てて柳に背を向けた。
「特殊詐欺の9割は電話で第一報が入って、73%が国際電話を使っているみたい。だから警察は国際電話の利用休止の手続きを行うことを促進しているらしいよ」
ここまで言ってから伊部を見る。
小さく頷いた伊部を見て、間違ったことはまだ言ってないらしいと安心する。
― 詐欺グループが国際電話を使うのは日本の電話番号は確認事項が多くて番号を取得することが難しいから
カカカッと小気味よい音を立てて黒板に書く白い字は、我ながら綺麗だと思う。
「SNS投資型やロマンス詐欺の被害者は40代~50代の現役世代が多いみたいだけど、今回みたいに俺たち若い世代だって油断したらダメだよな」
信頼関係を築き、「二人の将来のために投資をしよう」と誘って金銭を支払わせる手口。
9割方のやりとりはLINEに移行させてから行う。利益が出ているように見せかけたり、数回は返金されて本人が信じ込むようになってしまう。
全く会ったこともない人から投資や副業を勧められたら詐欺。シンプルに考えても儲け話があれば、誰だって他人にはもちかけないだろう。
特殊詐欺は全世界レベルで被害が進んでいる。
ロマンスに翻弄されるのは他人事じゃない。
現に今、舞斗は目の前の恋人が甘い笑顔を返してくるのを直視できないでいるのだから。
舞斗は講義中なのに柳が幸せそうな笑みを浮かべて見つめてくることで鼓動が高まってしまって心の中でヤンキー風に叫んだ。
(…恋でも愛でもかかってこいやぁ!)
「マッド先輩、なんか怖い顔になってるッス」
「さっきまでのほわほわな杉山先輩はどこ?」
RとLが黒板ではなく自分の顔をガン見しているのに気付いて、舞斗は慌てて握りしめた拳を緩めた。
もうすぐ下校時間だ。
要領よくまとめて、新しい1年生依頼者がなぜ今回被害にあってしまったのかを掘り下げないといけない。
「えっと。白浜、赤松、柳。ここまでで質問ある?」
立ったままの舞斗が黒板の上にある時計に目をやってから座っている後輩たちを見下ろすと、LRが同時にピッと挙手をした。
まずLが口火を切る。
「警察を名乗られて“ 詐欺グループにあなたのアカウントが使われ、犯罪に加担しているのではないかと嫌疑を掛けられている ”って言われたら誰だって瑞希ちゃんみたいに青ざめると思います」
「うん」
「…どうしたら良かったんでしょう?“ 守秘義務があるので誰にも言わないように ” “ 誰かに言うと逮捕しなければいけなくなる ”って脅かされて頭がフリーズしちゃうの、わかる」
「だよな」
「だから瑞希ちゃんがボラ部に来たのは正解だったんだよ」
右手を挙手したまま、Rが左横のLに向き直った。
「そうよね」
「勇気出して来てくれたのに俺は追い返すとこだった。Kがミッション出してくれて良かった」
舞斗がそう言ったタイミングで部室にいた5人が揃って伊部を見たが、伊部は表情も変えず身動きもしなかった。
観葉植物のようだ。今日は一言も喋っていない。
「白浜の質問は?」
「はい。瑞希ちゃんはこれで済んでるけど、もっと怖い結末だったかもしれないですよね?」
右手を下げながらRが珍しく眉を下げて苦し気な顔で言った。
「後でビデオ通話に誘導されちゃったりしてさ。“ 共犯者にはタトゥーが入っているので確認する ” “ 行動監視をする必要がある ” “ 24時間つなぎっぱなしにすると嫌疑が晴れる ” とか言われてがんじがらめにされちゃって」
ゆっくりとRとLが顔を合わせる。
「そうよね。“ 何か隠していないか身体検査をする ”って言われて服を脱がされるだなんてこともあるかも…」
二人が同時に青ざめた。
時枝が総括をするように声を出した。
「通常ではない心理状態で対応してしまって金銭を振り込んでしまう。その後、ばらすと映像をばらまくと脅かされる。これで悩んでる若者は一定数いると思うよ。だから。裏活動は大切なんだよ。な?ケリー?」
時枝が伊部を見て微笑んだ。
伊部の纏う空気が今日初めて揺らぐ。
「アサギマダラ」
伊部の一言を舞斗はすぐに翻訳しないといけない。
「あ、あれか。尊陽院!美しい” 祈りの天井画 ”が夏から公開されてるって話をおまえとしたな」
南西諸島まで旅をするアサギマダラの生態からモチーフに選ばれたっていう天井画。
訪れる人の痛みや苦しみを優しく舞いながら救い上げ、花々と共に昇華へと導くアサギマダラ。
祈る思いは時に力強く、時に優しく、大きな羽で浄化の風を生み出してくれるってアサギマダラのことが説明されてたよな。
「Kはこれからも人の迷いや悲しみや痛みを掬い上げて、優しく寄りそえって言ったんだ」
そう言うと柳が急に立ち上がった。
伊部も立ち上がった。
なんなんだ?
伊部の二言目が部室に響いた。
「 All you need is love 」
え?こいつネイティブ?
そう思いながら心で“ 愛こそ全て ”と翻訳した瞬間、真横まで来た柳に見おろされる。
愛こそ全て。
その愛があるってことが奇跡的なことなんだって、今の舞斗には痛いほど、分かる。



