春に新入生の2人のコードネームアルファベットがLとRと聴いた時、真っ先に舞斗はL⇔Rのことを連想した。

 Lの赤松理紗とRの白浜亮介はだいたい2人並んでいるから、部長は「LR」と声を掛ける。
 そのたびに舞斗はL⇔Rの曲が脳内に再生された。
(部長…お願いだから先に白浜から声掛けて)
 RLって言葉だったら、ここまで傷が疼くことはない。
 たぶん。
 こんな風にアルファベットを耳にするたび胸をざわつかせるのは自分だけなんだろう。


 最後にあの人に会った日に、そっと手渡されたアルバム。
 Singles & More Vol.2。


 それは今も、舞斗の部屋の机の引き出しの奥の奥の、そのまた奥に突っ込まれている。



(…あの人の眼鏡。ちょっと変わってるって子供心に思ってた)
 フレームの形が独特で。お洒落で。
 確かフレームの色が一部だけオリーブ色だった。
(…って。…俺、眼鏡フェチだったの?)
 部室を飛び出して自転車置き場まで走ってきた舞斗は立ち止まり、ハァッと息を吐いた。
 こめかみから汗が流れ落ち、一人マイチャリの前で愕然とする。
 時間差で柳が伊達眼鏡をかけた姿も再生されて、わたわたと慌ててしまった。
 口元を手で覆う。
(あいつの眼鏡の形はぜんぜん違うじゃん!)

 あの人に会わなくなってから、母親のKENWOODのセパレートコンポで繰り返しアルバムを聴いた。
 小学生の間だけ。

     今日も僕は待った
     ゆらゆらの蜃気楼に
     一人で腰をかけて


 この歌詞が胸に迫ってくるぐらい、待った。あの人が自分のところに帰ってくるんじゃないかって。
 叶わなかったことでの傷付きで、舞斗はちょっぴり大人になれたんじゃないかと自負している。
「一人でこれ以上、蜃気楼に腰かけて待ってられないよ」
 自分の部屋で、そう呟いた春の日のことを今も忘れない。
 乱暴にアルバムを引き出しの奥に入れた、中学生の入学式の朝。




「ついてくんなよ」
 俯いていると真後ろに誰かが近付いてくる気配がして、舞斗は体を起こした。
 馴染みのある存在感に、背中を向けたままでも相手が柳だとすぐに気付いてしまう。
 振り返ると柳とすぐに目が合った。
「新部長からのミッション」
「…伊部から?」
「追え、Jって言われた」
「俺は獲物か」

 柳に顔を見られたくなくて、自転車のロックを外して帰宅モードにシフトチェンジする。
 自転車通学ではない柳とは、ここでおさらば。
 …さらば、じゃないの?
「おまえ。何してんの」
「ミッション遂行中」
 手ぶらの柳は涼しい顔をしてジョグをしながら付いてきている。
「俺は今日はもう家に帰ンの。コンビニに行くわけじゃない」
 いったん自転車を停め、通学に使っているリュックが前カゴに入っていることを指差して、舞斗は柳にストップをかける。
「伊部には柳がちゃんと俺を追ってきたってレスしとくから。部室戻れ」
「…さっきまでは伊部先輩のミッション」
「…さっきまで?」
「今は俺自身のミッションだから」
「何の話だよ!」
 舞斗は少し怖くなって叫ぶように言った。
 柳がこの後に言う言葉が予想できた。それくらい今日の柳は真剣な顔をしている。
 こんなに自分のことに熱心になってくれた男は、たぶんいない。
 本当は一人いたけれど、いなくなった。会いに来てくれなくなった。
― 舞斗を離さないよ
 そう言ってくれてたのに。 

「杉山先輩を離したくないんだ」
「…っおまえ。やっぱりヤバい」

 相手にしていると本当に付いてくると思い、舞斗はぐるんと勢いよく背中を向けてペダルを漕ぐ。
 夏休み直前の湿気をはらんだ風が、舞斗の体を勢いよく包みこんだ。




 自宅ガレージに自転車を停めて玄関に向かう舞斗の視線の端に、予想通り長身の男の姿が入りこむ。

(どんだけ脚速いんだ)

 舞斗は溜息をついた。
 肩に掛けた重いリュックがずり落ちたのを足元に降ろし、柳が歩いてくるのを黙って見ていた。
 近付いてきた柳が真面目な顔を崩さず、珍しく口を閉ざしているので舞斗は諦めて声を掛けた。
「…入って」
 柳が小さく頷くのを見てから舞斗はそっと背中を向けた。
 今日は妹二人の中学校の懇談で、母親も仕事を半日休んで早目に帰ってきている日だ。
 玄関を開けて小声で「ただいま」と言う。
 ダイニングの奥から「おかえり」と母親の声がして、すぐに姿を見せた。
 舞斗の後ろから姿を見せた長身の高校生を、母親は目線をゆっくり上げながら驚き顔で出迎えた。
「ぉお!…はじめまして。我が家にようこそ」
 柳が「こんにちは」と挨拶して玄関の扉を閉めたのを背中で感じて、舞斗は声に出した。

「北斗は今どこにいるの」

 二人の妹が出掛けていることを知っている舞斗は今しか聴けないと思って母親に尋ねる。

「舞斗。あんた小学生の時以来ね。それ聴いてくるの」
「離さないって言ったじゃん。北斗は。俺のこと」
「ほんと急にどうした?泣いてんの?舞斗」
「だって柳が北斗の眼鏡がなんとかブルーだのなんだのって話をしてくるから!」

 舞斗が乱暴に右腕で目元を拭って、右肩越しに柳をそっと仰ぎ見た。
 何も言わずに柳が見つめ返してくる。
 柳の前で取り乱している自分に気付き、舞斗はさらに混乱する。
 柳の腕を掴んで「行くぞ」と声掛け、2階の自室に誘導した。
 舞斗の小さな部屋に柳を押し込むように入れ、自分は1階まで戻って洗面台で顔を洗った。タオルで顔を隠したままキッチンをすり抜けようとすると、母親がグラス二つを載せたトレイを押し付けてくる。何も言わずに優しい目をして笑いかけてきたけれど、舞斗自身が気恥かしくて返事もできない。
 仕方ないと思う。久しぶりのテーマに触れざるを得ない瞬間はエネルギーを多大に遣うものだから。

 舞斗の部屋のラグに座った柳は、長い脚を持て余しているように見えた。
 サイドテーブルにトレイを置くと、ほうじ茶に浮かぶ氷がグラスに当たって涼し気な音をたてる。
 カラン。
 その音を合図にして柳が口を開いた。
「北斗さんってお兄さん?従兄弟?」
「…違う」
「違うの」
「言いたくない。引かれそうだし」
「ロック画面にするくらい好きすぎる杉山先輩の行為にドン引きするって?」
「…言葉にすンなよ」
「あんなに綺麗な顔をした男なんだから。杉山先輩が執着するのも仕方ないじゃん」
「執着って言うな。父親だよ」
「……」

 柳が見た写真は舞斗が10歳の時だから、北斗は28歳だったはずだ。
 あの写真であの人は大学生と言っても通じる風采をしているから、柳が驚くのも無理はない。
 
「北斗は大学1年生の時に父親になったんだよ」
「杉山先輩。舞斗って名前だったっけ」
「うん」
「お父さんに会ってないの」
「あの写真の時が最後だな」
「連絡取れない?」
「知らない。母親と違う女性のとこに行った北斗の話題はしたくないから」
「抑圧してるから(こじ)れちゃうんじゃない」
「たぶんそう。父親の写真を後生大事にしてる男子高校生なんて、日本で俺だけだと思う」
「そうかも」
「…そこは否定して」
 舞斗は久しぶりに嵐のようになっていた魂の片隅を覗き込んで、それについて傍らにいる柳に素直に語っている自分が不思議だと思う。
 音楽を聴きながら一人で煩悶していた時と違い、今は何故か安心して嵐の中に向かっていける心待ちがして。

「一緒に住んでた記憶はなくて。会うたびに“ 好きだ ”って(ささや)かれてハグされてたから」

 言葉にしたことで舞斗の胸に急に切なさが込み上げた。だから咄嗟に自分の身体を抱きしめて耐える。
 囁かれるたびに俺はこそばくて笑ってた。
 ハグされると嬉しくて心が弾んで。
 フツーの親子だったら。
 きっとこんな気持ちにはならないんだよな。

「父親だって分かっててもコジれて倒錯してひどくこじらせたのかも」
「フツーの親子なんて幻想なのかもしれないよ」

 柳の声のトーンが優しいものに切り替わったので、舞斗はそっと顔を上げた。
 
「ちなみに俺は一緒に住んでいたって父親とは中学生の時から会話してないし」
 そう言いながら柳が立ち上がり、舞斗の座る椅子の横まで歩いてきた。
「俺もハグする前に“ 好きだ ”って言ったほうがいい?」
「言わなくていい」
「眼鏡かけてないけど俺の好きにしていい?」
「その言い方がこわい」
「今までやったことしか、今日はしないから」
 少しずつ顔を寄せてくる柳と目を合わせると、柳の瞳に自分が映り込んでいるのが見える。
 舞斗は頷いて、そっと目を閉じた。


 相手が眼鏡をかけていなくても。
 翻弄される魂と頬に一気にあがってくる舞斗自身の熱を感じた。

 クーラーの冷気では、この熱は冷ませない。


 
■■■



「杉山先輩。母親のことも大好きだね」
「やめろ」
 自宅を出て、高校まで荷物を取りに戻る柳をバス停まで見送るために10分ほど歩いた。
 柳に噛み付かれた首すじがまだ熱い。
 母親がいる自宅というシチュエーションもかなり気恥ずかしくて。
 捕らわれてしまうのは、三度目?

「そうやって傷付けないようにしなきゃって親に心砕いてさ。でも杉山先輩の心は誰が守るの」
「………」
「俺が守るんだよって言いたかっただけ」
「うわぁ…キザ」
「連絡取れる方法あるんじゃない?会ってみたらデブってハゲてるフツーのパパになってるかもしれないじゃん」
「おまえ、言い方…」
(こじ)れた憧れだって打ち砕かれて(かせ)も取れる」
「カセ?」
「ロック画面に御守りみたいに写真載せなくても済むようになる」
「…おまえよく喋る」
「それで。さっきのは杉山先輩にとってファーストだった?」
「……」
「初めてのキ…」
「言うな馬鹿だまれ!」

 舞斗は鼓動を速めて口元を手で覆う。
 初めてに決まってる。
― ねぇ。一回目を開けて
 そう言われて舞斗は夢見心地で目を素直に開けたんだった。眼鏡を掛けた柳でなくても従順になってしまうんだ…と己を洞察しながら鼓動を耳元で感じていた7分間。
― 今までしたことしかしないってさっきは言ったけど、もしいいって思ったらもう一回目を閉じて
 そう囁きながら、互いの瞳が近付くのが分かって。
 何をされようとしているのかも分かったのに、、、
 舞斗は待ち望むような必死な心待ちで目を閉じてしまったのだった。
 またもや。不覚。
 いや、さらに不覚なことがあったような。

「で、付き合ってくれるって?」
「わぁ〜!やっぱり頷いてた俺?」


 夏休み前から波乱万丈な予感しかない。