舞斗が艶のある長めの黒髪を短くして栗色に染めたのが6月中旬の金曜日の夜だった。
 部長の時枝の指示は「金髪にしろ」だったが、舞斗はどう頑張ってもこれが限界だった。
 ずっと目立たないポジションで生きてきた舞斗にとって、カラーリングして髪の色を明るくするというシンプルなことでも何故かとてつもなく恥ずかしい。
 今回のミッションが終われば黒髪にすぐ戻さないと落ち着かないかもしれないと不安になって、美容師に二日後の日曜日にも念のため予約を入れたりしていたら準備だけでエネルギーを使い果たしてしまった。

 …もう、当日はJに委ねる。

 舞斗は自宅の洗面台で見慣れない自分の姿を鏡に映し、深く息を吐いた。
 実際に時枝のシナリオでもMのセリフは用意されてはいない。舞斗は“ ちょっとヤンチャ系の同級生に扮装して今回の依頼者の父親をただ刺激するだけでいい ”と言ってもらっている。
 後輩に「あとは任せた」だなんて少し格好悪いけど。
 でもあいつは本当に頼りになるから。
 素直にそう思えて舞斗は自分のステージがシフトチェンジした心持ちを味わう。
 前の自分だったら“ そこにいるだけでいい ”なんて言われた日には全身の針を逆立てて怒っていただろう。柔らかな髪色と柔らかな心になっている今の舞斗は、同じ言葉が甘い囁やきのようにすら聴こえる。

 全身の針を逆立ててって俺、いつの間にか自分でもハリネズミ化しちゃってますけど?

 舞斗は曇った洗面台のガラスを乱暴に拭った。
 柳があの日に折り紙で作った手裏剣をポケットに入れながら帰り際に言った言葉が、耳元でこだまする。

「そこにいてくれるだけでいいんだ」

 何故あいつは俺に敬語使うのを時々忘れるんだ。

  


 依頼者である時枝の同級生宅があるマンション近くのコンビニに入っていくと 、柳がレジで清算をしているところだった。
 舞斗がサーマル素材の白の半袖カットソーにグレーのスエットパンツ姿でポケットに手を入れたまま立っていると「おはようございます」と柳が近寄ってきた。そのまま並んでコンビニの外に出た。
「誰かと思った。似いますね茶髪」
 黒シャツにデニムパンツ姿の柳が横を歩きながら舞斗を見下ろしてくる。
「前髪で今まで隠れてた額のフォルム」
 柳が声を低くして前屈みになって顔を寄せてきたので、舞斗は慌てた。
「ストップ!何も言うな!ミッション開始しろ」
 舞斗の鋭い声を聞いて、柳は目を細めて笑った。マンションのエントランスホールに到着する。
 柳は肩に斜め掛けしていたダンプリングバックから伊達眼鏡を出し、そっと目元に運んでいった。



「その髪色変えないで。そのままがいい」

 マンションから出て駅までの道を歩きながら左横を歩いていた柳が小さな声で囁く。
 東急田園都市線の三軒茶屋駅沿線のこの辺りは閑静な住宅街だ。
 伊達眼鏡をかけたままの柳に言われて舞斗は「うん」と素直に頷いた。
 相手が眼鏡をつけている間だけは舞斗のひと握りの従順さが発動するという事実。それにもう目を背けてはいられない。

「俺はハードボイルドには介入できない」

 中目黒まで続く緑溢れる道を歩きながら舞斗は前を向いて言った。それから立ち止まり、左側の柳に向き合って笑って言う。

「でもさ。バイプレイヤーとしては俺、優美で秀逸じゃない?」

 いつの間に俺は、俺自身を肯定できるようになっていたんだろう。



 玄関の扉を開けて出迎えた父親に挨拶をする柳の後ろからロクに目を合わさずに無愛想に押し入った舞斗が、強い刺激をその父親に与えたようだった。
 勉強会をするからという名目で同級生が息子の部屋を訪れたというシチュエーションは依頼主と共有済みで、父親からの今までの抑圧については本人の語りも丁寧に聴いて今日を迎えたから作戦がうまくいった。
 初めて訪問してくる友達が一人は秀才らしく安心したが不良も紛れ込んでるじゃないかと、父親が怒りを抑えられなくなって飛び込んできたのは想定どおり。
 その時にJが語った言葉が真実なのか作り話なのか、舞斗には分からない。

『愛情という言葉を借りて我が子に犠牲を強いるコントロールの泥沼なんですよ』

『社会的に成功しても複雑性PTSDに苦しんでる俺の兄みたいになってもいいんですか、あなたの息子さんが』

『うちの親は「子どもは自分の作品」だと思っている親子のバウンダリーがないサイテーな人でしたよ。…で。あんたもそうなの?』

 柳の乾いた声で放たれる言葉は、瀕死状態の親子関係にハードボイルドに介入して揺さぶりをかけるには充分だった。
 あとは依頼主本人がどう動くか。それをボランティア部の部員が心を寄せて支えていく。
 舞斗は柳が部屋の中できっぱりと言葉を放った姿を見て、心に爪痕を残されたような衝撃を受けた。

 そのインパクトと共に。

 細めた切れ長の黒い瞳から目が離せなくなって。
 艶のある柳の黒髪に触れたい、と思った。
 日焼けしていない長くて綺麗な指が眼鏡のフレームを触った瞬間、舞斗の呼吸が浅くなった、あの時間。
 だからなんなんだよ。
 こいつの伊達眼鏡は。
 


「J。その眼鏡かけてる時だけ言うこと聞いてやる」
 目を合わせたまま舞斗が言うと、柳が笑って身を寄せてきた。
 道沿いにある公園の隅の大きなクスノキの影が二人の足元まで伸びている。舞斗はそれを俯いた視線の先で捉えた。
 今まで人に見せていなかった額に熱を感じる。
 栗色の短い髪。日焼けしていない額。目を伏せた時のまぶた。そして頬骨。
 工芸品なみに扱えよ。


 どこかでケリーが見ているかもしれない。
 この界隈を歩く人々が今振り返りながら、俺たち二人を見ているかもしれない。
 世の中の全ての人に見られてしまうかもしれない。誰も何も見ていなくて気にもしていないかもしれない。 
 もうどうだっていい。今があればいい。


 舞斗の耳元で、世界が切り替わる音がまたそっと響いた。