私と奏斗は、去年の夏ごろに出会った。
 理系の私と、文系の奏斗。
 普段は関わり合うことのない私たちが出会ったのは、放課後の職員室だった。

赤崎(あかさき)はまた難しい問題を持ってきたな……」

 当時、理学部の数学科を受けようとしていた私は、よく大学の過去問を持って先生に質問をしに、職員室を訪れていた。
 そして、先生が頭を抱えるのもよく見る光景だった。
 だけど、その日はいつもと少し違った。

「先生、助けてください……微分に殺されそうです……」

 先生が、私が渡した問題集と向き合っているとき、横から男子生徒が助けを求めて来た。
 それが奏斗だった。
 そのときの奏斗は私が見えていないようで、泣きそうな表情でいた。

「宍戸……昨日教えなかったか?」

 先生はため息交じりに言う。
 先生の反応的に、きっと、何度も諦めずに教えたんだろう。
 それでも理解できていなかったことに、思わずため息をついてしまうくらい。
 私からしてみれば、それだけ手厚い特別授業をしてもらっておきながら、理解できず終いということが信じられなかった。
 相当数学が苦手な人。
 それが、奏斗の第一印象だった。

「……そうだ、赤崎。宍戸に教えてやってくれないか?」
「え?」
「いいの!?」

 私が先生の言葉を理解するより先に、奏斗が大袈裟に反応した。
 私に向けられた大きな瞳は、全力で助けを求めていて、とても断りにくい。

「俺がこれを解くまで暇だろ?」

 勉強内容は数学だけじゃないから、暇ということはない。
 だから断ろうとしたのに、奏斗の期待に満ちた目を見ていると、嫌とは言えそうになかった。

「お願いします、赤崎さん!」

 これだけ頼み込まれて、断ったら悪者になるんじゃないかと、本気で思った。
 それから、私のクラスで勉強を見ることになり、私たちは移動した。

「赤崎さんは、理系の人?」
「そうだけど」
「じゃあ、数学とか得意なんだね、すごい!」

 例えるなら、間違いなく犬。
 そんなことが頭によぎるくらい、奏斗はコミュニケーション能力に長けていた。

「僕、数学は本当に苦手でさあ。そうだ、赤崎さん、苦手科目ある?」
「日本史とか」
「そうなの? 僕、日本史得意だし、教えれるよ!」
「……大丈夫、自分でやる」

 あのときの私は、全然可愛げがなくて、冷たく断った。
 そのせいで奏斗が眉尻を下げ、落ち込んだのがわかった。
 ごめん、という言葉は簡単に出てくれなくて、教室に着くほうが先だった。
 こんな気まずい空気の中、勉強を教えるなんて、無理だ。

「同じ教室のはずなのに、全然空気感が違うね」

 私の不安をよそに、私のクラスに足を踏み入れた奏斗は、教室内を見渡している。
 わくわく、という言葉がこんなにも似合う人、初めて見たかもしれない。
 そう思うくらい、奏斗は無邪気な反応を示した。
 そしてそのまま、奏斗は教卓の目の前にある席に座った。
 どこの席でも構わなかったけど、そんなところを選ばれるとは思わなくて、正直、困惑した。

「なにしてるの?」
「だって、赤崎さんが先生だから」

 理由になっているようで、なっていなかった。
 黒板を使って教えろ、ということだろうけど、本当の先生ではないから、それは遠慮したかった。
 かと言って、どこの席がいいかと聞かれても困るだけなので、仕方なく私は黒板の前に立った。
 それから奏斗がわからないという問題を何問か説明してみたけれど、結論から言うと、私は奏斗に「わかった」と言わせることができなかった。
 奏斗はずっと首を傾げていて、本当に数学が苦手なんだと思うと同時に、自分の力不足にショックを受けた。
 数学は得意だから教えることも簡単だいうのは、私の勘違いだった。

「ごめんね、赤崎さん……僕、数学は諦めるよ」

 お互いに困り果てたとき、奏斗は申し訳なさそうに笑いながら言った。

「……明日の放課後、暇?」
「え?」
「明日も、ここに来て。リベンジするから」

 その言葉の裏に、私では力不足だ、という意味が込められているような気がして、気に入らなかった。
 その日の夜は、どうすれば奏斗が理解してくれるのかを考えながら、ひたすら勉強していた。
 だけど結局、奏斗はマスターできなかった。
 お互いに全力を尽くしたけれど、半分くらい解けるようになって、私たちの勉強会は終了した。
 奏斗が、これ以上私の勉強を邪魔することはできないから、と言ったからだった。

「お礼になるかわからないけど、日本史で共通テストに出やすいところをまとめてみたんだ。よかったら、使って」

 奏斗からノートを受け取り、数ページ見ると、書店で売られている参考書のように、綺麗にまとめられていた。
 私は奏斗の力になれなかったのに。
 そんなことを思いながら、お礼を言った。

「……じゃあ、本当にありがとね」

 これで終わり。
 それを告げるかのような背中だった。
 寂しいと感じているのは私だけ?
 だったら、引き留めないほうがいい。
 でも、これで終わるなんて。

「赤崎さん……?」

 私の中で答えが出るよりも先に、私は奏斗のシャツを掴んでいた。
 奏斗は不思議そうに私を見ている。

「……あの!」

   ◆

 また一緒に、勉強しませんか。
 奏斗との時間が終わってしまうことに寂しさを覚え、精一杯勇気を振り絞って言ったのを、思い出した。
 あのときが、人生で一番素直だった瞬間だと、自分でも思う。
 それから奏斗と過ごす時間が増えて、奏斗と付き合うことになって。
 奏斗との勉強する楽しさが忘れられなかった私は、教育学部に進路変更して。
 奏斗と近い大学に進学することに決まってから、家を隣にして。
 勝手に、順調だと思っていた。

「奏斗に甘えすぎてたなあ……」

 私の独り言は、夜道に攫われていく。
 新しい学校に慣れること、新しく難しい学習内容についていくこと。
 最近はそれに囚われてばかりで、全然奏斗のことを見ていなかった。
 奏斗だって、同じ状況だったはずなのに。
 私はずっと、私のことしか考えていなかった。
 こんなの、嫌になって当然だ。

「……雪音ちゃん」

 名前を呼ばれて振り返ると、焼肉屋で友人と楽しく食事をしているはずの奏斗が、そこにいた。
 どことなく気まずそうで、その空気感に私が耐えられそうになかった。

「雪音ちゃん、あの……」
「ご飯も作れないような、最低な彼女でごめんね」

 ダメ、止まって。
 本当に言いたいのは、言うべきなのは、こんなのじゃないのに。
 そう思っても、私の口は全然止まってくれない。

「奏斗も、不満があったなら、言ってくれればよかったのに。昨日も、私に嫌気がさして帰ったんでしょ? それなのに、気付かないでメッセージ送って……」

 ごめん。
 嫌味たらしい謝罪の言葉は、奏斗の傷ついた表情と向き合ったことで、出てこなかった。
 この表情は、記憶に新しい。
 最近はずっと、こんな顔をしていたような気がする。

「……嫌になったんじゃない。怖くなったんだ」

 視線を落とした奏斗は、静かにこぼした。

「怖い?」
「……雪音ちゃん、ずっと使ってた腕時計を買い替えるって言ったでしょ? あれを聞いて、僕も用済みになったら誰かと交代させられるのかなって、思っちゃったんだ」

 奏斗の表情が、今にも泣きだしそうに見えた。
 奏斗がそんなふうに受け取るかも、なんて、思いもしなかった。
 そもそも、私にはそんなつもりは一切なかった。
 あれは、ただの日常会話のつもりだったから。
 でも、奏斗にそう思わせたのは、事実だ。

「……ごめん、こんなかっこ悪いこと、言うつもりなかったんだけど」

 奏斗が謝ることなんてなにもなくて、私は首を横に振った。
 謝るのは私のほうだ。
 それをわかっているはずなのに、混乱しているせいで“ごめん”が出てこなかった。

「あの、さ」

 奏斗は躊躇うように切り出す。
 その先を聞いてはダメな気がするのに、それを止めるための声が出ない。

「……僕たち、距離を置こう」

 あの日、私が引き留めたときとは真逆の言葉。
 それを奏斗から言われるなんて、思わなかった。
 いや、私が言わせてしまったのか。
 あんな、悲しそうな顔をさせて。
 全部、私のせいだ。
 私がなにも反応できないでいるうちに、奏斗は私の横を通りすぎて、帰って行った。
 あの日のように、引き留めることはできたはずだ。
 待って、と服を掴んで、ごめんって言えばいい。
 だけど、私にはできなかった。
 私に、それをしてもいい資格があるとは思えなかったから。
 これは自業自得だ。
 喪失感に襲われながらも、私は家に帰る。
 隣には、奏斗がいるのに。
 奏斗の部屋のドアを見つめながら、そんなことを思った。
 いるのに、会えない。
 その寂しさからも、奏斗の部屋のドアからも目を背け、自分の部屋の鍵を開けた。
 真っ暗な独りの部屋に電気をつける。
 静まり返った部屋はやけに冷たくて、私の知っている温かさは、奏斗が作り出していてくれたことに、今さら気付いた。

「……そうだ、腕時計」

 ふと、奏斗の言葉を思い出して、私は所定の位置に置いていた、止まった腕時計を手に取った。
 壊れた腕時計は、やっぱりおかしな時間を指したまま、止まっている。
 この腕時計みたいに、奏斗の気持ちも知らぬ間に止まってしまっていたんだろう。
 二人の時間を過ごしていると思っていたのは、私だけで。
 いつの間にか、私は奏斗の時間を奪うようになっていたんだ。
 この時計が動くようになったところで、なにか変わるとは思えない。
 だけど、気持ちの整理のようなもので、私はつまみを回して、その時計の時を戻した。
 戻れ、奏斗と楽しい時間を過ごしていた日々まで、戻れ。
 叶いもしない願いを込め、必死に時計の針を動かした。
 そんな私を嘲笑うかのように、時計の秒針は時を刻んでくれなくて、私の視界は涙で滲んでいった。
 やり直したい。
 また、奏斗と楽しい時間を。
 そう思ったけど、私はまた、奏斗を傷付けてしまうような気がした。
 こんなことなら、奏斗と出会わなければよかった。
 奏斗には、私がいないところで幸せになってほしい。
 私が付けてしまった傷すらも忘れて、ただ笑顔で。
 そのためには、出会う前まで戻りたい。
 戻れ、戻れ、お願い、動いて。
 私は動かない腕時計に、ひたすら叶わない願い事をしながら針を回し続けた。

   ◆

「……さき、赤崎!」

 誰かに肩を揺らされ、目を開けると、左手首の腕時計が一番に視界に入った。
 止まったはずの腕時計が、動いている。
 そのことに混乱しながら、視線を上げると、そこは懐かしい教室だった。
 窓際から二列目、前から三番目の席。
 そこは、高校三年生の夏に座っていた、私の席だった。
 私を起こしたのは、私がよく質問をしに行っていた、数学の先生。
 見渡してみると、周りには先生しかいなかった。

「赤崎が自習中に寝るなんて、珍しいな」

 たしかに、放課後、教室で勉強しているときに、寝たことはないけれど。
 そんなことよりも、私はただ混乱していた。
 これは、夢?
 まさか、過去に戻った?
 ……いや、そんな非現実的なことが、そう簡単に起きるわけがない。
 きっと、私の願望が見せている夢だろう。

「三年生になってから毎日自習しているのは感心するが、今からその調子だと、半年持たないぞ」

 先生は、右手の人差し指で自分の頬を数回叩いた。
 私の顔になにか変なものでも付いているのかと、自分の頬に触れてみると、指先が濡れた。
 どうやら私は、泣いていたらしい。

「なにか嫌な夢でも見たのか?」

 嫌な夢?
 私は、夢を見たの?
 夢を見ているんじゃなくて?
 不思議に思いながら、視線を黒板の端にやった。
 六月二十三日。
 奏斗と出会う、二週間くらい前だ。
 本当に、やり直すチャンスをもらえたってこと?
 どうしてこんなチャンスが私に与えられたのかわからないけど、このチャンスを活かさないわけにはいかない。
 後悔を繰り返さないためにも。
 もう、誰も傷つけないためにも。
 二度目の高校三年では、奏斗には会わないし、関わらない。
 それが、奏斗に幸せになってもらうための、私の選択だ。

「……そうですね、今日は帰ってゆっくり休みます」

 放課後に教室にいては、奏斗と出会う確率が上がってしまう。
 だから私は、先生の助言に従ったことにして、帰る準備を始めた。

「……そうだ、先生」

 カバンを肩にかけ、ドアの前に立ったとき、私は振り返った。

「進路なんですけど、理学部じゃなくて、教育学部にします」
「それはまた……急だな。わかった、次の進路調査票にそう書いておいてくれ」
「はい」

 私は先生に別れの挨拶を言うと、教室を後にした。
 奏斗とは出会わない運命を、私は選んだ。
 だけど私は、奏斗と過ごした時間を知っている。
 私の中には、確かに奏斗との時間がある。
 それをなかったことにはしたくなくて、私は奏斗と出会ったことで決めた道を、もう一度進むことに決めた。
 これくらいはいいよね、と未練がましく思いながら、出たばかりの校舎を見上げながら思った。

   ◆

 次の日も、その次の日も、私が放課後、教室で勉強する日はなかった。
 先生には少し心配されたけど、塾に入ったと嘘をついて、乗り切った。
 だけど、どれだけ気をつけていても、同じ学校にいれば廊下ですれ違うこともある。
 奏斗は友達と笑いながら歩いているところを、何度か見かけた。
 あの笑顔に惹かれたんだよな、なんて今さらなことを思いながら、奏斗に気付かれないように、そっと視線を落とした。
 そうして、奏斗と出会わなかった七月。
 夏祭りにいかなかった八月。
 独りでサボることにした体育祭。
 図書室に通いつめた九月、十月。
 奏斗が過ごした時間が、奏斗のいない時間に塗り替えられていった。
 あの日、心に空いた小さな穴は、もう塞ぐことができないほどに大きくなっていて。
 私の青春って、こんなに寂しかったっけ。
 放課後、進路指導室から出て空を見上げ、そんなことを思った。
 あの日々は普通だったけど、普通なりに楽しかった記憶がある。
 奏斗がいないだけで、こんなにも景色が変わってしまうなんて、知らなかった。
 このもの寂しさを埋めるには、どうしたらいいんだろう。
 そんな答えが出そうにない問いを考えながら文系クラスの教室の前を通ったとき、男子生徒が独り、寝ていることに気付いた。
 真ん中の列の、一番後ろの席。
 そこは、奏斗の席だ。
 奏斗のクラスで勉強するときは、いつもその席を使っていたから、覚えている。
 会わないし、関わらない。
 そう決めたはずなのに、私の心は寂しさで壊れそうになっていたせいで、教室に足を踏み入れてしまった。
 こんなこと、しないほうがいい。
 それはわかっているのに、近付かずにはいられなかった。
 奏斗を起こさないように歩を進め、静かに前の席に座る。
 目の前に、奏斗がいる。
 それなのに、私は触れることができなくて。
 改めて、奏斗がそばにいることを当たり前だと思って、甘えてしまっていた自分を愚かだと思った。
 触れられる距離にいたくせに、大事にしてこなかった自分を。
 すると、奏斗が少しだけ身動きした。
 しまった、と思ったけれど、奏斗はまだ目を覚まさなかった。
 そのことに胸を撫で下ろしながら、奏斗の寝顔が少しだけ見えて、懐かしさすら感じた。
 前にも、こうして勉強中に疲れちゃったら眠っていたな、なんて愛おしくなる。
 ふと、奏斗が下敷きにしているノートに目をやると、微分の問題に取り組んでいる形跡があった。
 私が、いつも教えていたところだ。
 あのときは、この時期には基礎問題は解けていたけど、今はまだ、習得していないらしい。

「……がんばれ」

 これくらいは、許されるでしょう?
 眠る奏斗に囁きながら、そんなことを思った。
 もう少しだけ、そばにいたい。
 この愛おしい寝顔を見ていたい。
 そう思ったけど、廊下から誰かの足音が聞こえてきて、私は慌てて教室を出た。

   ◆

「相変わらずつまらなさそうな顔してるね、ユキ」

 一度目と同じ大学を選んだことで、私はもう一度、知花と友達になった。
 本当は違う場所や、少しでも地元から離れた場所を選ぼうとしていたけど、知花といることが居心地よくて、私は同じ選択をした。
 だけど、あのときとは少し違って、容姿に気を使っていないことよりも、覇気のない表情についてよく触れられた。
 それを曖昧に笑って誤魔化しながら、私はいつものように講義の復習を始める。

「ねえ、ユキ。今日ヒマ?」

 すると、唐突に知花が聞いてきた。
 左を向けば、知花はスマホを操作してこちらを見ていない。

「……ヒマだけど」
「じゃ、今日ご飯食べに行こうよ。私たちと、男子二人でさ」

 素直に言わなきゃよかった、とすぐに思った。

「バイトで近くの文系男子と繋がって、食事にでも行きたいねって話になったんだよね。ユキも行こうよ」

 ね?と伝えてくる笑顔の強さに、私はノーと言えなかった。
 少し顔を出して、さっさと帰ればいいだろう、なんて思いながら、その日の講義を受けた。
 講義が終わってから、図書室に行かないようにするためか、知花にガッツリと腕を絡まれ、そのまま店に連行されることになった。

「ねえ知花、ここまでしなくても逃げないよ」
「えー? だって、顔に行きたくないって書いてるからさ」

 だとしたら、帰らせてほしい。
 乗り気じゃない人が行っても、場がシラケるだけだろうし。
 というか、知花はここまで強引な人だったっけ?
 もっとお互いに淡白で、誘いに乗らなかったらそれ以上の追求はしないところが、よかったのに。

「なんで今日はそんな強引なの……」
「まあまあ、着いてからのお楽しみ」

 知花は珍しく声を弾ませていて、なにか企んでいるようにも感じて、少し怖くなる。

「お待たせー!」

 若干の不安を抱きながら知花の後をついて到着した飲食店に入ると、私は目を疑った。
 一人は知らない人だけど、もう一人が、奏斗だったから。
 どうしてここにいるの?
 ずっとずっと、会わないようにしてきたのに、どうしてここで会ってしまうの?
 混乱する中で、ふと、知花が企んでいたことがこれだということに気付いた。
 どうやって知花と奏斗が繋がったのか知らないけど、ありがた迷惑な話だ。

「私、帰る……」
「ここまで来て?」

 今度は言い逃げる前に捕まってしまって、私は仕方なく、奏斗たちの席に移動した。
 知花のバイト仲間は、私が知らない人のほうだった。
 その友達が、奏斗だったらしい。
 つまり、偶然。
 こんなところで会ってしまうなんて、思っていなかった。
 だって、奏斗は前と違う大学を選ぶと思っていたから。
 ……そういえば、奏斗はどうやって大学を決めてたっけ。
 私がきっかけで選んだわけじゃなかったら、同じところを選ぶ可能性は十分あったはず。
 どうしてそれに気付かなかったんだろう。
 どうして、私に合わせて選んだなんて、傲慢なことを思っていたんだろう。
 穴があったら入りたいくらい、恥ずかしい。

「ユキ、緊張してるの?」
「え、と……うん、そうかも」

 顔が上げられないのも、上手く話せないのも緊張のせいにして、私はただ食事をすることだけに集中した。
 意識的に奏斗から目を逸らしていないと、またあのときみたいに奏斗に触れたくなってしまうような気がしたから。
 そして私は、ただひたすらに目の前にある料理を平らげることしか考えずにその場にいた。

「宍戸くんは、ユキと同じ高校だったんだよね」

 食事も終わり、店を出たとき、知花は思い出したかのように言った。
 一番触れてほしくない話題を、どうして知花が知っているのか。
 それを尋ねるように知花を見ると、知花は私の耳元に近付いてきた。

「宍戸くん、ユキに会いたかったんだって」

 なんで、どうして?
 だって、今回の私たちは出会っていなくて、奏斗がそんなふうに思うわけがないのに……
 私は動揺を隠せないまま、奏斗を見た。
 少し照れくさそうに笑う奏斗。
 その表情は、知っていた。
 どうして今、告白してくれたときみたいな顔をしているの?
 あのときみたいに、彩られた時間は、私たちにはないのに。

「ってことで、私たちはこれで。ユキ、また明日話聞かせてね」

 止める暇もなく、二人は私たちから離れていった。
 この気まずい空気をどうしたらいいのか。
 一刻も早く逃げ出したいところだけど、そんな不自然なことはできそうになかった。

「直接赤崎さんと話したことはないのに、迷惑だよね、ごめん」

 申し訳なさそうに笑う奏斗に対して、私は首を横に振る。
 そうだ、あの日も、私は首を横に振ることしかできなかった。
 言葉が音にならなくて、素直な言葉も出てこなくて、奏斗を傷付けた。
 私はまた、それを繰り返すの?
 そう思うのに、なにを言えばいいのか、やっぱりわからない。

「僕、一方的に赤崎さんのこと知ってて……」

 ……どうして?
 今回は奏斗と関わらなかったから、奏斗が私のことを知る機会はないはず。
 まさか、あのとき寝ている奏斗に声をかけたとき、実は起きてたとか?
 だったら、余計なことしなければよかった。

「赤崎さん、一年くらい前、よく放課後に数学聞きに行ってたでしょ? 僕も聞きに行ってたから、それで知ってたんだ」

 私の動揺を読み取ったかのように、奏斗は教えてくれた。
 だけど、私は余計に混乱してしまった。
 あの日から、放課後に職員室には行かなかったから、奏斗が言うような状況があったとは思えない。
 とはいっても、それより前はわからない。
 私が行かなくなったよりも前に出会っていたなら、それは今の私には防ぎようがない。

「いつも、真剣に取り組んでる赤崎さんのこと、かっこいいなって思ってたんだ」

 ――頑張る雪音ちゃんは、最高にかっこいいね。

 一緒に勉強をしているとき、奏斗にそう言われたことがあった。
 それを聞いてから、勉強に全力で取り組むことで私の価値が認められていくような気がして、私は懸命に勉強するようになったんだ。
 目の前の、奏斗の表情にも気付かないくらい、勉強にだけ集中して。
 その結果があれなら、勉強をするだけの私には、価値はなかったのかもしれない。

「よかったら……連絡先、交換してくれませんか?」

 奏斗は緊張した面持ちでスマホを持っている。
 私が避けても繋がってしまうなんて、運命みたいで。
 きっと、前の私ならその単語を鼻で笑っていただろうけど、過去に戻るという非現実的なことを経験した今、自然と受け入れようとしている私がいた。
 そしてトートバッグに入れているスマホを取り出そうと左手をバッグに入れようとしたとき、腕時計が目に入った。

 ――嫌になったんじゃない。怖くなったんだ。

 奏斗の泣きそうな笑顔は、一年経った今でも忘れられない。
 また、その顔をさせてしまうんじゃないか。
 そう思うと、友達でも、奏斗と繋がりを持ってしまうことが、私は怖くなってしまった。
 私は、あのときから変われていない。
 自分のことだけに精一杯で、周りに気を配る余裕がなくて。
 このままだと、同じことを繰り返す。
 また、奏斗を傷つけてしまう。
 それがわかっていて頷く勇気は、私にはなかった。

   ◆

「断ったの!?」

 翌朝、顔を合わせたと同時に昨日のことを聞いてきた知花。
 簡潔に伝えた結果、周りの目も気にせずに、大きな声で反応した。

「なんで? 宍戸くん、いい人じゃん」
「……いい人だからだよ」

 いい人だから、傷付けたくない。
 傷付いてほしくない。
 笑っていてほしいし、幸せになってほしい。
 そう思うのは、普通のはずだ。

「いい人だから、私はふさわしくない」
「……ふーん」

 その声色には、気に入らないという言葉が乗っているような気がした。

「なんでそう思うの?」
「私は、誰かを傷付けることしかできないから」

 それだけの説明では納得してくれなさそうな表情で、私は奏斗とのことを簡潔に伝えた。
 勉強ばかりして、相手の顔を見ていなかったこと。
 相手の気持ちの変化に気付けなかったこと。
 当たり前の日常に甘えて、感謝をしてこなかったこと。
 それを高校時代の思い出と偽った。

「それってさあ……自分が傷付きたくないだけじゃないの?」
「それは……」

 違う、と言いきれなかった。

「わかるよ。誰かを傷付けたら、それだけ罪悪感で死にそうになるもんね。でも、ユキはいいように言ってるだけで、その苦しみからも逃げようとしてる」

 あまりにも鋭い言葉に、なにも言い返せない。

「ユキは、どうしたいの?」
「私は……」

 自分がどうしたいのかなんて、考えたことがなかった。
 ずっと、奏斗が幸せであってくれたらって、それしか頭になかったから。
 思い出したのは、放課後の教室。
 奏斗に触れたくて手を伸ばしたあの日。
 あれが、私の望みなのだとしたら。

「相手のことを大切に思う気持ちも大事だけど、ユキの気持ちも大事にしてあげなよ。それに、そうやって後悔できるなら、次はきっと、大事にできるから」

 知花は柔らかい笑みを浮かべている。
 その言葉は意地になっていた私の心を溶かしていった。

   ◆

 講義が終わると、私は奏斗の大学に向かった。
 奏斗と会える確率が低いことなんて気にせずに、知らない学内で奏斗を探した。

「赤崎さん?」

 諦めて帰ろうとしたそのとき、背後から誰かに名前を呼ばれた。
 振り返ると、そこには奏斗がいた。

「どうしたの?」

 昨日、奏斗の気持ちも考えずに連絡先交換を断ったというのに、奏斗はまだ優しい表情を私に向けてくれた。
 私はこんなにも優しい人を、次は大切にできるだろうか。
 奏斗を前に、どうしても不安が勝ってしまう。

 ――そうやって後悔できるなら、次はきっと、大事にできる。

 知花のその言葉を胸に、私は、スマホを取り出した。

「……あの、やっぱり連絡先を交換してくれませんか」

 昨日の今日で、都合がいいと思われてしまうかも。
 なにを今さらって、断られるかも。
 込み上げてくる不安は止まらなくて、奏斗もこんな恐怖の中で勇気を出していたのかもしれないと思うと、やっぱり私は、自分のことしか考えていなかったんだと思った。

「もちろん」

 だけど、予想とは反して、奏斗は泣きそうで嬉しそうな笑顔を、私に向けてくれた。
 それに心から安心した。

「……あれ? 赤崎さん、その腕時計止まってない?」

 奏斗に指摘されて、私は腕時計を見た。
 今回もまた、止まった瞬間に気付けなかったなんて……この子は一体、いつ止まってしまったんだろう。

「……よかったら、一緒に腕時計、買いに行きませんか」

 ずっと使っている腕時計は止まってしまったけれど、奏斗と刻む秒針が止まってしまわないように、今度こそ奏斗のことを大切にすると誓うための腕時計を。
 奏斗が頷く姿を見つめながら、そんなことを思った。