視界が明るくなり、私は目を擦る。

「おはよう、雪音(ゆきね)ちゃん」

 カーテンを開けたのは、隣の部屋に住んでいる奏斗(かなと)
 柔らかい黒髪が太陽の光に透け、その眩しさに目をしかめる。
 こちらを振り向いた奏斗は、優しく微笑んでいる。

「……おはよう」

 その当たり前の光景に、私は欠伸をしながら返した。

「またすごい資料があったけど、昨日は何時に寝たの?」

 奏斗はそう言いながら、カーテンを束ね、窓を開けた。
 鳥たちも天気がいいことを喜ぶかのように、楽しそうに合奏している。

「何時だったかな……」

 私は枕もとに置いていたスマホを手にし、時間を確認する。
 もう、八時になろうとしている。
 しまった、寝すぎている。目覚ましは七時に鳴るはずなのに、聞いた覚えがない。
 眠りが深くて聞こえなかったのか、奏斗が止めたのか。
 ……きっと、後者だろう。
 ありがた迷惑な親切に、ついため息がこぼれてしまう。

「雪音ちゃん?」
「準備しないと……」
「朝ご飯、用意してるよ」
「んー……」

 クローゼットを開けながら、それを聞く。
 今日の服はどうしよう。
 なにを着ていても、どうせ誰も気にしていないし、なんでもいいか。

「ごめん、食べる時間ないや」
「……そっか」

 適当にロングTシャツとジーパンを手にして、奏斗を見る。
 私の視線に気付いた奏斗は、私が着替えようとしていることを察して、キッチンのほうへ移動してくれた。
 奏斗が整えてくれたばかりのベッドの上に、寝間着を放る。
 今八時だから、すぐに家を出れば、八時半には大学に着ける。
 メイクは、少ししておいたほうがいいか。
 最低限、身だしなみは整えておかないと、また文句を言われそうだし。
 洗面所に行って、顔を洗うと、五分でメイクを終える。
 あとは昨日の夜に散らかしたノートをカバンに入れれて、いつもの腕時計を付ければ。
 そう思ってローテーブルを見ると、たまごサンドが置いてあり、私のノートは床にまとめられていた。

「……奏斗、触った?」
「え? あ、ごめん……」

 必要なものを探す手間が増えてしまい、またため息が出た。
 奏斗に悪気がないことはわかっているけれど、時間がないときにこういうことをされてしまうと、どうしても憂鬱さが増す。

「ごめんね、雪音ちゃん。僕も一緒に探すよ」
「いい。触らないで」

 伸びて来た奏斗の手を払い退け、私は資料の山を漁る。
 どうやら、順番を変えずに重ねていてくれたようで、あまり手間はかからなかった。
 それを大学用のトートバックにいれていく。

「雪音ちゃん、少しでも食べていかない?」

 高校のときから使っている腕時計を付け、玄関に向かおうとすると、奏斗に引き留められた。
 完成されたたまごサンドを改めて見ると、お腹が空いているような気がしてきた。

「……じゃあ、ひとつだけ」

 奏斗が料理上手なのは知っているけど、相変わらず美味しい。
 ひとつと言ったけど、三口程度で食べ切れるサイズだったことと、その美味しさのあまり、二つ目に手が伸びる。

「……ご馳走様でした」
「お粗末さまでした。気をつけて行ってらっしゃい」

 私は何切れか残してしまったのに、奏斗は笑顔でいた。
 そんなに面白いことがあったかな、と思いながら、奏斗が用意してくれていた水を半分くらい飲んで喉を潤すと、今度こそ玄関に向かう。

「行ってきます」

 背中から奏斗の「行ってらっしゃい」を聞きながら、家を出た。

   ◆

「ユキ、おはよ」

 一限目の講義が行われる教室で準備をしていると、大学からの友人、知花(ちか)が左隣に座った。
 私は知花に挨拶を返しながら、準備を終える。
 講義が始まるまで復習でもしていようかとノートを開くと、ふと、隣から視線を感じた。
 何事かと横を見ると、知花が私の顔を凝視している。

「ユキさあ……また適当にメイクしたでしょ」

 なぜ気付かれたの、なんて思わなかった。
 適当にやったのは本当だし、こうして知花に怒られるのも初めてじゃない。
 私とは違って、しっかり上げられたまつ毛が、知花の瞳に影を落としている。
 これほどメイクも髪型も、服装もキメている人からすれば、私の適当なところが目について仕方ないんだろう。
 大学に入学して三ヶ月くらい経つけど、学籍番号が前後じゃなかったら、きっと仲良くならなかっただろうなって、改めて思う。

「それに」

 知花は私の口元に手を伸ばしてきた。
 口紅は塗っていないから、なにか乱れているところはないはず。
 知花の手の動きはなにかを拭うのではなく、払うような感じだった。

「パンくずが付いてる」
「え、うそ」

 メイクには興味ないけれど、さすがにそれは恥ずかしくて、口元を覆った。
 手鏡を持つような美意識は私にはなくて、スマホのインカメで口元を確認する。
 知花が払ってくれたので全部取れたのか、綺麗になっている。
 出かける前に、ちゃんと鏡を見てくればよかった。
 というか、向かい合っていた奏斗は気付いていただろうし、教えてくれればよかったのに。

「もしかして、ユキ、朝ごはんも適当なの?」

 知花は呆れた様子で言った。
 それは心外だ。

「ちゃんと食べてるよ」
「ホントに? 生の食パン齧って来たとかじゃなくて?」
「違うって。今日の朝ごはんはたまごサンドだったし」

 作ったのは私じゃないけど、と心の中で続ける。
 奏斗に用意してもらったなんて知られたら、きっと、さらに呆れられる。
 それはなんだか、プライドが傷つけられるような気がして、言えなかった。

「ならいいけど」

 知花がスマホに意識を戻したことに、内心安心しながら、ノートを開く。

「ねえ、ユキ」

 いつもなら、知花はチャイムが鳴るまでスマホを見ているはずなのに、今日は珍しく、さらに話しかけてきた。

「な、なに?」

 また見た目でおかしいところを指摘されるのかと、つい身構えてしまう。
 だけど、知花の視線は私の顔に向いていなかった。

「それ、動いてなくない?」

 知花が指さしたのは、私の左腕に付いている、腕時計。
 確認すると、五時三十二分という、明らかに違う時刻を指していた。
 少しだけ見つめていると、秒針すら動いていないことに気付いた。

「本当だ……」

 一体、いつから止まっていたんだろう。
 昨日の夕方? それとも、朝方?
 それとも、もっと前だろうか。
 止まったことに気付けないくらい、この腕時計を見ていなかったことに、少なからずショックを受けながら、腕時計を外した。

「外しちゃうの?」
「付けてても仕方ないし」
「たしかに」

 そして私たちが各々の過ごし方をしているうちに、講義が始まった。

   ◆

「ユキ、次空いてたよね」

 講義が終わると、知花はカバンを肩にかけながら言った。
 片付けが速すぎるのは、講義が終わると察した時点で、片付け始めたから。
 対して、最後まで先生の話をメモしていた私は、マイペースにノートや筆箱をトートバッグに入れていく。

「うん。でも、図書室に行くつもり」
「うわ……」

 知花は信じられないと言わんばかりの目を向けてきた。
 大学生として、勉強することはおかしくないと思うし、教育学部生として、勉強はするべきだと思うんだけど。

「知花も行く?」
「私はパス。部室行こうかな。誰かいるだろうし」

 だけど、知花は大学生生活を満喫することを優先していた。
 まあ、これは知花のことだし、私がとやかく言うようなことではないけど。
 それでも、誰かと勉強することの楽しさを知っているから、私はつい、誘ってしまう。
 今日も気分じゃなかったらしい。

「そっか。じゃあ、またあとで」

 そうして解散し、私は図書室に向かう。
 私と同じように移動している人たちの楽しそうな声が聞こえてきて、目で追ってしまった。
 知花も来ればよかったのに。それか、奏斗でもいいんだけど。
 ……なんて、大学違うし無理か。
 そんなことを考えていると、小さくお腹が鳴った。
 たまごサンド二切れでは、足りなかったみたいだ。
 これだと勉強に集中できなさそうだし、食料調達を先にするのが最善だろう。
 というわけで、学内にあるコンビニで小腹を満たせるようにチョコを買ってから、図書室に着いた。
 さっき二限が始まったからか、学生は少ないように感じる。
 この、異様に静かな空間が好きだ。
 今さっき、賑やかな空間を一人で通ってきたからか、余計にそう感じた。
 そして、目的の本を探し、知花からお昼の誘いが来るまで、集中は切れなかった。

   ◆

 日が暮れるより先に、私は家に帰った。
 鍵を取り出し、差し込んで回したけれど、鍵が開いたような感触がない。
 ドアを引いてみると、ドアは開き、奏斗がキッチンに立っていた。

「おかえり、雪音ちゃん」
「ただいま」

 もう夕飯の支度ができているのか、部屋の中が美味しそうな匂いでいっぱいになっている。
 その匂いに釣られて、空腹なことを思い出した。
 奏斗の料理が待ってるってわかってるから、あまり夜遅くまで図書館で勉強しようとは思わない。

「今日は肉じゃがを作ったんだ。味見してみる?」
「いや、いいよ」

 奏斗の料理がどれだけ美味しいのかなんて、十分知っている。
 だから、味見をしなくても、私の好きな味であることは予想できた。

「そっか……あ、手洗うよね」

 奏斗はそう言いながら、シンクの前を避けた。
 袖が濡れないように、少しまくってから、手を洗う。

「あれ……雪音ちゃん、腕時計はどうしたの?」
「ああ、止まっちゃったみたいで、外した。今度、新しいの買いに行かないと」

 奏斗に答えながら、奏斗から受け取ったタオルで手を拭く。
 必需品だから仕方ないとは言え、余計な出費のような気がして、少し憂鬱だ。
 というか、腕時計はどこに行けば買えるんだろう。
 普段気にしてこなかったから、それすら知らなかった。

「買い替えちゃうの? あれ、高校のときから使ってたから、気に入ってるんだとばかり」
「いや……別に」

 高校時代に親に買ってもらって、それを使い続けていたにすぎない。
 壊れれば、買い替える。
 その程度のものだ。
 だけど、奏斗はそれを、気に入っているものだと思っていたんだ……
 そう思われるくらい、あの腕時計を使っていたなんて、自分でも思わなかった。
 そう考えると、あれを捨てるのがなんだか惜しくなってくる。
 そんなことを思いながら奏斗にタオルを渡そうとすると、奏斗は少し俯いて固まっていた。

「奏斗?」
「……ごめん、雪音ちゃん。僕、用事を思い出したから、帰るね」

 私が呼びかければ、奏斗は反応してくれたけど、見せてくれた笑顔は、作り笑いだと容易にわかった。
 見るからになにかあったとわかるのに、私はそう言われたことに驚き、小声で「え」と反応することしかできなかった。

「ご飯はもうできてるから」

 私が気にしたことはそこじゃないと思ったけど、理由を聞くよりも先に、奏斗は帰って行った。
 バタン、と閉まるドアの音が、いつもより大きく聞こえた気がした。
 その大きさに、思わず肩をビクつかせるほどで。
 なにか、怒らせることをしたかな……
 考えを巡らせてみるけれど、思い当たる節がない。
 まあ、また明日聞けばいいか。
 そんな悠長なことを思いながら、今日の講義で出された課題を片付けることにした。
 どれくらいの時間集中していたかわからないけど、窓の外の暗さが気になってから、私はノートから目を上げた。

「奏斗、カーテン……」

 いつものように奏斗を呼んだけど、無人のキッチンを見て、奏斗が帰ったことを思い出した。
 奏斗が帰ったことも忘れてしまうくらい集中していたなんて、と少し寂しく思いながら、重い腰を上げて、カーテンを閉める。
 そのとき、空腹を告げるようにお腹が鳴った。
 こんなときでも、お腹は空くらしい。
 電気のスイッチの場所を探し、キッチンに立つ。
 ここを借りて数か月が経ったけど、こうして料理をするためにキッチンに立ったのは、初めてに近い。
 いつも、奏斗が食事を用意してくれるから、私がここに立つ必要がなかったのだ。
 肉じゃがが入った鍋にそっと触れて見ると、もうとっくに熱を失っていた。
 奏斗の料理は温かい状態で食べたいけれど、鍋のまま温め直してもいいのかわからなくて、耐熱皿に移し、レンジで温めることにした。
 その間にお米を準備しようと思ったけど、炊飯器を見れば、なにも入っていない。
 いつもなら、夕飯にはお米を用意してくれている。
 それがないということは、お米を炊く前に帰ったということだろう。
 まあ、それくらい自分でもできるだろうけど、お米が炊けるのを待てる気がしなかった。
 ……そういえば、奏斗、いつも残りを冷凍ご飯にしていた気がする。
 それを思い出して冷凍庫を開けてみたけど、どこになにが入っているのかわからなかった。
 綺麗にされているんだろうけど、普段使わない私からしてみれば、どこになにがあるのか、さっぱりわからない。
 だけど、少し探せば、冷凍ご飯はすぐに見つかった。
 それもレンジで温めて、ローテーブルに戻ろうとしたけど、机の上を散らかしたままだったのを見てしまった。
 これではご飯に集中できない。
 私は机の上にあるノートたちを適当に重ねて、床に置いた。
 温めた肉じゃがと、お米。
 それを並べて、ようやく腰を下ろした。
 できたものを用意するだけでも、こんなに大変だなんて知らなかった。
 もっと、奏斗に感謝しないとな……
 そう思いながら、湯気が立っている肉じゃがに手を伸ばし、じゃがいもを口に入れる。
 いつもの、奏斗の味だ。
 優しくて、暖かくて、疲れた身体に染みていく。
 ただ、いつも通り美味しいはずなのに、今日はやけに箸が進まない。
 奏斗がいないだけでこんなに変わるなんて、知らなかった。
 明日は一緒に食べられるかな、なんて思いながら、私は独りで食べ進めた。

   ◆

 翌朝、私は無機質な目覚ましの音に起こされた。
 それが思いのほか不快で、瞼が上がらない状態でスマホを探し出し、目覚ましを止める。
 部屋の電気は切られ、カーテンも閉められているから、朝だと言うのに、やけに薄暗い。
 
「奏斗……?」

 ここは私の部屋で、奏斗がいないことが普通のはずなのに、私はつい、奏斗を探した。
 当然、返答はない。
 スマホを見ても連絡がないから、寝坊でもしたんだろうと、目を擦りながら思った。
 私ならまだしも、奏斗が寝坊するなんて珍しい。
 昨日言っていた用事が長引いて、夜寝れなかったのだろうか。
 カーテンを開けながら、奏斗の少し抜けているところを、微笑ましく思った。
 今日は私が起こしに行ってみようかな、なんて思いながら、身支度を整えていく。
 昨日みたく、適当に服を選んで、適当にメイクして。
 奏斗がいないから、朝食はなし。
 また知花に文句言われるとわかっていても、無理なものは無理だ。
 個人的には、コンビニにでも寄って、お腹を満たせられれば十分。
 あとは腕時計を付けて、と思ったけど、所定位置にないのを見て、腕時計が止まっていたことを思い出した。
 腕時計がないことに違和感を覚えつつ、荷物の準備に移る。
 ただ、いつものトートバッグにノートを入れるのに手間取ってしまった。
 昨日、適当に置いてしまったせいだ。
 どこになにを置いたのか、自分でもわからなくて、必要なものがなかなか見つからない。
 そのせいで出発時間になってしまい、私は奏斗の家に寄ることができなかった。
 大学に着くまでに奏斗から連絡があるかと思ったけど、それどころか、昼になっても連絡がなかった。

「珍しいね。ユキがそんなにスマホ見てるなんて」

 昼休み、奏斗からの連絡がないことに不安を感じ、食堂でなにかメッセージを送ろうか悩んでいると、知花が声をかけて来た。

「なにか面白いものでもあった?」
「……そんなんじゃないよ」

 知花に画面を見られないように、咄嗟にスマホの画面を下にする。
 なんとなく、奏斗の存在を知られると面倒なことになりそうな予感がした。
 それにしても、あの奏斗がこんな時間まで寝ているとは思えない。
 起きたなら、なにかメッセージをくれるだろうに、それもないなんて。
 ……まさか、体調崩して寝込んでいるとか?
 昨日帰ったのは用事を思い出したからじゃなくて、体調を崩しかけていることに気付いたからだったりしないだろうか。
 そう思うと、心配でならなかった。

「そうだ、ユキ。これからカラオケに行こうと思うんだけど、ユキも行く?」
「ごめん、今日は行くところがある」
「そっか。じゃあ、また明日」

 知花と別れると、私はドラッグストアに寄って、奏斗の部屋のインターフォンを押した。
 だけど、誰かが出てくる気配がない。
 スマホを取り出して奏斗に『今、家にいる?』と送ってみるけど、それも反応がなかった。
 買ってきた飲み物やゼリーをどうしようと思ったとき、合鍵をもらっていることを思い出した。
 でも、奏斗の部屋の合鍵なんて、普段から使わないから、自分の部屋に置いていることを思い出した。
 持ち歩いておくべきだったなと、小さくため息をつく。
 一旦取りに帰ったほうがよさそうだと自分の部屋に帰ったタイミングで、奏斗からメッセージが帰って来た。

『今日は友達の家に泊まるから、いない』

 奏斗の言葉にしては、少し冷たいような気がする。
 やっぱりなにか怒らせるようなことをしたかな、と不安に思うと同時に、奏斗が風邪じゃなかったことに安心した。
 了解というスタンプを送り、スマホの電源を切る。
 本当に、飲み物とかどうしよう。
 冷蔵庫にでも入れておけばいいか。
 そう思って冷蔵庫を開き、適当に飲み物とゼリーを入れた。
 そういえば、奏斗がいないということは、自分で夕飯を用意しなければいけないということか。
 冷蔵庫にいろいろ材料があったから、それで料理ができれば、なにも問題ない。
 でも、生憎、奏斗に任せっぱなしのせいで、料理なんてできそうにない。
 外食をするか、総菜を買ってくるか。
 どうしようか悩んでいるとき、またメッセージが届いた。

『ユキ、焼き肉行こ!』

 知花からだった。
 ナイスタイミングだ。
 今日の夕飯は外食にしよう。
 OKというスタンプを返し、また家を出た。

   ◆

 知花が指定したのは、大学の近くにある焼肉店。
 大学生がよく訪れるからか、リーズナブルなお店らしい。

「ユキと外食するの、何気に初めてな気がする」

 四人席に二人で向かい合うように座ったから、知花の嬉しそうな顔がよく見える。

「そうかな」

 毎日、昼は知花と食堂で食べているから、知花との外食は初めてのようには感じないのは、私だけみたいだ。

「え、宍戸(ししど)くん!?」

 メニューを開いて、なにがなんだかわからなくて、全部知花に任せようかな、なんて考えていたときだった。
 少し離れたところから、知った名前が聞こえてきた。
 宍戸は、奏斗の苗字だ。
 まさか、奏斗がここにいるのだろうか。
 気になってしまい、私はメニュー表から目を離し、店内を見渡した。

「だろ? 今日は時間あるって言うから、連れて来たんだよ」

 そこにいたのは、間違いなく奏斗だった。
 見知らぬ男子が奏斗の肩に手を回し、そう答えた。
 奏斗はというと、少し困ったように笑っている。
 それは、彼の行為に困っているの?
 それとも、私に対する感情がそうさせているの?

「ユキ?」

 奏斗から目が離せないでいると、知花が私の意識を逸らすかのように、私の目の前で手を振った。

「どうした? あの集団に気になる人でもいた?」
「いや……」

 気になると言えば、気になる。
 だけど、その理由まで聞かれたときに正直に答えるのは抵抗があって、私は誤魔化すことにした。
 といっても、私のこの反応ではなにかあると言っているようなもの。
 できれば、触れないでほしいところだけど、望みは薄いだろう。

「……私は海鮮かなあ。ユキは? なににするか決めた?」

 私の願いが通じたのか、知花は話題を変えてくれた。
 知花の気遣いに、内心感謝しながら、再びメニューを見る。

「焼肉なのに、海鮮なの?」
「今日はそういう気分だったからね」

 理由になっていなくて、思わず笑ってしまう。
 結局、よくわからなくて、一番人気と書かれていたセットにすることにした。
 頼んだものが来るまで、なにか雑談をするのかと思えば、知花はスマホに集中してしまった。
 まあ、いつも大学で一緒にいるし、これといって話す内容もないし、そんなものかと思いながら、私もスマホを見て時間を潰すことにした。

「宍戸くん、彼女いたんだ?」

 また、奏斗がいるグループの会話が聞こえてきた。
 私の意識がそっちに傾いているから聞こえてくるのか、彼女たちの声が大きいから聞こえてくるのか。
 両方だろうな、と思いつつ、ついその会話に耳を傾けてしまった。

「しかも、毎日その彼女にご飯作ってんだってさ。優しすぎるよなあ、奏斗は」
「え、彼女は作ってくれないの?」

 信じられない。
 彼女の声は、私を見下しているかのように感じた。
 違うと否定したくなったけど、なにが違うのだろう、と自分でも思った。
 朝も、夜も。
 いつも奏斗に甘えていて、奏斗の大学での交友関係に一切気を配らなくて、縛って。
 こんなの、怒らせて当然だ。
 それに気付けない私は、愚かすぎる。

「……ごめん、知花。私、帰る……」
「え、帰るって……ちょっと、ユキ!?」

 奏斗の答えを聞くのが怖くて、私は知花の引き留める声も聞かずに、席を立った。
 出入口に近付く途中、奏斗と目が合った。
 しまった、という奏斗の表情。
 そこにどんな意味が込められているのか、私にはもう、わからなかった。