「圭人先輩」
くっついた体から声が響いてくる。その声は甘やかすように俺に言う。
「いろいろ考えなくていいから」
するっと手が上がり、俺の後ろ頭を撫でる。長い指がさらっと髪にくぐらされるのを感じた。
「こうしてる間は全部、俺に預けててください」
こんなの、絶対おかしいし、意味がわからない。
でも俺は、この腕を振り解けないまま、今日もここにいる。
☆☆☆
俺はずっと、怪我が怖かった。
いや、怪我なんて誰だって怖いと思う。当たり前だ。それでも怖いなあと思っていたのは、うちの野球部が十人しかいない、弱小チームだからだ。そのチームにおける俺のポジションはピッチャー。
だからずっと言われていた。怪我だけは気をつけろ、と。キャプテンにも、監督にも、そして、慎太郎にも。
慎太郎がそう言うから、怪我には注意していたつもりだった。だが、今はむしろ怪我したほうが楽かな、などと思ってしまっている。
視線の先で慎太郎が笑っている。彼が笑顔を向けている相手は俺じゃない。マネージャーの宮部茜だ。
宮部は今年入った一年で、うちの野球部唯一のマネージャーだ。丸顔で小柄で、ちょっとぽっちゃりしている。あまり要領はよくなく、備品の発注を間違えたり、スコアの付け方をなかなか覚えられなかったりする。優秀なタイプのマネージャーとはいえないが、一生懸命なその様子に好感を持っている部員は多い。
その好感を持っている部員の中に、自分の相方とも言うべき、桜沢慎太郎が入っていることにも俺はちゃんと気づいていた。ピッチャーにとってのキャッチャーは女房役なんて言われているが、女房がどっちかはともかく、中学時代からバッテリーを組み続けている俺たちはチーム内でももっとも近しい間柄なのだ。あいつの眼差しがどこに注がれているかなんて、一緒にいる俺には手に取るようにわかる。
しかも俺には、慎太郎に対してバッテリー以上の感情がずっと、ある。
中学時代からずっと。
だからわかるのだ。慎太郎の視線が誰を追っているのか、慎太郎が今、誰を想っているのか。慎太郎は隠し事ができるタイプでもないし、家のことも勉強のこともクラスでの出来事もなんでも俺に話してくれる。信頼、されている、と言い換えてもいい。
その信頼は心地いい。親が喧嘩していて夜眠れないから話をしないか、と深夜に電話をかける相手が俺であること、宿題が終わらなくて助けてくれ、と眉を八の字にして頼んでくること、全部が愛しい。だからこそ俺は俺の気持ちを慎太郎には伝えなかったし、俺と慎太郎の間にヒビが入りそうな出来事には口を挟まないようにしていた。
宮部とのことも、そうだった。
聞きたくもなかったし、怖かった。彼の口から言われるまでは見ないふりをしようと心に決めていた。
言わないでくれ、と願ってもいた。
だが、慎太郎はやはり慎太郎だった。俺を心から信頼している慎太郎が、初めてできた彼女のことを言わないわけなんて、なかった。
「俺さ、宮部と夏頃から付き合ってるんだ」
ああ、そっか、やっぱりな、と俺は答えたと思う。できるだけ自然に、いつも通り明るく。
ちゃんとできていたはずだ。水臭いな、もっと早く言えよ、とかまで言ったかも。
それは間違いなく親友として正しい対応で、慎太郎にとっても満足な反応だったはずだ。
でもあれ以来、思ってしまうのだ。いつも通りの顔でキャッチャーミットを構えて、こちらをまっすぐに見つめる慎太郎をマウンドから見返すたび。
振りかぶって、ボールを彼に向かって放るたび。
怪我したら自然な形でバッテリーじゃなくなれるのにな、なんて。
もちろん、そんなわけにいかないことくらいわかっている。うちは弱小チームだけれど、みんな野球を愛している。慎太郎のこととは別に、俺だって野球部の一員として、頑張らないといけないと思っている。
それでも……軋む心をを抱えて何か月もいるこの状態がしんどくて、怪我に逃げたくなることだってあっても仕方ないのではないだろうか。
「東雲先輩」
グラウンドを出て部室へと向かいながら、つらつらとそんなことを考えている俺の肩が不意にくいっと掴まれる。俺はのけぞるようにして相手を振り仰いだ。
「お前なあ……いきなり掴むなよ。脱臼したらどうするんだ。お前が代わりに投げてくれるのか」
俺の肩を引っ掴んでいるのは、一年の結城春歌だ。サードを守りつつ、俺になにかあったときは控え投手としてマウンドに立つことになっているやつ。相変わらず表情の乏しい顔でこちらを見下ろす彼に苦い顔をすると、結城は面倒臭そうに肩をすくめた。
「俺、サードがいいんで、嫌です」
まただ。こいつはいつもこうだ。俺の控えのくせに、投げたがらない。
はあっとため息を漏らしつつ、俺は目の前のこいつを観察する。
春歌、なんて可愛い名前をしているが、身長は全然可愛くない。俺より十五センチは高い。肩幅もまあまあある。サード向きの体つきといえるとは思う。思うが、正直俺はこいつに物申したいことがいっぱいある。
「嫌って、お前、中学のときピッチャーだったんだろうが。正直、お前のほうが速球投げれるし、俺より投手向きだと思……」
「あ!」
だが、俺の言葉を結城はさらっと無視する。いきなり大声を上げられて、耳がきんとなった。片耳を押さえ、なんだよ、と睨む俺の右手が、むんずと掴まれた。
「怪我したくない、怪我したくないって言うくせに……。なんですか、これ」
「あー……」
彼の指摘通り右手の甲が少し擦りむいて血が滲んでしまっている。走塁の練習をしているときに地面で擦ったのだが、まあ、この程度はわりとよくある怪我だ。
……というか、怪我なんて今はむしろどうでもいい。どうせなら大怪我しちゃいたいくらいだ。
「騒ぐなよ。たかが擦り傷だし、そんな……」
「蜂窩織炎って知ってます?」
傷口を睨みながら結城が言う。ほうか、なんだって? と首を捻る俺を、焦げまくった可哀想な卵焼きを見るような目で見やり、結城はため息をついた。
「擦り傷から入った雑菌が脂肪とかにまで広がって、炎症を引き起こしちゃう感染症ですよ。最悪の場合、敗血症になって死に至るとか」
「なんだそれ……こわ……」
「でしょう。そうなったら野球どころじゃないですよ。ってことで、こっち来てください」
言いざま、手首をぐいぐいと引かれる。そのままグラウンド脇の手洗い場まで連れてこられ、容赦なく水を手に浴びせられた。
季節は今、十一月の終わり。北関東のこの辺りは霜が降りるのも早い。水道水もすでにめちゃくちゃ冷たい。
ただでさえ心が冷え冷えなのに、冷水をかけられて俺は身をすくめた。
刺さるほど水温の低い水道水に、自身の手ごと俺の手をさらしながら、結城が言った。
「はい、痛いですね。冷たいですね。大丈夫です。我慢我慢」
ざばざば、と蛇口からは勢いよく水が溢れ出している。俺の手を引っ掴んでいる結城の手も水がかかって少し赤くなっている。
お前まで冷たい思いをすることもなかろうに、と俺は少し呆れる。
「俺のことはいいから、さっさと着替えろよ。適当に洗ってあとは絆創膏もらって自分で貼るから。ってか、お前まで濡れちゃって……」
「絆創膏、必要ですか? 東雲先輩」
ひょい、と明るい声が飛び込んできて、俺はぴくん、と背筋を跳ねさせる。さっきまで慎太郎と笑っていた宮部がすぐそばに佇んでいた。
我知らず慎太郎の姿を探す。ああ、いた。グラウンドの端で他の部員と談笑している。そろそろと視線を宮部に戻すと、慎太郎によく似た雲ひとつない朗らかな笑顔で、彼女は俺を見返していた。
お似合いにも程があるな、と苦い笑みが浮かびそうになる。痛む胸から気を逸らそうと躍起になりながら、俺は曖昧に頷いた。
その間にも、宮部は水流に打たれている俺の手を覗き込んでくる。
「わ、痛そうです〜。待ってくださいね。絆創膏を今……」
「あ、いや、別に、大丈……」
「宮部」
断りの言葉を口にしかけた俺の声を遮ったのは、結城の硬い声だった。え、と見上げると、俺の手首を引っ掴んだままでいた結城がつと手を伸ばした。きゅっと音を立てて蛇口が閉められる。
「この人が怪我するのは想定済みだし、俺が面倒みるから。お前は他の仕事あるだろ。そっちやんな」
言いざま、水道脇に置いていたタオルを引っ掴み、俺の手を拭く。宮部はきょとん、としたようだったが、そなの? 先輩、お大事になさってくださいね、と軽い声を残してその場を離れていった。
ふうっと体から力が抜けるのがわかった。結城に気づかれないように息を吐いて手洗い場の縁に体を預ける。
本当にしっかりしないといけない。こんなことじゃあこれから先が思いやられる。
いかんな、と自分を叱咤し、顔を上げた俺はふと目線を落とした。
手がまだ、掴まれたままだった。水色のタオルが、柔らかく、揉み込むように俺の手を包み込んでいる。
「なあ、もういいって。ってか、自分で拭ける」
そろそろと声をかけるが、結城は返事をしない。なあ、と声を重ねると、やっと顔が上がった。
「先輩に任せておくと、適当に拭いて、濡れた状態で絆創膏貼って、化膿させちゃいそうだから駄目」
駄目、ってなんだよ、と思ったが、俺は口を噤んだ。
こいつがこんな風なのは……今に始まったことじゃない。
最初はいつだったろう。今年の四月とか、五月とか、その辺りだったと思う。
野球部にこいつが入部してきてしばらくしたころだ。
俺はポジションがピッチャーだし、他の学校ならあまり、スライディングの練習なんてさせられないと思う。手を怪我したら困るからだ。しかし、ここ、西邦高校野球部は弱小で、部員数が圧倒的に少ない。だから、皆がそれぞれポジションを掛け持ちするしかなく、点数を取りにいくのだって、ピッチャーだからなんて理由で免除されはしない。取れるタイミングにはぐいぐいいく。それがこの部の方針だ。そんなだから、俺だって怪我はしょっちゅうだった。こけても、擦りむいても、ああ、またやっちまったなあ、くらいだった。
あの日もそうだった。肘に擦り傷があったけれど、まあ、それほど痛くないし、と軽く砂を落として着替えをしようとしていた。その俺の腕を、むんずと捕まえたやつがいた。
それが、結城だった。
「あんた、馬鹿なの?」
入学したての一年でありながら結城はそう言い放ち、俺の腕を強引に引くと、部室内の長椅子に座らせた。着替えを始めていた他の部員が呆気に取られるほどの剣幕で、結城は俺を叱り飛ばした。
「そのままにしておいて、大変なことになったらどうするんだよ!」
「え、あ、すみません……。でも、その、俺、先輩……」
びっくりし過ぎてこっちが敬語になりつつも、さすがにお前は敬語使えよ、と期待したが、結城の勢いは止まらなかった。
「自分の体に無頓着な馬鹿野郎にはこれくらい言わないとわかんないから。そもそもあんたピッチャーだろ。あんたが崩れたらチームぼろぼろになるんだよ。そんなのもわかんないの?」
一年にずいずいと詰められ、たじたじとなった俺に、助け舟を出してくれたのは慎太郎だった。
「まあまあ。そんなに言わなくても……。圭人も反省してるから。今日はその辺で……」
「その辺で、で許したらこういう人は何度だって同じことやるんですよ」
忌々しげに吐き捨てられ、慎太郎が怯む。結城は床に膝を突き、長椅子に座った俺を下から睨み上げる。
「俺は困る。そういうの。迷惑をこうむるのは、控え投手の俺なんだから」
迷惑。たかが擦り傷を放置しただけでここまで言われるとは……と納得がいかない気持ちもあったが、結城の気持ちもわからないではなかった。
なんといってもうちのチームは人数が少ないのだ。一人ひとりの肩に重責が常にある状態と言っていい。俺の行動が結城にとって許せないものだったというのもまあ頷ける。
「ごめん。お前の立場考えたら、そう言いたくなるよな。悪かった」
とはいえ、あまり深刻な声で返すのも憚られる。皆が、喧嘩か、喧嘩なのか? と固唾を呑んで見守っている状態なのだ。ここは明るく、心広く、謝ってしまったほうがいい。
ぺこん、と俺が頭を下げると、結城も小さく頷く。やれやれ、と空気が緩み、それぞれ着替えに戻っていく部員の中で、しかし、結城はまだ俺の手を握ったままだ。
そろそろと手を引き抜こうとするが、強い力で捕まえられていて……できない。
「あのー、悪かった。ちゃんと傷口洗うから。消毒もするし。だからもう……」
「そういうの、俺が全部やります」
離して、の一言は、言わせてもらえなかった。なんだって? と首を傾げると、鋭い目がぎろり、と俺を睨んできた。
「正直、先輩のずぼらさ、ずっと気になってたから。投げた後、肩もアイシング怠ってるし、ストレッチももっとすべきだし。だから、これからは俺が先輩見張ります」
「見張るってなに。いや、大丈夫だよ。気をつけるし。第一、俺の控えにはお前がいてくれるだろ。万一のときはお前、投げてくれよ。お前の球、俺より速いし、むしろ……」
「俺、サードしかやりたくないんです。だから先輩に怪我されるのは困る」
サードしかやりたくないって……なんなんだ、それ。
呆れはてて口も利けない。その俺の手を結城はやっぱり掴んだままだ。さすがにいらっとして、いい加減にしろよ、と振り払おうとしたが、その俺の言葉を止めるように、くん、と強い力で手が引かれた。
「いいから、肘、出して」
出してってなんだ。出してください、じゃないのか。しかも、出して、と依頼口調ながら、彼の手の方は少しも依頼じゃない。完全に命令の強さでぐいぐいっと俺の腕を引っ張る。
勘弁しろよ、とため息を漏らすものの、抗えないでいると、結城は部室に常備してある救急箱から消毒用アルコールを取り出し、それで肘の砂を容赦なく落とし始めた。
こいつ、俺に恨みがあるのか、と思うくらいめちゃくちゃ沁みた。が、痛い、と言うのは癪に障った。生意気過ぎるこいつに治療されて痛がるなんて、絶対に嫌だ。
痛いなんて死んでも言わねえ、と歯を食いしばっていたのだが、その俺の腕を掴んでいた春歌の手がふと緩んだ。ふるふるしながら目を上げると、俺の前にしゃがんでいた結城が俺の顔を振り仰いでいた。
「痛い、ですか?」
声もアルコールでできていたら困る、とでも言いたげな声だった。その彼の顔を見て、俺は観念した。
言い方はともかく、どうやら心配してくれているようだと感じたためだった。
「痛くねえよ。さっさとやれ」
あれ以来、結城は俺を本当に見張るようになった。
部活が終わるとすっ飛んできて、俺が怪我をしていないか確認する。傷一つでも負っていようものなら、鬼のような顔で手当てをする。
そしてそれは……俺的に絶不調の現在も続いている。
「とりあえず今日はここだけか。それほどひどくないし、絆創膏で良さそうですね」
言いながらポケットから絆創膏を引っ張り出す。これにも慣れた。はいはい、と諦めつつ手を出す。その俺の首元を冬の始まりの冷たい風がひゅるり、と撫でた。
いつの間にか、慎太郎の姿も宮部の姿もない。他の部員も部室に戻って着替え始めているようだ。初冬の空は暮れるのも早く、すでに夜の色だ。
「寒い、ですか?」
問いかけてくる結城に、手洗い場の水道の縁に腰掛けながら、そだな、と気怠く答え、俺は目を閉じた。
風は冷たくて、少し、痛い。
かさかさとフィルムが剥がされる音がする。瞼を下ろしたままそれを聞いている俺の手の甲に、そうっと絆創膏が貼られた。
「先輩って、思ったよりもずっと、痛がりなんですね」
「なにが? 別に痛がってねえよ。今日の怪我は全然」
「こっちのことではなく」
絆創膏を貼り終わったのに、結城の手は離れない。水で冷えた手が俺の手を両手で包むのを感じ、俺はふっと目を開けた。
こいつは俺より随分背が高い。だが、こちらに注がれる視線は俺より下にあった。
大きな手にきゅっと、力が入った。
「心、めっちゃ、痛そう」
「……なんの話」
即座に言い返す。が、ふいうちだったせいで完全にはごまかしきれなかった。ちょっとだけ語尾が滲む。その俺を、結城は地面に膝を突いたまま、静かな目で見上げてくる。焦った俺は掴まれたままの手を必死に引っ張った。
「変なこと言ってないで、手、離せよ。手当、終わったんだろ」
「終わってませんよ」
結構な力で引っ張ったはずなのに、やっぱり手は取り返せない。いい加減に、と声を荒らげた俺の前でつと、結城が立ち上がった。
「俺、言いましたよね。怪我しないように見張るって。先輩のこと」
「聞いたよ。実際、毎日毎日、チェックされて、お前は俺の専属ドクターか、って思ってるよ」
「専属ドクターか」
こいつの声は普段は淡々としている。今日もそれほど波立った声じゃない。なのに、ちょっとだけ、いつもと違う響きが混じっているような気がした。
なんだろう。声には温度があると聞いたことがあるけれど、今のこいつの声を表現するなら少し……この、冬の風に似ていると思った。
「でも、ドクターなら体だけじゃないですよね。心も……診ますよね」
ゆっくりとそう言いながら細められた切れ長の目を俺は呆然と見上げる。
「心、痛いですよね。痛いなら、絆創膏、したほうが良くないですか?」
俺は、誰にも話していない。俺が慎太郎を中学時代からずっと……想っていたことを。
言えるわけはなかった。もしも誰かに話して、それが巡り巡って慎太郎に伝わってしまったら。いいや、そうでなくとも、俺の気持ちがだだ洩れて、慎太郎に勘づかせてしまったら。
俺たちは一緒にいられなくなる。そんなのは絶対嫌だった。
嫌われたくなかった。怖かった。だから、誰にも心の内を明かさなかった。
こいつにだって、俺はなにも言っていない。
けれど、こいつがこのタイミングでこれを言うのは……気づいているからかもしれない。こいつは……知ってしまったのかもしれない。俺の心の奥底に押し込めた、絶対誰にも見られてはいけない、気持ちを。
「なにを、言ってる?」
ぐるぐる考えて、結局、ごまかすことしか思いつかなかった。引き攣った笑みを零し、手を払おうとする。けれどやはり振り払えない。
離せって、とさらに声を尖らせる。と、いきなりするっと手から手が抜けた。ほっとしたのも束の間だった。
「なに……」
ふわっと長い腕が俺の両頬を掠める。唖然としている体が引き寄せられ、こつん、と結城の胸に額が当たった。
「ちょ、お前、なに……」
「舐めないでくださいね、先輩」
少しずつ強くなり始めた風が、ざわざわとグラウンド脇のケヤキの葉を揺らす。けれどその音は大きな体にすっぽり包み込まれた俺には届かない。
脳に流れ込む血の音がはっきり聞こえ過ぎて、周りの音がすべて、キャンセルされてしまっていた。
完全にフリーズした俺の耳元で結城が言う。
「わからないわけないでしょう。何か月、先輩のこと見張ってたと思うんですか。先輩の心が致死寸前なことくらい、俺はちゃんと、気づいてましたよ」
致死寸前。
言われて、傷口がぐりり、と抉られた気がした。
苛立って体を離そうとするが、結城の腕は緩まない。おまえなあっ、と怒鳴ろうとする俺の体に回した腕に力を込め、結城が囁いた。
「嫌ですか? 心見られて、腹、立ちますか? でも見えちゃったんだから仕方ないじゃないですか。死にそうな人、見捨てられないじゃないですか」
「何言ってんだよ! 俺は別に……」
「本当に?」
体越し、声が伝わってくる。ふっと息を止めた俺の耳に、結城の声がじわり、と沁みた。
「溺れてて、目の前に浮き輪流れてきたら、誰だって摑まりますよね。生きたいって思う心は、本能だと思うから。それでよくないですか?」
「さっきからなにを……」
「わかりませんか?」
背中に回されていた手が滑り、俺の頭に触れる。宥めるような指が俺の髪を漉いた。
「俺のこと、絆創膏にでも、浮き輪にでも、好きに使えばいいよ、って言ってるんですよ」
「は……」
こいつはなにを言っているのだろう。腕を振り回したが、むかつくくらい俺より体格に恵まれていて、全然歯が立たない。
「俺の仕事は先輩の怪我、見つけて癒すことだから。こうすることで先輩が少しでも楽になるなら、いくらでもこうしたい」
「さっきからお前、なに……大体、お前がそれを俺にするメリットってなんだよ? 意味、わかんない……」
ぜいぜいしながら言葉を継ぐと、ふっと結城の腕が緩んだ。二の腕が掴まれ、結城の胸に張り付いていた体が引き剥がされる。
こちらを見下ろした結城の唇は笑みを形作っていた。
「言ったじゃないですか。先輩が怪我をすると俺が困るから。ただそれだけ」
そう言ってから、彼の手がするり、と体から引かれる。放り出してあったタオルをひょい、と首にかけながら結城は俺に背中を向ける。
「寒くなってきましたね。着替えて帰りましょ」
「帰りましょって……お前、こんなこと、しといて、そんな普通に……」
「こんなこと」
ふっと彼が肩越しにこちらを振り返る。薄い唇からは笑みが消えていた。
「ただのレスキューです。だから先輩も特別なことだなんて思わないでいいですから」
ほら、行きますよ、と凪いだ声が促してくる。それきり説明する気も振り返る気もなさそうなその背中を、俺は睨みつけた。
レスキューだと、ふざけやがって。
詰ってやろうと思ったが、そこで急に冷たい空気に鼻先をなぞられ、立て続けにくしゃみが出た。
さっきまで寒さを完全に忘れていたのに。
くそ、と鼻を擦り、立ち上がる。遠くになり始めた結城の背中をのろのろと追いかけながら、俺はふと手の甲を見た。
結城が貼った絆創膏はなぜか、ポムポムプリンの絵柄だった。
あの日から少しずつ、なにかがおかしくなった気がする。
「先輩」
部活終わり、俺が怪我してないか確認しにくるのはいつも通り。すっかり汚れてしまったユニフォームをぱたぱたと甲斐甲斐しくはたいてくるのもまあ、いつも通り。
けれど、変化は確実に起きている。
「一緒に帰りません?」
部活終わり、これまでは慎太郎と帰っていた帰り道を、あの日からなぜか結城と辿るようになったことがまず一つ目の変化。
そしてもう一つは。
「お前、夕飯前にそんなの食べてなんか言われないの」
コンビニで買った唐揚げ棒を片手にぶらぶらと歩く結城の隣で俺は肩をすくめる。結城はかぷり、と唐揚げにかぶりつきながら首を振った。
「うち、親、帰り遅いし別に。ってか先輩の家もそうですよね?」
「……お前はなんでそれを知ってるの」
「前に東雲先輩と桜沢先輩が一緒に帰る後ろからついて帰るみたいになったことあって。そのとき話してるの聞こえたから」
桜沢先輩。
さらっと出てきた名前にちくっと心が疼く。今日も俺の隣に慎太郎はいない。慎太郎に送られて帰っていったのは、彼女。
「口、開けて」
どろどろとした気持ちに支配されかけた俺の前にぬっと、茶色いなにかが突き出される。いきなり過ぎて、ふっと思考が途切れた。
ふわっと漂ってくるのは食欲をそそる、スパイスの香りだった。
「これ、辛いやつ?」
訊ねる口に、つい、と唐揚げが押し込まれる。思った通り、舌に旨みと共にぴりっとした刺激が伝わってきた。
「今日の絆創膏は、これ」
むぐむぐと噛みしめている俺の頭の上で結城が言う。なに? と目だけ上げると、結城は俺の手から唐揚げ棒を奪って口に運びつつ、言葉を継いだ。
「美味いもの食べて、人と話して。そうしてたら痛いのなんて、いつかなくなるから」
唐揚げを食みながら言う結城を俺はちらっと見やる。
あんなことがあってからも俺は結城になにも打ち明けてはいない。慎太郎のことも、宮部のことも。俺の長い長い片想いのことも。なにひとつ。なのに、こいつは時々、こんなことを言う。
しかも絶妙のタイミングで。
それが、とても、ムカつく。
「こんなんで痛いの治ったら、医者なんていらねえよ」
そうだ。なにが、絆創膏だ。なにが、浮き輪だ。
ふん、と鼻で笑ってみせ、俺は先に立って歩く。その後ろから結城がついてくる。明確な拒絶を俺は口にするのに、結城の足はいつだって俺を追いかけてくる。
うちの高校は市街地から少し離れた場所にある。だから唐揚げ棒を買ったコンビニを過ぎると店もなくなり、街灯も減る。通学路には怪談話がちらほらあるポイントも存在するので、冬場のこの時期、夜にひとりで帰るのはちょっと嫌だ。
その意味で、連れがいるのはありがたいことではあるのだ。あるのだが、俺はどうしたって戸惑ってしまう。
それは、こいつが俺の心を読んで、絆創膏になろうとするから。
「圭人先輩」
不意に呼ばれて俺はぎょっとする。下の名前で呼ばれることなんて、これまでなかった。お前、いきなりなに、と振り向いたとたん、くい、と腕が引かれた。
「唐揚げじゃあ痛いの取れないなら、こっちだったら、取れます?」
長い腕が肩に回される。きゅっと抱きしめられて俺は思わず目を閉じた。
こうして抱きしめられるのも、もう何回目だろう、と俺は数えようとする。
手洗い場での最初の一回があってから、結城はなにかというと俺を抱きしめるようになった。
慎太郎が宮部に手編みのマフラーをもらった、とにこにこ顔で報告してきた日もそうだった。
慎太郎に受けてもらいながらピッチング練習をしていて、「今日もいい球!」と全開の笑顔を向けられた日もそうだった。
俺がもやもやで潰れそうになった日の帰り道、結城はなぜか俺を抱きしめてくる。
今日も、そうだ。
部活終わり、宮部に呼び止められた。
「桜沢先輩って甘いもの、大丈夫でしょうか。クリスマスにケーキ作ろうと思ってるんですけど、サプライズ、したくて」
東雲先輩なら、桜沢先輩のことなんでも知ってますものね。
無邪気にそう言われ、かっとなり。あいつはなんでも食うよ、雑食だから、なんてひねた答えを返してしまった。
そんな、最低で、痛かった今日。
でもそれを、俺はこいつに一言も告げていない。
なのに、こいつは全部お見通しの顔で、俺を抱き寄せる。
「お前さ……」
冬コートの柔らかな生地が頬に当たる。それを感じながら俺は呟く。
「ピッチャー、やらない?」
こいつがやってくれたら、俺も楽になれる。正面から慎太郎の顔を見つめ続けるのはなかなかにしんどいから。せめてバッテリーでなくなれば、痛い日は続かなくなるのでは、と思うから。
けれど結城はふっと小さく息を漏らして首を振った。
「やらないです。俺、サード好きなんで」
「前々から訊きたかったけど、なんでサード? お前、もとはピッチャー希望で入部してきたよな」
うちの部では、入部してすぐ、希望のポジションはあるか、と聞き取りが行われる。必ずしも希望通りにはならないが、適性に応じてポジションは決められるべきだという監督の考えから、聞き取りは必ず行われていた。その際、こいつはピッチャーがやりたい、という意志を示していたのだ。
なのに、今のこいつは、ピッチャーを頑なに拒む。
「俺の身体能力を遺憾なく発揮できるのは、サードだって思ったから」
「身体、能力?」
「サードは俊敏でボールを恐れず、一番……」
そこまで言って、結城は俺の頭にこつん、と頭を当てる。
「っていうか、俺、圭人先輩見て、ピッチャーコンプレックスになっちゃったから、ピッチャーは無理なんですって」
「ピッチャーコンプレックス?」
「圭人先輩、めっちゃ、フォーム綺麗だから。あんなん見たら、俺がピッチャーやるなんておこがましいって思っちゃいますよ。自分で気づいてないんですか? フォーム、教本みたいですよ」
「……気づかねえよ。ってか、なんだよ、ピッチャーコンプレックスって」
「略してピチコンですね」
ふふ、と肩口で彼が笑う。めったに笑わないやつだけれど、なぜかこうして密着しているときは笑い声を立てることが多い。
意味がわからない。本当に、なんでこんなことになったんだか。冬なのに温かすぎる腕の中、俺は身じろぎをする。
「そもそも、お前、なんで俺のこと、名前で呼んでんの」
後輩のくせに、とは言わずにいると、きゅっと腕の力が増した。
「そうしたほうが、もっと近くなれるから。近くなれば……傷にもっと触れられるでしょ」
傷に、触れられる。
少し怖くなった。結城は俺の事情をなにも聞いてこない。ただ……抱きしめてくるタイミングからして、こいつは確実に俺がなにを思って悶々としているか気づいている。
それでもこいつは言うのだ。もっと傷に触れられるから、近くなりたい、と。
近く、とはどこまでのことを言っているのか、俺にはわからない。
こいつの言う、近く、は、慎太郎よりも近い場所なのだろうか。
「圭人先輩」
くっついた体から声が響いてくる。その声は甘やかすように俺に言う。
「いろいろ考えなくていいから」
するっと手が上がり、俺の後ろ頭を撫でる。長い指がさらっと髪にくぐらされるのを感じた。
「こうしてる間は全部、俺に預けててください」
こんなの、絶対おかしいし、意味がわからない。
でも俺は、この腕を振り解けないまま、今日もここにいる。
「なあ、圭人」
土曜日の今日は午後いっぱい練習の予定だったが、小雪が舞い始めてしまっている。冷えるし、ゆっくり投球練習しようか、と慎太郎と相談しながら、俺はグラウンドをぼんやりと眺めていた。
視線の先では、寒々しい景色の中、野手がそろってノックを受けている。
「サード行くぞ〜!」
監督の声と共にかきん、とボールが弾かれる。はい! と鋭く返事をし、結城がボールに飛びつくのが見えた。
「思ってたことあるんだけどさ」
それを目で追っている俺の横で慎太郎がのんびりと言う。
「結城って身体能力、ヤバいよな」
「……は?」
少しどきっとした。目であいつを追っているのを慎太郎に気づかれたのかと本気で焦った。
「なんで急に結城?」
声が揺れないように注意しながら問うと、片手でボールを投げ上げてはミットでキャッチを繰り返しつつ、慎太郎がこちらを見た。少し垂れた目が楽しそうに細められるのを俺はついつい凝視しそうになり目を逸らす。慎太郎はその俺の不自然な態度にも気づいていない。
「俺さ、キャッチャーだから全体見えるじゃん。試合のときも見渡さないといけないし。で……気づいたんだけどさ。あいつの守備範囲、完全にサードの限界超えてるんだよ。いつも。気づかない? お前、投げてて」
「あー……」
感じたことはあった。内野手も外野手も明確ではないにせよ、ある程度守備範囲は決められている。しかし結城に関してはその定められた範囲が意味をなさないほど、常に内野中を駆け回っていたのだ。
「普通、サードがファースト脇まで行けないじゃん。豹かなにかかよ、ってみんなで話してた」
くっくっと慎太郎が肩を揺らして笑う。ああ、と頷きつつ、俺も思い出す。
――俺の身体能力を遺憾なく発揮できるのは、サードだって思ったから。
あの言葉は、自分をよく理解したうえでのものかもしれない。
噂をしている間も結城は駿足を駆使してボールに食らいついている。送球も正確で無駄がない。
確かにサード向きだよな、と納得していると、ちらっと結城の目がこちらを見た。一重の切れ長の目がすっと見開かれた後、軽く細められ、なんだかどきっとする。それを隠したくて俺はその場にしゃがみ込む。解けてもいないスパイクの紐を結び直していると、のんびりした声で慎太郎が言った。
「ってかあいつ、お前のこと、大好きだよなあ」
心臓が大きく跳ねた。
なにを思って慎太郎はこれを言うのだろう。もしかして知っているのだろうか。お前が彼女と笑うたび、痛みをこらえきれないで蹲る俺を、あいつが抱きしめている、その事実を。
思い出されたのは、圭人先輩、と呼ぶ結城の声だった。と、同時に、柔らかく自分を包んだ腕の感触まで蘇ってしまう。
あれは……誰にも知られてはならない時間だ。特に慎太郎には。
軽く頭を振り、紐を直すことに集中しようとするが、慎太郎の声は止まらない。
「怪我されて、控え投手やらされるの嫌なんで、先輩の面倒は俺が見ます! なんてさ、変なやつだなあ、とは思ってたけど。宣言通り、ほんっとによく面倒見てるもんな。キャッチャーとしてもありがたいよ。あれは相当懐いてるってことだろ。しかもさ、お前、知ってる?」
「なに、を?」
問い返しながら俺は唇を噛む。
正直……もうやめてほしかった。
楽しそうに、俺のことを慕っているだろうやつの噂話なんて、してほしくなかった。
でも……それは、言えない。慎太郎はいつも通りの単なるバッテリーの顔で笑っている。
「あいつ、お前がセットポジションで構えるとき、絶対、お前の顔見てるの。いやいや、バッターの動き見ろよ! って毎回思ってたけど。あれ、なんなんだろうなあ」
「見てる……?」
セットポジションとは、投手が盗塁を警戒して投球モーションに入る前、静止する姿勢のことだ。俺は右利きだから、この姿勢を取るとき、大抵サード側に顔を向けていることになる。
スパイクの紐から手を離し、俺はグラウンドに目を向ける。マウンドの上、セットポジションに入る自分の姿を記憶から引っ張り出す。
……一度深呼吸してボールを手の中で回す。そうしてゆっくりと腕を上げる。
盗塁を警戒してのことだから、周囲を見渡してはいた。特にベースには如才なく目を配っていたはずだ。あのとき、サードの彼は、どうしていたか……。
記憶を辿り、ふっと俺は片手で口を押さえる。
サードにいた結城は、打球に備えて前傾姿勢を取っていた。が、その彼の目がこちらに向けられていたことが何度かあったことを、俺も思い出した。
「ま、あの身体能力なら、どっち向いていようが追いつけるんだろうから、別にいいけどさ。ひよこの刷り込みみたいにお前のこと見てるから、ちょっと面白くなっちゃって」
楽しそうに慎太郎が笑う。
屈託なくて、どんな憂鬱も、からっと吹き飛ばしてしまう慎太郎のその笑顔は、俺にとって日常的に隣にあるものだった。それは今も変わってはいない。慎太郎に彼女ができようが、俺と慎太郎の関係は、息の合ったバッテリーであり、昔からの友達だ。慎太郎にとっての俺は変わらずにそうだ。俺もそうあるべきだと思っている。
彼女が入れるお前の内側のスペースにどうあっても入れないのなら、俺は今いるこの場所から出るべきじゃないと弁えている。
その今の立ち位置で、これを言われたとき、俺がするべき顔は、「そうだよな、なんか懐かれててさ。可愛い後輩だよ」くらいなのかもしれない。
それでも……やはり思ってしまうのだ。
俺がいるこの場所は、お前にとって、面白い、で片づけられる場所なんだな、と。
思っていいわけがないのに、嫌だと感じてしまうのだ。
「……面白く、ないだろ」
低い声で言い立ち上がると、慎太郎がきょとんとする。形のよい丸い額が後ろ前にかぶった帽子の下から覗いているのを俺は見つめる。
「どした? 圭人。具合悪いか?」
「悪くない。ただ……笑ってやるなって思っただけ。別にあいつ……俺見てるわけじゃないと思う。それなのにそんなふうにからかわれるのは……違うって思ったから」
硬い声で俺が言うと、はっとしたように慎太郎は目を瞬く。ややあって、そだな、とすまなそうな表情が浮かべられた。
「そだよな。結城が聞いたら嫌な思いするよな。変なこと言ってごめん」
「……俺に謝られても困る」
吐き捨てるように呟いたとき、おーい、さっさとピッチング練習しろー、と監督から声が飛んできた。はい! と大声で返事をする慎太郎の横で、俺もぺこりと頭を下げる。
視界の端にこちらを見る結城の姿が映ったけれど、見ないふりをして俺はボールを握りしめた。
心が乱れていると注意力は散漫になる。
それはやっぱりそうで、練習が終わって着替えを終え、部室を出たところで、俺は手首を軽く振った。
投げ方が悪かったのか、調子がおかしかった。痛いわけではないがちょっと違和感がある。
しかしまあ、こういうことも経験がないわけじゃない。溜め息を噛み殺しつつ、手首をぶらぶらと振りながら歩いていると、ぬっと隣に影が差した。
「手首、おかしくしてます?」
「……してない」
そっぽを向いて言う。が、結城はごまかされてくれなかった。
「かかりつけの医者って細木整形ですか?」
「まあ。でもそんな大げさなことじゃないって。痛いとかじゃないし。多分、この感じなら放っておいて大丈夫なやつ……」
そう言ったとたん、くいっと二の腕を引っ掴まれた。
「一緒に行くんで。ちゃんと診てもらいましょう」
「はあ? 別にいいって。多分、怪我とかじゃない。心配し過ぎ」
「先輩が投げられなくなると、俺が投手やらされるんです。それは本当に嫌なんで」
まただ。
また、投手は嫌だ、が出た。
それはそうなのだろう。こいつは最初から一貫して、投手は嫌だから怪我させないように見張る、と言い続けている。
だが、だとしたら、投げるのに関係ない、心の痛みなんてやつにまで絆創膏を貼ろうとするのはなんでだ?
こいつとのことを慎太郎にからかわれ、かっとなった一方で、俺は……こいつの心も読めなさ過ぎていらついている。
「圭人先輩?」
「……とにかく、帰るから」
言い捨て、俺は結城に背を向けて歩き出す。拒絶の意思は充分伝えたつもりだが、結城はそんなこと知ったことじゃないと言わんばかりに、いつも通り俺の背中についてくる。
「先輩」
いらいらしながらも無視を決め込んで歩いていた俺の肩がついつい、と突かれる。それでも振り向かずにいると、ふっといきなり気配が離れた。
数歩進んでもついてきている様子がない。さすがに冷たく当たり過ぎただろうか、とじりっと不安を覚えた。
そろそろと振り返る。が、そこにはぽつり、ぽつり、と広い間隔で立ち並ぶ街灯と、すっかり沈黙を決め込んだ畑や住宅があるばかりだ。
「いない、か」
別にどうってことないことだ。俺とあいつは慎太郎と宮部のような関係じゃない。あいつは義務感で俺と一緒にいるだけ。自分のために俺に絆創膏を貼り続けているだけ。
だから……どこへ行こうが自由なはずだ。
そう、思う。なのに、なんだか夜道が無性に暗く思える。
俺、少しおかしいのかな、と呟きながら軽く瞼を擦る。が、目を開けて俺は驚いた。
横道から不意に結城が飛び出してきたために。
「お前、なにして……」
そう言いかけた俺の手にぽん、と缶が乗せられる。なんでだか……お汁粉の缶だった。
「なんで……汁粉」
「ここ曲がったとこに自販機あるの思い出したから」
答えになってねえ。なんで汁粉なんだ。
疑問しか沸いてこない。が、結城は答えず、俺の手に乗せた缶を一度取り上げ、蓋を開けてから俺の手に戻した。
「飲んで」
「いや、だから、なんで、汁粉」
「今日ずっといらいらして見えたから」
は……と俺は思わず口を開ける。結城が開けた汁粉の缶からは、細く白い湯気がたなびいていた。
温かそうなその湯気を見ていたら……なぜか目の前が曇った。
「お前、さ」
結城は黙ったまま俺を見下ろしている。その結城に目を向けず、汁粉から伸びる湯気ばかりを睨みながら俺は口を動かす。
「見てたの、今日。俺が慎太郎と話してるとこ」
結城から返事は落ちてこない。湯気はゆらゆらと空気に翻弄され、身をよじっている。
ひとりぼっちで……寒さの中で震えている。
「練習のときさ、俺と慎太郎はお前の噂話をしてたんだよ。お前の身体能力、半端ねえな、ってことと、あと、お前は俺のこと、本当に好きなんだなあって」
沈黙しか返ってこない。それでも俺は言葉を紡ぎ続ける。
「慎太郎は笑顔で話してた。結城って見てるとひよこみたいで面白いな、って、なんの裏もなく、けろっとした顔で。俺はそれ聞いて、なんだかムカついた。だから、そんな言い方やめろって怒ってしまった」
俺は缶を握る手にぎゅっと力を込める。まるで缶に縋るみたいにして顔を上げると、静か過ぎる結城の目と目が合った。
「俺が怒ったのはさ、別にお前のためじゃないんだよ。慎太郎にとって俺が誰に好かれようが、目で追われようが、どうでもいいんだな、って思い知らされて悔しかったからなんだ。彼女がいるあいつにとってそんなの当たり前なのに、嫌だってすごく思ったから」
これをこいつの前で言うのは初めてだった。ふうっと肩で息をすると、その肩にそっと触れられた。
「知ってますよ。桜沢先輩のこと、好きなんですよね。圭人先輩は」
肯定するのは怖かった。これまで誰にも言ったことがないのだ。慎太郎にさえ。それでも、俺は、頷いた。
こいつがどんなつもりで俺の心の痛みまで癒そうとしてきたか、それはわからない。
それでももしも……もしも、慎太郎が言う意味以上の俺への、好き、がこいつの中にあったら、俺はこいつにめちゃくちゃ残酷なことをし続けたことになる。
そんなのは、やっぱり駄目だと思った。
「正直……どうやって気持ち片づけたらいいか、まだわからないんだ。でも俺、ここまでお前に甘えすぎてたって思って。だから」
「圭人先輩」
そう言う俺の手にふっと手が重なった。目を上げると、お汁粉の缶を握る俺の手の上から温めるように、結城が大きな手でくるんできた。
「飲んで」
「いや、でも、今」
「いいから」
強い手に導かれて缶を口に当てる。冷えた唇に缶の温もりは予想以上に温かく、舌の上で汁粉は甘く溶けた。
こくん、と飲み下す音がやけに響く。見上げると、彼はその音に耳を澄ませるような顔をしていた。
「これ、落ち着きません?」
「まあ、うん。だけど、今は」
結城の言う通りではあった。冷えていた体に汁粉は確実に熱を与えてくれた。その熱のせいで心が緩みそうになる。だが、今はそんな場合じゃない。反論を口にしようと、俺は飲みかけの汁粉の缶を握りしめる。その俺の手からすっと缶が抜き取られた。
そのまま結城は汁粉をあおる。こくり、こくり、と温もりを抱いた音が響く。耳を満たすそれに我知らず陶然とする俺の前で、中身を飲み干した結城はふっと息を吐いた。汁粉の缶から出ていた湯気に似た吐息が夜に舞った。
「別に、よくないですか?」
「なに、が?」
「先輩が桜沢先輩を好きだとして、それは別にどうでもいいことじゃないですか、と言ってるんです」
どうでもいい。
どうでも、いい?
「それはつまり、お前にとって俺は別に好きとか、そういう対象じゃないから問題ないってこと? そう、だよな。お前はただ、救護目的で俺に接してただけで……」
そうです、と頷かれるかと思った。だってそれ以外の言葉が続くなんてありえない。
やっぱりこいつは面倒を見る延長線上で俺を抱きしめていたわけか。
それを察したとたん、ずきりと胸が痛んだ。
なんでだ、と胸を押さえた俺の前で、ふっと結城が笑った。
「違いますよ」
あっさりと零れた否定に、俺は思わず顔を上げる。その俺の右頬を結城の左手が包んだ。
「そういう対象ですけど、別に先輩が誰を想ってても関係ないって言ってます」
言葉が頭に沁み込んでいかない。結城の言葉を脳内で数度繰り返してから、俺は声を上げた。
「関係なくないだろ! 好、きな相手に別の好きなやつがいるんだぞ? そんなの……」
「報われないと不幸、は圭人先輩の常識でしょう。俺の常識は違います」
「お前の常識って……」
「先輩の目がどこを向いていたとしても……今、一緒にいるのは俺で、あいつじゃない。それが俺にとっての絶対ってこと」
あいつ、と激しい単語が出て、どきっとした。目を剥く俺の頬に当てられた手が、一層強く押し当てられる。
「こうして今、触っているのは俺。触らせてもらえてるのは、俺。触る権利を放棄したあいつになんて、俺はもう、圭人を絶対触らせるつもりがない。だから、関係ない」
頬を包んでいた手がすっと離れる。温かかった掌が遠ざかり、俺は唇を噛む。
少し、寒いと思ってしまっていた。
その俺の手首を頬から離した手で結城がなぞる。
「手首、痛くない?」
「いたく、ない」
のろのろと頷く。そうしながら俺は、結城が口にした、圭人、に気を取られていた。
なんて生意気なやつなんだろう。先輩を呼び捨てなんて、いい度胸過ぎる。
でも思ってしまっていた。今、ここにこいつがいることにたまらなくほっとすると。
俺が好きなのは……こいつじゃないのに。
乱れた心ごと絡めとるように、すうっと腕が伸びてくる。気がついたら、俺はいつも通り大きくて温かい、かまくらみたいな腕の中にいた。
「いいのかよ……」
思わず声が漏れる。ん? と短い返事がある。俺はくぐもった声で言った。
「俺、お前、好きじゃないのに。お前、それで……」
「好きじゃないけど、俺にぎゅっとされるのは、嫌じゃないって思ってません?」
かっと頬が熱くなった。手を上げ、胸を押し返そうとした。けれど……できなかった。
「寒くない?」
声が俺の耳朶に沁み込んでくる。その声に俺は目を閉じる。
そうして、うん、と小さく頷いた。
これまで、彼女、という存在が俺にもいなかったわけじゃない。中一のときに告白され、少しだけ付き合った経験がある。すぐに別れてしまったが、思い返すと俺は、結局最後まで彼女に好きと言わないままだった。
嫌いだったわけじゃない。笑顔が可愛くて優しくて、好きになれる、と思っていた。
でも、言えなかった。
今のこの状況はそれに近いのだろうか。練習中、慎太郎とキャッチボールをしながら俺はちらっと横目で結城を見る。
結城はセカンドの泉と黙々とボールを投げ合っている。普段通り表情は少ない。だが、今の俺は、あいつが仏頂面ばかりをするやつじゃないということを、知ってしまっている。
「圭人? どした?」
ボールを持ったままぼんやりしていた俺に慎太郎が声をかけてくる。あ、いや、と返事をし、掴んだままだったボールを放ると、慎太郎はにかっといつもの笑顔でボールをキャッチした。
その笑顔にくらり、としかけたが、すっと通り過ぎていく結城の背の高い姿が視界の端を過り、俺は俯いた。
最近、俺はおかしい。
相変わらず、結城は練習後、俺のそばに寄ってくるし、帰りも一緒に帰る。
そして、絆創膏、と言いながら抱きしめてもくる。
その関係はなにも変わっていないのだ。でもなんというか……以前とはなにかが違う気がしている。
なにが違うのか俺には正直わからない。
単なる友達との喧嘩なら、昔みたいに慎太郎に相談できるかもしれない。なんでこんなに胸が騒ぐのかと、なんでもあけすけに話せるのかもしれない。
けれど結城のことは……言えない。
「ほんと俺……どうしちゃったんだろ」
呟きながら俺は部室へ向かっていた。今日は二学期最後の練習日だ。終業式も終わり、この後練習がある。
とりあえず、体を動かせばすっきりするかな、などと思いながら昇降口で靴を履き替え、部室へ向かった俺の目に、いきなりその光景は飛び込んできて、俺は立ち尽くした。
野球部の部室の横手、ちょっとした倉庫になっているその陰に人影があった。
そこにいたのは……慎太郎と、宮部だった。
彼らは俺の視線に気づいていないようにぴたり、とくっついていた。小柄な宮部をすっぽりと覆うように慎太郎が抱きしめている。数秒そのままでいた彼らが、示し合わせたように顔を上げるのを、俺は息を殺して見つめる。
ゆっくりと顔と顔が重なる、その瞬間を数秒凝視してから、俺はそうっとその場を離れた。
「圭人先輩」
練習が始まろうとしていたが、ともかくも心の整理をしたい。混乱しながら足を早めていた俺の腕を引っ掴んだのは、結城だった。
「部室、あっちですけど。今日、練習、出ないんですか」
「あー……」
出るべきなのだ。でもどうにも足が向かない。逡巡する俺を結城はしばらく黙って見下ろしていたが、ややあって腕から手を離し、代わりのように俺の手を取った。
「じゃ、俺も今日は行かないです。一緒にスケートでも行きましょう」
「は? なぜに、スケート?」
「近いし、きゃーきゃー言ってたら、その憂い顔、晴れる気がするから」
さらさらっと言いながら結城は俺の手を引っ張る。馴染んだ彼の温度に包まれながら……俺は、驚愕していた。
「あの、さ、結城」
「なんですか」
「今さ」
俺の手を引き、結城は淡々と訊ね返す。その声を聞きながら、俺は目を閉じる。
「慎太郎と宮部が、キスしてた」
結城は答えない。その間にも足は進められる。しかし、校門を通過するかと思った彼の足は唐突に横に逸れた。彼が俺を連れてきたのは、なぜか体育館裏だった。
「スケートじゃなかったのか?」
「いや、さすがに終業式終わりの混雑した通学路で話す話じゃないって思ったから」
そう言ってから、彼は俺の手をつい、と離し、腕組みをした。
「で、なんですか。キスしたのを見て……なに?」
「なにっていうか、だから」
詰められて俺は困惑した。確かに、結城からしたら、なに? と言いたくなるだろう。
必死に言葉を探すと、ふっと結城が息を吐いた。するっと腕組みを解いた彼によって顔が覗き込まれる。
「しょうがない人ですね」
言いざますっと肩が引かれる。抱き寄せられて、息が止まる。
が、普段ならそのまま胸に沈む体を俺は引き剥がした。必死に彼の胸に手を当て、突っぱねると、先輩? と結城が首を傾げた。
その彼の目を見上げ、俺は必死に言葉を口から押し出した。
「確かにさ、ふたりのキス見て、最初にお前の顔が浮かんだ。でも、慰めてほしくて、お前にこの話したわけじゃないんだよ」
「じゃあ、なに?」
結城が緩やかに声をかけてくる。俺は必死に顎を上げ、結城を見た。
「俺、さ、ショックだったんだ。慎太郎がキスしてるとこ見て。驚いたのもあるけど、一番はショックだった」
「そりゃ、そうでしょう。好きな相手が別のやつとキスしてるとこなんて、ムカつく以外のなにがあります?」
「そうなんだ。もしも見たら、ムカついて、見たくなくて、目を閉じようとするって思ってたんだ。だけど、現実には違って。そのことがショックだった」
結城がゆらり、と首を傾げる。意味がわからない、と言いたげな彼の前で俺は細く息を吸う。
「俺……平気だったんだよ。あいつらのキス見ても。全然、痛くなかった。ここ、全然」
そうっと胸を押さえる。結城は黙ったまま、俺を見下ろしてくる。その彼に向かい、俺は迷い迷い囁いた。
「でもさ、お前は言うじゃん。痛いのを癒したいからこうするんだって。それってさ、俺のここが痛くなくなったらどうなるのかな、と。お前はもう」
抱きしめてくれなくなるのか?
そうだ。俺が一番衝撃だったのはそれだった。
慎太郎が好きだった。宮部が憎らしかった。なのに……俺は直視できたのだ。あいつらがキスしているところを。
こんなこと、信じられなかった。俺の中に慎太郎がいなくなったのかと、動揺した。
心の奥を必死に引っ掻き回して出てきたのは……慎太郎じゃなく、結城の顔だった。
心の痛みだってこうすれば治まる。
そう言って包んでくれた結城。俺が落ち込んだとき、いつだって手を広げて迎えてくれた結城。
でも……俺の中に慎太郎がいなくなって、この胸が痛まなくなったら……?
お前は、俺から離れちゃうのだろうか。
訊きたいけれど、さすがに訊けない。うなだれた俺の左頬が彼の手にすうっと包まれる。ふっと顔を上げると、結城が軽く膝を折るようにして俺を覗き込んでいた。
「それは、俺に抱きしめられたいって思ってるって意味?」
言葉ではっきり聞くとめちゃくちゃ恥ずかしい。真っ赤になった俺を結城は至近距離で見つめてくる。
「あいつより、俺にぎゅっとされたいって、そういうことでいい?」
あまりの言い様に、思わず苦笑してしまった。
「……あのなあ、あいつって。先輩だぞ。それを……」
「俺にとって、あいつは最初からあいつだったし、今もあいつでしかない。だってそうだろ。あいつは圭人先輩を泣かせた」
そう言い捨ててから、でも、と結城は低い声で付け足す。
「俺も同罪だけど」
「同罪……なんで?」
「だって」
言いながら俺の右頬に結城はもう片方の手も伸ばす。
「先輩はあいつのことがなかったら、俺の腕を求めたりしなかった。それ、俺は最初からわかってたから」
頬を撫でる指は冷たい。けれどさらさらと優しく辿られて俺はなぜか泣きそうになった。
こいつの考えていることが、俺にはよくわからない。
でも……こいつの手は、いつだって雄弁に語ってくれる。
いつだって。
「先輩が苦しんでたのだって知ってたけど、俺はその恋心を最初から利用しようと思ってた。俺のこと、見てほしくて。ずっと。ねえ、先輩」
きゅっと頬を掴む手に力が込められる。顔がふっと近づいた。
「そんな俺でも、先輩は抱きしめられたいって思う?」
言葉が出てこない。小さく息を何度か吸ってから俺はそろそろと手を伸ばす。結城のコートの胸元をそうっと握り、俺はこくん、と頷いた。
「抱きしめられ、たいよ」
直後、視界が激しく揺れた。声を発する間もなく体が引き寄せられ、大きな胸に閉じ込められた。
絆創膏なんて今はいらない。それなのに、じりじりと体温が体に沁みてきた。
ゆっくりと温もりが体に積み重なっていく感覚に、小さく吐息を漏らしたとき、するりと彼が体を起こした。
切れ長の目がしっとりと濡れて俺を映すのを、俺はうっとりと見つめる。
「抱きしめる以外でしてほしいこと、圭人はある?」
「以外って……」
言いかけた脳裏に先ほど目にした、慎太郎と宮部のキスシーンが浮かんだ。顔を赤らめる俺に結城はうっすらと笑ってから、そっか、と呟いた。
「俺と同じこと、したいと思ってくれてるみたいで、安心した」
掠れ声で言い、彼が身を屈める。とっさに目を閉じると、少し冷えた唇が俺の口に触れた。
柔らかく、舞い落ちる雪みたいに優しく触れられる。そろそろと目を開けると、ゆっくりと唇が離れた。
そうっともう一度腕が体に回される。結城の胸の中で息を吐くと、圭人先輩、と名前が呼ばれた。
「練習、どうする? 行く?」
「お前、このタイミングで練習って……」
「だって、先輩、これまで練習、皆勤賞だろ。いいの? さぼって。本当に」
「……それはお前もそうだろ。お前だって皆勤賞じゃん」
「ああ」
頷いてから結城はぐいっと腕に力を込めた。
「別にどっちでもいい。先輩が行くなら行くし、行かないなら行かない」
「その感じなのになんでお前、練習のとき、あんな全力なの。みんな言ってるぞ。結城は守備範囲おかしいって。守備への情熱がヤバいって。俺も思った。サードは普通、ファースト前まで行かないよ」
「別に情熱がどうとかそういうんじゃない。ただ、俺は守りたいだけ」
「守る?」
「あなたのこと」
体を通して声が聞こえてくる。それにどきどきしながら俺はただ耳を澄ます。
低く、深く響く声に。
「俺がサード好きなのは、ピッチャーを一番守りやすいポジションだって思ったからだよ。座って球受けるしか能がないあいつより、先輩を守れるのはあそこだって思ったから」
「お前って……」
なんていうか……想った以上に独占欲が強いやつだったらしい。俺は頬を染めながら照れ隠しで言う。
「全国のキャッチャーに謝ったほうがいいぞ。座ってるだけじゃないから。キャッチャー」
「全国のはどうか知らないけど、俺はあいつにだけは負けたくないし、第一」
俺の頭に頭を押し当てるようにして彼は呟いた。夢見るような声だった。
「サードが一番綺麗に見えるんだ。あなたのフォーム。本当に俺、先輩のフォーム好きでさ。だからあそこ以外、守りたくない」
「まさか、俺を好きな理由て……そこ?」
「そこ、も」
そう言ってから、結城はゆったりと笑って俺の耳に声を落とした。
「圭人の好きなとこ、ゆっくり伝えていくから。覚悟してて」
……こいつ、本気で結構ヤバい奴だったのかもしれない。
と、ちょっと怯えたものの、俺は頬を染めつつ、わかったよ、と小さく頷いた。