野球部にこいつが入部してきてしばらくしたころだ。
 俺はポジションがピッチャーだし、他の学校ならあまり、スライディングの練習なんてさせられないと思う。手を怪我したら困るからだ。しかし、ここ、西邦(せいほう)高校野球部は弱小で、部員数が圧倒的に少ない。だから、皆がそれぞれポジションを掛け持ちするしかなく、点数を取りにいくのだって、ピッチャーだからなんて理由で免除されはしない。取れるタイミングにはぐいぐいいく。それがこの部の方針だ。そんなだから、俺だって怪我はしょっちゅうだった。こけても、擦りむいても、ああ、またやっちまったなあ、くらいだった。
 あの日もそうだった。肘に擦り傷があったけれど、まあ、それほど痛くないし、と軽く砂を落として着替えをしようとしていた。その俺の腕を、むんずと捕まえたやつがいた。
 それが、結城だった。
「あんた、馬鹿なの?」
 入学したての一年でありながら結城はそう言い放ち、俺の腕を強引に引くと、部室内の長椅子に座らせた。着替えを始めていた他の部員が呆気に取られるほどの剣幕で、結城は俺を叱り飛ばした。
「そのままにしておいて、大変なことになったらどうするんだよ!」
「え、あ、すみません……。でも、その、俺、先輩……」
 びっくりし過ぎてこっちが敬語になりつつも、さすがにお前は敬語使えよ、と期待したが、結城の勢いは止まらなかった。
「自分の体に無頓着な馬鹿野郎にはこれくらい言わないとわかんないから。そもそもあんたピッチャーだろ。あんたが崩れたらチームぼろぼろになるんだよ。そんなのもわかんないの?」
 一年にずいずいと詰められ、たじたじとなった俺に、助け舟を出してくれたのは慎太郎だった。
「まあまあ。そんなに言わなくても……。圭人も反省してるから。今日はその辺で……」
「その辺で、で許したらこういう人は何度だって同じことやるんですよ」
 忌々しげに吐き捨てられ、慎太郎が怯む。結城は床に膝を突き、長椅子に座った俺を下から睨み上げる。
「俺は困る。そういうの。迷惑をこうむるのは、控え投手の俺なんだから」
 迷惑。たかが擦り傷を放置しただけでここまで言われるとは……と納得がいかない気持ちもあったが、結城の気持ちもわからないではなかった。
 なんといってもうちのチームは人数が少ないのだ。一人ひとりの肩に重責が常にある状態と言っていい。俺の行動が結城にとって許せないものだったというのもまあ頷ける。
「ごめん。お前の立場考えたら、そう言いたくなるよな。悪かった」
 とはいえ、あまり深刻な声で返すのも憚られる。皆が、喧嘩か、喧嘩なのか? と固唾を呑んで見守っている状態なのだ。ここは明るく、心広く、謝ってしまったほうがいい。
 ぺこん、と俺が頭を下げると、結城も小さく頷く。やれやれ、と空気が緩み、それぞれ着替えに戻っていく部員の中で、しかし、結城はまだ俺の手を握ったままだ。
 そろそろと手を引き抜こうとするが、強い力で捕まえられていて……できない。
「あのー、悪かった。ちゃんと傷口洗うから。消毒もするし。だからもう……」
「そういうの、俺が全部やります」
 離して、の一言は、言わせてもらえなかった。なんだって? と首を傾げると、鋭い目がぎろり、と俺を睨んできた。
「正直、先輩のずぼらさ、ずっと気になってたから。投げた後、肩もアイシング怠ってるし、ストレッチももっとすべきだし。だから、これからは俺が先輩見張ります」
「見張るってなに。いや、大丈夫だよ。気をつけるし。第一、俺の控えにはお前がいてくれるだろ。万一のときはお前、投げてくれよ。お前の球、俺より速いし、むしろ……」
「俺、サードしかやりたくないんです。だから先輩に怪我されるのは困る」
 サードしかやりたくないって……なんなんだ、それ。
 呆れはてて口も利けない。その俺の手を結城はやっぱり掴んだままだ。さすがにいらっとして、いい加減にしろよ、と振り払おうとしたが、その俺の言葉を止めるように、くん、と強い力で手が引かれた。
「いいから、肘、出して」
 出してってなんだ。出してください、じゃないのか。しかも、出して、と依頼口調ながら、彼の手の方は少しも依頼じゃない。完全に命令の強さでぐいぐいっと俺の腕を引っ張る。
 勘弁しろよ、とため息を漏らすものの、抗えないでいると、結城は部室に常備してある救急箱から消毒用アルコールを取り出し、それで肘の砂を容赦なく落とし始めた。
 こいつ、俺に恨みがあるのか、と思うくらいめちゃくちゃ沁みた。が、痛い、と言うのは癪に障った。生意気過ぎるこいつに治療されて痛がるなんて、絶対に嫌だ。
 痛いなんて死んでも言わねえ、と歯を食いしばっていたのだが、その俺の腕を掴んでいた春歌の手がふと緩んだ。ふるふるしながら目を上げると、俺の前にしゃがんでいた結城が俺の顔を振り仰いでいた。
「痛い、ですか?」
 声もアルコールでできていたら困る、とでも言いたげな声だった。その彼の顔を見て、俺は観念した。
 言い方はともかく、どうやら心配してくれているようだと感じたためだった。
「痛くねえよ。さっさとやれ」