土曜日は快晴だった。菊塚ひだまりの家はこの辺り最大のグループホームであり、菊塚の町を見下ろす麻生山の中腹に建てられている。バスで二十分はかかる場所にあるし、無理して付き合わなくていい、と紅には言ったが、約束の時間にバス停に着くと、紅はすでに来ていて、ベンチに座ってスマホをいじっていた。
「早いね」
 弾かれたようにぱっと顔が上がる。さらっと前髪が夏の香りを孕んだ風にそよいだ。
「そうでも。乗り遅れたらまずいだろ」
「そうだね」
 ここいらはバスの本数が少ない。一本乗りそびれると次のバスまで二十分以上待たされてしまう。
「それにしても制服で行かないといけないものなんだ? ボランティアって」
「あー、うん。まあ、絶対ってわけじゃないけど、一応部活動だから」
 えんじ色のネクタイを軽く緩める彼の横で、暁史も彼に倣って首元へ風を入れる。 
 六月も終わりになるともうほぼ夏だ。空も完全に夏の顔をしている。
「そういえばさ」
 これから向かう麻生山の稜線が道路の先に見える。それを目でなぞっていると隣から声が聞こえ、暁史は視線を彼に戻した。
「お母さんがボランティア活動って言ってたけど、いつから?」
「ええと、俺が小さいころから。昔からそうなんだ。子ども食堂も手伝ってるし。だから結構そういうところに引っ張り出されること多くて。土日とか平日も時々」
「嫌だとか思わなかった?」
 さらっと訊かれて少し驚いた。嫌だと思わなかった? なんて訊ねてきた人は今までいなかったから。
 なんと答えようか。こめかみを掻いて言葉を探す。彼は急かすでもなく、ベンチの背もたれに背中を預け、空を仰いでいる。
 その気安い様子に……少しほっとした。
「まあ、嫌、だった。ボランティアしてるって言うといい人ぶっている感じに思われること、あるから」
 中学のとき、一度、ボランティアのことを友人に話したことがある。クラスでまあまあ仲が良い相手だったから気構えなく話したのだが、話を聞き終えた友人は一言こう言った。
 いい人アピール乙、と。
 あれ以来、ボランティアの話をすることは暁史にとってちょっとした恐怖になった。
 いい人アピールをしているつもりはまったくなかった。ただ、母親に言われて手伝っていた。それ以上の意味はなかった。けれどそれを説明するのも難しい。むしろ、困っている人を助けたいって思うから、と言えたら、それが一番すっきりするのかもしれないけれど、残念ながら自分はそんなにいい人間じゃない。
「息子が言うのもなんだけど、母親は本当にいい人だと思うんだ。でも俺は違う。誰かを助けたいとか、笑ってほしいとか、思ってはなくて。そんな俺がああいう場に行くのってなんか……違うかなとも感じてはいた。ずっと。だから最近はね、母さんの手伝いも断ってて」
「でも今日、行くよね。それはなんで?」
「朗読は……嫌いじゃないから。物語にこう、色とか形を与えることが音声にするとできるような、そんな気がして。自分も、楽しい、から」
 そこまで言ったとたん、なんだか恥ずかしくなってきた。なにを自分は調子に乗って語っているのだろう。しかもやっぱりボランティアの精神とはかけ離れた動機しか出てこない。
「ごめん、変な話しちゃって。時任くんにも付き合ってもらったけど、高尚じゃない理由で、駄目だよね」
「それって駄目なの?」
 いい人間だったらよかったなあ、自分、とため息をつきつつ手をひらひらとさせたが、その手を止めさせたのは強めの口調での問いだった。え、と目を瞬いた暁史を紅はまっすぐに見つめている。
 大きなその目には蒼穹が映り込んでいた。
「別にいいじゃん。多賀が楽しいならどんな目的で活動したって。結果、それで誰かが救われるなら、それのなにが悪いの? なにもしてない俺なんかより数倍かっこいいって俺は思うけど」
「そう、かな」
「そうだよ」
 くっきりと頷く。その彼の目の中で青空が揺れる。それを暁史は呆然と見返した。
 あまりにも直球で褒められて、くすぐったくもある。
 けれど……それ以上に胸が熱くてたまらなかった。
 こんなふうに言ってもらったことなんて、これまでなかったから。
 ちゃんとお礼を言うべきかもしれない。でもなんと言おう、と首筋を掻きながら言葉を探している間に、彼の表情がくるっと変わった。
「ますます楽しみになってきた。多賀の朗読」
 言われて顔が赤くなる。うう、と呻いた暁史の耳に、ふぁん、とバスの軽いクラクションが聞こえてきた。来たね、と笑って彼がベンチから身軽に立ち上がる。
「行こ。多賀」
 プレッシャーだあ、と呟いている目の前にひょい、と細い手が差し出される。
 数秒見つめてから、暁史はその手をそろそろと握った。
 心なしか……鼓動が緩やかになった気がした。
 読み聞かせと言うと、幼稚園児や小学生を対象に行うものという印象を持たれることが多い。しかし実のところ、シニア世代と呼ばれる方たちへの読み聞かせも子ども向け同様かそれ以上に需要がある。
 ここに来るとそれを感じる。
 広間に集まったのは、車椅子に乗った男性、女性、その車椅子を押すケアスタッフ、杖を突きながらやってきて知り合いらしき者同士で長椅子に並んで腰かけ談笑する人々。
 彼らの視線の先には、ぽつんと置かれた椅子。
 正直、この瞬間だけはいつも怖い。もともと人付き合いだって得意ではないし、できるだけ目立たずに生きていきたいと思ってもいるのだから。
 本を持つ手が、紙芝居をめくる指が、じっとりと汗に湿っているのが毎回不快だし、面倒と思ったこともある。
 それでも所定の位置について深呼吸をすると、気持ちが切り替わる。
「咲くことを忘れた僕は」
 どの本を読むかは行先で決められることもあるし、こちらが決めてよいこともある。ここは自由に選ばせてもらえる場所だったため、一番読み慣れていて、一番好きな作品を選んだ。
 今日読むのは四千字程度の短編だ。花をテーマにして集められた作品集の中の一編であり、心温まるラストが印象的な物語だ。
 主人公は一本の桜の木。何年も何年も休まず咲き続けてきたが、ある年、春眠暁を覚えずなどというのに、自分はなぜ春に咲かねばならないのかと疑問を持ち始めてしまう。悩んだ結果、桜はその春、咲くことを休むことにした。
「たった一度の休みのつもりだった。しかし翌年も、そのまた次の年も、僕は咲くことができなかった。わかっていたはずの咲き方が完全にわからなくなってしまっていたのだ」
 皆、息を殺すようにして耳を傾けてくれているのがわかる。
 ふうっと息継ぎをして、暁史はページをめくる。
「咲けなくなった僕を取り囲み、囁き交わす人々の中で、ひとりの男が声を上げた。『この木はもう終わったのだろう。咲かない桜に意味などあるか?』」
 正直、このシーンは読んでいても苦しくなる。けれどこの先を思えばこそ、このシーンはなければならないものなのだ。そう思いながら次のページへと指をかけたときだった。
 がたん、とけたたましい音を立てて椅子が倒れた。
 もしや誰か気分でも悪くなったのか、と焦って視線を彷徨わせた暁史の目に映ったのは、顔を真っ赤にした男性の姿だった。
「お前は、わしらを馬鹿にしているのか?」
 上ずった声で男性は叫びながら歩み寄ってくる。え、と声を漏らし、腰を浮かせた暁史へ男性は杖を振り上げる。
「わしら年寄りはもう花も咲かせられん。無意味だとでも言いたいのだろうが! この若造が!」
「ちょっと、木村さん。落ち着いて」
 男性スタッフが駆け寄ってくる。男性を押さえようとするが、怒りが収まらないのか、男性は地団太を踏みながらなおも叫んだ。
「そもそも! お前たち若者どもが今も呑気な顔で跋扈できるのは誰のおかげだと思ってる! わしら世代が汗水たらして働いたおかげだろうが! それをなんだ! 枯れただの、終わりだの! 馬鹿にするな!」
「そういう、つもりでは……」
 そんなつもりはなかったが、本の選択を間違えてしまったのかもしれない。人が数多いれば感想だってそれぞれに違う。目の前の男性のように不快に思う人だっていないわけではなかったのに。
「すみ、ません……あの、でも……」
 でも違うのだ。この話が伝えたいことは、男性が言うような内容じゃない。最後まで聞いてもらえればわかるのだ。
 そう言いたいのに、言葉がつっかえて出てこない。おろおろと本を握りしめて立ち尽くす暁史の耳に不意に、あのー、と間延びした声が飛び込んできた。
「俺、この話、最後まで聞いてみたいんですけどー」
 ざっとその場の全員の目が声の方を向く。手を挙げていたのは、一番後ろの席に座っていた紅だった。
「今って、ちょっとさぼっちゃった桜が咲き方を忘れちゃって、それを周りの人が勘違いして、枯れちゃったんじゃね? と大騒ぎしてるシーンですよね」
「だからどうした! 若造!」
 木村と呼ばれた彼が吠える。紅はぽりぽりと左頬を指先で掻きながら続けた。
「つまり今の段階だと、枯れてるかどうか、わかんないんですよね。桜的にはちょっとさぼっちゃっただけ。さぼるって感覚、どっちかって言うと俺たち若者にこそ似合っちゃいそうな印象を俺は受けて」
 穏やかな彼の声に木村も開いていた口を閉じた。紅は周囲をゆったりと見回してから、にっこりと笑った。
「俺的にはだから、このさぼちゃった桜の行く末がめちゃくちゃ気になるんです。そもそもなぜ咲くのかって、俺たちにも当てはまるから。なんで生きているのか、なんで生きていかなきゃいけないのか、とか。俺はわからなくなったことあったから。だから俺はこの物語の続きが知りたい」
 笑顔なのに重みが感じられる声だった。気圧されたように彼を見つめる人々に向かい、彼は問いかける。
「聞かせて、もらえないですか?」
 その声が合図となったように、男性スタッフが木村の肩をそっと押す。木村はまだ苦い顔をしていたが、ふん、と鼻から息を吐くと、元の席へと戻り、どすん、と音を立てて椅子に座った。くい、とこちらに向かって顎がしゃくられる。続けろということらしい。
 木村に向かい、一度頭を下げてから、暁史は椅子に注意深く腰掛け直した。
 始まりと同様に手にはびっしょりと汗をかいている。本を開く手も震えている。なんとか気を落ち着けようと息を吸って吐く。それでもまだ、汗は引っ込まない。手汗を膝で拭いつつ読みかけのページを開いたところで、一番後ろの席に座ってこちらを見つめる紅が目に入った。
 あ、と思わず声が漏れた。その暁史に向かって、ひらひらっと手が振られる。満面の笑みと共に、小さく口が動くのが見えた。
 なに、と目を凝らして、唇を読む。
 は、や、く、よ、め
 送られてきたメッセージに唖然とする。なんて横柄な言い方だと思ったけれど、笑顔の彼を見ていたら不思議と笑えてしまった。
 わかったよ、と彼に頷き返し、暁史はページに目を落とす。
 ……いつの間にか、手汗は止まっていた。
「やっば……めっちゃいい話だったあ」
 ぐすっと洟がすすられる。ぐいぐいと手で瞼を擦る彼に、暁史はハンカチを差し出して苦笑した。
「泣き過ぎだよ」
「いや、泣くだろ! なにあの話! さぼってて咲けなくなった桜がまた咲けた理由が、自分が立っている場所から見える病室に入院している女の子を元気づけたくなったから、だなんて。さぼりたくなった桜の木がだよ? しかも女の子の台詞がもう」
「これから先、あなたが咲けなくなっても、咲いてくれたあなたの姿を私は一生忘れない」
 ゆっくりと囁いた暁史に、こくん、と頷いて紅は涙を拭く。
「すごく、刺さった……」
 帰りのバスはまだ来ない。バス停でバスを待ちながら、暁史は紅の顔をそろそろと窺う。
 今日は……普段見ない顔ばかり見てしまう。
「なに?」
 鼻声と共にぎろりとハンカチ越しに睨まれる。彼の目は真っ赤だった。
「その……時任くんがそんな泣くの、初めて見たから」
「泣かせるような本読んだのはそっちだろ」
 ぷい、と顔が背けられる。泣き過ぎたせいなのか、泣き過ぎた自分が恥ずかしかったのか、耳が赤い。
 見ていたら……思わず口が滑ってしまった。
「時任くんのほうが可愛いよね」
「はあ?!」
 声が跳ね上がる。ベンチの上で身を引いた彼は赤い目でこちらを睨んでから、照れ隠しなのだろうか、ゆっくりとした仕草でハンカチを畳み始めた。そうして畳み終わったそれを暁史に差し出してくる。
 返す、ということらしい。受け取ろうと手を出したが、ハンカチは暁史の手を無視し……なぜか暁史の唇に当てられた。
「ちょ、あの、なに」
「可愛いは、禁止」
 唇に触れる少し毛羽立ったタオルハンカチを顔から遠ざけようと手を上げるが、その指もまたすり抜けてしまう。ちょっと、と言いかけた暁史の声を尻目に、ハンカチは押し付けられたときと同様の唐突さですっと引かれた。
 文句を言おうとした。けれどそれより早く彼の声が耳に落ちた。
「可愛いはさ、俺にとって、多賀の専売特許だから。……ああ、いや、でも、違うかな」
 薄い唇がくすっと笑みを刻む。目はまだ赤い。なのに、妙に……艶のある笑みだった。
「可愛いだけじゃないや。多賀は声が深くて、やっぱりすごく、かっこいいって思う」
 囁いて、彼は手にしたハンカチをそうっと自身の口許に当てる。 
 彼が唇を当てたその場所は……ついさっき、自分の唇が触れていた場所だった。
 ただそれだけの仕草なのに、かっと耳が熱くなった。
「あ、あの、っていうか、その、さっき……は、ありがとう」
 自分は一体、なにを考えているのだろう。ハンカチ経由で唇が触れたくらいでこんなに動揺するなんて。気持ちをなんとか別の方向へもっていかないと変なことをまた口走ってしまいそうだ。必死に口を動かした暁史の前で、紅が緩く首を傾げる。すっと手が下りて彼の口からハンカチが離れ、暁史はほっとした。
「俺が怒鳴られたとき、助けてくれて」
「ああ」
 ハンカチを膝の上に置き、紅は短く頷いてから車道へと目を向けた。西日によってアスファルトは黄に近い白へと染め変わっている。大きな目が眩しそうに眇められた。
「助けたっていうよりもあそこで言ったこと、本心だから。話の続き、聞きたかっただけ」
――なんで生きているのか、なんで生きていかなきゃいけないのか、とか。俺はわからなくなったことあったから。だから俺はこの物語の続きが知りたい。
「時任くんは……」
 過ったのは先ほど木村老人に紅が言ったあの言葉だった。
「もう……大丈夫なの?」
 そろそろと問うと、車道を見ていた紅がすうっと首を巡らせてこちらを見た。
 感情の読めないうっすら斜がかかって見える瞳が、陽光に揺らめきながら暁史をただ、映す。
 後から振り返ってもそのとき、どうしてそう思ったかわからない。けれど思った。
 この目の奥にあるものを見てみたい、と。
「なんか、悩みとか、あったら俺」
 だから身を乗り出してしまった。もっと見たくてその目の奥を覗き込んでしまった。
 覗き込めば、覗き込まれてしまうのに。
「ないよ」
 軽い声が返る。さっき唇に当てられたハンカチみたいな声だった。
「昔はあった。けど、今はない。悩みを消してくれた人がいる」
「そう、なの?」
「うん。多賀」
 へ、と奇妙な具合に声が出た。目を瞬くと、唐突に腕が引かれる。隣り合っていた体と体が近づき、耳に柔らかい息がふわっとかかった。
「多賀が消してくれた」
 ゆっくりと告げられる。大事なものを差し出すように言葉が継がれる。
「だから、俺、お前のことがずっと好きだったんだ」
 耳がかっと熱くなる。その瞬間、腕が解かれた。あっさりと顔を離した紅は、膝に置いていたハンカチを細い指で掬い上げ、こちらに向かって軽く振った。
「これ、洗濯して返すから。ありがと」
 頭が完全にショートしている。そんな暁史を嘲笑うかのようにぷしゅーっと排気音が響いた。
 目の前にバスが滑り込んできていた。
「やっとだよ。ほんとこの辺、バス少なすぎない?」
 ついさっき耳元で聞いた声は幻かと思わせるくらい、あっけらかんと言いながら、彼がベンチから立ち上がる。
 けれど暁史は動けずにいた。
「多賀ってば」
 大輪の花を思わせる笑顔で紅が手を差し出す。それでも立ち上がれずにいると、諦めたように息を漏らした彼によって二の腕がくい、と掴まれ、ベンチから引き起こされた。
 彼に引きずられるようにしてバスステップに足をかける。乗って、と背中が押され、先にバス内へ押し込まれる。バスで二人きりでなにを話したらいいのだろう、とちらっと思った。隣同士で座るのは今は……恥ずかしすぎる。
 けれど、聞こえてきたのは、バスステップを軽やかに下る、とんとん、という足音だった。
「え、あの、時任くん?」
 慌てて振り向くと、路上に立った彼が手を上げていた。
「俺は次ので帰る。そのほうがいいかなって思うから。……運転手さん、行ってください」
「いや、でも、バスないのに……」
「ドア、閉めます」
 無情な声と共にバスのドアが閉められる。ちょっと、と暁史はドアにすがるが、透明なドアの向こうにいる彼はただ淡く笑んでいた。
「時任くん」
 もう聞こえていないだろうに呼びかけてしまう。見つめる暁史の前で唇が動いた。
 さっき、読み聞かせのとき、後方の席からそっと暁史の背中を押したときのように。
「なに……」
 目を凝らす。
 唇は、
 す、き
 と、読めた。
 あれからずっと考えている。
 彼は、悩みを消してくれた人がいた、と言った。
 それが暁史だとも。でも暁史にはその覚えがない。一番あり得るのは彼が誰かと勘違いしている可能性だ。
 だが。
――だから、俺、お前のことがずっと好きだったんだ。
 気を抜くとすぐ蘇ってきてしまう彼の声。
 勘違いだとするなら……あの声は自分がもらってはいけないものになるのではないだろうか。この世界のどこかにあの声を受け取るべき人が別にいて、彼は間違った相手に発信を続けているのかもしれない。
「たーが」
 ぽん、と背中を叩かれ、どくん、と心臓が跳ねる。見ると、朝からずっと頭にこびりついて離れないでいる彼が後ろの席からこちらに身を乗り出していた。
「ぼーっとして。昼、購買じゃないの? パン、売り切れるよ」
 朗らかに笑う紅の顔にはバス停での出来事は微塵も滲んでいない。能天気なその顔を見ていたら……無性にイライラしてきた。
「俺、今日、昼はいいから」
 言い捨て立ち上がる。昼休憩中の校内はどこもざわざわと人声が波紋のように広がっていて心をざわつかせる。どこか静かな場所で考えたい、と足を早めた暁史だったが、昼時間の校内に静かな場所などなかなか見つけられない。図書室行くか、と階段を上り始めたところで、くい、と背後から腕を掴まれた。
「なにか、怒ってる?」
 こちらを見上げてきたのは、やはり紅だった。
「怒ってないよ」
「ぴりぴりしてる感じがすごくするけど」
「してない。勝手に決めつけるな」
 大体、誰のせいでこんな顔になっていると思っているのだ。あんなことを急に言ってきたくせにあまりにも普通過ぎないか?
 苛立ちのまま彼の腕を振り払おうとすると、くっと腕に絡んだ指に力が籠った。
「怒ってるの、土曜日の告白のせい?」
 一気に顔が赤くなった。遮二無二腕を振って彼の手を解こうとしたが、細いくせに力が強くて解けない。
「そんなに嫌だったってこと?」
 離せよ、と言いかけた声をすり抜けて囁き声が耳を掠める。不安定に揺れるその声を耳にして思わず暁史は、違う、と首を振りかけたが、踏みとどまった。
 嫌じゃないと意思表示してはいけない気がした。
 だって、そう言ってしまったら、それは、受け止めていい、だと思われてしまわないか?
 それは……駄目だ。
「時任くんを救ったっていうの、俺じゃないから」
 彼の手に握られた腕がじりりと熱くなった。そろそろと彼の手から腕を取り返そうとしながら、暁史は続ける。
「俺は時任くんのこと、覚えてない。好きってそれは……俺に言うべきじゃ、ない」
 彼はどんな顔をしているのだろう。見るのが怖かった。だが、予想外に聞こえてきたのは、ふふ、と笑う彼の声だった。
「そんなことか」
「そんなこと? いや、人違いなんだよ? 時任くんは……」
「人違いじゃないよ。っていうか、多賀が覚えてないのは当たり前。俺たちは別に知り合いじゃなかった。中学のときから俺が一方的に想ってて、高校で再会した。ただそれだけ」
 淡々と言う声に嘘の臭いはなかった。けれど混乱は収まらなかった。
「それ、話したこともないってこと、だよね。それでなんで救われたとかになるの?」
「聞きたい?」
 挑むような目がこちらを見上げてくる。そういえば、初めて美術の時間で向かい合ったときも思った。この人は迂闊に深く知ろうとするととんでもないものが出てきてしまうのではないか、と。その感覚が確信となってひりひりと背筋を這いあがってくる。
 中途半端な気持ちで聞かないほうがいいんじゃないか、とも思った。
 その迷いを読み取ったように彼は言った。
「聞いたら、俺は待てなくなる。今すぐ向き合ってもらいたいって思ってしまう。それでも?」
「向き合う……?」
「俺の告白に」
 まっすぐに彼がこちらを見上げてくる。いつも浮かべられている笑みはそこにはなかった。いや、それだけではなかった。
 少し唇が震えていた。
 その震えを見ていたら、やっぱりいい、などと言えなかった。
 言ってはいけないと思った。
「わかった。ちゃんと、考える」
 ふっと目の前で彼の肩が緩む。小さく肩が上下する。ぐいぐいいろいろ言うくせに細い肩だな、とぼんやりと思った。
「多賀さ、覚えてない? 鬼姫っていうの」
 彼が口にしたのは、思いもよらない単語だった。
 鬼姫。それは中学時代、市内で有名だったヤンキーのあだ名だ。とにかく凶暴で、警察ですら手を焼いたとかなんとか。
 なんとか、というのは暁史が噂でしか鬼姫を知らなかったからだ。同学年ではあったけれど、鬼姫がいるとされている学校は暁史の中学とは別だったから接点などなかったのだ。
 その鬼姫がなぜ今ここに出てくるのだろう。首を傾げる暁史の腕を握ったまま、彼が小さく息を吐いた。
「それ、俺」
「え」
 目の前の彼を暁史はまじまじと見つめる。自分より小柄で華奢な彼を。
「あの、鬼姫ってあれ、だよね? 警察に百回補導されたとか、自販機をバールで片っ端から叩き壊したとか、そのいろいろと武勇伝ある……あの……」
「武勇伝」
 繰り返し、皮肉げに彼は笑みを零す。
「実際にはそんなことしてない。ってか、俺、ヤンキーですらなかった」
「じゃあなんでそんな噂になるの? 俺、学校違ったのに知ってたよ? 舐めたことすると鬼姫が来るぞ〜ってねぶたの鬼みたいに恐れられてたのに」
「俺の兄貴がね、ガチでやんちゃしてたんだ。それこそ地元じゃ敵なしの気合入ったタイプで。で……中学のとき、そのことが広まっちゃったんだよ。学校中に」
 淡々と言いながら紅は、すうっと暁史の腕から手を引く。離されたとたん、彼の体温が逆に腕に再生された気がして暁史は自由になった腕に思わず目を落としてしまった。
「そこからがひどかった。あの化け物が兄貴ならお前もそうだろうとか言われて、鬼姫なんて呼ばれるようになっちゃって。自分がしてもいない万引きの罪を押し付けられたり、ものがなくなればお前だろうって疑われたり。なんでもありだった。本気で兄貴を憎んだし、いっそのこと全部本当にしてやろうかとも思ってた」
 言いながらすたすたと歩いていく。階段を上り、一番上の段に腰掛けた彼は、座らない? と暁史を手招いた。
「ただやっぱり兄貴と同じになるのは嫌でさ。中学卒業するまでは我慢しようって思ってたんだ。時間が経てば少しは状況変わるかなって。でも」
 でも、と言った彼の肩が再び上下に動く。それを見ていたら突っ立っていられなくなった。階段を駆け上がり、彼の隣に座る。とん、と軽く上履きと上履きの端が当たる。すると、彼はなぜか泣き笑いに似た顔をした。
「変わらなかった。少しも。どんどんひどくなって。そのうち、学校行くって嘘言って家、出るようになった。学校行かないって意味じゃ、まあ、ヤンキー? になっちゃったわけだけど」
「そんなこと……」
 首を振りかけて唇を噛む。なんと言っていいか本気でわからなかった。
 彼は黙って自身の膝に目を落としていたが、ややあって、で、と声を継いだ。
「行くとこなんてないから図書館に行くようになって。そこでさ、読み聞かせってやつ、聞いたんだよ」
 膝の上で彼は両手の指を組む。
「そのとき聞いた物語のタイトルがなんなのかは知らない。でもストーリーは今でも覚えてる。根も葉もない噂によって窒息しそうになっていく少年に、白鳥が寄り添う話だった。最後、白鳥は言うんだ。声高らかに。『私はこの少年の声を信じる。だってこの少年だけは怪我をしていた私を助けようとしてくれたから』って」
 組んでいた手をすっと彼が解く。ゆらり、と顔が上がる。ふっと引かれたように彼のほうを見ると彼もこちらを見た。
「その本を選んで、読んで聞かせてくれたのが、多賀だった。覚えて、ない?」
 問われ、暁史は口許を手で覆う。
 思い出せなかったからじゃ、ない。
 覚えていた。読み聞かせのボランティアを始めたばかりのころで、がちがちに緊張もしていた。
 好きな本読んでいいよ、と母親に丸投げされて……なんの気なしにあの本、『白鳥の声』を選んだ。
 そうなのだ。思い入れなど、なかったのだ。なのに、彼はそのことを今も忘れずにいる。
「あの話を伝えてくれた多賀の声が忘れられなかった。だから……多賀のこと、俺、図書館で張ってた。ここの高校、受験するっての、図書館で勉強してるとき話してるの聞いて知って、俺もここ、受けた。ごめん、ストーキングして」
 まさかの告白に絶句する。ええと、と口ごもると、ごめん、と彼はもう一度詫びてから目を細めた。
「多賀はさ、わかってないだろうけど、あの話を朗読してくれたことで、俺をずっと支えてくれてる。しっかり立っていれば、信じてくれる人もいるって思わせてくれている。だから今、俺が笑っていられるのは、多賀のおかげなんだよ」
「ちが、違うよ。俺はただ読んだだけだ。時任くんを支えたのは俺じゃ……」
「でも、多賀もあの話、好きだろ。だから選んだんじゃないの?」
 違う。
 確かにあの本は好きだった。でも、彼が言うような優しい思いで選んだわけじゃない。
「多賀?」
 彼が顔を覗き込んでくる。その彼の顔を見ていられず、暁史は顔を背けた。
「俺があの本を選んだのは読みやすかったからだ。すごいのは本で……俺じゃ、ない」
 過ったのはあのときの彼の顔だ。
 バスのドアが閉まった向こう、好き、と囁いてくれた彼の。
 柔らかい笑みと潤んだ目は迷いなくこちらを見てくれた。
 暁史だけを。
 じゃあ、自分は?
 その彼の心を受け止めていいほど、自分は彼になにかをしてあげたのか?
 彼に好かれる理由なんて、自分には、ない。
「それって、やっぱり、俺とは一緒にいられないって意味?」
 痛みは滲んではいなかった。淡々とした声音だった。
 声同様の凪いだ顔をしているのだろうか、と確かめてみたくなった。でも……できなかった。
 ただ、こくり、と頷いた。
「そっか。わかった」
 すっと風が左頬をなぞる。衣擦れの音がする。けれどまだ気配がある。恐る恐る目を上げると、見下ろしている彼の顔が見えた。
 時任くん、と名を呼ぼうとしてぎりぎりでこらえる。その暁史に向かって目を細めてみせてから、彼はポケットに手を入れた。
 差し出されたのは、土曜日に彼に貸したハンカチだった。
「これ、ありがと」
 穏やかな手つきでハンカチをつい、と顔の前に押し出される。そろそろと受け取ると、彼は微笑んだ。感情の読み取れない淡い笑みだった。そのまま、とんとんとん、と軽い足音と共に彼が階段を下っていく。彼の足音が完全に絶えたところで暁史は細く、細く、息を吐いた。
 もう聞こえない、彼の足音。
 それを探しながら、暁史は彼から返されたハンカチに目を落とす。
 そろそろとそれを顔に当てると、自分の家の柔軟剤とは違う、カモミールの香りがした。
 彼の顔が瞼に張り付いて離れない。いくら瞼を擦っても。
――す、き
 透明なドア越し贈られた言葉が思い出され、胸がずくり、と痛んだ。
 好かれる要素なんてもともとないし、彼の好意を受け止めていいほど、自分は優しくもない。
 でも気づいてしまった。

……受け止めていいわけないくせに、好きなんだ。
……時任くんが、好きになってたんだ。

 気づいたけれどもう、遅い。
 じわりと瞼が熱を持つ。頭上でチャイムが鳴り響く。遠く人声が引き潮のように遠ざかっていく。
 それでも動けなかった。空気が完全に静寂に支配されても、暁史は膝を抱えたままそこに蹲り続けた。
「おつかれ」
 軽い声と共にふわっと風が背後を通り過ぎた。あ、うん、と返事をしながら、暁史は書架の本を並べ直す。
 開け放した窓からは蝉の声がじりじりと聞こえてくる。今年は蝉が早い。暑くなるかもしれない。
 なんて、蝉に無理やり意識を向けでもしないと、ついつい視線で彼を追ってしまう。
 乱れそうになる呼吸を注意深く整え、暁史は作業に集中する。視界の端では彼がやっぱり間違った場所に本を戻していた。
 あの日以来、紅は必要以上に距離を詰めてはこなくなった。近くても常に人間二人分が挟まるくらいの間隔が空いている。
 それは図書委員の当番時もそうだ。ここまで気まずくさせてしまったのだから、さぼったって暁史からは文句を言えるはずもないのに、彼は当番をすっぽかすことなく、真面目に図書室へ通ってくる。
 二人分の間隔を保ったまま、作業も続けている。
「ねえ、多賀くんってば、時任くんと喧嘩したの?」
 そう言ってきたのは高階だった。
「なんで、ですか」
 紅は作業を終えて先に図書室を出ている。自分も帰ろうと鞄を肩に引っかけたままでたどたどしく返すと、高階は、だって、と笑った。
「言っちゃなんだけど、あんたたち、いっつも猫鍋かってくらい密着して作業してたじゃない」
「猫鍋……」
 鍋の中、完全にジグソーパズルのピースとピースと化した猫を想像し、暁史は肩を落とす。
「さすがにそんなことは」
「気づいてないのは本人たちだけよ〜。もう見ててめっちゃ面白、じゃない、微笑ましかったのに。なんか最近よそよそしくない? 特に時任くんが多賀くんを避けてるって感じかなあ」
 ぐさっぐさっと音が聞こえてくる。う、と胸を押さえつつ暁史はうなだれた。
「いやあの、別になにがあったというわけでは……」
「まあもう夏だもんねえ。くっつくのも暑いか〜」
 そういうことじゃない。脱力しながら、じゃあ俺はこれで、と図書室を出ようとするが、高階は許してくれなさそうだった。
「猫鍋はともかくさ、時任くんってちょっと心配にならない?」
「心配……え、なんで、ですか?」
「だって、あの子さあ」
 高階は、図書だより、と書かれたプリントをとんとん、とカウンターの上で揃えつつ言う。
「猫ってさ、具合悪いとき隠れるとか、死が迫ってくると姿を消すとか言うじゃない。そういうのしそうでさあ」
「隠れてないし、当番にも来てるじゃないですか」
「そうなんだけどねえ。あの子、なんか危ういとこない? まっしぐらっていうか。一途過ぎるっていうか……。多賀くん、時任くんとなにがあったか知らないけど、仲直りしなさいよ。見てて痛々しいから」
 言いたいことを言って気が済んだのか、高階は、おつかれさま、と話を終える。その声に押し出されるように図書室を出たものの、暁史の心中は複雑だった。
 紅に元気がなさそうなのは、高階に言われるまでもなく、見ていてわかったから。
 しかもそれは間違いなく、この自分のせいなのだ。
 でもどう言えばいいのだろう。彼は暁史を真剣に想ってくれている。本気で命の恩人くらいにも思っているだろう。対する自分は、そこまで清らかな人間ではないと自覚しているし、好かれる価値があるとも思っていない。
 そもそも彼は……あまりにも恰好良すぎるのだ。
 最初に言葉を交わした美術の授業でもそうだった。自分からは周りに声をかけられない暁史に壁を感じさせないで済むように、ちょっと強引なくらいの態度で誘ってくれた。
 グループホームで読み聞かせをしていて、怒鳴られたときもそうだった。完全に立ち往生してしまった暁史へ、彼は自然な形で助け舟を出してくれた。相手を傷つけることなく、ナチュラルに朗読を続けられるようにしてくれた。
 結局……助けられてばかりなのだ。
 そんな自分が彼に好かれていいのか? なにもできないのに?
 くそ、と小さく呟いたとき、スマホがかすかに震えた。のろのろと鞄から取り出して表示を確かめる。
 なんのことはない。母親からだった。
――ごめん、帰りにごま油買って来てくれる? 買い忘れちゃった。てへ。
 てへ、じゃない。人と話すのが大好きな母は、いつも若々しい。送られてくるメッセージもクラスメイトの女子たちのノリと多分近い。
 とはいえ、今はその母の、てへ、が煩わしい。
 ため息を吐きながらスマホを仕舞って歩き出す。数分歩くと、コンビニが見えてきた。
 コンビニでもごま油は売っているはずだ。さっさと済ませてしまおう。
 お使いなどしている気分じゃないのに、と重い足取りでコンビニの自動ドアに足を向けようとした暁史は、そこでふと足を止めた。
 コンビニの横手に数人の人影があった。そろってボトムスを腰履きした私服姿の男が三人。壁際に追い詰められるようにして立っている制服姿の男がひとり。よく見ると、囲まれている彼が着ている制服は暁史と同じものだった。
 あんなところでたむろしてなにをしているのだろう、と目を凝らしていて気づいた。
 囲まれていたのは。
 紅だった。
 あまり楽しげな空気ではない。と思っている間に、ひとりの手がぐい、と紅の肩を押した。よろめいた彼の肩を別のひとりが掴む。
 揺さぶられて彼の頭がかくかくと、揺れた。
「と、時任くん!」
 全速力で駆け寄り、声をかける。息を切らせた暁史を、胡乱そうな六つの目玉が振り向いた。その彼らの頭の向こうから、紅もこちらを見る。大きな目が暁史を捉え、まん丸に見開かれた。
「多賀、なにしてんの」
「な、なにしてんのはこっちの台詞。ほら、や、約束してたのに、なんでこんなとこ、いんの」
 震える足を進め、彼らの間に分け入る。ぐい、と手首を掴むと、彼は驚いたような顔をしたが、構わず走り出した。おい! 待てよ! と背中で三人が騒いでいるのが聞こえたものの、止まるつもりはなかった。
「ちょ、あの……!」
 コンビニからどれほど遠ざかっただろう。いつの間にか帰り道とは逆方向に走っていて、学校近くにある、自然公園の入り口まで戻ってきてしまっていた。
「多賀ってば!」
 声と共に手が大きく振られ、握っていた彼の手首が手からすり抜ける。え、と振り向くと、肩で息をしながら紅がこちらを見上げていた。
「どしたの、急に……」
「だって、なんか囲まれてたじゃん!」
 あんな状態で、放っておけるわけがないだろう!
 本当はそう怒鳴りたかった。だがうまく言えなくて、暁史は俯く。
 彼もまた、なにも言わない。数秒顔を伏せたままでいたが、沈黙に耐えかねてそろそろと顔を上げると、口許を片手で覆ったままこちらを見つめている紅と目が合った。あの、と手の向こうからくぐもった声がする。
「それ、多分、誤解」
「誤解……?」
「さっきの別にいじめとか、そういうんじゃない。あれ、兄貴の後輩」
「え、そ、そうなの?」
「そう。たまたまあそこで顔合わせて、兄貴元気かって言われて。兄貴もう独立してるし、最近会ってないって言ったら、ちったあ兄貴孝行しろよって言われて。それくらい?」
 話を聞くうち、だんだん頬が熱くなってきた。
「ごめん、あの、てっきり困ってたのかと」
 確かに同学年というよりは少し年上そうには見えた。が、そんな可能性、思いつきもしなかった。ただ大変だ、とそればかりで……。
「余計なことしたな。どうしよう……」
 早とちりにも程がある。焦って頭を下げるが、彼は無言だ。
 呆れられても仕方ない。空回りして息巻いて、ヒーロー気分で知り合いとの時間に割り込むなんて恥ずかしい以外のどんな感情を抱けば許されるだろう。ごめん、とますますうなだれた暁史の肩に、ふっと手が触れた。くい、と押されて顔を上げさせられる。
「謝らなくていいから、代わりに時間、くれない?」
「え、でも、さっきの人たちのとこ、戻らないと」
「いい」
「よくないよ。なんか、俺、めっちゃ失礼なこと……」
「そんなことより今、俺は多賀と話したい」
 きっぱりと言われ、口を噤む。と、先ほどとは逆に、ぐい、と手首が引っ掴まれた。そのままぐいぐいと引きずられる。
 彼の足は公園へと向かっていた。
 夕暮れ時の公園には親子連れ、犬の散歩中の主婦、ご近所同士の老人の姿がちらほらあった。その誰もがそろそろ帰路に就こうとしているのが彼等の足取りからわかる。だが紅は完全に逆行し、公園の中へ中へと足を進めていく。
 ようやく彼が足を止めたのは、公園の中央にある大時計の近くだった。広場の真ん中には噴水も配されているが、そろそろ閉園時間なのか、水は出ていない。
「多賀はなんであんなことしたの?」
 するっと手首から彼の手が解ける。彼はこちらを振り向かないまま、すたすたと歩いていき、噴水の前で立ち止まった。
 子ども達が遊べる水場をと作られたそこは円形の浅いプールになっている。溜まった水が傾き始めた太陽の光で竜の背びれさながらに光っているのを見下ろしながら、彼は言った。
 ……明るさを、取り繕った声に聞こえた。
「する必要、ないよね。するタイプでもない。なのに、なんで?」
「だって、あの」
「困ってると思ったから?」
 問いかけられ、うん、と反射的に頷く。そっか、と軽い声が漏れた後、彼がこちらを向いた。
「偉いなって思うけど、正直俺はさ、あんまりああいう真似はしてほしくない。今回は勘違いだったけど、そうじゃないことだってあるんだから」
 だからさ、と言って彼は肩をすくめる。クラスメイトに向ける乾いた笑みが彼の顔にはあった。
「もう、やめな。そもそも、誰にでもああいうの、よくないよ」
 誰にでも。
 もちろん、困っている人がいたら誰にでも手を差し伸べるべきだ。それはそうなのだ。
 でも自分があのとき、彼らの間に割って入ったのは、人助けしたかったからなのだろうか。
 相手が誰だろうと、あんなふうに無鉄砲に行動しただろうか。
 彼は緩く首を傾げるようにしてこちらを見ている。さらさらと前髪が風に揺れて乱れる。それを細い指で押さえる彼を見ていて、気づいた。
「誰にでも、じゃないよ」
 言い返すと、ふっと彼の睫毛が震えた。それを目にしたら、少し視界が揺れた。
 けれど、黙ってなんていられなかった。
「困ってるのが時任くんだったから……俺」
 言いたいのに、俺、の続きが言えない。ああ、自分はなんでこうも臆病なのだろう。息を吸って言葉を絞り出そうとするけれど、やっぱり出てこない。
 紅は黙っている。彼の肩を夕日が撫で、白いシャツの肩を霞ませる。眩しくて目を細めたとき、とろりと重い日差しの向こうでぽつりと声が落ちた。
「多賀は俺と一緒にいたくないんじゃなかったの」
「い、たくないっていうか、あの、俺はただ……」
「嫌いなんじゃないの? 俺みたいなの」
「そんなこと言ってない!」
 自分でも予期していなかったほどの大声が出た。足元をふわふわと歩いていた鳩が驚いたように飛び上がる。ばさばさ、と乾いた羽音と共に彼らが去ると、夕日と水面と、自分達だけが広場には残った。
 遠く、蝉がじりじりと鳴いている。やけに耳につくその声を頭の中から追い出すように、暁史は髪を掻き回す。
「俺はただ……好きって言われるような、そんなすごいこと、してないから。そんな俺じゃ」
 ふさわしくないって思ったんだ。
 ああ、やっぱり最後まで言えない。
「多賀」
 俯く暁史を、硬い声が呼ぶ。はっと目を上げた暁史に向かい、すっと手が差し出された。
「こっち、来て」
 暁史のすぐそばに立つ大時計が五時のチャイムを鳴らす。その音を背負いながら彼がそっと手招きを寄越す。
 歩を踏み出そうかと足を上げかけた。けれどやはり動けない。コンビニで彼と彼の兄の後輩達の間に割り込んだときは躊躇なく動けたのに。なんでだ、と肩を落としていると、ふっと彼が目を伏せた。そのままゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 すぐ目の前に彼が立った。
 細い腕が伸ばされて、くい、とネクタイが引かれる。
 瞼がすうっと上がる。太陽光を反射して亜麻色に透けた虹彩が間近く見え、どきり、とした。
「選んでほしい」
 はたから見たらそれこそカツアゲとかそういうのと間違われてしまうかもしれない。
 でも、違う。
 これから危害を加えようとする人が、こんな熱っぽい目でこちらを見上げてくることなんてきっと、ない。
「今ここで俺にキスされるか、俺にはっきり嫌いって言うか、どっちか選んで」
 無茶苦茶過ぎないか、その二択。
 少し、憤った。文句を言いたいとも思った。なのに、やっぱり声が出ない。
 容赦なく退けるには、彼の目は熱過ぎたから。
 息を止めた暁史の前で、紅が笑う。
 少しの衝撃で崩れてしまいそうな、儚い笑みに見えた。
「多賀の声で、聞かせて」
「そんな、言い方、ずるいと思う」
 やっとのことでそう言うと、そうだね、と呟く声と共に暁史のネクタイからするりと指が解ける。彼の瞳がゆらっと揺れたのがわかった。
「でも聞かせてほしい。こうでもしないと、俺は諦める踏ん切りつかないから」
 諦める、踏ん切り。
――猫ってさ、具合悪いとき隠れるとか、死が迫ってくると姿を消すとか言うじゃない。そういうのしそうでさあ。
 こう言ったのは高階だ。あのときはこの人はなにを言っているのだろう、と思った。けれど今、目の前の彼を見ていると高階がそう言いたくなったのもわかる。
 ここでの自分の答え次第で、彼はきっと、猫のように姿を消す。
 いや、逆か。
 姿を消したくても離れられないから、その場で死んでしまいそうな気がする。
 馬鹿みたいな思い付きだったのに、その考えに囚われたらもうどうにも気持ちが落ち着かなくなってしまった。
「多賀、どっち?」
 掠れた声で彼が問いかけてくる。
「嫌い? それとも」
 一度離したネクタイに彼が思わずというように指を触れる。切なげに潤んだ目がこちらを見上げた。
 その目に映り込んだ陽光は、あまりにも鮮烈過ぎた。
「いい、よ」
 ゆらりと彼が首を傾げる。その彼の目から目を逸らす。この言い方じゃあちゃんとした答えになっていないかもしれない。それは彼もそう思ったようで、鋭く切り返された。
「なにが、いい? ちゃんと言って」
「いや、だから、あの」
「多賀」
 哀願するように名前が呼ばれる。その声は、震えていた。
「お願いだから、言って」
 そうされて……なぜか、わかった。
 いつも陽気で朗らかで。ぐいぐいと容赦なく迫ってくる彼。
 からかうみたいな態度でこちらをどきどきさせて。
 いつだって敵わないと感じていた。
 けれど多分……彼だって同じだ。
 緊張するのは……同じなのだ。
「キス、して、いい」
 必死に言葉を押し出すと、ふっと彼が小さく息を吐く。ゆっくりと薄い唇に笑みが刻まれた。
「よかった」
 囁き声とともにくいっとネクタイが引っ張られる。前屈みになった暁史の頬を乾いた掌が包む。
 友達同士だってまずしない距離で視線が交じり合う。普段意識せずにしていたはずなのに、呼吸の仕方をつい振り返ってしまう。鼻から息を吐くってどうするんだっけ、もしかして鼻息が荒いと思われやしないだろうか、などとぐるぐる考えていると、近すぎる距離で彼が笑った。
「ちゃんと息して。ずっと止めてたら死んじゃうから。それは、絶対嫌だ」
「あ、うん」
 恥ずかしい。真っ赤になりながらふううっと息を吐いた直後だった。
 柔らかく、キスされた。
 唇が唇でふわりと押し潰され、くらりとする。ふらつきそうになってとっさに彼の肩に捕まると、頬に添えられていた手が滑って背中に回された。
 心臓が跳ね過ぎて体の外に飛び出てしまいそうだ。心音にさえ動揺していたが、ふっと気づいた。
 響いてくる鼓動がひとつじゃないことに。
 自分を抱きしめてくれる彼の細い体からも、激しい音は聞こえていた。
 その音が……うれしかった。
「ヤバい……めっちゃ、照れる」
 唇を離すや否や彼の口から零れたのはそんな台詞で、それを聞いて暁史は笑ってしまった。
「自分から……したくせに」
「そうだけど。仕方ないだろ。俺、多賀のこと、めちゃくちゃ好きなんだから」
 好き、と、しかも、めちゃくちゃ、という枕詞までつけて言われてしまったら、どうしたらいいのだろう。体温が上がり過ぎて体温計も壊してしまいそうだ。
 真っ赤になってそろそろと彼の肩から腕を引くと、彼もそうっと暁史の背から腕を解いた。すうっと体温が離れていくのが寂しいと感じて、そのことに動揺した。
 自分だって、好き、とは思っていた。でも。これは……。
「……キスしたら、ますます好きになっちゃったみたいだ」
 自分の心の声が出てしまったのかと、口を押さえた。けれど違った。声の主をそろそろと窺うと、彼はかすかに口許に笑みを浮かべて、目を伏せていた。
 聞かせようとして言ったものではなく、つい漏れてしまった本音だったのだ、とその表情が告げていて……胸がいっぱいになった。
「俺も、好き、だよ」
 吐息めいた声で言う。聞こえていなかったのか、彼は瞼を下ろしたままだ。
 それが残念だと思った自分を、暁史は少し笑った。
 窓の外、蝉が半狂乱になって鳴いている。
 開け放した窓から吹き込んでくる風も熱い。
「終業式の日にエアコン壊れるとか、ないわ〜」
 ぶちぶち言いながらロッカーを開け閉めする紅の横で、暁史は苦笑いした。
「終業式の日でよかったよ。授業あるのにエアコン壊れてたらさすがに事件だ」
「そうだけど! 荷物めっちゃあるんだもん。まとめるだけで汗かくのに、エアコンないとかまさに地獄」
 いや、それは君が計画的に荷物を持ち帰らないからそういうことになるんじゃ……と思ったが、言わずに暁史は荷造りを手伝う。
 一学期も今日で終わる。明日からは夏休みだ。休みはうれしいが例年の夏休みとは違う感情が今年はある。
 毎日顔を見ていた彼と会えなくなるのはやはり、寂しい。
「夏休み、遊び行こ」
 その声が聞こえたみたいに紅が言った。ロッカーのドアをぱたん、と閉めた直後だった。
「え、俺、声に出てた?」
 ぎょっとして彼の顔を見下ろすが、なんも? と彼は首を振り、額の汗をくいっと拳で拭うばかりだ。
「じゃあ、なんで……」
「なんでっていうその質問になんでって返したい」
 ぐいぐいと荷物を鞄に詰めつつ、彼がくすっと笑う。
「多賀は俺がずっと見てた相手だし。考えてることくらいわかるよ。ってか」
 じいいっと鞄のファスナーを締め、よいしょ、と持ち上げた彼がこちらを振り仰いで言った。
「恋人だしね」
 相変わらず直球だ。そ、そだね、と照れて足元を見る暁史に、行くよ、と彼が声をかけてくる。頷いて彼の後に続いて教室を出ようとして、ふっと気づいた。
「時任くん、忘れてるよ」
 ロッカーの前にキャンバスが立てかけられている。美術の時間に描いた絵のようだ。なんの気なしに引っ繰り返してみて暁史ははっとした。
 自分がいた。
 淡い色彩で色付けされた絵の中で、自分は本を広げていた。目線はページに落としながら、文字を指先で辿っているその顔は、柔らかく綻んでいる。
 本を読むことが幸せでたまらぬ、と言うように。
「え、あ、ちょっと!」
 声と共に絵が奪われる。体で絵を隠しながらそっぽを向く彼を見下ろしながら、暁史は首筋を掻いた。
 友達の顔を描く、というあの課題の間中、彼は決して自分の絵を暁史に見せてくれなかった。だからどんなふうに自分が描かれていたのか、結局知らぬままだった。
 でも、今見て思った。あのとき、彼がこの絵を隠したいと思った理由が。
「俺のこと……ずっとこんなふうに見てくれてた、んだね」
 上手下手でいえばそこまで上手くはないかもしれない。それでも絵には感情が滲むと聞いたことがある。
 彼の絵には……大好き、が確かに滲んでいた。
「あの……ねえ、時任くん」
「なに」
 キャンバスを体で隠したまま、彼は教室を出て行こうとする。その彼に暁史は必死に追いすがる。
 好きと自分はちゃんと彼に言えていない。それがなんだか……悔しくてたまらなかった。
 だって彼は、ずっと好きだと伝えてくれていたのだから。
 態度で、言葉で。そして……絵にさえも好きを込めてくれていた。
 だったら自分だって彼に伝えたい。伝えねば。
「その、俺、さ、あの、ちゃんと、まだ、言えてなくて」
 ふっと紅が足を止める。怪訝そうに振り向いた彼を見下ろし、暁史は呼吸を整える。
 大丈夫だ。言えるはずだ。あのときは聞こえていなかったようだが、一度は言えたのだ。
 一度できたなら二度目もできるはず。
「あの」
「あ、多賀くーん」
 言ってやる! 言ってやるぞ! と意気込んでいた心を薙ぎ払うような見事なタイミングで声が飛び込んできた。がくり、と首を落としながらそちらを見ると、窓の向こう、向かいの校舎から高階が手を振っていた。
「あのさあ、今日図書室の鍵閉めるの、私、当番なんだけどー! ちょっと先生に呼び出し食らっててさあ! 代わりに閉めといてくれるー?」
「は、はあ……」
 今、頼まなくてもよくない?! と怒鳴りたい。が、できない。
 仕方なく頷くと、ありがとう! と夏休みを前に浮かれ切った笑顔が返ってきた。ぼやきたいのをこらえ、それじゃあ、と会話を締めにかかった刹那。
「ってか、猫鍋復活してるー! よかったねえ! 多賀くん、時任くん、仲直りおめでとー!」
 高らかに高階が叫んだ。え、ちょっと、と慌てている間に、じゃあねえ! と高階は窓から姿を消してしまい、後には高階の大声だけが残った。
「猫鍋ってなんだ?」
「時任と多賀が猫鍋?」
 馬鹿声でなんて恥ずかしいことを言ってくれているのだろう、あの人は。
 暁史たちがいる廊下には人影はないが、校舎の外にはまだそこそこ人がいる。彼等の間で猫鍋、猫鍋と言葉が交わされているのが聞こえ、暁史はたまらず廊下にしゃがみこんだ。
 高階はいい先輩だがこういうデリカシーがないところが玉に瑕だ。勘弁してくれ、と頭を抱えていると、きゅっと上履きを鳴らしながら、紅が暁史の前に膝を突いた。
「ねえ、猫鍋ってなに?」
 不思議そうな顔をしているが、少しだけ眉が寄せられている。また高階にジェラシーを燃やしているのかもしれない。
「あ、いや、高階先輩は誰にでもああいう軽口叩く人だから。時任くんがそんな気にすることでは……」
「猫鍋って?」
「いや、だから……俺と時任くんがちょっと距離置いてたとき、高階先輩に言われただけ。いつもその……猫鍋みたいなのに、最近そうなってないけど喧嘩したのーって。で、今、一緒にいるの見て、その」
「猫鍋」
 呟きながら彼は顎に手を当てている。そうしてからなにを思ったのか、壁際まで歩いていき、すとん、と腰を下ろした。次いで、肩に背負っていた鞄をひょいと投げだしてスマホを引っ張り出す。
 数秒後に聞こえてきたのは、納得したような、ああ、という声だった。
「これが猫鍋」
 そろそろと彼のそばまで行き、スマホを横から見る。土鍋の中で猫と猫が餅のように寄り添って眠っている画像が表示されていた。
「夏場は……暑そう、だよね」
 おそらく、そうだね、という返事があると思っていた。が、彼は画面を凝視したままだ。おや、と顔を覗き込むと、多賀、と名前が呼ばれた。
「多賀も俺みたいに壁に背中くっつけて座ってみて」
「……廊下だよ?」
「どうせみんなもう帰っちゃったし」
 言いながら腕を引っ張ってくる。やれやれと彼に倣って壁に背中を預けて腰かけると、ぐいっと彼が距離を詰めてきた。
「ちょ、時任くん?」
 呼びかけるがぐいぐいと空間が押し潰され、あっという間に自分の右半身と彼の左半身がぴたっとくっついてしまった。
 正直……暑い。
「うーん。確かにこれは、暑い」
 そのままの姿勢で彼が言う。今朝から教室のエアコンが壊れていたせいで、半袖のシャツから伸びた腕も汗ばんでいて、密着した肌と肌がじっとりとぬめる。本来なら不快でたまらない感触だ。
 けれど……なぜだろう、全然嫌ではなかった。相手が彼だからだろうか。そう思い至るや否や、気温以上に体が熱くなってきた。暁史は頬を染めながら、そりゃそうだよ、と言い返した。
「猫だって夏は猫鍋しないよ……」
「でもさ」
 ぽつん、と声が落ちる。
「これ、ほっとするね」
 彼は暁史の肩に頭をこてんと乗せながら、幸せそうに目を閉じていた。
 本当に猫みたいだ。
 先ほど目にした猫鍋の画像が瞼の裏に蘇ってきて、思わず笑みが漏れる。その気配に気づいたように、彼がこちらに目を向けてきた。
「猫みたいって思った?」
「あ、まあ、ちょっと」
 相変わらず紅は心を読む天才だ。度肝を抜かれながら頷くと、ふふ、と彼が小さく笑った。
「じゃあ、もうちょっと猫ごっこしよう。駄目?」
 少しだけ潤んだその目に心臓がことん、と音を立てる。
「いい、よ」
 そうっと囁くと、再び瞼が下ろされる。満足そうな声が耳の中へ滑り込んできた。
「この状態で聞く多賀の声、最高。もっと話して」
「は? なに、話せば……」
「なんでもいいよ。今日の天気でも、好きな食べ物の話でも、なんでも」
 なんでもというのが一番困る。
 弱りながら、暁史も目を閉じてみた。
 真夏の風物詩である、蝉の声が窓から流れ込んでくる。けれど今、なぜか自分は恋人と猫鍋状態にある。
 暑いし、べたつくし、なにやってるんだ、と我ながら呆れる。しかもなにか話してという無茶ぶりまでされている。
 けれど……この状態が落ち着くのは彼だけじゃない。自分もすごく、ほっとしている。
 それは多分、一緒にいる彼が自分のことをとても好きでいてくれるのがわかるからで、自分も彼がすごく……。
「好きだよ」
 ふわりと想いが声になって舞った。彼は肩に頭を当てたまま動かない。もしかしてくっついたまま寝てしまったのだろうか、と彼の顔を窺った瞬間、声が耳朶に沁み込んできた。
「二回目の好き、ゲット」
……あのときの声は聞かれていたらしい。
 敵わないなあ、と首をかくん、と落とすと、ふふ、と彼がまた笑った。
 もう詰める隙間もないのにくいっと頭が寄せられる。
「俺も好き。大好き」
 好き、が降ってくる。
 それはちょっと冬の雪みたいにさらさらしていて、聞けば聞くほど、胸の中に優しく降り積もる。
 夏の猫鍋、悪くないな。
 世の猫に教えてやりたい、などと思いながら暁史もそうっと彼の頭に頭を寄せた。

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