「なんだか、出会ったころのハル君に戻ったみたい」
木曜日の夕暮れ、いつものようにシーザーグラスに行くと、マキさんが開口一番、そう言った。
「……そうかな」
僕は曖昧に返しながら、店の中に入っていく。
僕が僕でいることを許してくれる、シーザーグラス。
そのはずなのに、今日はやけに居心地が悪い。
「そうよ。周りみんな敵、みたいな目しちゃって。なにかあった?」
マキさんは本当に鋭い人だ。
僕のすべてを見透かしているようなその瞳は、今日ばかりは見れない。
「……なにもないよ」
「そう?」
マキさんはそれきり、踏み込んではこなかった。
いつもならドリンクを頼み、よく一緒にいる人たちのところに移動する。
でも、今日はその中に入る気力がなかった。
久しぶりに一人で座るカウンター席は、妙に寂しい。
背後から聞こえてくる笑い声を聞けば、余計にそう感じる。
「今日はこっちなのね」
マキさんは僕の前にドリンクを置いた。
それは、僕がいつも頼むカフェラテじゃなかった。
レモン色の、炭酸飲料。
「……これ、なに?」
マキさんの質問に答えるよりも、目の前にあるドリンクのことのほうが気になった。
「柚子と蜂蜜のソーダ」
マキさんは、いたずらっ子のように笑っている。
……柚子って、まさか。
僕が察したことに、マキさんは気付いたのか、意味深に微笑むと、僕の前から離れた。
ソーダの泡がコップの底から上り、弾ける音がする。
まるで、今朝の相馬さんと倉本さん……いや、僕と相馬さんみたいだ。
――それでも私は、凛花と話せなくなるのは、嫌。だから、ちゃんと話すよ。
あんな、意思の強い眼をするなんて、思ってなかった。
ずっと自信なさそうというか、すべてにおいて不安そうにしていたのに。
でもそれよりも、僕は、相馬さんの言葉が信じられなかった。
――相馬さんなら、わかってくれると思ったのに。
僕がそう言ったとき、相馬さん、びっくりしてたな。
間違いなく、僕が、あんな突き放すようなこと言ったせいだろう。
でも、相馬さんが悪いんだ。
僕を裏切ったんだから。
僕と同じ、マイノリティ側にいるなら、わかってくれると思ってたのに。
それなのに、倉本さんと歩み寄ろうとするなんて。
普通の人と僕たちが、理解し合えると本気で思っているんだろうか。
――え、気持ち悪……
相馬さんへの怒りを考えていたはずなのに、つい、余計なことまで思い出してしまった。
僕の好意に気付いた親友の立花斗亜が、僕に冷たく言った言葉。
その言葉を、僕は記憶の奥底にしまいこんだはずなのに。
何度だって蘇って、僕の心を傷付けに来るんだ。
◆
僕が周りと違うと気付いたのは、中学二年生のとき。
当時、僕のクラスでは学校の女子で誰が可愛いのかを、勝手にランキング付けしていた。
今思えば最低な遊びだけど、誰も止める声を上げなかった。
だけど僕は、その話題に一切乗れなかった。
女子を可愛いと思う感性が、死んでたんだと思う。
そして、女子を好きだと思う感情も。
「晴也は? 誰がいい?」
斗亜にそう聞かれても、誰も思い浮かばなかった。
かといって、「いない」と言えば空気がしらけてしまう。
それはわかっていたから、僕は、一番票が入っている女子の名前を挙げた。
でも僕には、無邪気に笑いかけてくれる斗亜のほうが、よっぽど魅力的に見えた。
といっても、すぐにはそれが特別な感情なんだと気付けなかった。
斗亜のことは親友だと思っていたし、恋愛感情は異性に抱くものだという常識が植え付けられていたから。
そんな中で、同性でも愛し合うこともあると知ったのは、姉ちゃんが見ていたドラマだ。
姉ちゃんが追いかけているアイドルが深夜ドラマで演じていたのが、同性愛者だった。
そういう世界もあるのか、と少し衝撃を受けた。
だけど、今まで触れてきたどの恋愛物語よりも、僕の胸に響いた。
自分でも信じられないくらい主人公に感情移入して、気付けば、姉ちゃんよりも僕のほうがそのドラマにのめり込んでいた。
同性に意識してしまうこともある。
それを知ってから、斗亜との距離に、変に緊張するようになった。
ちょっと手が当たるだけで、少女マンガのワンシーンかと錯覚してしまうような空気が流れる日もあった。
笑顔を見れば、勇気がもらえて。
隣にいるだけで、幸せな気持ちになれる。
この感情に名前をつけるなら。
そして僕は、気付いたんだ。
斗亜が好きなんだ、と。
だけど、僕はそれを誰にも言えなかった。
当然だ。
同性愛者なんて、誰も受け止めない。
受け止めてくれるわけがない。
あのドラマの主人公だって、周りから白い眼で見られていた。
それをわかっていて、本人はもちろん、姉ちゃんにすら伝える勇気がなかった。
この気持ちは、墓まで持っていってやる。
そう、思っていたのに。
「……晴也って、俺のこと好きなの?」
ある日の放課後、なんの前触れもなく、斗亜にそう聞かれた。
そのときの目は、今でも覚えている。
好意を向けられて嬉しい、なんて目をしていなかった。
嘘だと言ってくれ。
そう願っている目だった。
だけど僕は、斗亜の期待に応えてやれなかった。
驚きと戸惑いから、肯定の沈黙を作ったせいで、斗亜にはそれが本当だと伝わってしまった。
斗亜と付き合えるかも。
そんな淡い期待を抱く暇もなかったと思う。
「え、気持ち悪……」
斗亜の反応は、完璧に拒絶だった。
そう言い捨てて僕から離れようとする斗亜を、僕は慌てて引き留めた。
今ならまだ、否定すれば間に合う。
そう思ったから。
でも、遅かった。
斗亜は僕の手を振り払って、僕を睨む。
気持ち悪い。
もう一度、言われた気がした。
それ以来、斗亜はもちろん、周りの奴らとも距離を置かれた。
いや、違う。
僕から、距離を置いたんだ。
だって、もう傷付きたくなかったから。
こんなにも痛い思いをするくらいなら、僕は独りでいい。
シーザーグラスを知ったのは、まさにこのときだった。
やさぐれた僕を、マキさんのパートナーである仁さんが見つけてくれた。
こんな僕でも、受け入れてくれるところがある。
そんな胡散臭いことを言って、仁さんは僕をここに連れてきてくれた。
その日は、ちょうど木曜日だった。
「いらっしゃい」
店に入ると、マキさんが柔らかい表情で僕を迎えてくれた。
でも、優しいのは今だけ。
僕のことを知ったら、きっと、この人たちも僕から離れていくんだ。
そう思っていたから、初めは警戒心をむき出しにしていた。
だけど、マキさんはウェルカムドリンクのりんごソーダを出してくれて。
僕の話を、否定せずに聞いてくれた。
「それは……つらかったね」
その優しさに、僕はやっと涙を流すことができた。
ずっと、気を張っていたんだと思う。
しんどいって認めてしまうと、立っていられなくなるくらい。
そんな僕を、マキさんはまるごと包み込んでくれて。
それがあまりにも温かくて、泣かずにはいられなかった。
そして、涙が落ち着いても、僕は帰らなかった。
「親に、彼女は?って急かされてさ。察しろよって思うけど、気付くなとも思ってしまうんだよな」
「また“男らしくしなさい”って言われちゃった……みんなが、ここにいる人たちみたいに優しかったらよかったのに」
そんな会話に耳を傾けながら、ゆっくりとりんごソーダを喉に通す。
りんごソーダは微炭酸で、僕がマキさんと話しているうちに、すっかり炭酸は抜けていた。
りんごジュースと錯覚してしまうほどのジュースは、程よく甘くて、身体に染み渡った。
悩んでいるのは、僕だけじゃない。
こうして、同じような痛みを持っている人が、ここにはいる。
それが、僕の存在を許してくれているような気がした。
ここは、僕みたいな人がいてもいい場所。
独りでいいと思っていたけど、ここにはいたいと思い始めた。
そして僕は、毎週木曜日だけ、シーザーグラスに通うようになった。
『光が届かない場所で咲く花たちよ』を知ったのは、それからだ。
僕と同じ同性愛者におすすめされて、手に取った。
それを読んで、ますます一人でもいいんだって、思えるようになって。
少しずつ、僕の日常を取り戻した。
そして、僕は高校生になった。
斗亜とのことがあったから、誰も僕のことを知らない高校に進学した。
僕の学校生活も、これでリセット。
あの日みたいなできごとは繰り返さない。
そう、思っていたのに。
「大丈夫?」
それは、去年のクラスマッチのこと。
サッカー、バスケ、卓球。
そのどれもが面倒で、余ったものがサッカーだった。
周りに迷惑をかけない程度にコートに立っていたつもりだったのが、ボールの取り合い集団に巻き込まれて、僕は無様にも転んでしまった。
そこに手を差し伸べてくれたのが、小河朔くんだった。
彼の心配そうな表情が眩しく見えたのは、きっと、太陽を背にしていたからだろう。
これがクラスメイトだったら、その優しさを跳ね返していた。
でも、小河くんの手は、払いたくないと思った。
骨ばった大きな手に、自分の手を重ねる。
誰かの肌の温もりを感じたのは久しぶりで、全身に緊張が走る。
その瞬間、小河くんが手を引き、僕は立ち上がった。
身構えていなかったせいで、若干バランスを崩してしまい、小河くんと顔が近くなってしまった。
「ご、ごめん!」
不快な思いをさせてしまったと、すぐに謝って離れる。
すると、小河くんはふっと笑った。
「これくらい、なんてことないよ」
そして、小河くんは颯爽と試合に戻って行った。
ありがとうって、言えなかったな。
そんなことを思いながら、僕は試合が終わるまで、小河くんを目で追っていた。
いや、それだけじゃない。
廊下ですれ違うときも、彼の教室の前を通るときも。
図書室からサッカー部の練習が見れると知ったときは、胸が躍った。
「柚衣、こっち!」
図書室に似合わない倉本さんがやって来るようになったのは、去年の冬のことだった。
相馬さんを連れて、僕がよくいた場所を陣取った。
この子も、小河くんに恋をしているんだ。
それに気付くのには、そんなに時間はかからなかった。
僕よりも堂々と、そしてきらきらと恋をしている。
この嫉妬心が、彼女の恋をする様子に対してなのか、それとも小河くんに好意が向いているからなのか。
僕だって、君みたいにまっすぐ恋をしたいのに。
どうして君は許されて、僕は許されないんだろう。
次第に、その思いのほうが強くなっていったと思う。
そうして倉本さんを見ていると、ふと、気になることがあった。
相馬さんだ。
二人が仲良くしていることは、同じクラスだから知っていた。
ただ、倉本さんが相馬さんに触れるたび、相馬さんは身体を強ばらせていて。
倉本さんが楽しそうに小河くんを追いかけていると、複雑そうな表情を浮かべていた。
……もしかして。
もしかすると、彼女も僕と同じ、同性愛者なのかもしれない。
そんなふうに思うようになってから、僕はときどき、相馬さんの様子を観察した。
やっぱり、倉本さんといるときだけ、彼女は顔を顰める。
そのうち、勝手に仲間意識が芽生え、いつしか相馬さんと話してみたいと思うようになっていた。
そして、事件は起きた。
いや、いつかそうなるとは思っていたけど。
小河くんと、倉本さんが付き合い始めたという事件。
僕は必然的に失恋したということになるけど、あまり心は痛まなかった。
たぶん、倉本さんがまっすぐ恋をしていることを知っていたから、心の準備ができていたんだと思う。
といっても、二人が一緒にいるところを見るのはしんどかった。
だからお昼は誰もいない空き教室とかで食べて、昼休みは図書室で時間を潰すようになった。
それは、僕だけじゃなかった。
相馬さんも、そこにいた。
でも、僕と同じように失恋から逃げているようには見えなかった。
なんだか、自分の恋心を自覚していないような感じ。
相馬さんは、同性愛というものを知らないんじゃないか?
かつて、僕がそうだったように。
だったら、そういう世界があることを、教えてあげなければ。
僕が、彼女を救い上げなければ。
気付けば、そんな謎の使命感を抱くようになっていた。
そして僕は、相馬さんにあの本を貸した。
だけど、相馬さんは僕と同じ同性愛者じゃなかった。
恋ができない、無性愛者。
それを聞いて思い浮かんだのは、マキさんのことだった。
マキさんなら、もっと彼女を救い上げてくれるだろう。
そう思って、僕は、僕の日常に相馬さんを招き入れることにした。
相馬さんなら、僕の日常を壊したりはしない。
そう、わかっていたから。
それから、一週間をかけて相馬さんの表情が柔らかくなっていく様を見て、僕がしたことは間違っていなかったんだと思った。
相馬さんは僕と同じじゃなかったけど、同じだったんだ。
改めてそう認識した。
それなのに。
僕は今日、相馬さんに裏切られた。
◆
すっかり汗をかいたコップを握ると、僕は柚子と蜂蜜のソーダを飲んだ。
あの日のりんごソーダみたいな微炭酸ではなかったようで、柚子の酸っぱさと炭酸で喉が刺激される。
その痛みに、少し声が漏れる。
喉がひりついているのを感じながら、今朝の相馬さんの表情を思い出す。
どうして相馬さんが、あんなにも傷付いたような顔をしたんだろう。
裏切られたのは、僕なのに。
「相馬さんなら、わかってくれると思ったのに……」
今一度、その言葉を音にして、気付いた。
僕は、相馬さんのことを知っていただろうか。
なにに悩んで、苦しんでいるのか、ちゃんと知ろうとしただろうか。
この柚子と蜂蜜のソーダを微炭酸だと思い込んでいたように、勘違いがあったんじゃないか。
そう思うと、僕は最低なことをしてしまったような気がした。
だけどやっぱり、僕の中には相馬さんに裏切られたんだという傷が残り続けた。



