いつものように、朝の身支度を終える。
 制服に袖を通し、髪型を整えて、ローファーを履く。
 歩き慣れた道を進んで、学校にたどり着いた。
 だけど、私が向かうのは、教室ではなかった。
 まだ少し、教室から逃げているような罪悪感があるけど、あの日先生が、居心地のいい場所を探しているんだと言ってくれたことで、少しだけ心が軽くなっていた。
 だから私は、今日もまた、保健室に向かう。
 その非日常に戸惑いながら、私は保健室のドアを開けた。
 あの日、あんなにも重たくて開けられなかったドアは、簡単に開いた。

「おはよう、相馬さん」

 先生が柔らかい笑みで迎えてくれると、私は「おはようございます」と返しながら、白く大きな机に荷物を置く。
 カバンからノートや筆箱、そして、浅木くんから借りた本を取り出した。
『光の届かない場所で咲く花たちよ』は、あと少しで読み終わる。
 あまり読書慣れしていないせいで、読み終えるのに一週間以上もかかってしまった。
 今日は浅木くんが当番である火曜日。
 教室にはまだしんどいけど、図書室なら行けそうだから、今日読み終えてしまいたい。
 そんなことを思いながら、私は本を開いた。

   ◆

「失礼しまーす!」

 四時間目が終わると、静かな空間に、凛花の声が響く。
 あれ以来、凛花は昼休みになってすぐ、保健室に来てくれるようになった。

「はい、柚衣。今日の課題プリント」
「ありがとう」

 授業に出られない代わりに、特別に出される課題。
 それを、凛花は毎日持ってきてくれるのだ。

「じゃあ、またね」

 そして、あっという間に帰って行った。
 といっても、これから凛花が向かうのは、小河くんのクラスだろうけど。
 初めは、凛花もここでお昼を食べていた。
 だけど、先生が「ここは元気な人が楽しく過ごす場所ではないのよ」と言ったことで、凛花は顔を見にくる程度になった。
 若干の寂しさと安心感があることは、誰にも言えない。
 そしてお弁当を食べ終え、私は図書室に向かった。
 図書室のドアを開けると、相変わらずの静寂が私を迎えてくれる。
 浅木くんはカウンター席に座っていて、私に気付いた。
 今日の浅木くんは、無関心に視線を落としはしなかった。
 それが、私がここにいてもいいと肯定してくれている気がした。
 私は小さく会釈を返し、カウンター席に足を踏み出す。

「これ、ありがとう」 
「どうだった?」

 浅木くんは本を受け取りながら、聞いてきた。
 本の感想なんて、誰かと共有したことがないせいで、どんなふうに言えばいいのか、迷ってしまう。
 “面白かった”なんて言葉が求められていないこともわかっているから、余計に言葉が見つからない。

 ――きっと、救われるから。

 ふと、本を貸してくれたとき、浅木くんはそう言っていたことを思い出した。
 浅木くんは、そんなに難しい感想は求められていないのかもしれない。

「……救済の物語って感じがした」

『光が届かない場所で咲く花たちよ』は、普通の恋ができない人、つまり同性愛者や無性愛者が登場人物となり、自分らしく生きようとする姿が描かれた作品だった。

『みんなと一緒に咲くことはできない。だけど、どんな場所でも咲くことはできる。私の人生は、それでいい。私らしく生きるために、私はみんなと一緒を諦める』

 中でも、その言葉が強く印象に残った。
 ずっと、周りと違う感覚が苦しかったけど、それでいいんだって、教えてくれた。
 まさに、“あの花”による気付き。
 だけど私は、少しだけ違うとも思った。
 あの物語の登場人物は、周りと離れてもまっすぐ生きていくことを決めていたけど、私は、諦めたくない。
 そう思うはずなのに、私はまだ、足踏みしたままだ。

「どう? 答えは、見つかった?」

 ふいに浅木くんが問いかけてきた。
 答え。
 それは、私が何者であるのかという問いに対する答えだろう。
 この本を読んだことで、私はこれかもしれないという答えを見つけることはできた。
 だけど、それを伝える勇気が、出ない。

「ああ、そっか」

 私が戸惑っていると、浅木くんはなにかに納得した。

「相馬さんの答えだけを聞くなんて、ずるいよね」

 そうか。
 私のなかにあった戸惑いの原因は、それだ。

「僕は、同性愛者なんだ」

 それを聞いて、妙に腑に落ちた。
 あの本の中に出てきた登場人物も、浅木くんみたいに周りと距離を置いていた。
 浅木くんが周りと関わらなかったのも、きっと同じだ。
 そして、多賀くんが言っていた“気持ち悪い視線”と、凛花が感じた“嫌われている視線”。
 その正体は、きっと、浅木くんが隠したかったこの事実だったんだ。
 でも、浅木くんはそれを私に教えてくれた。
 だったら、浅木くんが私の見つけた答えを否定することはないだろう。

「私は……無性愛者(アセクシュアル)かなって」

 無性愛者。
 それは、恋愛感情も性的感情も抱かない人のこと。
 あの物語では、無性愛者が告白されているシーンがあった。
 登場人物は、そのとき「しまった」と思っていた。
 私には、その感覚が一番近かった。
 私の答えを聞いて、浅木くんは「そっか」と短く応えた。
 それは拒絶するものとは違う、柔らかい声だった。
 だから、浅木くんはもっと、私の不安を聞いてくれるような気がした。

「でも……本当にそうなのか、わからなくて……」

 物語で描かれている無性愛者は、私と同じように恋心がわからなくて、苦しんでいた。
 だけど、私みたいに誰かの恋バナが聞けないとか、誰にも触られたくないといった描写はなかった。
 だったら、私は無性愛者でもないのかもしれない。
 そう思うと、自分がどのグループからも外されてしまったようで、心がどんどん沈んでいく。

「それならそれで、いいんじゃない?」

 浅木くんは、私が返したばかりの小説をパラパラとめくりながら言った。
 私の不安を吹き飛ばすほど、あっさりとした物言いだ。

「人との付き合い方に正解なんてないだろうし。ただ自分が納得できる形を見つけられたなら、十分でしょ」

 私は、物語の無性愛者と同じでなければならないと思っていた。
 だけどそんなふうに言われると、少し気が楽になってきた。
 それでも、まだ心が沈んでいるような気がするのは、どうしてだろう。

「……もし、もっと明確な答えがほしいなら、それもできるけど」

 私の不安を察してか、浅木くんは音を立てて本を閉じると、そんなふうに言った。
 明確な、答え。

「どうやって……?」

 普通の枠から離れてしまっていても、ちゃんと名前のある存在であったことがわかった。
 私としては、大きな収穫だ。
 それでも、その先がある。
 そう言われてしまうと、気になってしまう。

「相馬さん、木曜日の放課後、暇?」
「予定はないけど……」

 質問に答えてもらえなくて、私は疑問を抱きながら返す。

「わかった。今度はすっぽかさないでね」

 浅木くんは不敵な笑みを浮かべた。
 彼の表情が崩れたのは初めて見たから、少し驚いてしまった。

「そういえば、相馬さんがこの前読んでたファンタジー小説、返却されてたよ」
「……わかった」

 なんだかはぐらかされたような気がしつつ、私は書架に向かった。

   ◆

 木曜日の放課後、ほとんどの生徒が教室から出たタイミングを見計らって、私は昇降口に行った。
 浅木くんは先に着いていたようで、靴を履き替えて外に立っている。
 待たせてしまったことに気付き、急いで校舎を出る。
 さっきまでは背中しか見えていなかったからわからなかったけど、浅木くんは立って本を読んでいる。

「……浅木くん」

 少し話すようになったとはいえ、浅木くんに話しかけるのに緊張してしまう。
 浅木くんは私のほうを見て、小さく口角を上げた。

「よかった、今度はボイコットされなかった」
「……しないよ」

 この前話したときにも思ったけど、浅木くんは結構意地悪なのかもしれない。
 そんないたずらっぽいところに戸惑う同時に、子供っぽく拗ねる反応をしてしまった。
 それを見て、浅木くんはますます笑う。
 いつだったか、凛花が多賀くんにからかわれて拗ねていたけど、まさにこんな気持ちだったのかもしれない。

「じゃあ、行こうか」

 そして、浅木くんは本をカバンに入れると、歩き始めた。
 私のことなんて忘れているんじゃないかと錯覚してしまうようなスピードで、浅木くんは私の前を歩いていく。
 グラウンドの横、校門、学校前の道。
 どの場所でも私の目に人は映っているのに、彼らの声はどこか遠くから聞こえてくるみたい。
 五感がどんどん鈍くなって、全意識が目の前にいる浅木くんに集中していく。
 なんだか、親を見つけた雛鳥にでもなった気分。

「どこに行くの?」

 どんどん知らない道を突き進んでいくから、ふいに不安になった。

「普通の喫茶店だよ」
「喫茶店……」
「ちょっとルールがあるけどね」

 少しこちらを振り向いた浅木くんは、小さく口角を上げる。
 浅木くんと秘密を共有したからか、何度か浅木くんの柔らかい表情を見たけど、まだ慣れそうにない。

「ルールって?」
「そこの喫茶店は、毎週木曜は休みなんだけど、特別な会みたいなものが開かれているんだ。それには紹介制で行くことができる。そこでは本名を名乗ってもいいし、名乗らなくてもいい。ただいるだけでもいいし、誰かと話してもいい。割と自由なんだ」

 それだけを聞けば、たしかにどこにでもある普通の喫茶店だ。
 だけど、浅木くんが足を止めて私と向き合い、右手の人差指を立てるから、思わず息をのむ。

「ただ一つ、絶対に守らなきゃいけないルールがある」

 からかう声でも、表情でもない。
 浅木くんは真面目なトーンで言う。

「誰のことも否定しない。これが、絶対的なルール」
「どうして?」
「まあ、行けばわかるよ」

 浅木くんは詳しく説明してくれなくて、また歩き始めた。
 知らない道、知らない風景。
 そこにはもちろん不安もあるけど、なにかに期待している私がいた。
 浅木くんが言っていた、明確な答えが見つかる場所だとわかっているからだろうか。
 自分のことのはずなのに、うまく言語化できない気持ちを胸に、私は浅木くんの背を追う。

「ここだよ」

 浅木くんが足を止めたのは、本当にどこにでもありそうな喫茶店。
 普通の喫茶店と言っていただけあって、私一人だと通り過ぎてしまいそうな外観だ。
 お店の前に置かれた看板には、かすれた文字で『Seaser Glass』と書かれている。
 それは見たことない単語で、私には読めなかった。

「シーザーグラスって読むんだ」

 私が看板を凝視していることに気付いたのか、浅木くんは言いながら、ドアを開ける。
 視線で先に入るように促され、中に入ると、コーヒーのほろ苦い香りが鼻腔をくすぐった。
 “シーザーグラス”という店名だからか、美しいガラス製品があちこちに飾られていて、それらに窓から差し込んだ光が反射し、店内を輝かせている。
 その雰囲気に目を奪われる。

「いらっしゃい、ハル君」

 カウンター席に座る女性が、こちらを見て言った。
 ショートカットがとても印象的で、凛とした雰囲気がある。

「こんにちは、マキさん」

 彼女に答えたのは、浅木くん。
 そういえば、彼の名前は浅木晴也だった。
 本名を名乗ってもいいし、名乗らなくてもいいというのは、こういうことだろうか。
 だとしたら、ここで浅木くんと呼ばないほうがいいのかもしれない。
 なんて思っているうちに、彼女、マキさんが席を立ち、こちらに歩いてきた。

「友達?」
「そう。同じ高校なんだ」

 浅木くんは私のほうを向く。
 その視線に促され、名乗ろうとしたけど、本名を名乗るか迷った。

「そんなに緊張しなくて大丈夫。ここで呼ばれたい名前を教えて? ネットのハンドルネームみたいな感覚でいいの」

 ネットのハンドルネーム。
 ひとつ、私がゲームでよく使う名前がある。

「……ユズ、で」
「ユズさんね。飲み物はどうしましょうか」

 マキさんは、近くに置いてあったメニュー表を手にすると、渡してくれた。
 コーヒーにココア、果物ジュース、そして炭酸飲料。
 そこに書かれているのはどれも普通で、ここが特別なのは、店内の雰囲気だけみたいだ。

「僕はいつもので」
「はいはい」

 浅木くんはマキさんの軽く促すような返事を聞きながら、喫茶店の奥にある男性のグループに混ざった。
 知らない場所で急に独りにされて、不安が込み上げてくる。

「ユズさんは?」
「えっと……」

 改めてメニューを見るけど、なににすればいいのか、変に迷ってすぐに答えられない。

「ユズさん、甘いものは好き? それとも、ちょっと苦いほうが好みかな」

 私が答えられないでいると、マキさんが優しく聞いてきた。

「甘いほう……」
「じゃあ……柚子と蜂蜜のソーダとかはどう?」

 提案されてメニュー表を改めて見るけど、そんなメニューはどこにも書かれていない。

「毎週木曜日、初めて来てくれた人には、ウェルカムドリンクを出すこともあるの」

 そんな特別なものがあることへの期待感で、胸が躍る。

「じゃあ、それでお願いします」
「はい、かしこまりました。席は好きなところをどうぞ」

 マキさんがカウンターの中に入っていくのを目で追いながら、店内を見渡す。
 木製のテーブルと椅子が少し色あせていて、大切にされてきたことがわかる。
 年代の違う本、ガラス製のカップや装飾品、そして、シーグラスで作られた展示品。
 どれも温かく感じられ、居心地がいい。
 それにしても、どこに座ろうか。
 まだ何か所か席が空いているけど、部屋の真ん中に進む勇気はない。
 そして私が選んだのは、カウンター席の端。
 浅木くんは、ここにいて話してもいいし、話を聞くだけでもいいと言っていた。
 だから、今日は静かにここの雰囲気を感じることにした。

「お待たせしました」

 マキさんが出してくれたドリンクは、透き通ったガラスの中で、柚子の皮がふわりと浮いている。
 細かい泡が静かに立ち上り、蜂蜜の甘い香りがした。
 そっとコップを手に取り、一口喉に通してみる。
 蜂蜜の甘さと、柚子の甘酸っぱさのバランスがちょうどいい。

「おいしい……!」
「よかった」

 私の独り言を聞いて、マキさんは柔らかく微笑んだ。
 まるで、このドリンクの蜂蜜みたいだ。
 そして、マキさんは私の隣に座る。

「ハル君から、ここのルールは聞いた?」
「はい、少しだけ」
「じゃあ、私から詳しく説明しようかな」

 マキさんの笑みは、やっぱり温かい。
 その反応だけで、私がここにいてもいいと言ってくれているような気がする。

「ここ、Seaser Glassが特別な日に変わるのは、毎週木曜日だけ。そして、ここに集まるのは、世間で言われる“普通”から少し外れてしまった人」

 マキさんの物言いに、心臓が鷲掴みされたような気分だ。
 普通ではないことを認めたくなかったのに、ここでそれをはっきりと言われるなんて……

「といっても、私は、外れたなんて思ってないんだけどね。周りが勝手に決めた枠は、狭いもの」

 そう言われると、私が見ている世界も、狭いように感じてくる。
 実際、私は『光の届かない場所で咲く花たちよ』を読むまでは、無性愛者という存在を知らなかった。
 きっと、私が知らない世界がもっとたくさんあるんだろう。

「異性を好きになれない人、好きがわからない人、自分の性別に疑問を抱いてる人、文字が読めない人、毎日決められた場所に行けない人……そんな“普通”の世界が生きづらい人たちが、少しでも安らげる場所が、ここなの」

 マキさんは優しい目をして、店内にいる人たちを見ている。
 ああ、そうか。
 マキさんがこんなに素敵な人だから、ここは居心地がいいのか。

「どうして……ここを作ったんですか?」
「私が、普通から弾かれた人間だから、かな」

 マキさんは切なそうに笑った。
 私……間違えた?

「まさにユズさんと同じくらいのとき、私はみんなみたいに恋ができないことに気付いてしまったの。周りには、初恋を知らないだけとか、いつかわかるとか、無責任な声かけをされて。なんでみんな理解してくれないのって、心は叫んでいたのに、私は誰にもそれを言えなかった。また否定されたらって思うと、怖くてね。そのせいで、自分の世界に閉じこもるようになっちゃったの」

 それはまさに、今の私と状況と同じだ。
 浅木くんが、答えが見つかると言っていた理由は、これか。

「あの日々は、本当に苦しかった……でも、大人になって気付いたんだ。私みたいに、普通じゃないことに苦しんでいる人はたくさんいるってことに」

 マキさんはもう一度、愛おしそうに、店内にいる人たちを見た。
 今の言葉と、その表情で、私の心が本当に救われたような気がした。

「ここが、少しでも誰かの救済の場になってくれたら。そう思って……なんて、ちょっとかっこつけすぎたかも。こういう場所があったら、過去の私は救われたのにって、普通にこだわる世の中に逆らいたかったのかもしれないね」

 マキさんは、ふふ、と小さく笑う。
 マキさんの話を聞いていて、マキさんを強い人だと思ったけれど、違うのかもしれない。
 マキさんもまた、普通に苦しんで、抗った人。
 その言葉に過去の傷みが滲んでいるから、今の優しさが、こんなにも胸に染み込んでくるのだろう。

「私は……素敵だと、思います」

 浅木くんに教えられたルールに従ったわけじゃない。
 心から思ったことだった。
 マキさんが柔らかい笑みに戻ったことで、この言葉は間違っていなかったんだと思った。

「ありがとう。ユズさんも、話したくなったらいつでも声をかけてね。どんな話でも聞くから」

 マキさんはそう言って、私の隣を離れた。
 無理に話を聞き出されないこの距離感に、安心感すら覚える。
 それから私は、柚子と蜂蜜のソーダを飲みながら、聞こえてくる会話に耳を傾けた。
 女性の声で、彼女に浮気されてるかも、とか。
 今週は二日続けて学校に行けた、とか。
 マキさんが言っていた普通から外れてしまった人たちの会話を聞いていると、なにが普通なのか、わからなくなってくる。
 ここにいる人たちは、自分のことを包み隠さずに話していて。
 誰もそれを否定しない。
「おかしい」と言う人なんて、誰もいない。
 普通じゃないことが、当たり前みたいだ。
 私の世界が、静かに塗り替えられていく、そのとき。

「退屈してる?」

 私が店内の隅にいることを見かねたのか、浅木くんが背後に立ち、声をかけてきた。

「ううん……まだ緊張してるのかも」

 誰も否定しないという環境が、少しだけ私の本音を引き出した。

「そっか。マキさんとは話してみた?」

 それだけでなく、浅木くんもいつもより優しい表情をしているような気がする。
 ここは本当に、不思議な場所だ。

「うん。ここを作った理由を教えてくれたよ」
「……アセクシュアルのこと、聞いてみたら?」

 浅木くんは私に気を使ってか、小さな声で言った。
 たしかに、マキさんなら、寄り添ってくれるかもしれない。
 マキさんと話しているときに感じた淡い期待感が、大きくなっていく。

「マキさん、聞いてよー! また推しが死んじゃったー!」

 マキさんに声をかけにいくか悩んでいると、店に入ってきた人が、泣き叫んだ。
 落ち着いた雰囲気のお店に似合わない騒がしさに驚いたけど、マキさんは歓迎する。

「ゆらちゃん、いらっしゃい」

 ゆらと呼ばれたその人は、カウンター席で女の人と話しているマキさんの元へ駆け寄る。

「ゆらさん、本当に物騒なアニメ好きだよね」

 浅木くんが笑いながら、声をかけた。
 いつも学校で見かける、周りとは距離を置く浅木くんは、どこにもいない。

「違うよ、ハル! 今回は平和なはすだったの!」
「でも?」
「死んじゃった! え、なんで!? 呪われてるの!?」

 彼女は、マキさんに出された飲み物を一気に飲み干した。
 その様子を見て、浅木くんはまた笑っている。

「呪いじゃなくて、運命じゃない?」

 浅木くんは、気を許した人にはこんなにも柔らかい表情を向けてくれるんだ……
 それに驚いて、思わず浅木くんの顔を凝視してしまった。
 すると、浅木くんに気付かれてしまった。

「ああ。あの人は、ゆらさん。普通はヒーローとか主人公を好きになるところを、敵役とか脇役を推してるから、毎回あんな感じ」

 ゆらさんのことが気になって見ていたわけじゃない。
 だけど、浅木くんに目を奪われていたとは知られたくなくて、「そうなんだ……」と小さく零した。

「あれ、見ない顔だ。新入りさん?」

 すると、ゆらさんが私に気付いた。

「そ。僕の紹介」
「ハル、友達いたんだ?」
「失礼だな。いないよ」

 キッパリと言う浅木くんを、ゆらさんは吹き出すように笑う。
 そしてマキさんからドリンクのおかわりを受け取ると、私の傍に寄ってきた。
 そして、隣の椅子に座る。
 マキさんよりも少し近い距離感に、思わず身体がビクついた。

「新入りさん、私が話聞こうか? で、よければ私の話も聞いて?」
「そっちがメインでしょ」
「だいたいの人には布教したからね」

 浅木くんは身に覚えがあるのか、苦笑している。

「じゃあ……今日が初日だから、手加減してあげてね」

 浅木くんはそう言うと、元のグループに戻っていった。
 まだ緊張が残っているから、浅木くんにはまだここにいてほしかったけど、そこまで甘えられない。

「じゃあ、私から話すね」

 そしてゆらさんは、好きなアニメについて語り始めた。
 それは私の知らない作品で、当たり障りのない相槌しか打てない。
 だけど、どうやらそれで問題ないみたいで、ゆらさんは話を続ける。

「あー、すっきりした。聞いてくれてありがとね。えっと、何さんだっけ」

 ゆらさんは両手を組み、腕を伸ばす。

「ユズ、です」
「ユズちゃんね。あ、“ちゃん”で大丈夫? “君”呼びのほうがいいとか」

 その返答が、ゆらさんがここに馴染んでいることを示しているような気がした。

「いえ……“ちゃん”で大丈夫です」

 そう答えながら、さっきのゆらさんの言葉が頭から離れない。
 話せばすっきりする。
 私も、そうなれるだろうか。
 浅木くんは、マキさんに話してみたら?と言っていたけど、今、ゆらさんに聞いてほしい。

「あの……ゆら、さん……私の話、聞いてくれますか……?」
「当たり前じゃん! いくらでも聞くよ!」

 そして私は、恋愛感情を理解できないこと、そして、すべてを恋愛に繋げられてしまうことの鬱陶しさを話した。

「え、わかる……! めちゃくちゃわかるよ! ホント、なんで男女が一緒にいるだけで、付き合ってるのとか言うんだろうね。世界は恋愛でできてないから!」
「はいはい、ゆらちゃん、ストップ。ヒートアップしすぎ。ユズさんが戸惑ってる」

 ゆらさんの熱弁を止めたのは、マキさん。
 ゆらさんは架空の敵への怒りが収まらないようで、不満そうに声を出している。

「あと、カイ君が来てるよ」

 マキさんが指したほうには、ボーイッシュな女性がいる。
 中性的だし、マキさんが“カイ君”と呼んだことで一瞬わからなかったけど、線の細さから、女性だと思う。

「え、本当だ! カイにも報告しなきゃ」

 そんなカイさんを見て、ゆらさんの表情が明るくなる。
 それほど気心が知れた人なんだろう。
 ゆらさんは席を立ち、カイさんの元へ移動した。
 賑やかな雰囲気が離れていくのは、凛花が私の傍にいないときの静けさのようで、寂しく感じる。

「ユズさん、私と同じだったんだね」

 マキさんは言いながら、私の隣に戻ってきた。
 やっぱり、マキさんの距離感は、私にとって心地よい。
 マキさんなら、私の小さな不安すらも、受け止めてくれる気がした。

「……でも、違うかもしれなくて」

 ただ無性愛者の心理がしっくりきたというだけ。
 それ以外は、私とは異なることばかりで。
 それなのに、私は無性愛者だと言っていいの?
 本当に私は、無性愛者なの?
 小さな不安は徐々に大きくなっていた。

「私はそれでいいと思うよ」

 それは、浅木くんと同じ言葉だった。
 浅木くんがあんなにもあっさりしていたのは、ここでマキさんと話した過去があったからなのかもしれない。

「私たちはすでに完成したグループから外れてしまった。だから、次のグループからも外れてしまうことを、恐れてしまう」

 なんだか、マキさんに心の内を見透かされている気分だ。
 だけど、私の中にあるもやもやを言語化してくれているようで、不思議と嫌ではなかった。

「でも、その枠に当てはまってないからダメ、なんてことはないの。実際、私はアセクシャルだけど、パートナーがいるしね」
「え……」

 誰かと共に生きていくことができないんだと思っていたから、その事実に驚いてしまった。
 だけど、マキさんはその反応を待っていたかのように、微笑んでいる。

「アセクシャルだからって、一人でいなきゃいけないってことはないからね。私みたいにパートナーを作ってもいいし、いつか恋をしてもいい。名前に囚われる必要はないの」

 それを聞くと、一気に心が楽になった。
 私は、難しく考えすぎていたのかもしれない。
 世界は、私が思っているよりも広く、自由なんだ。
 そう思うと、みんなと違うことを認められなかった恐怖心が薄れ、受け入れられる気がした。

「……また、来てもいいですか?」

 ここに来れば、私は、もっと私のことを認めてあげられる。
 そう思った。

「もちろん。木曜日じゃなくても、いつでもおいで」

 マキさんは、私にも柔らかい瞳を向けてくれた。
 それに安心感を覚え、私はやっと、ここで自然に笑うことができた。

   ◆

 店を出ると、日が沈み始めていた。
 空を見上げると、もう月が出ている。

「どうだった?」

 あとから出てきた浅木くんが、優しく尋ねてきた。

「来てよかったなって。連れてきてくれて、ありがとう」

 浅木くんは、表情を和らげた。
 この表情が見れるのは、浅木くんが少しでも私に気を許してくれたからだろうか。
 そう思うと、少しくすぐったい。
 そして私たちは、それぞれの帰り道になるまで、夕焼けに照らされた道を並んで歩いた。
 私たちの影が、ゆっくりと重なり、伸びていた気がした。