高校二年生になれば、文理選択によってクラスが決まる。
 文系二クラス、理系二クラス。
 同じ文系選択をしていても、クラスが同じになる確率は二分の一というわけで。
 私と、友人の倉本(くらもと)凛花(りんか)は緊張しながら、昇降口を入って目の前にある掲示板を見つめる。

「あっ」

 凛花は小さな声をあげ、満面の笑みで私を見あげた。
 その表情は、クラス分けの答えを教えてくれているみたいだ。
 そして喜びの勢いか、凛花は私に抱きついてきた。
 凛花の髪から甘い匂いが香ってくるくらいの距離感に、私の身体は一瞬強ばってしまった。
 凛花はこういうスキンシップの多い子だけど、実は私は、誰かに触られることが苦手だったりする。
 ふとある日から、他人の温度感が苦手になってしまっていた。
 ずっとなにも気にしていなかったのに、中学時代にいつものように友達に手を握られたとき、離してほしいと思った私がいることに気付いた。
 それ以来、友達だろうと、家族だろうと、一定の距離を保つようにしてきた。
 だけど、凛花とはどれだけ距離を取ろうとしても、凛花がそういう子だから、こうしてよく触れ合ってしまう。
 そのたびに身体が強ばってしまうのだけど、この緊張感は、凛花には伝わってはいけない。
 だから、できるだけ自然にしようとするけど、そうやって意識するせいか、私の身体は上手く動かせなくなってしまった。

「これで三年間同じクラスだね」
「だね」

 凛花に笑みを返すけど、ちゃんと笑えているか不安になってくる。
 でも、凛花の表情に変化が見えないから、きっと私は、笑顔を作れているんだろう。

「相変わらず仲良いのな」

 そんな私たちに声をかけてきたのは、多賀(たが)文都(ふみと)くん。
 一年生のとき同じクラスで、よく一緒に過ごしていた一人だ。

「いいでしょ」

 多賀くんに自慢するかのように、凛花はますます私を抱きしめる。
 より一層近くなって、戸惑いが隠せなくなっているというのに、私には凛花に「離れて」と伝える勇気がなかった。

「倉本、離れてやれよ」
「多賀くん、羨ましいんでしょ」
「ちげーよ。相馬(そうま)が苦しそうだから」

 多賀くんがそう言ったことで、凛花は改めて私のほうを見てくる。
 そして、少し名残惜しそうにしながら、やっと解放してくれた。

柚衣(ゆい)、ごめんね?」
「ううん、大丈夫だよ」

 やっと、なんて思ってしまった自分に嫌気がさしつつも、凛花との距離が作られたことによって、さっきよりも自然に笑顔を作ることができた。
 そのおかげか、凛花の笑顔は曇らないままだった。
 それを見て、私は胸を撫で下ろした。

「多賀くんは何組なの?」
「俺? えっと……」

 私が尋ねると、多賀くんは掲示板を眺める。
 多賀くんに釣られるように、私たちも改めて掲示板を見た。
 一組のほうから、多賀くんの名前を探していく。

「あ、二組だ」
「えー、多賀くんも同じクラスなの?」

 凛花が明らかに不満そうな声を出したから、私はつい、笑ってしまう。
 対して、当然ではあるけれど、多賀くんは顔を顰めている。

「俺が一緒だと悪いかよ」
「別にー?」

 そうは言いつつも、凛花の顔には「嫌だ」と書かれているように見える。
 凛花がこうして不満を見せるのは、多賀くんのことが苦手だからとか、そういう理由ではない。
 多賀くんの友達である、小河(おがわ)(さく)くんが四組であることに気付いたから。
 小河くんは、凛花の好きな人。
 理系選択をしたと聞いていたから、同じクラスになる確率はゼロだとわかっていた。
 だけど、凛花は隣のクラスであることを祈っていたから、教室をひとつ挟んでしまっていることに気付いて、多賀くんに不満をぶつけているというわけだ。

「倉本が意地悪いこと言ってたって、朔に言おっかなあ」

 凛花の態度に仕返しをするかのように、多賀くんは意地悪な顔をする。

「なにそれ、ズルい! てか、嫌って言ってないもん!」

 凛花の慌てようを見て、多賀くんは楽しそうに笑った。
 そのやり取りを真横で見ていて、私まで笑ってしまう。

「あ、柚衣まで笑ってる!」
「ごめん、ごめん」

 そのせいで凛花は不貞腐れてしまって、そのまま教室に移動を始める。
 私は凛花に謝りながら、凛花を追った。

「俺は倉本の素の性格、朔にハマると思ってるけどなあ」
「嫌だ、絶対に言わないでよ? 朔くんには可愛いって思われたいんだから」

 凛花はそのままでも十分可愛いのに、なんて思いながら、私と多賀くんで凛花を挟みながら、話を聞く。
 好きな人には、よく思われたい。
 だから精一杯オシャレをするし、本当の自分を偽って見せる。
 その心理が私には理解できないから、上手く話題に入れなかった。

「そういやこの前、サッカー部の練習試合があったらしいじゃん。行ったの?」
「当然」

 その言葉をきっかけに、凛花の小河くんかっこいい自慢が始まる。
 正直、半年くらい前から同じことを聞いているから、耳にタコ。
 凛花からしてみれば、小河くんのかっこいいところは毎日更新されていくんだろうけど、友達にも満たない関係性である私からしてみれば、どこにでもいる男の子という感じだ。
 実際、小河くんのかっこいいところが見たいから、という理由で、誘われて見に行った試合。
 サッカーのルールはよく知らないけど、それなりに楽しかったな、という印象しかない。
 凛花はずっと小河くんを目で追って、必要とあれば写真にも残していた。
 今、それを多賀くんに見せているわけだけど。

「倉本……ストーカーにだけはなるなよ?」
「ならないし!」

 多賀くんの失礼な発言の連続に、凛花は多賀くんの肩を小さな拳で叩いて抗議した。
 高校生では、付き合っていなくてもその距離感は許されるのか。
 相手を勘違いさせる距離感って言われてもおかしくないはずなのに、二人は友達で。
 そこの境界線は曖昧なはずなのに、しっかり線引きされている。
 一体、どうやってその境界線を見つけているのだろう。
 それが見えない私は、やっぱり意識的に距離を置いておいたほうがいいんだろうと思った。

「相馬は?」
「え?」

 急に話題を振られて、少し間抜けな声が出てしまった。
 凛花と多賀くんはそろって私のほうを見ている。
 まったく会話を聞いていなかったから、戸惑うことしかできない。

「試合。倉本に付き合わされたんだろ?」
「あ、うん、行ったよ。スポーツ観戦って楽しいんだね」

 思ったままを答えたのに、多賀くんの微妙そうな顔からして、私は見当違いなことを言ったらしい。
 試合についての感想を聞かれたんだと思ったけど、なにか間違っただろうか。

「多賀くんは、柚衣から見てかっこいいって思う人がいなかったか、気になってるんだよ」

 すると、凛花が耳打ちで教えてくれた。
 なぜそんなことが気になるのか、知りたいような、知っているような、認めたくないような。
 だから私は、その質問を大人しく受け入れることにした。
 それにしても、カッコイイ人か……そんなふうに考えて見ていなかったから、その質問に対する答えができそうにない。

「……私、試合の応援に一生懸命だったから、誰がどう活躍してたのか、あまり見てなかったんだよね」

 これは嘘じゃない。
 だけど本当は、小河くん以外、顔と名前が一致しなくて、わからなかっただけ。
 でも、そこまで素直に言う必要はないだろう。

「そっか」

 一瞬、多賀くんの表情が少し安心したように見えた。
 だけど、すぐに意地悪な顔に戻って、凛花のほうを向いた。

「ま、誰か一人を異常に見てるのは、倉本くらいだよな」
「私だって、ちゃんと応援してたし」
「朔を、だろ?」

 すると、凛花は意地悪を言われたことに対して不貞腐れたまま、新しい教室へと足を踏み入れた。
 それが小さな子供みたいで、私と多賀くんは顔を見合わせて笑った。

   ◆

 今日の日程は始業式とちょっとしたホームルームだけで、お昼には放課後となった。
 いつもより少し早い放課後に、帰宅部の人たちは浮き足立っている。
 どこに寄り道するかという楽しそうな会話が、教室のいろいろなところから聞こえてくる。
 新しいクラスになってからの親睦を深めるための会らしくて、私も誘われるのかな、なんて勝手に身構えてしまう。
 親睦は深めたいし、仲のいい人も増やしたい。
 だけど、程よい距離感を保てない私が、みんなの仲間に入れてもらってもいいんだろうかという迷いが芽生えてきて、私は意識的にその会話をしている人たちから目を逸らした。

「柚衣、グラウンド行こ!」

 大して荷物はないのに、カバンの中を整理していると、凛花の明るい声が聞こえて来た。
 私の中に溜まった心の闇みたいなものを吹き飛ばしてくれるくらいの、明るい声。
 それが聞こえてから顔を上げると、見た目が完璧に整った凛花がそこにいた。
 ホームルームが終わってから姿を見かけなかったけど、鏡があるトイレに行って、髪の毛を整えて、少しメイクをしてきたみたいだ。
 そこまでおしゃれ全開な凛花が誘ってきたのは、サッカー部の活動場所。
 見た目と目的地が一致しないグラウンドに誘ってきた目的は、聞くまでもない。
 去年の秋くらいから、よく小河くんの練習姿を見に行っていて、冬になると寒さに負けて図書室自習スペースから見ていた。
 最近はまた暖かくなってきたから、今日は外で応援する日らしい。

「ごめん、図書室に本、返してこないと」

 凛花と図書室に行くようになってから、私は本を借りる機会が増えた。
 この春休みにも小説を借りていた。
 別に今日中に返さなければいけないということもないけど、今回借りた本はシリーズもので、続きが読みたい欲に駆られている。

「そっか。じゃあ、先に行ってるね」

 本よりも好きな人に興味がある凛花は、私に手を振りながら、教室を出ていった。
 凛花の興味の有無はわかりやすくて、いっそ清々しいとさえ思う。
 距離感が近い凛花だけど、常に誰かといなければいけないというわけでもない。
 マイペースに、マイペースを貫いている子。
 だから、凛花といるときは他人との距離感について難しく考える時間も減っていて、居心地の良さを感じていたりする。
 あのスキンシップの多さは少し悩みものだけど。
 そして私は、凛花の姿が見えなくなると、教室を後にし、図書室に向かった。
 それにしても、ずっと不思議に思っていることではあるんだけど、練習風景は見ていて楽しいものなのだろうか。
 試合とは違って、盛り上がる瞬間なんてないだろうに。
 好きな人が頑張っている姿なら、違うのかな。
 でも私は、小河くんが好きというわけでもないし、正直興味はない。
 そういえば、本を返してくると言っただけで、行かないとは言っていない。
 凛花も「先に行ってる」と返してきたから、あとで行く約束みたいになっていることに、気付いてしまった。
 面白い本を見つけて行けなかった、という理由が通用してくれないかな。
 そんな最低なことを思いながら、渡り廊下を進み、第二校舎の二階にある図書室にたどり着いた。
 春休み明け初日だからか、あまり人はいなかった。
 グラウンドからの掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくるくらい、静かだ。
 図書室にいる人たちは自分の時間にしか興味がなさそうで、ひっそりとお気に入りの場所にしている。
 カウンターで返却手続きをしてもらおうと思ったけど、そこには誰もいなかった。
 まだ図書委員が決まっていなくていないのか、ちょうど席を外しているからいないのか。
 その辺の事情は知らないけれど、こういうときは、返却ボックスに入れておけば、あとで図書委員が手続きをしてくれる。
 春休み前に借りた小説を、一冊だけ入っている返却ボックスに入れると、私は本棚のほうに足を向けた。
 目的の本は誰にも借りられていなくて、私が借りていた二巻だけが抜かれた状態で本は並んでいた。
 三巻を手に取ると、私はカウンターではなく、自習スペースに向かった。
 カウンターに誰もいないからというのもあるけど、やっぱりこのままグラウンドに向かうのは気が重かったから。
 自習スペースには四人掛けのテーブルが四つほどあって、すでに二つのテーブルが使用されていた。
 新学期初日に図書室で勉強するなんて、先輩だろうか。
 一年後の私も、こうあるべきなのかな、なんて思いながら、一番端の椅子を引く。
 その途中、窓際に男子生徒が一人立っていることに気付いた。
 本を持っているのに、それを読むわけでもなく、ただ窓の外を眺めている。
 そこは、数か月前まで凛花が陣取っていたところだ。
 グラウンドが一番見やすい場所だから、と言っていた。
 となると、彼もまた、グラウンドを見ているのだろうか。
 なんのために?
 小説の内容よりもそのほうが気になってしまって、つい彼の背中を凝視してしまった。
 すると、私の視線に気付いたのか、彼がこちらを振り向いた。
 その顔は、知った顔だった。
 去年同じクラスだった、浅木(あさぎ)晴也(はるや)くん。
 ほんの一瞬、目が合ったような気がしたけれど、一方的に気まずく感じて、私は思わず目を逸らした。
 そして、視界の端で浅木くんがその場を離れ、どこかに行ってしまったのがわかった。
 私のせい、だろうか。
 私が邪魔をしたような、していないような。
 変に罪悪感を感じてしまって、なんだか気持ちがすっきりしない。
 でも、浅木くんはなにも見ていなかったのかもしれないとも思った。
 彼は去年一年、クラスの輪に打ち解けなかったから。
 私と同じように、他人と関わることを避けようとしているのかと思ったのを覚えている。
 そんな浅木くんなら、きっとただ外を見ていただけだろう。
 そう思うと、ますます申し訳なく感じてくる。
 誰だって、他人からじっと見られていては、いい気はしないだろうし。
 心の中で浅木くんに謝罪しながら、私は本を開いた。

   ◆

「ヤバいかもしれない」

 数日後の朝、教室に入って私の元に来た凛花は、挨拶よりも先に深刻そうな顔をして言った。

「ヤバいって、なにが?」

 その表情に、私も挨拶を忘れ、反射的に聞いてしまった。
 こんな、この世の終わりみたいな顔をしているのに、呑気に挨拶なんてしていられないだろう。
 私が聞き返すと、凛花は前の席を借りて、ぐっと顔を近づけて来た。
 その距離に思わず身体がびくついてしまう。

「サッカー部に一年の可愛いマネージャーが入部するんだって」

 なんだ、そんなことか。
 そう思ったけれど、それを正直に言ってはいけないことは、理解していた。
 もっと、スマホや財布を落としたとか、メイク道具をなくしたとか、小テストの勉強をしていないとか、そういうことを言われると思っていただけに、拍子抜けしてしまった。
 でもきっと、小河くんのことが好きな凛花にとっては、そんなことなんかじゃなくて。
 本当にこの世の終わりみたいに感じてしまうくらいの心配事なんだろう。
 それが伝わってくるから、私は正直な感想を言わない。

「それは……大変、だね」

 だとしても、多少棒読みになってしまったような気がしてしまって、凛花に気付かれないだろうかと、ひやひやしてしまう。

「そのマネージャーと小河くんの距離が縮まったらどうしよう……」

 小河くんのことしか頭にないおかげで、なんとも思わなかったみたいだ。
 それにしても、好きな人の近くに自分以外の異性がいるだけでこんなふうになってしまうなんて、不思議だ。
 そんなに心配になるようなことなのだろうかと思ってしまう私がいる。
 そして、まただ、と冷静に判断する私。
 私はずっと、恋愛感情がわからない。
 中学のときから、今も。
 半年くらい、凛花が小河くんを追っている姿を見て来たけれど、どの姿も理解できなくて。
 今、こうして不安を抱いている姿すら、私には理解できなかった。
 初恋がまだ、というだけならまだしも、恋愛感情がわからないなんて、凛花には言えるわけがなかった。
 こんなに一生懸命恋をして、私にたくさん話してくれる凛花に。
 だから私は、理解しているふりをするしかなかった。

「凛花もマネージャーやってみたら?」
「無理だよ、私にはできない」

 即答だった。
 たしかに、おしゃれに気を使っている凛花には向いていないかもしれない。
 大好きな小河くんの前では可愛くありたいと言う凛花。
 動きやすい恰好をするのはまだいいとしても、泥で汚れてしまったり、汗をかいてしまうのはNGなのだろう。
 となれば、私に言えることなんてなにもない。
 それでもなにか解決策を見つけないといけないような気がして、必死に頭を回転させる。

「どうした、なんかあった?」

 私が一生懸命言葉を探していたら、少し遅れてやって来た多賀くんが、凛花の表情を見て不思議そうに言った。
 出席番号順の席では、多賀くんは今年も私の後ろ。
 自分の席に荷物を置く多賀くんに、凛花はもう一度、サッカー部に可愛いマネージャーが入部することを伝える。

「なんだ、そんなこと?」

 私が堪えた言葉を、多賀くんはあっさりと言ってしまった。
 私は言ってはいけないと思って気を使ったのに。
 そのせいで、凛花は口をへの字にした。

「そんなことじゃないし! 青春だよ? 部活だよ? 小河くんがその子を好きになったりしたらどうするの!?」

 私たちにどうするの、と言われても。
 だけど、凛花の訴えを聞いて、ようやく私は凛花が危惧していることを理解した。
 たしかに、自分以外の誰かを好きになるかもしれないなんて状況は、気が気でないだろう。

「じゃあ……もうすぐ中間だし、テスト勉強会でもするか? 朔を呼んで」
「多賀くん、天才?」

 多賀くんの提案を聞いて、凛花は表情を明るくした。
 手のひらを返すのが早すぎる。
 多賀くんもそう思ったのか、鼻で笑った。

「現金なやつだな」

 私も少なからずそう思ってしまったから、苦笑を浮かべてしまう。

「ね、柚衣も参加するよね?」
「うん」

 特に断る理由もなくて、私は頷いた。
 それから多賀くんを中心に、勉強会の約束がされていく。
 テスト週間になった放課後、二組か四組の教室で、私と凛花、小河くんと多賀くんの四人。
 友達と勉強なんて久しぶりで、少し楽しみだ。

「お、朔もいいってさ」

 私たちの間で話を進めているところに、小河くんからのメッセージが届いたみたいだ。
 それを聞いて、凛花はますます表情を明るくする。
 恋心は、ずっとわからない。
 でも、ころころと表情を変える凛花を見ていたら、本当に小河くんが好きなんだと伝わってくる。

「朔は英語が苦手なんだってさ」
「凛花、出番じゃない?」
「いや、私そこまで英語得意じゃないんだけど」

 さっきとは違って、楽しそうに反論する凛花を見て、私の頬も緩む。
 勉強会で少しでも凛花たちの関係が進展することを願いながら、始業を告げるチャイムを聞いた。

   ◆

 テスト勉強会は、テスト週間が始まった初日、小河くんのクラスですることになった。
 文系組のほうが多いのにそう決まったのは、凛花が小河くんのクラスに行ってみたいと言ったからだ。
 文系と理系で変わるものなんてないだろうと多賀くんが呆れた様子で言うと、凛花は小河くんが過ごしている空間が知りたいと返していた。
 その感覚は多賀くんも理解できなかったようで、首を傾げていたのを見て、こっそり安心していたことは、二人には秘密だ。
 そして私たちはそろって教室を出て、四組に向かう。
 凛花はスキップでもしそうなくらい軽い足取りで先を進んでいく。

「倉本、勉強しに行くってわかってんのかな」

 そんな凛花を見て、多賀くんは呟いた。
 たしかに、どこかに遊びに行くのかと勘違いしてしまいそうだ。

「あー……わかってなさそうだね」
「だよな」
 
 そして三組の前を通り過ぎて四組の教室に着くと、小河くんは廊下側の一番前に座っている一人の男子生徒と談笑していた。
 真剣な表情でサッカーをしている小河くんの印象が強かったから、こうして教室で笑っているところを見ると、新たな一面を発見したような気分になる。
 私の隣で覗き見をしている凛花は頬を緩めていて、なるほど、これが見たかったのか、と静かに納得した。
 それにしても、小河くんの話し相手は後ろ姿しか見えないけど、なんだか見覚えがある気がする。
 ここ最近で見かけたような、いないような。
 曖昧な記憶を遡りながら、多賀くんを先頭に四組に足を踏み入れる。
 私たちの教室と同じ構図のはずなのに、他クラスの教室は知らない空気感で、変に緊張する。
 多賀くんが声をかけたことで、小河くんが私たちに気付き、背を向けていた彼はこちらを振り向いた。
 小河くんと話していたのは、浅木くんだった。
 それがわかって、さっきの後ろ姿と、いつかの図書室での後ろ姿が重なった。
 だけど、その表情は嫌なものを見た、と語っているように感じた。

「……じゃあ、僕は帰るから」
「え、帰るの? 一緒に勉強しようよ」

 小河くんは、机の横に掛けていたカバンを肩にかける浅木くんを引き止めるけれど、浅木くんは私たちを一瞥してそのまま教室を出ていった。

「……やっぱり嫌われてるのかな」

 浅木くんの姿が見えなくなってから、凛花はそう呟いた。

「え……」
「えって……柚衣、気付いてなかったの? 去年の冬くらいかな。図書室にいたとき、結構浅木くんからああいう目、向けられてたよ」

 知らなかった。
 この前の図書室では、私が浅木くんを見ていたから、それを不快に感じて逃げたと理由付けできる。
 でも今のは、私たちがいるのを確認してから帰っていった。
 まるで私たちを避けるかのように。
 となれば、凛花の言う「嫌われている」というのは、あながち間違いではないのかもしれない。

「えっと……じゃあ、俺の席でやろっか」

 小河くんは気まずい空気を察してか、笑顔を作って言った。
 小河くんの席は、浅木くんの席から二つ後ろだった。
 その周りの三つの席を移動させて、四人で向かい合わせになるように席を配置した。
 小河くんは自分の席、その隣に多賀くん、小河くんの向かいに凛花、そして私は多賀くんの前に座った。

「朔って、浅木と仲良かったんだな」

 それぞれがノートや筆箱を出しているとき、多賀くんが切り出した。
 気まずい空気を変えるような話題かと思えば、むしろ続行させる話題だった。
 でも、多賀くんがそれを言ったのは、純粋な驚きからだろう。
 去年一年、ほとんど誰とも話さなかった浅木くんが、誰かといる。
 それはたしかに、私も気になるところだった。

「仲良かったというか、仲良くなったって感じかな。浅木くんとは出席番号が近くて、体育のときにペアになったりすることが多くて、そこから少しずつね」
「え!」

 すると、凛花が大袈裟に反応した。

「私と柚衣もそうやって仲良くなったの! ね?」

 小河くんとの共通点が見つかった嬉しさが伝わってくるほどの、満面の笑みが向けられる。

「そうだね」

 私が応えると、凛花は私に左肩をくっつけてきた。
 いつも漂ってくる甘い匂いには慣れたけど、やっぱりこの距離感には慣れそうにない。

「二人はすごく仲がいいって文都から聞いてるから、高校からの関係だなんて、意外だな」
「それに関しては、倉本の粘り勝ちって感じだけどな」

 多賀くんの発言を、私は否定することができなかった。
 一年前は、周りとは距離を置いたほうがいいと思っていたから、凛花に話しかけられても、あまり打ち解けないように気をつけていた。
 それでも凛花はめげずに私に声をかけてきてくれて、凛花になら気を配りすぎなくてもいいのかもしれない、と思ったのをきっかけに、私たちは一気に距離を縮めたのだ。
 多賀くんはその一部始終を私の後ろの席で見ていたから、そんな感想が出てきたんだろう。

「……悪口?」
「褒めてんだよ」
「全然褒めてないし!」

 多賀くんと話しているからか、いつも通りの凛花だ。
 自然体な凛花を小河くんに知ってもらえただけでも、この勉強会を開いた意味があったのかもしれない。
 それを引き出した多賀くんは、さすがだ。
 だけど、それは凛花の意図しないところみたいで、凛花は不貞腐れてノートを開き、勉強を始めた。
 それを見て、私たちもそれぞれの勉強を始めていく。

「で、話戻すけどさ。浅木とはどんな話してんの?」

 すると、多賀くんがそう切り出した。
 無言で勉強なんてつまらない、という顔をしているように見える。
 まあ、友達同士で勉強するとなれば、集中なんてできないだろう。

「結構普通に雑談とかだけど……文都、そんなに浅木くんのことが気になるなら、話しかけてみたらいいじゃん」
「いやあ……」

 多賀くんは言葉を濁した。
 それに対して、小河くんが理由を尋ねるような視線を向け、多賀くんは仕方ない、というような顔をした。

「朔は去年違うクラスだったから知らないだろうけど、浅木ってマジで誰とも話さなくてさ。話しかけても心開く気ないっていうか。だから、だんだん俺らも浅木に話しかけなくなったんだよ」

 多賀くんが私たちを見ていたように、私たちはそのやり取りを見ていた。
 誰が声をかけても、一言か二言しか返さない浅木くん。
 男子たちが気まずそうに顔を見合せて、浅木くんから離れていくところ。
 それを見て凛花は「浅木くんってクール男子って感じでかっこいいよね」と言っていたっけ。
 今はきっと、そんなふうには思っていないんだろうけど。

「……へえ」

 それを聞いた小河くんは、そんな話は聞きたくないと言わんばかりに、顔を顰めて相槌を打った。
 それなのに、多賀くんは横に並んでいるからか、その表情に気付いていないみたいだ。

「あとなあ……俺らと話す気ないってオーラ出しておきながら、視線感じるときがあってさ。それが妙に気持ち悪かったんだよな」

 多賀くんがそうこぼすと、隣からシャー芯が折れる音がした。

「なにそれ、悪口?」

 普段の凛花からは想像できないくらい、冷たい声。
 それを聞いて戸惑ったのは私だけではなかった。

「いや、悪口じゃないからな」

 まったく笑顔を見せない凛花を前にして、多賀くんは慌てて弁明するけれど、最後の“気持ち悪かった”という言葉は、誰が聞いても。

「悪口でしょ」

 凛花のはっきりとした物言いに、多賀くんは助けを求めるかのように、私を見た。
 だけど、私も凛花と同じように感じてしまったため、多賀くんから目を逸らすことしかできなかった。

「自分の発言を正当化しておけば、なに言ってもいいみたいな空気感出してるのも、かっこ悪いからね」

 凛花はそう言いながら、少し乱暴にシャーペンを筆箱に入れた。
 それだけじゃなく、開いたばかりのノートも閉じてしまった。

「倉本……?」

 凛花が不機嫌になった理由が読み取れないのか、多賀くんは恐る恐る凛花を呼ぶ。
 だけど、凛花はそれに応えない。

「柚衣、帰ろ」

 そして私にそう言ったけれど、一切私のほうを見ない。

「え、でも」

 私が戸惑っているのもお構いなしに、凛花は片付けを終えると、音を立てて席を立った。
 見たげた凛花の表情には、さっきの多賀くんの発言に対する怒りと失望、そして葛藤が混ざっているように見えた。
 そんな凛花と視線が交差したのはほんの一瞬で、凛花は私を待たずにそのまま教室を出ていってしまった。
 残された私たちの間には気まずい空気が流れる。
 脳裏には、今さっきの凛花の表情がこびりついている。
 私では力不足かもしれない。
 なにも気の利いたことなんていえないだろう。
 だけど、凛花を一人にしてはいけないような気がして、私は急いで荷物をまとめた。

「ごめん、先に帰るね」

 教室を出て昇降口まで行くと、凛花は校舎を出たばかりみたいだった。
 どんどん先に行く凛花の背中を追いかけ、隣に立つと、まだ凛花の怒りが収まっていないことに気付いた。
 さっきまで好きな人といたとは思えない表情だ。

「……凛花、よかったの?」
「なにが?」

 不機嫌さが残っているのは、その声を聞いても明らかだった。

「なにって……せっかく小河くんと過ごすチャンスだったのに、帰っちゃうなんて」

 それに、好きな人にはよく思われていたいって、ずっと努力していたはずなのに、凛花は小河くんの前で笑顔を見せるどころか、多賀くんを睨むような顔をしていた。
 凛花らしくない表情も、私の胸に引っかかっていた。

「いいの。あのまま、あの話題を続けたくなかったし、あそこから楽しい空気になるのも無理だったし。それに」

 苛立ちの見える声色だったけど、そこで言葉を切り、私のほうを見た凛花は、表情を和らげた。

「小河くんと一緒にいるチャンスは、これからいくらでも作れるもん」

 どうして私は、忘れていたんだろう。
 凛花は、マイペースに、マイペースを貫く人。
 そして、誰かを悪く言うことはないし、自分のために努力ができる。
 そんな凛花だから、私は仲良くなりたいって思ったし、幸せになってほしい。

「応援してるね」

 誰かを好きになることは私にはわからないけど、応援したいという気持ちに偽りはなかった。
 目を細めて笑う凛花は、最高に可愛かった。

「ありがとう、柚衣」

 凛花は嬉しそうに右手を私の左腕に絡めてきた。
 身体はいつものように強ばってしまう。
 だけど、凛花の笑顔を見ていると、少しだけ我慢できる気がした。